「いってらっしゃい」
そう口にした後、あなたが出て行くのを見届け家を施錠する。
数分前まであなたがいたこの家が急に静かになり、そして部屋を見渡すも先程より何処かモノクロな世界。
思わずため息が出そうになるのを何とか押し込み、私はやらなければならない家事を開始する。
リビングへ行けば昨日の雨で外で干すことが叶わなかった洗濯物達が陳列していて、生活感のある所謂"普通の家庭"というものがそこにはあった。
メジロ家ではなかったこんな生活。
彼と付き合って、同棲するにあたってお婆様に望んだ条件。
彼と普通の暮らしがしたい。
メジロの豪邸に住むことも可能だが私はそれを断った。
何の変哲も無い普通のアパート、二人暮らしにはちょうどいい広さで彼がトレーニングで使う為の本、私の現役の頃の写真などがリビングの大部分を占めていた。
「トレーナーさん」
なんて口にしてみるけど返事はない。
そこにあるのは彼がいつも着ているシャツ。
スンっと鼻を鳴らすといつも使っている柔軟剤と本当に少しだけ香る彼の匂い。
少しでも彼を意識してしまうとどうしても寂しくて、会いたくて。
ほんの数刻前まで一緒にいたのに今は何処か遠い存在なような気がして落ち着かない。
「浮気はめっ、ですよ」
別に彼がそんなことをしている訳でもないし、させるつもりもされるつもりもない。
でもこれは私のちょっとした独占欲。
尻尾の毛を本当に少し彼のシャツに這わせる。
ウマ娘だけに分かるマーキング。
これは私のもの、私の愛してる人なんだぞっていうそんなおまじない。
「次は寝室ですね」
一通りの洗濯物の収納、分別共に終えた私は残りの部屋の掃除に移る。
寝室に入ると乱れに乱れたシーツとベッド。
──ああ、ちょっとだけ恥ずかしいです。
昨日彼に晒した痴態、私のものと思えないような声が一気にフラッシュバックしてきて頬が朱くなるのを感じる。
やめて、なんて言っても彼はやめてくれなくて。
逆に五月蝿い私の口を無理やり自身のもので塞いできた彼。
普段はあんなに優しいのに、あの時間だけはいつも男の人になる。
最初の頃なんて立てなくなるまでされたのに彼は翌朝元気に歩いていた。
ウマ娘の性なのだろうか、何処か負けた気がして悔しくてやり返してやろうと思っても私は無力でいつもいつも鳴かされるだけ。
「……今はいいんですっ」
シーツを急いで取り外し早足で部屋を出る。
どうもこの部屋に長居すると変な気分になってしまう。
午前の家事が終わったら少しの休憩の時間。
いつもの紅茶を用意しながら晩御飯はどうするか、彼は何をしているのだろうか。
私に会いにきてくれないだろうか。
そんな叶わなわぬ妄想に時間を費やし、肝心の紅茶が冷めてしまったのは私だけの秘密。
現役の頃は彼の匂いがするトレーナー室に行くことが密かな楽しみになっていたが今やそれは日常。
でも、でも彼の温もりを、彼の優しさを知ってしまった今では何処か寂しく儚い。
別に今生の別れとかじゃないただの出勤。
ちょっと待てばまた会えるのに彼の痕跡で一喜一憂する自分は滑稽なのだろうか。
彼も同じだといいな、なんて思いを馳せて私は今考えている問題について思案する。
「あの唐変木さんにどうやって伝えますかね……?」
彼と付き合ってもう2年。
私はそろそろ先に進みたかった。
目の前に置かれているURA監修のウマ娘の雑誌。
そこにはビューティー氏が手掛けたウェディングドレスを着るウマ娘が題材となった今月号。
それを何かいう訳でもなくしれっと、こっそりと置く。
脈々と受け継がれているこの伝統に何処か懐かしさを感じるのも半分、いいななんて思ってしまう羨望が半分。
手には取っているだろうが何も言ってこないあたりやはり……気がついていないのかもしれない。
学生時代の猛アピールも付き合う時に全く分からなかったと彼は言った。
あの時は少し、いえかなり怒りました。
貴方と永遠を刻みたい、なんて真っ直ぐ伝えた筈なのに彼には届いていなくて……。
暫く拗ねた私のご機嫌を必死に取る彼の姿が今では懐かしいです。
「頑張りなさいメジロアルダン、あなたならできる」
自分で自分を鼓舞し、気合いを入れる。
勝負は一瞬。
恋もレースも負けてはいられません。
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「おかえりなさい!」
「ただいまアルダン」
午後7時ごろ、大好きな彼が帰宅しました。
あなたの顔を見ると何故か頬が緩んでしまって、自然と笑みが止まらなくなります。
「お荷物お預かりしますよ。お風呂にしますか、ご飯にしますか、それとも私にしますか?」
「あ、アルダン……。やめてくれ心臓に悪い」
「ふふ、お味噌汁を温め直すのに時間がかかりますので先にお風呂へどうぞ」
使い古されたこんなやり取りでさえ顔を朱色に染めて恥ずかしがる彼。
もうこれより恥ずかしいことなど何度もしている筈なのに未だこんなやり取りだけで照れるあなたが愛おしくて、可愛らしくて。
「お風呂、一緒に入りますか?」
「アルダン!!」
「ふふふ、冗談ですよっ」
何処か揶揄いすぎてしまう自分に少し反省。
やり過ぎるとこの後の反撃がそれはそれは恐ろしいものになるのが私は知っています。
その後彼が風呂からあがり、ご飯を食べ少しの休憩時間。
二人用のソファーに仲良く座り、目の前にあるテレビで暇を潰すそんな憩いの時間。
私はというと、この後どう切り出すか悶々としていてテレビの内容なんてただのBGMだった。
彼もテレビに飽きたのだろうか、今は私が仕込んでおいたあの雑誌に読み耽っている。
チラチラと視線を送るもあなたは全く反応しない。
試しに尻尾を這わせてみるも無反応。
悔しくなってちょっとだけ、本当にちょっとだけ身体を寄せて見る。
すると私の行動に気がついたのか目線をこちらに向けてくれたあなた。
「結婚しようかアルダン」
「え、あ、はい……?」
彼がそう言った。
「え、あ……え、結婚?」
「うん、結婚。俺アルダンとしたいな」
「それは勿論……私もなんですが……」
何の前触れもなくあなたはただそう言った。
予期せぬ彼の行動に私の脳はショートし、正常な思考が働かない。
空いた口が塞がらずパクパクと、何かを言おうとしてはそれが虚空に消える。
「どうしたのそんなに惚けて」
「いえ、まさかあなたの方からそんなことが言われるとは思っていなく……んむっ」
会話の途中私は彼によって口を塞がれた。
勿論彼自身の唇によって。
「尻尾凄いことなってるよ」
「え、あ、ちょっと見ないでください……」
ガッチリと彼の腕に絡まり私の意思では外すことが出来なくなった尻尾。
突然のプロポーズ、そしてキス。
楽しそうに笑う彼が今は普段の何倍もカッコよく見えて顔が直視できない。
「耳も随分と暴れん坊なようで」
「い、いやぁ……」
両手で包み込むように握るあなた。
ピコピコと暴れるそれを可愛がる彼に私は何の抵抗も出来なかった。
「こんなもの用意してまで俺としたかったの?」
雑誌を用意しふりふりとそれを振るうあなた。
どうやら策にハマったのは私の方だったみたいです。
「いつもは鈍感なくせに」
「人は成長するんだよアルダン」
「ではクローゼットの奥にあるあなたの秘蔵のコレクションとやらはもう捨てていいですよね?」
「わー!!何でアルダンがそれ知ってるの!?」
だってあなたの彼女、いえ妻ですから。
そんなものなんか見なくていいくらい私に惚れさせてみせます。
「ではあなた、今夜も勝負です」
「いいの?俺今気分、結構昂ってるんだけど」
「大丈夫です、やり返して見せますから」
そう言い彼を引っ張り寝室に行く私たち。
激しく、そして甘美だったその夜は私が泣き叫んでも終わらなかった。