鎖影の庭   作:土斑猫

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【控えめに】

 目の前の彼女は、確かに彼女だった。

 姿も。

 色も。

 仕草も。

 差異は、微塵も無い。

 けれど、分かる。

 この、仄暗く毛羽立つ気配。

 違和感。

 向こうですれ違った、彼女達と同じモノ。

 そう、間違い無い。

 この娘は。

 目の前に立つこのアグネスデジタルの形をしたモノは。

 

 『fetch(そっくりさん)』。

 

 影色の妖精が造った。

 大事な皆の、作りモノ。

 

「……隠さないんですね……」

「この状況で隠すのは意味無いですし、ソレに……」

 

ーー貴女達を騙すなんて、腹切りモノの教義違反ですのでーー。

 

 問いに答えてはにかむ顔は、完全に彼女。

 だからこそ、忌避感は強い。

 マンハッタンカフェは立ち上がり、彼女と真っ直ぐに視線を合わせる。

「カフェ……」

「あのね、カフェさん。この子は……」

「すいません……アマゾンさん、マヤノさん……。ですが、すぐに信用するには……そっくりさん(この人)達は……」

「でも……」

「良いのです、マヤノしゃん」

 警戒心を隠さないカフェに、そんな事ないよと言おうとするアマゾンとマヤノ。その二人を制したのは、そっくりさんのデジタル自身。

「そうですよ、カフェしゃん。皆さんを守るには、慎重になってください。貴女はきっと、その為に来られたのですから。それに……」

 真剣だったのに、急にニチャアとなる顔。

「カフェしゃんにそんな目で見つめられるの、控えめに言ってご褒美なのですぅ! ありがとうございますありがとうございます! デュフフフフフフフ……」

 ヨダレなぞ垂らしながら恍惚顔、満開。全身クネクネ。

「………………」

 ズ〜ンと落ちる、何とも言い難い沈黙。

「な、デジタルだろ……?」

「デジタルちゃんなんだよね。ちょっと解釈違いっぽいけど……」

 アマゾンとマヤノの言葉に、納得しかない。

 と言うか、余りにも曝け出し過ぎて裏もへったくれありそうにない。

 いやいや、待て待て。

 納得するな。

 そっくりさん達は本物をほぼ完全にトレースしている。その挙動がまんまなのは当たり前なのだ。だから、このデジタルがあまりと言えばあまりにもデジタルなのも、当然で。その上でこの奇態の裏に更に一計を隠してる可能性も……。

「うへへ、やっぱり本家は違いますねぇ。そのクールさと綺麗さと可愛さの黄金比……。ああ、萌え萌え! 堪らんタマランたまら〜ん!!!」

 ……隠すの至難の業じゃないかなぁ? コレ。

 そっくりさんは欲望のセーブが効き辛いの忘れてた。マヤノが解釈違いと言うのも頷ける。って言うか、本物が見た日には全身全霊のジャンピング土下座かました挙句『こいつを殺してあたしも死にます!』とバールの様なモノとか持ち出しかねない。

 あな恐ろしや。ブレーキ壊れた限界オタクの狂気。

 それでも挫けそうになるやる気を振り絞り、カフェは何処ぞの掲示板発祥の怪異の如くクネクネしてる偽デジタルに問い掛ける。

「すいません……少し、お話……したいんですが……」

「あ、ハイハイ! どうぞどうぞ、どんなお言葉でも承ります全力で!」

「取り敢えず、その……クネクネ、止めて貰えますか……?」

「ご随意に!」

 ピタリと止まる偽デジタル。抑制出来るなら最初からして欲しい。

 コホンと咳払い一つ。気を取り直す。

「貴女が、アマゾンさんとマヤノさんを助けてくれたのですか……?」

「……まあ、流れ的にはそうですね〜」

 何か、引っかかる言い方。後ろで見守っている二人に訊ねる。

「何か、見返りは……要求されましたか……?」

 揃って首を振る二人。

「いや」

「何も無いよ、ホントだよ!」

 様子から、嘘は言っていないと察する。もっとも、この二人を疑う気など毛頭無いのだが。

「では、何故……」

 向き直る先の偽デジタルを、ジッと見つめ。

「貴女は、お二人を……?」

 どう足掻いても、彼女は此方側のモノでは無い。その性質から考えても、此方だけに利する行為を成す筈は無い。

「理由が、ある筈です……。絶対に……」

 正しく、此れは狡猾な悪魔との対峙に等しい。

 緩めれば、掬われる。

 言葉の端。

 視線。

 顔色。

 動悸。

 汗。

 息遣い。

 どんな兆候も、穴も。見逃さない。

 この世界の。TYPE・Uの綻びを。

 あの人の元へ。

 あの人を、あの人で在らせ続ける為に。

 これは、欲望。

 浅ましく、ドス黒い。自分の強欲。

 だから。

「隠さずに……言ってください……」

 何の呵責も在りはしない。

「じゃないと……」

 幾らでも。

「怖く、なれますよ……? 私は……」

 危うい意味を言葉に込めて。目の前のモノへ。

 そう、彼女は端末。

 彼女如き攻略出来ねば。

 あの、影色の深淵には届かない。

「さあ……」

 囁いて、偽デジタルへ一歩。

 余りの鬼気に震えたマヤノを、アマゾンがそっと抱く。

「さあ……!」

 もしも不穏を醸すなら、例え力づくであっても。

 本気の気配を悟ったのか、偽デジタルが笑った。先までの、恍惚に溶けた笑みでは無い。小悪魔の様な、不敵な笑み。

「ふふふ、本気ですね?」

「……その為に、来ましたから……」

「そのお顔も、とっても素敵です」

「……ソレは、もう良いです……」

「でも、あたしの『空っぽ』が泣くのです。もっともっと……って。ああ、いっそ」

 

ーー皆さんのお顔、獲って壁に飾りたいーー。

 

 ひゅっと息が詰まる音がした。多分、マヤノ。

 気にはなったけど、隣にアマゾンが居る。彼女の身体も、強張る気配がしたけれど。気丈な彼女なら、大丈夫。

 だから、今は彼女を。

 この、被っていた羊の生皮を酷くアッサリ剥ぎ捨てた悪性を。

「……笑えない冗談ですね……」

「冗談でもないですよ? 割とガチでして」

 悪びれる気配も無く。笑う顔はそのままに。内側から漏れ出る、闇。

「……貴女は、やっぱりデジタルさんではありません……。解釈違いとすら言えない……」

「そうですね。だから、あたしはデジタルだけど。デジタルしゃんじゃないんです。そうであっちゃ、いけないんです」

 一瞬漂う、儚さ。少しだけ、違和感。

 けれど、今の優先事項は別。

「そんな事を企んで、アマゾンさんとマヤノさんを……?」

「思いましたです。はい」

 答えを迷う気配すら無い。間違いなく、立場が悪くなる筈なのに。

「でも、今はやる気ナッシングですが」

「……信じろと?」

 最悪の展開を予感して、身構える。でも、彼女はただ笑うだけ。

「やりませんよぉ。だって、対価が用意出来ませんもの」

「対価……?」

「何かを手に入れるには、対価を払うモノですよ? 推しのステージに行くには、チケット代を。限定グッズを手に入れるなら、相応の労力を。そして……」

 

 ーープーカがウマ娘(皆さん)を引き込む代わりに、そっくりさん(あたし達)を置いてったみたいにーー。

 

「プーカ……?」

「此処にアタシらを引っ張り込んだヤツさ」

「鎖がいっぱい着いた、影みたいなウマ娘……」

 アマゾンとマヤノの言葉に、TYPE・Uの事と悟る。

「成程……」

 理解した事を、答え合わせ。

「要するに、そっくりさん(貴女)達にTYPE・U……プーカと同じ力は無いのですね……? 彼女の様に、『fetch(そっくりさん)』を造る事は出来ないと……」

 朗報ではあった。少なくとも、彼女達が自身の手で混乱を広げる可能性は無い事になる。 

 けれど。

「あの〜、お言葉ではありますが……」

 遮ったのは、当の偽デジタル。

「その認識には、少々誤解があるのです」

「と言うと……」

 スンと、空気が冷えた。

 カフェもアマゾンもマヤノも。場に居た全員が息を飲む。

 恐ろしい顔だった。

 侮蔑。軽蔑。怨嗟。憎悪。憤怒。殺意。悪意。敵意。

 世に在する、ありとあらゆる負念を詰め込み。蠱毒の様に喰らい合わせた闇。

 本当のデジタルなら……否、普通の人間・ウマ娘であれば消して到達出来ない深淵の彩。

 其れをまま塗りたくった様な、悲壮ささえ感じさせる表情だった。

「『アイツ』に、そんな上等な真似なんか出来やしないですよ……」

 くぐもった声を震わせて、彼女は呟く。まるで、呪詛を紡ぐ様に。

「貴女だって、分かってるじゃないですか? そっくりさん(あたし)達が、『あたし達』になんて全然成れてないって……」

「ソレは……」

「テキトーな事、言わないでくださいね? かえって、抑えられなくなる」

「!」

 出かけた取り繕いを、咄嗟に飲み込む。

 確かに、自覚している彼女にとって『ソレ』はこれ以上ない揶揄になる。

 血の気の無い顔を般若の如く歪ませて、デジタルではないデジタルは語る。

「あたし達は、出来損ないです。貴女達の様な熱も、心も、知識として知っていても得てはいない」

 戦慄く声は、苦悶に呻く亡者のソレ。

「分かります? 知ってるんですよ? あたし達。

そのまんま、トレースされたから。人参ハンバーグの美味しさも。はちみーの甘さも。ターフの芝の匂い。ダートの咽っぽさ。太陽の光。風の声。疾る感覚。流れる汗。ゴールを切った嬉しさ! ステージの熱! 歓声!トレーナーの手!撫でてくれる手!皆の声!温かさ友達推し恋も悔しさ明日夢未来希望全部全部ぜんぶ!! 知ってるのに!!!」

 呆然と見つめるカフェ達に。

 胸の汚泥を嘔吐するようにぶち撒けて。

 

ーー知ってる『だけ』なんですーー。

 

 クシャリと。

 どうしようもない。

 泣き笑い。

「知識として知ってるだけで、感じられない想えない変われない届かない……」

 あたし達は出来損ない。

 ただ影の箱庭を見せかける為だけの。

 ただ添えるだけの。

 その時だけを切り取った、テクスチャ。

「控え目に言って」

 歪めた目から流れるソレは。

 まるで血の色。

 

「地獄です」

 

 返す言葉が見つからない。

 分からない。

 沈黙するカフェ達。

「アイツは……」

 憎々しげに呼び捨てる。名など、呼んでやるかと言う様に。

「あたし達に、何の感情も持ってません。当然ですよね。ただの装飾品に、何の情を持ちましょうか?」

 ああ、と合点する。

 彼女は。彼女達は理解している。

 自分達と、生みの親たるプーカとの関係性を。

 何も無い。

 何も与えて貰えない。

 その意味すら無いと分かっているから。

 だからこそ、執着するのだ。

 造り身たる自分達の元たるオリジナル。彼女らが、想う者達に。

 想いや情熱。手に掴めないモノでなく、抱き締める身体の在る彼女達に。

 手に入れれば、自分が自分であると言う証になるから。

 その理屈が、屁理屈にすら成り得ない虚言だと分かっていても。

 ソレしか、無いから。

 でも、それなら。

 デジタル(この娘)は、何を求めるのだろう。

 知る限り、アグネスデジタルに『たった一人』はいない。彼女が愛するのは、全てのウマ娘。目に映る全ての輩に、等しく熱い想いを寄せる。

 そっくりさん達がオリジナルの想い人を求めるのなら、彼女の対象は。

 あの妄執を、全てのウマ娘に?

 冷たい悪寒が走ったその時。

「違いますよ」

 見透かした様に、彼女が言った。

「間違ってないけど、間違いです」

 その顔からは、先までの嘆きは消えて。代わりに張り付くのは。

 あの目だ、とカフェは思った。

 御す事の出来ない衝動と情欲に染まった目。あちらの世界。取り替えられたそっくりさん達が、己が求める者達に向けていた眼差し。

「そうですね。あたしが欲しいのは、推しの皆さんです。推しの皆さんの、あるがままの尊みです。ソレだけは、譲れない。例え、コピペされただけの思考でも。だから、あたしは……」

 

ーーこの箱庭(世界)を、ぶっ壊すと決めましたーー。

 

「……な……?」

「ええ!?」

 アマゾンとマヤノが、驚いた声を上げる。ソレは、カフェも同じ。

「……どう言う、事ですか……?」

「言ったまんまです」

 薄笑みの奥で、明確な悪意。

「此処は、アイツが作った箱庭。影と鎖で編み込まれたテラリウム。何にも無いこの世界の色彩として取り込まれたウマ娘ちゃん達は、その役目のまま飼い殺しにされるのです。時間も無いこの箱庭の中で、成長する事も明日も無く。尊厳も権利も無く。ただただ、出来損ないとの御飯事を続けるだけの人形(オートマタ)として。老いも死も終わりも無く」

 

ーー永遠にーー。

 

「…………」

 誰かがゴクリと唾を飲む音がした。

 その響きに自身の言の葉その意味が十分に伝わった事を理解し、偽デジタルは続ける。

「……我慢出来んのです。辛抱ならんのです……」

 ギリッと爪を噛む。憎い敵を、苛む様に。

「ウマ娘ちゃん達が……あたしの推し達が、そんな解釈違いですらない尊厳破壊に会わされるのは……」

 爪が割れ。皮膚が破れ。零れる血。

「だから、ぶっ壊します。ぶっ壊して、ウマ娘ちゃん達を彼方に御返しします。何だかんだ、この箱庭はアイツが要り用だから造ったんです。台無しにされれば、曇るくらいするでしょう?」

 口を濡らす血を吐き捨てて、クスクス笑う。壮絶な笑顔。

「で、でも……」

 マヤノが、おずおずと訊ねる。

「この世界が無くなっちゃったら、キミは……こっちのデジタルちゃんはどうなるの……?」

 キョロリと向いた目が、嬉しそうに。

「呼んでくれるんですね、あたしを。デジタルって……」

「うん……だって……デジタルちゃんは、デジタルちゃんだし……?」

 困った顔をするマヤノに、『ありがとうございます』とお礼をして。

「多分、消えますね。そっくりさん(あたし達)、全部」

 何でもない事の様に、そう言った。

「ーー!」

 皆の顔が固まった。先とは、別の意味で。

「……それは、どう言う……?」

「そっくりさん(あたし達)も、この箱庭の一部ですから。建物が崩れれば、塗られたペンキも一緒に崩れますですよ」

 あまりにも意に介さない様に、此方が不安になる。

「だって、ソレじゃ……アンタは、良いのか?」

「無問題です」

 アマゾンに訊かれて、飄々と。

「あたしの欲しいモノは、手に入れてはイケナイものです。此処でも、何処であっても。空虚な苦しみだけのこの身、何の未練が在りましょうや?」

「でも……デジタルちゃんの友達も……」

「友達? そんなモノ何処にも居ません」

 マヤノの問いにも、同じ調子で。

「此処に居るのは、そっくりさん。あたしと同じ、出来損ないのガラクタです。推しの代わりになんて、恐れ多いにも程がある。虫唾が走るんです。推しが凌辱されてて、ソレをしてるのが自分みたいで。だから……」

 

ーー消えるべきなんですーー。

 

 最後の言葉は、凄く透明。

 害虫を叩き潰す時の様に。

 何の感慨も無い、意志決定。

 此処に来て、カフェは初めて意識する。

 自分の目的は、全てを元に戻す事。

 アグネスタキオンの苦悩を癒す事も、ダイワスカーレットやスイープトウショウの涙を止める事も。

 全ては其処に帰結する。

 行き着く過程において、そっくりさん達の排除は避ける事の出来ない事項。

 分かってはいた。

 漠然と。

 怒りと恐怖と、嫌悪のフィルター越しに漠然と。

 彼女達は、消えて然るべき存在と。

 けれど。

 彼女は。

 初めて直に交わした、彼女は。彼女達は。

「ダメですよ?」

 かけられた声に、ハッと我に帰る。

 彼女が見ていた。空っぽの、けれど昏く燃える眼差しで真っ直ぐに。

「揺らぎましたね?」

 見透かした問い。

 答えは、端から訊いていない。

「ダメです」

 一歩、踏み出す。

「あたしと、皆さんを秤にかけないで」

 また、一歩。

「貴女の、カフェしゃんの使命は何ですか?」

 一歩。

「大事なモノは、何ですか?」

 伸ばされる、手。

「迷っちゃ、ダメ」

 救いを、求める様に。

「助けて」

 縋りついて。

「皆さんを、あたしの推しを、助けて」

 思わず逃げようとして。

「そして」

 逃げれなくて。

「ニセモノのあたしの、空っぽの復讐に」

 しがみつく身体には、確かな体温。

「泡沫の、意味をください」

 たった一つの、願いは儚く。

「ソレで、あたしが壊れるその時は」

 手が握られる。繋がる中に、硬く冷たい。滑るモノ。

「コレで」

 手渡されたのは、カッター一振り。真っ赤な色に濡れた。

「せめて貴女が、あたしを壊して」

 ダラリと下がる腕。

 しがみ付いてくる、体温。

 母を求める、子供の様に。

「ああ……あったかい……」

 たったそれだけで、満ち足りて。

(ああ……タキオンさん……)

 あの人の名と共に、天を仰ぐ。

 流れる霧と、星も無い影彩の空。

(……控え目に言って……)

 硝子玉の様な月に、カフェは思う。

(地獄……ですね……)

 錆臭い紅で張り付いて。

 錆びた刃は、もう堕ちない。

 

 ◆

 

 ねえ、アマゾンさん……。

 何だい? マヤノ。

 あの子は……こっちのデジタルちゃんは、自分の事『心が無い』って言ってたけどさ……。

 ああ……。

 あの子、怒ってたよね。苦しんでたよね。泣いて、たよね……?

 …………。

 それって、心じゃないのかな……? 心があるって事じゃ、ないのかな……?

 …………。

 アマゾンさん……?

 ああ、そうさ。マヤノ。アレは、心だ。あの子には、心がある……。

 だよね!? そうだよね!?

 けど……。

 ……アマゾンさん……?

 マヤノ、アンタは呼んであげるんだね。あの子の事を、『デジタル』って……。

 だって……デジタルちゃんだから……。

 だったら、呼んであげな。あの子が、在る間。その時まで、ずっと……。

 

 アマゾンは思う。

 確かに、そっくりさんには。少なくとも、あのデジタルには心が在る。

 けれど。

 もしその心が、怒りや憎しみ。嫉妬や悲しみでしか満たされないのだとしたら。

「……控え目に言って、地獄だね……」

 ギリと歯を噛み締める。

「プーカ……アンタが何を考えてるかは知らないけれど……」

 耳に残る、あの子の泣く声。

「必ず、ぶん殴らせて貰うよ……。皆の分も。あの子の、分も……」

 握り締めた拳。食い込んだ爪から、朱い雫。

 

 ◆

 

 スタートの合図と共に、走り出す。

 瞬く間に、トップスピード。

 苦労も無ければ。

 苦痛も無い。

 その瞬間だけを切り取られた身体。

 ただ、録画された記録をなぞるだけ。

 単純作業。

 感慨も無ければ。

 達成も無い。

 流れる風も。

 芝の匂いも。

 ただのプリント。

 全ては泡沫の果てに消え。

 淡々と動かした脚が、ただ当然にゴールを切った。

「……凄いな……」

 タイムを確認したトレーナーが、感嘆の息を吐く。

「キタ、またベストタイムだ。コレで三回連続だな」

 その言葉に、形だけの汗を拭いながら。キタサンブラックの彼女は問う。

「……三回とも、『同じ』ですか……?」

「ああ、測定出来ない程にブレが無い」

「……そうですか……」

 クスリと、皮肉る様に。

「それって、かえって可笑しくありません……?」

 聞いて、トレーナーも頭を捻る。

「まあ……確かにそうなんだが……」

 手の中のウォッチを、確かめる様に操作して。

「うん、壊れてる訳でもなさそうだ。なら、やはりコレはちゃんとしたお前の記録だ。自信を持て」

「…………」

 黙ってドリンクを含むキタ。

「急に個人トレーニングを頼んできた時には何かあったのかと思ったが……。休部の間もしっかり自主トレをしていたんだな。偉いぞ」

「……してないですよ。そんな事……」

 ボソリと呟いた声は、届く筈も無く。

「この調子なら、次のレースも十分に期待出来る。後は、故障しない様に……」

 些か興奮気味のトレーナーを無視する様に、キタはまたスタートへ向かう。

「キタ?」

「……もう一回、お願いします」

「ああ……だが、あまり無理は駄目だぞ。今も言ったが、故障してしまっては意味が無い」

「……故障なんか、しませんよ……。それより、あたしは……」

 落とす視線。目の前、夕日を受けて伸びる影。

 ソレを、憎々しげに踏み付ける。

「『お前』を、超えなきゃいけないんだ……」 

 そう。

 自分は影。

 ただのコピー。

 越える事も。

 変わる事も。

 だけど。

 それでも。

「あたしは……お前を超えて、『あたし』になる……。代わりなんかじゃない、たった一人の『あたし』に……。そうすれば……そうすれば、きっと……!」

 最後に紡ぐは、彼女の名前。

 何より欲しい。手に入れたい。

 月天の如く、煌めく宝石。

 

 飽きる事なく、トレーニングを続ける彼女。

 きっと、見かねたトレーナーがストップをかけるまで。

 いや。ひょっとしたら、その後も延々と。

 閉鎖された可能性。

 それを、突き破るまで。 

 例え、ソレが叶わぬ理であっても。

 果てなく続く、苦行であろうと。

 控えめに言って、地獄であったとしても。

 たった一つ。

 ガラクタの。ニセモノの。空っぽの自分が見つけた意味だから。

 

 そんなキタを、彼女は隅の木陰から見つめていた。

 諦める事も。

 認める事も。

 受け入れる事だって、出来はしないけど。

 それでも、その想いはとても痛いから。

 無視する事は、罪だと知ったから。

 

 堕ちてくる黄昏。

 朱の陽光の中で走る、彼女の影。

 それを、サトノダイヤモンドは見つめ続けた。

 ずっと。

 ずっと。

 見つめ続けた。

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