「ん……?」
コーヒーを口に運ぶ手を止めると、マンハッタンカフェは視線を窓の外に移した。
「どうかしたのかい? カフェ」
相方の素振りに気づいたアグネスタキオンが問う。実験の手は休めないし、視線も向けないが。
「少し……変な気配が、しました……」
「ふぅん?」
その言い様を聞いたアグネスタキオンの手が、初めて止まる。
「君にとっては『その手』の事は日常茶飯。極めて普通の事象の筈だが……」
スタスタと歩いてくると、マンハッタンカフェの隣りに並ぶ。
「その君が『変』と形容するとはね。さて、どんなモノだったんだい?」
常時の様な揶揄いの気配は無い。純粋な好奇心。探究心。知識欲。
「……分かりません……。ただ……」
ソレが彼女の存在理由と知りつつも、返す言葉の真意を逸らす。
本当に、分からなかった事もあるが。
何よりも。
「きっと……関わらない方が良いモノです……」
好奇のままに未知に踏み込む事は、時に帰り道を無くしてしまうのだから。
また何処かで。
鎖が鳴る。
◆
「ごっそさん」
そう言って席を立ったエアシャカール。隣に座っていたオグリキャップが、九割方手を付けられてないトレイを見て声をかける。
「もう、食べないのか?」
「ああ? 別に食いたくない時だってあるだろ。皆が皆、テメーみたいな欠食児童って訳じゃねえだろが」
いつも通りのぶっきらぼうな物言い。これ故に、一部生徒からは距離を置かれたりするエアシャカール。けれど、オグリキャップはそもそもそんな事は気にもしない。彼女の内面を知ってる事も加えて。
「しかし……」
なおも何か言いたそうな顔。見てみれば、彼女の前には天井に届かんばかりの空食器の山。
特盛りと言う表現すら生易しい定食のエベレストを持って(毎度の事ながら盛り付け係と運ぶオグリの技術の高さに感心する)席に着いてから、まだ5分程しか経過してないのだが。
「…………」
察するエアシャカール。
「……気になるなら、食って良いぞ」
そう言って、トレイを押しやる。
「良いのか? ありがとう」
心の底からの謝意を示すと、嬉々としてパクつき始めるオグリキャップ。その様を見て、疲れた様に溜息をつく。
「ったく、悩みのねーヤツは羨ましいぜ……」
そう言い残して食堂を出ていく。見送るオグリキャップの隣りで、同じ様に事の運びを見ていたタマモクロスが頬杖着きながら言う。
「……シャカールの奴、相変わらず機嫌悪いなぁ」
「少し前からずっとあんな調子だ。何処か具合でも悪いのだろうか?」
モグモグしながら心配する相方に、『食うか心配するかどっちかにせい!』などとツッコミながらタマモクロスはイヤイヤと首を振る。
「いや〜、アレは体の不調やないな。気持ちの具合や」
「気持ち……?」
「何や、分からんのか? シャカールがああなる言うたら、アレに決まっとるやろ。お姫様の件や」
お姫様。その単語で理解する。
「ファインモーションか?」
「せや。あのお姫様、もうじき自分の国にいぬんやろ?」
「そう聞いている」
「ソレが効いてるんやろ。 えらい仲、良かったからなぁ」
言われて、思い出す。確かに、あの二人はいつも一緒にいた。まるでそれが、当たり前だと言う様に。
でも、ファインモーションがいつか帰る事もまた。最初から分かっていた事で。
「そんな簡単に割り切れるモンやあれへんやろ」
オグリキャップの疑問を、タマクロスは否定する。
「なんぼいつかはと分かっててもなぁ……。そうや、考えてみ? ウチとアンタも、いつか別れんならんの時が来んねんで? ほしたら、アンタはどんなや?」
「私と、タマが……?」
思いもしなかった事。でも、確かに在り得る事。
今は、同じ学園の生徒で。
同じ競技のアスリートで。
鎬を削り合う事が出来るライバルで。
そのどれか一つでも欠けてていれば、きっとこうして隣同士で座る今はなかった。
そして、そのピースはこれから欠けていく。
卒業したら。
引退したら。
何処か遠くに、住む事になれば。
故郷に戻る事になれば。
彼女との、日々は終わる。
この、日差しの中の様に充実した日々が。
まるで、泡沫の夢の様に。
夢は、いつか覚めるのだから。
「そうか……。それは、辛いな……」
寂しげな声と共にオグリキャップが箸を置くのを見て、ガチでビビるタマモクロス。
「えええええーっ!!? ウソン!? そないなるぅ!??」
無理もない。人生の意義を走る事と食べる事でニ分するオグリキャップが食事を中断するなぞ、トレセン始まって以来三本の指に入るであろう異常事態に違いない。
「まてまてまて!! 冗談やさかい! かる~い例え話やさかい! 行かん行かん、ウチは何処にも行かん!」
「……そう、なのか……?」
何かもう、半泣きになってるオグリキャップ。異変に気付いた周りの視線も集まって来て、ますます焦るタマちゃん。
痴話喧嘩とか思われたら目も当てられない。
何ならその果てに自分が泣かせたとかなったら色々オシマイである。
「ほらほら、泣くな! ウチのもやるから、はよ泣き止みぃ!!」
必死の体で自分の皿から料理をポイポイ彼女の皿へと放り込む。結局、頼るのは食欲。恐らく、生存本能よりなお優先されるソレ。
「ありがとう……」
新たな食材の投入に刺激されたのか、再び箸を取る。箸を口に運ぶスピードが上がって来たのを見て、ようやく安堵する。
「はぁ……全く、世話のかかるやっちゃなぁ。でもまぁ……」
ちょっと背伸びして、オグリキャップの頭を撫でる。
「悪い気はしぃひんな。そうやってウチの事、好いてくれるんは」
そう言って、ニカリと笑う。
髪を櫛削る、小さな手の温もり。それに確かな安らぎを感じながら、オグリキャップは思う。
エアシャカールは、もうすぐこの温かさを失うのかと。
(……私だったら、どうするだろうか……)
考えながら、最後の一口を飲み下す。そんな彼女にお茶を渡しながら、タマモクロスはポソリと呟く。
「とは言いぃ、聞ぃた話のまんまならちょっとばかり厄介やんなぁ……」
ソレは、ふと小耳に挟んだ噂。
「シャカールの奴、本気なんかなぁ? 引退やなんて……」
(……ふぅ ん? そうな のぉ ……)
「あん?」
「どうした? タマ」
急にキョロキョロするタマモクロスを見て、怪訝そうに訊くオグリキャップ。
「……アンタ、何か言うたか?」
「いや、何も言ってないぞ?」
「……やんなぁ。エライ近くで聞こえたんやけど……」
なおもキョロキョロしてみるが、それらしい人物はいない。そもそも、全く聞き覚えの無い声だった。
「空耳やったのかな……?」
「……?」
何か釈然としないタマモクロス。オグリキャップも一緒に頭を捻る。
食堂の喧噪の中、また何処かでチャリチャリと。
◆
「……ったく、馬鹿共が……」
背後での騒ぎを聞いて、エアシャカールは小さく毒づく。
第三者に勝手な推測をされるのも大概だが、その勝手な推測がほぼほぼ的を得ている事が尚更苛立ちに拍車をかける。
今現在、ファインモーションとエアシャカールはほとんど顔を合わせていない。何か言い合わせた訳でもない。ただ、自然と互いに避け合う様になった。
そうなった理由は明白。
忌々しい事この上も無いけれど、素知らぬ振りなど出来ない程に。
何の事は無い。
引きずりたく無い。
引きずっちゃいけない。
ただ、それだけ。
そもそもが、そこまで深くなるべき関係ではなかった。
エアシャカールはファインモーションに己では辿り着けない可能性を。
ファインモーションはエアシャカールに自分が愛する運命の一欠片を。
それぞれに見出して近づいた。
それは、あえかで儚い盟約。
互いに夢を与え合い。
共に甘さを貪り合い。
それが実り熟そうと。
熟す事無く腐り堕ち様と。
来るべき時が来れば、甘い夢は終わり。
共に目覚めて、またそれぞれの道に戻る。
どんな蟠りも残さずに。
そう言う、関係。
だった筈。
けれど。
そうはならなかった。
出来なかった。
周りが。
そして、恐らくは彼女自身が。
ここまで深く堕ちるとは、思っていなかった筈。
『お前なら全部、ブッ壊してくれンのか……?』
『……なら、仮にだ。もしオレが頼めば……お前は走り続けるのか? それがオレに必要だって言ったら? お前はオレの神になってくれるのか?』
『そしてお前はあがかない。残酷なモンだな。お前には――いっそ”走りの才能”なンて、なかったほうがよかったのに』
煮え切らない……否、その気がない彼女にぶつけた譫言の様な言葉。
熱病に犯された恍惚の様な感情の吐露を、エアシャカールは今だに覚えている。
正しく、堕ちたのは自分。
ファインモーションの持つ『ゆらぎ』に。自分が信じる故に逃れられない、『確定された可能性』を超えうる可能性に。
堕とされた。
魅了された。
それは、彼女にとって文字通りの猛毒であり。
媚薬。
ファインモーションの本質が見えるにつれ、エアシャカールは足搔いた。
ファインモーションが愛するモノは運命。確定された可能性そのもの。
彼女は運命を裏切らない。
確定された可能性を越える事は無い。
そも、愛するモノをブチ壊す狂気など持っていない。
彼女は、自分の神にはならない。
なれないのではない。
『ならない』のだ。
把握して。
理解して。
だから終わりにしようと。
捨てられる前に。
切り捨てようと。
けれど、全身の血液に混じり切った毒は解けず。
脳漿を犯し尽くした媚薬は溶けず。
ただズルズルと、爛れ尽くした甘美な夢は覚める術なく。
挙句。
――逃げんな――!
――降りた気になるな――!
楔を、打った。
夢の終わりと決めた舞台で。
惨めに。
みっともなく。
ソレは、明確な条約違反。
でも。
ソレでも。
ファインモーションは微笑んだ。
その裏切りさえも、愛する運命と受け入れた。
受け入れた上で、なお。
「くそっ!」
横殴りに振るった拳が、壁を叩く。
すれ違おうとしていたライスシャワーが小さく悲鳴を上げ、連れ立っていたミホノブルボンが足を止めた。
けれど、そんな二人の反応も今のエアシャカールには届かない。
「論理的(ロジカル)じゃねぇ……。こんな、事……」
「あ、あの……」
譫言の様に呟くシャカールに声をかけようとしたライスシャワーを、ミホノブルボンが止める。
「やめましょう。ライス」
「で、でも……」
「今の彼女には、孤独が必要です」
「孤独……?」
「はい。少なくとも、今近くにいるべきは私達ではありません。無理をすれば、傷付きます。貴女も、彼女も」
言って、視線を向ける。
よろよろと、熱に浮かされる様に去って行くエアシャカール。その後ろ姿を、二人はただ黙って見送った。
また何処かで。
鎖の音。