鎖影の庭   作:土斑猫

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【捧げ者】

 人は、失わなければ気づかないと聞いた。

 なら、そうなる前に知れた私は。

 きっと、幸運なのだろう。

 

 ◆

 

 大きく溜息をついて、アグネスタキオンは覗いていたレンズから目を離した。

「タキオンさん……」

 丸々一晩、席を立つ事なく続けていた彼女。付き添っていたマンハッタンカフェが、動きに気づいて声をかけた。

「……どうでした……?」

「参ったよ……カフェ……」

 疲れ切った顔を感嘆と自嘲に歪ませて、苦笑する。

「ゴルシ君達が集めてくれた検体173個。軒並み捌いて見たが……」

 血の気が失せた指が、愛用の電子顕微鏡をつつく。

「全ての条件が、余す事無く本人達と一致してしまった」

 息を飲むマンハッタンカフェ。

 ソレは、今この学園に存在する『そっくりさん』達が実質『本物』であると言う証明。

 幻想のまやかしを挫く手段である科学が、逆に幻想に現実であるお墨付きを与えてしまった瞬間。

「そんな……それじゃあ……」

「ああ……」

 酷く。本当に酷く、疲れ切った声が呟く。

「現状、『そっくりさん』達を偽物と証明する手段は無いと言う事さ」

 傍らのティーカップを手に取り、中の紅茶を飲み干す。とっくの昔に冷め切ったソレは、睡眠不足で熱った身体には寧ろ心地良い。

「全く、酷い話だと思わないかい?」

 クックっと笑う声は、酷く細い。

 彼女らしくない、と感じる。

「検体本人と全く同じ構造の生体生成なんて、現代科学の頂点技術でも出来はしない。それを、僅かの数分の接触だけで成してしまうとは……」

 ブツブツと呟くアグネスタキオンの目。蝕む色に、マンハッタンカフェは気づいた。畏怖。彼女が。アグネスタキオンと言う探究者が、決して見せる事の無かったモノ。

「此れが、『神秘』の領域か……」

 探究者と呼ばれる者達は、常に高みを目指す。

 知を極め。技術を生み出し。常に新たなる領域の扉を探す。

 その目的は、一重に『神を引きずり堕とす』事。

 人知得た者が、自然摂理と言う神の理からの決別を選んだ時に定められた存在意義。

 それを許した神への、たった一つの『返礼』。

 だから、探究者達は歩み続ける。あらゆるモノを対価に捧げ。神の頂きの隣へ。更にその上へと、這い上がる為に。

 それは、文字通り果て見えぬ天に向かって塔を築き続ける苦行。

 けれど、なけなしの対価で築く塔は酷く脆弱で。

 見下ろす神は強大で。また酷く残酷で。

 気まぐれに。本当に気まぐれに。たった一条の雷を持って塔を砕く。

 そして、己の全てを賭したソレを。ただの気まぐれで砕かれた探究者は。

 ただ真っ逆さまに堕ちて。

 もう。

 戻れない。

 そして今。

 アグネスタキオンと言う探究者は。

 正しく神秘の威光に。

 己が、塔を撃たれ。

「滑稽じゃないか……」

 砕かれ。

「私の、私達の……」

 真っ逆さまに。

「存在なんて……」

 最後の言葉を塞ぐ様に、柔らかな温もりに抱き締められた。

「……ダメです……」

 背中から抱き締めながら、マンハッタンカフェは囁く。

「それ以上、口にしてはダメです……。戻れなくなって、しまいます……」

「カフェ……」

「疲れてるんです……。休んでください……。美味しい食事を摂って、ぐっすり眠って……そうすれば、きっと……」

「……ダメなんだ……」

 彼女の言葉を、儚く否定する。

「DNA解析は、事態を打開し得る唯一無二の手段だった。それが無意である以上、もう手段が無い。少なくとも、私には……」

「そんな筈、ありません……。もっと、他に方法が……」

「そっくりさん達から引き出せる情報がないなら、同じ根源を持つ『何か』が必要だ。けれど、ソレを得れる可能性がある場所は……閉じてしまった……」

 そう。もう、門は閉じた。

 引き出す道は絶えた。

 『彼女達』の、回帰の道もまた。

「分からないんだよ、カフェ……。方法が……あの子達を救う方法が……」

 『あの子達』。

 すぐに、ダイワスカーレットとスイープトウショウの事と察しがついた。

 マッドサイエンティストと遠巻きに揶揄される事が多い彼女に、何の偏見も蔑視も無く近づいて来た子達。

 変人同士と言い合い、相応の腹の内もあるマンハッタンカフェとはまた違う。純粋な好意と憧れと、友愛の繋がり。

 異端と見られる事を、苦痛に思うアグネスタキオンではない。寧ろ、それすらも賛美と受け取るのが彼女の強さ。

 そんな彼女でも、痛かったのだ。あの子達から向けられた、悲しみと怒りは。その自負と傲慢を揺るがす程に。

 マンハッタンカフェは理解し、再確認する。

 ああ、貴女もやっぱり……と。

 同時に確信するのは、動くべきは自分だと言う事。現状、かの存在に接触した上で尚且つ此方側に居るのは自分だけ。其処から、引き出せるモノはないか。

「!」

 答えに行き着くのに、時間はかからなかった。

 在るのだ。此方と彼方を繋ぐモノは。

 今も確かに。 

 この首に。

「タキオンさん……!」

「?」 

 顔を上げる、彼女に。

「まだ、在ります……! 手段は……」

 伝えようとした、その時。

『ーーーーっ!!!』

 反応したのは、静かに控えていた筈の『お友だち』。彼女が、明確に殺気立つ。

 同時に、蠢いたのは正しくマンハッタンカフェの首に絡まる『ソレ』。

 不可視だった筈の枷が、アグネスタキオンの目にもハッキリと映る。

 其処からマンハッタンカフェの影に向かって伸びる、一条の鎖も。

 突然の事態に、二人が呆気に取られた次の瞬間。

 その鎖が、歪な音と共に影の中へと潜った。

「あぅっ!?」

 当然の様に引き摺られる枷。首。

 へし折らんばかりの力に、傾いだ身体がそのまま自身の影に叩き付けられる。抵抗する間もあらばこそ、そのまま影の中へ。

「く、ぁ……」

「カフェ!!」

 アグネスタキオンは悲鳴を上げてマンハッタンカフェに飛び付くと、引き摺り込まれようとする彼女を必死に抱き止める。

 彼女だけではない。既に動いていた『おともだち』も、鎖に齧り付いて引き千切ろうと。

 けれど、鎖を繰る力は強大。

 彼女達の抵抗を嘲笑う様に。

「やめろ!」

 アグネスタキオンが叫ぶ。

「やめてくれ! もう、この件にカフェは関わらせない!! 絶対に! 何もさせない!! 言わせない!!」

 其処には科学者としての傲慢も。探究者としての狂気も有りはせず。

「だから、やめてくれ!! 連れて行かないでくれ!!!」

 ただ、恐怖に怯える年相応の少女の姿があるだけ。

「何もしない! 君の邪魔はしない!! だから、だから!!」

 気管が絞まる苦悶の中で、マンハッタンカフェはその声を聞く。

 おともだちが、血走った唸りを上げて鎖に牙を立てる。ひび一つ、入りはしないのに。

 影の中、肩までが引き摺り込まれ。

「お願いだ!」

 悲痛な声が、血を吐く様に。

 

「私から、カフェを奪わないでくれ!!」

 

 途端、引き込む力が消えた。肩口まで潜り込んでいた筈の身体も、元の通りに。

「は……はぁ、は……」

 荒い息を吐きながら、アグネスタキオンは己の下で仰向けに転がるマンハッタンカフェの頬を撫ぜる。

「タキオン……さん……」

「大丈夫か? カフェ……。何処も、無くなったりは……してないかい……?」

「はい……」

「そうか……良かった……」

 心からの安堵を浮かべて、覗き込んで来る顔。自分の顔に滴る滴は、汗か。涙か。

 マンハッタンカフェは濡れた頬を拭おうと手を伸ばし。アグネスタキオンもまた、確かめ様と手を伸ばす。

 互いの手が、互いの頬に触れようとしたその時。

 

『ア ハ』

 

 割り込む様に聞こえる声。

 二人の肌が、総毛立つ。

 

『アハ、 ハ ハ。 ハハ ハハハハハハハ アハ。ハ ハ アハハハハハハハ』

 

 密室の中に、響き渡る笑い声。甲高い不協和音。

 二人の心を蹂躙し、嘲りながら釘を刺す。

 

ーー次 は 、 お し ま いーー。

 

 最期通告。

 哄笑。

 このままでは、気が触れる。

 そう思った瞬間、おともだちが吼えた。

 蝕みの帷が裂けて、嗤う声は遠くに消える。

 悍ましい余韻が消えて、ようやく肺の中で澱み切った息を吐く。

「ひゃ!?」

 起き上がろうとしたマンハッタンカフェの上に、アグネスタキオンが崩れ堕ちた。

 受け止める事も叶わず、重なる形でまた倒れ込む。

「タ、タキオンさん……!」

「カフェ……聞いていただろう……? キミは……この件から手を引いてくれ……」

 耳元で、か細い声が紡いだ。

「どうして……ですか……?」

「……君の首の鎖は……監視機だ……。あちらに不都合な事をしようとすれば……先の様に、君を……」

 言わんとする事は、理解していた。

 けれど、自分が何かしなければどうしようもなくなるのも明確で。

「でも……」

「……カフェ、君は……私の『未来』なんだ……」

 反論を遮った言葉に、ドキリとした。

「……私の足は……いつか壊れる……。凡ゆる手を尽くしても、覆す事が困難な程高い確率で……。でも、例え試行錯誤の末に行き着くのが、最悪のルートだとしても……」

 震える手が、抱き締める。

「キミが継いでくれるから、私は意味を失わないでいれる……」

「……!」

「証なんだ……。私が、アグネスタキオンが確かに生きたと言う……」

「タキオンさん……」

「……私の、側にいてくれ……何処にも……」

 

ーー行かないでーー。

 

 力が抜けた。

 重くなった身体を、全身で受け止める。首筋に沈んだアグネスタキオンの顔。深い、けれど安らかではない寝息。

 体力と、そして精神の限界。

 研究で幾夜を明かそうとも平然と笑う彼女を、僅か一夜で削り尽くす。

 それほど迄に、此度の業は。

 眠る彼女を、今度は此方から抱き締めて。

 熱い体温を。

 しばしの陶酔。

 そして、マンハッタンカフェは目を開ける。

 だからこそ、やらねばならない事だから。

 

 ◆

 

 取り出した容器の蓋を親指でポンと跳ね開けると、中のタブレットをザラザラ無造作に掌の上にぶち撒ける。そのまま、一気に口の中。頬張った甘味をガリガリと噛み砕き、忙しく愛用のノートパソコンを叩く。

「あ゛ぁ゛、クソ! 碌な情報がありゃしねェ!!」

 苛立たしげに言うと、エアシャカールは残りのラムネもまとめて口の中に注ぎ込む。

 歯軋りする様に噛み砕きながら、空になった容器をポイ。

「おっと」

 傍らのベンチで控えていたナカヤマフェスタが、飛んできたソレを抱えていたゴミ箱で見事キャッチする。

「おいおい、コレで何個目だ? 公共の往来を散らかすんじゃねーよ。マナーがなってねぇな」

 暇そうにシガレットココアを齧っていたシリウスシンボリが、柄にも無く注意なぞする。

 けど、当のエアシャカールは。

「うるせェ、頭回すのに糖分がいるンだ。ゴミならお前らで拾っとけ」

 などと、けんもほろろ。

「やれやれ、ヒリついてんなぁ」

 また一つ飛んできた空容器を受け止めながら、ナカヤマフェスタも呆れ顔。

「お前さんのお陰で、すっかり当事者だよ」

「……うるせぇな。賭けの結果だ。しょうがねえだろ?」

 相方の恨み節に、視線も向けずに答えるシリウスシンボリ。

 そう、此れは賭けの支払い。先の会話を聞いたシリウスシンボリがピッコロプレイヤーに持ちかけ、『首尾良く』負けて押し付けられた役目。

 立場上目立った動きが取れないピッコロプレイヤーの代わりに、エアシャカールのガードと補佐を務める役を負わされた。

「気は乘らねぇが、こっちから仕掛けたからな。前言撤回なんざダセェだろ」

「わざと負けといて良く言うぜ……」

「さ〜て、何の事やら?」

 とどのつまり、自分から言い出すのがプライドに障るシリウスシンボリに暗黙の了解で皆が合わせた茶番。

「……取り巻きの嬢ちゃん達でもヤラれたか?」

「……鳴き声がうるせぇのは変わらねぇがな。やたら耳障りになったのが何人かいる……」

 咥えたココアシガレットを揺らしながら、何か考える素振り。そうなってしまった者達の顔を、思い出しているのだろう。

「正直眉唾だが、そうでも考えねぇと説明が通らねえのも確かだ。狂言でも、ソレはソレで構わねぇ。それなりの暇潰しにはなるだろうよ。ソレに……」

 ニヤリと笑む、不敵な顔。

「色々難儀してらっしゃる皇帝サマに、恩を着せられるかもしれねぇしな」

「…………」

 呆れた目で見てるナカヤマフェスタを、ジロリと睨んで。

「嫌なら、付き合う必要なんざねぇぞ?」

 シッシッと追い払う手を無視して、自分も取り出したキャンディーを咥えるナカヤマフェスタ

「暇潰しが欲しいのはこっちも同じなんでな」

 少し目を細め、世界の気配を探る。言われなければ気づかなかった。けれど、気づいてしまえばもはら知らぬふりなど出来ない違和感。

 死角から見つめられる様な気配に、自身もニヤリと。

「……悪くねぇんだよな。このヒリつき……」

 開いた視線の先には、児戯の如き人智で未知の神秘に食らいつこうとする狂信者。

 その無様さが、また酷く魅せてくれる。

 共に無様を晒したいと思う程に。

「……同じ阿保なら、踊らにゃ損損……てな」

 久しく抑えていた、勝負師の本能が疼いていた。

「クソ! ダメだ!!」

 苛立たしげな声と共に、また放られるラムネの容器。受け止めたナカヤマフェスタ、やれやれと言った感で訊く。

「まだ、納得いくネタが見つかんねぇのか?」

「ドレもコレも、オタクの素人蘊蓄だ。民俗学関係の資料も、ピッコロのヤツから聞いたのと被ってばっかりで現状に使えるモンじゃねェ……」

 ノートパソコンを叩いたエアシャカールが、ガシガシと頭を掻き毟る。

「まぁ、そりゃ……」

「だよなぁ……」

 悪いとは思いつつ、納得してしまう。その道のマニアにしろ権威にしろ、所詮相手にしているのは伝承と言う空想物の前提。

 ソレが現実にしゃしゃり出て来た挙句、露骨に悪さをする事態なんぞ夢のまた夢であろう。現実的な対処法なんてある筈も無い。

「クソ……」

 歯噛みするエアシャカール。

 そもそもが、人知を超えた神秘の領域。その人知の範囲内でしか足掻けない自分が挑むなど、彼女の言葉で言えば『全く論理的(ロジカル)ではない』。

 翼も羽も持たない人類は、決して飛ぶ事は出来ない。

 道理であり、摂理。

 覆す事の叶わない、『閉鎖された可能性』。

 数値絶対主義であり、現実主義の自分が『諦めろ』『無意味だ』と囁く。

 けれど。

 

ーーゲームをやっている時のシャカールも、とっても素敵ーー。

 

 聞こえてくるのは、彼女の声。

 いつかの休日。

 二人で囲んだ、遊戯の卓。

 

ーー自分の力で、道ならぬ道をも切り開き行く――反骨精神にあふれたヒーローみたいーー。

 

 憧れ、讃える無垢の瞳。

 綺麗と思った、あの笑顔。

 その時は、ヒーローなんざ柄じゃ無いと一笑に付したけど。

「……ああ、演じてやるよ! 今回だけな!!」

 

 ーーお前の、為にーー。

 

 最後のラムネの蓋を跳ね上げ、一気に中身を空ける。バリボリと噛み砕いて、飲み下す。

「ナカヤマ、お前の飴玉よこせ!! 糖分が足りねェ!」

「ヘイヘイ」

 受け取ったキャンディーを咥え、また猛然とパソコンを叩き出す。そんな彼女を見ながら、ボヤく。

「大丈夫かねぇ? 事成す前に血糖値上げ過ぎてぶっ倒れなきゃ良いが」

「大丈夫だろ? あの棍の詰めようなら適量だろうよ。ただ……」

 眺めるシリウスシンボリが、目を細める。

「先が見えねぇのは確かだな。と言うか、何を目指せば良いのかも分からねぇ」

「……お姫さまを取り戻すんだろ?」

「そいつぁ、到達点だ。其処に行き着く筋道が分からねぇ。文字通り、お相手が『この世のモンじゃ無い』からな」

 言葉の意味を察して、『ああ』と呟く。

「成程、この世のモンじゃないから、干渉する手もこの世に無い訳だ……」

「奴さんお得意の数学も論理学も、その基礎となる『既知』があって成り立つモンだ。だが、今回は文字通り完全な0から始めなきゃならねぇ」

「本当の、『未知への挑戦』か……」

 翼持たぬ人が、その身一つで空へ望むに等しき所業。

「全くの無から生み出すなんてシャカール(あいつ)にそんな力はねぇし、あいつ自身が分かってる。だから、ああして取っ掛かりを探して歩いてる訳だが……」

 苦悩と焦燥が目立つエアシャカールの横顔を見て、眉根を顰める。

(流石に、難しいか……?)

 恐らく、彼女だけでは掴めない。得意とする畑が違い過ぎる。

 誰かの、手助けが要る。

 この閉塞感に、風穴を開ける役が。

 自分では無理だ。ナカヤマフェスタも門外。

 それなら……。

 幾人かの顔が浮かんだ、その時。

 音楽が鳴った。

 出所は、エアシャカールのポケット。

「鳴ってんぞ」

「分かってる」

 ぶっきらぼうに答え、スマホを取り出す。

 鬱陶しそうに画面を見た彼女の顔が、変わった。

「?」

 何事かと見守る中、エアシャカールの指が液晶の上で踊る。

 どうやら、LINEで会話をしているらしい。

 しばしのやり取り。

 やがて、携帯を仕舞ったエアシャカールがパソコンを閉じて立ち上がった。

「どうした?」

「『取り引き』の申し出だ」

「取り引き?」

「誰だったんだ? 今のLINE」

 歩き出した彼女は、問うたナカヤマフェスタの顔も見ずに答える。

 

「マンハッタンカフェ」

 

 シリウスシンボリが、ピクリと反応した。

 正しく、彼女が思い浮かべた者達。その筆頭に思い当たった者の名だった。

 

 ◆

 

 また、日が傾き始めていた。

 黄昏に染まり始める空を窓から眺め、マンハッタンカフェは思う。

 『彼女達』の時間が来る。

 昨日まで、とても怖かった時間。

 でも、今は待ち望んでいた時間。

 移した視線の先には、ソファで眠りこけるアグネスタキオンの姿。

 アレから全然、起きやしない。

「……全く、困った人……」

 薄く笑って、溜息を吐く。

「だから、休息はちゃんと取る様に言ってたんです……。言う事聞かないから、肝心な時に……」

 近寄って、腰を屈める。

 間近で見る寝顔。綺麗とかより、可愛いと思う。

「……ダメですよ……? 簡単に、あんな顔をしては……」

 思い出すのは、先の事。親に縋る様な、無力に打ちひしがれる顔。

「……貴女にあんな顔をさせて良いのは、私だけです……」

 愛しい顔に、静かに絡める呪禁。

「いつか私が貴女を手折って、傅かせて、その全部を貰うんです……。貴女の誇りも、強さも、生きる意味も……だから……」

 寄せる顔。刻み付ける。

 

「その時まで、負ける事は許しません」

 

 甘い感触と共に、溶ける事無き聖痕(スティグマ)を。

「……今は、私が門を開きます。だから、後でちゃんと……」

 

ーー迎えに来てくださいねーー?

 

 最期にもう一度、その顔を愛でて立ち上がる。

 踵を返した先に、揺れる影。

 佇む『もう一人の自分』に、微笑みかける。

「……分かってくれて、ありがとう……」

『…………』

 伝わる意志に。

「……心配いりません……。必ず、帰って来ますよ……。貴女に、追い付かなきゃいけませんから……」

 そして、言伝一つ。

「タキオンさんを……お願いします……」

 ドアが開く音。

 閉じる音。

 薄闇の落ち始めた部屋。

 たった一人で、寝息を立てるアグネスタキオン。

 そんな彼女の側に、『おともだち』はそっと寄り添う。

 大事な子に頼まれた、大事な約束を守る為に。

 

 天に上がる、月は上弦。

 あの子の決意を。

 願いを。

 どうか。

 どうか。

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