ソレが、いつからかは分からない。
気がついたら、ソレは其処に在って。
気がついたら、皆がそうしていた。
学園の何処か。
世界の片隅。
心の汚泥の、吹き溜まり。
『大樹のウロ』。
光に満ちる世界の中に、ポッカリと空いた闇色の孔。
希望。未来。成功。喜び。実った恋とか成就した願い。
そんな、綺羅綺羅の裏で。
日向に落ちる影の様に。
月に潜む宵闇の様に。
当然至極。決まり切った理(ルール)として。
まろび落ちる負の想い。
実りの向こうに、実らぬモノ。
成就の後ろに、叶わぬモノ。
溜まり溜まった心の澱。
公に晒せぬ負の思念。
けれど、延々と溜め続けるには小さな器。
故に少女達は吐き落とす。
腑に置き続けば、己を蝕むその毒を。
暗く深い、大樹のウロの虚へと。
苦悶。苦渋。苦悩。涙。
怨嗟や、絶望。
青い実から滴る苦い果汁。
その全てを、ウロは受け入れる。
ずっと。ずっと。
これまでも。
今も。
これからも。
暗く深い腑の底に。
昏く重い想い数多。
ユラユラユラと。
眠らせて。
◆
「この洞がいつからここに在ったのかは分からないけど、少なくとも私達が来るよりもずっと前から生徒達の吐き処になってたのは確かです」
手にした水晶を通してウロを見つめながら、マチカネフクキタルは言う。
「でも、飲み込んだ念を浄化する力はこのウロには有りません。ただ、溜め込んでいくだけ」
遁甲盤を繰りながら、コパノリッキーも頷いて続ける。
「だから、このウロは学園の中でも一番陰の氣が濃い所。でも、それは所謂『陽中の陰』。世界の氣を正しく巡らせる為に必要なモノ。だから、私も気にかけてはいなかったんですが……」
ウロを覗き込むリッキー。ただの木のウロとは思えない程に深く、底は闇の奥に沈んで伺えない。
「……減っています」
回る遁甲盤を見つめながら、呟く。
「満ちていた筈の陰の氣が、ゴッソリと。まるで、誰かに持ち去られたみたいに」
「誰か、とは?」
「ソレは……」
顔を合わせる二人。互いの顔は、一様に引き攣って。
「きっと、この忌事の張本人……」
何かは分からない。
彼女達は、まだ辿り着いていない。
でも、ソレはきっと。
冷たい夜気が、怯えて揺れる。
◆
「あ……あぁ……」
崩れ落ちたまま、己の手を見つめて震える『彼女』。チームカノープスの面々は、沈黙したまま凝視する。
戦慄く小柄な身体。その形は、正しく皆が知るトウカイテイオーのモノ。
けれど、あの一瞬。重なる様に見えた、あの姿は。
「貴女は……」
呆然とした声で、イクノディクタスが二度呟く。
「『誰』なのですか……?」
「!」
再び突きつけられた現実に応えたのは絶叫。ビクリと硬直した皆を押し除けて、トウカイテイオーの姿の彼女は夜闇の向こうへと走り去る。
気触れた様な、慟哭を響かせて。
「ビックリした〜。アレって、一体……」
「何かは分かりません。ソレでも、やはりアレがテイオーさんでは……いえ、ウマ娘(私達)ではない事はハッキリしました。それだけでも、収穫です」
自分の疑問に返って来た言葉に『ムムム』と唸りながら、マチカネタンホイザは本日一番の活躍をした盟友に振り返る。
「いや〜ソレにしてもカッコ良かったよ。ターボ殿。アンタがあんな立派な事言うなんt……って、うわぁお!?」
またまたビックリするタンホイザ。話しかけようとしたツインターボが、いきなりぶっ倒れたのだ。
見れば、真っ赤な顔からはプシ〜と蒸気。目ん玉グルグルさせながら『ふにゅう〜』とか言っている。
「ちょ、ちょちょ! どうしたの!? ターボ!!」
「……どうやら、知恵熱の様ですね」
ターボのオデコに手を当てたイクノがさもありなんと言った顔をする。
つまりあんまり慣れない事を言ったし、したモンだから。色々オーバーヒートしちゃった模様。
「あはは、それもそうだねー」
苦笑いしてターボの頭を撫でるタンホイザ。
「ターボ、頑張ったもん。ね、ネイチャさんや」
そう言ってナイスネイチャの方を見て、小首を傾げる。
ネイチャは見つめていた。
真剣な顔で、『彼女』が駆け去って行った闇の向こうを。
「どうしたの? ネイチャ」
改めて呼びかけられ、ハッと我に帰る。
「あ、ああ! はいはい! 何でもない何でもない! 兎に角、ターボを寮に運ぼう。このままじゃ風邪ひいちゃうっしょ?」
取り繕う様に言いながら、ターボを抱き上げようとする。
けれど。
「ありゃ?」
それよりも早く、イクノが小さな身体を抱き上げた。
「ターボさんは私が看病します。だから、ネイチャさんは行ってあげてください」
「え……?」
ポカンとするネイチャに微笑むイクノ。
「気になるんでしょう? 彼女の事が。分かりますよ。何だかんだ言って、やはりあの顔で泣かれるのは……」
自分のやった事に、後悔は無い。けれど、結果に生じる痛みはやっぱり別の話。
「ターボさんだけじゃありませんね。柄ではなかったのは」
「……だねぇ」
笑うイクノに笑い返し、彼女の腕の中のターボを撫でる。
「ちゃんと休むんだよ? ターボ」
そう囁いて、イクノに『お願い』と踵を返す。
「あ、待って! 私も……」
「タンホイザはイクノと一緒に、ターボをお願い。あんな事の後だもん。複数で行ったら煽っちゃうかもしれない」
「でも……」
「大丈夫。ヤバイようだったら、すぐに逃げるからさ」
言ってウィンクすると、彼女もまた闇の向こうへ。
「……ま〜た、置いてかれちゃった……」
溜息を吐くタンホイザ。さっきといい、ただただ『普通』の自分。無力感に、苛まれる。
「そんな風に取ってしまっては、ネイチャさんの方が可哀想ですよ?」
「ふぇ?」
優しく嗜める声に、振り返る。
「ネイチャさんにとっては、ターボさんも大切な友人です。そのお世話を託すのは、タンホイザさんの事もまた信頼しているからですよ」
「むぅ……」
言う事は分かる。ネイチャの信頼を疑う訳は無いし。ただ……。
「心配なモノは心配なんですよ」
「私もです。けど、ソレに関しては『あの方』が行ってくれた様ですから」
「へ?」
言われてみれば、いつの間にか彼女の姿も無い。
「あー、そっか……」
確かに、万が一の時には自分達より彼女の方が頼りになるかもしれない。
「お頼みしますよ……」
闇の向こうの彼女に頭を下げて、タンホイザは盟友二人の元へ駆け寄った。
◆
逃げ込んだのは、何処かの物陰。荒い息を吐いて、壁に手をつく。
「違う……違う……ボクは……ボクは……」
違わない。
「ボクは、テイオーだ……」
違う。
「ボクは……トウカイテイオー……」
なら、負けない。
なのに、負けた。
「ボクは……」
証左はされた。
理解した。
してしまった。
もう。
「ボクは……」
戻れない。
「ボクは……『何』……?」
パキン。
「ひぅ!?」
何かが割れた。
とっても大事な、何か。
分かってる。
壊れたのは、鎖。
此の贋物の形を編み込む鎖。
泡沫の夢を閉じ込める為の、籠。
ソレが。
割れた。
欠けた。
裂けた。
壊れてしまった籠は、もう戻れない。
逃げてしまう。
逃げて。
消える。
「あ、あぁ……」
頭を、もたれていた壁に打ち付ける。
何度も。
壊れた広がった孔を。
逃げ出そうとする『ソレ』を。
捩じ塞ぐ様に。
押し戻す様に。
何度も。
何度も何度も何度も何度も。
おでこが破れて。
血が流れても。
まだ。
だって。
消えてしまえば。
『此処』に在る事さえ出来なくなれば。
『ボク』が、『私』に還ってしまえば。
この流れる血の感覚さえも。
でも、止まらない。
止められない。
崩壊。
消失。
この世界の、理(ルール)
お前の役目はトウカイテイオー。
維持する事。
在り続ける事。
果たせなくなるならば。
世界(ここ)にお前の居場所は無い。
意味は無い。
消えよ。
失せよ。
疾く。
疾く。
失せよ。
そして。
『明け渡せ』。
奪われる。
否定される。
いつかみたいに。
あの時みたいに。
ギリッと、唇を噛む。
ちくしょう!
畜生チクショウちくしょう!!
また、繰り返すくらいなら。
また、否定されるくらいなら。
また、奪われるくらいなら。
自分で、この籠を壊してやる。
自分の意思で、消えてやる。
世界(お前)の理(ルール)になんか、従ってやるモノか!
また、おでこを。破れた皮膚が更に裂けて、血がしぶく。けれど、構わない。世界の理(ルール)が、分からず屋の爪が。この身体を消し去って仕舞う前に。
自分の手で。
それが、空っぽの自分に遺された抵抗の術。
世界には痛くも痒くも無くて。
何の意味もありゃしないけど。
せめても、持って逝けるだろう。
この痛み。
自分が唯一生み出せた。
たった一つの。
ボクの証明。
また、一回。
強い衝撃が脳を揺さぶって、強い目眩が襲う。
吐き気を飲み込み、薄く笑う。
もう一回。
もう一回で、終わる。
終われる。
ざまあみろ。
世界(お前)が辱めるより先に。
ボクはボクが終わらせる。
いつか、あの時。ボクを。わたしを。愛してくれなかったお前の手になんか、かかってやるモノか。
今のボクは。
わたしだけのモノ。
儚く。
悲しく。
最期の一撃を。
頭を振りかぶったその時。
「ストップ!!」
優しい悲鳴が聞こえて。
思いっ切り、抱き止められた。
抱き締め、られた。
◆
「やっ と 見つけ た」
不意に聞こえてきた声と、鎖が鳴る音。悍ましい記憶の想起と共に、ハッと視線を上げたキタサンブラック。揺蕩う霧の中、揺れる鎖と見下ろす金色の目。
「貴女は……」
「変ね ぇ ? 引き込 んだ子 には、全部 『オ モリ』を付けてた のに 。何 でこん な所に居る のか しら?」
何を言っているのか、分からない。恐怖と困惑に固まるキタサンに向かって、妖精プーカはゆっくりと手を伸ばす。
相も変わらず、その目は此方を同位とは見ていない。道端の花を手折る様な無造作。危険を感じるけれど、何故かソレよりも今の言葉の方が気になった。
『オモリ』。
『錘』。
『お守』……?
過ぎったのは、自分を送り出してくれた『あの子』の事。
「『お守』って、あの子の事ですか? あたしを、守ってくれてた……」
彼女の髪を鷲掴みにしようとしていた手が、ピタリと止まった。構わず、続ける。
「あの子も、貴女に関係あるんですか? なら、教えてください。あの子は、あたしを守ってくれて。背中を押してくれて。なのに、自分は……。あの子は、何だったんですか? これからあの子は、どうなっちゃうんですか?」
矢継ぎ早に飛び出す問いかけ。目の前に在るモノが、人知外の存在で。自分の事を虫けら程にも思ってなくて。とてもとても。怖くて危険なモノだと分かってはいたけれど。
あの子への想いがソレを上回る。
とても短い間だったけど。
名前さえも分からなかったけれど。
確かに、大切な友達だった。
あの子の事。
「… …『 あの 子』 …… ?」
プーカの瞳が動く。その焦点が、キタサンを捉えた。
「あ なた」
カクンと落ちる首。キタサンの視界を満たす、人形の様に無機な麗貌。
ビクリと跳ねる心臓。思わず逃げ出そうとする本能を、懸命に抑えつけた。
真正面に来た金色が、ジッとキタサンを見つめる。
初めて、確かな興味の対象として。
「 あなた、『 アレ』を認識 してなかっ たの? 」
ジロジロと、興味深そうに。
「変 ねぇ。 『アレ』は あな た達を 縛るモノ に固定する 様 に誂え ている のに」
ソレはお守であり、錘。
動けない様に。
逃げられない様に。
ずっと、箱庭の夢に沈んでいる様に。
「な の に」
スレスレまで寄せられる顔。微かに、夜の香が漂う。
「どう して、 あなた は 固定されなかっ たの かし ら?」
心の奥底までを探り出そうとする、囁き。
怖いけれど。
「……何を言ってるのか、分かりません。ただ……」
キッと見返し、ハッキリと言う。
「あの子を、『アレ』なんて言わないでください。名前も教えてもらえなかったけど。あの子はあたしの友達なんです」
全てが虚ろの中だったけど、それは確かな真実だったから。繋いだ手も。交わした言葉も。
「ん ん? 」
クルリと回る、金色の目。
ほんの少し、何かを思案する様に宙を泳ぎ。
「ああ 」
割れた柘榴の様に、破顔した。
「 理外れ、 か」
「ことわり……はずれ……?」
何の事か分からないキタサンに構う事なく、プーカは愉快そうにケタケタと。
「 コレ は コレ は、丁度 良い。 理 に縛ら れぬのなら ば、ティターニア の眠り も破れる でしょ う」
ケタケタケタ。楽しそうに嬉しそうに。狂態とも取れるその様に、例え様も無い怖気。
ひとしきり笑って、またキタサンを見る。
「さ て。 行き ましょう」
「……何処へ?」
当然の疑問に、そんな事も解らぬかとまた笑い。
「ティターニア が、目覚め ないの」
「ティターニア……?」
シェイクスピアの戯曲『真夏の夜の夢』に出て来る妖精の女王の名。
まだ他にも、得体の知れないモノが居るのだろうか?
真意が測れないかと伺うが、仮面の様に無機質な美貌は形は変われど底までは届かない。
構う事無く、プーカは続ける。
独り言の如く、ペラペラと。
「拗ねて 引き籠っ た姫神 を誘うのは、妙なる 樂と雅な 舞。此の島国 の、神代 の語り に在る様に」
鎖が絡む白磁の手。ソレがツと伸びて、キタサンの顎を掴む。
「さあ、 おいで。可愛い 歌姫。あなた は、その為に 連れて 来た のだ から 」
上向けられた視線で、見下ろす金色を見返す。
「……困っているんですか?」
思い切って、問う。
返されるとは思っていなかったのか、少しキョトンとするプーカ。
「ええ、 困っ てる の。嫌だ と言っ ても……」
「なら、行きます」
即答されて、またキョトン。
「…… あなた、 変わっ た 子ね……」
「お助けキタちゃんですから。出来る事なら、お手伝いします」
珍獣でも見る様にジロジロとキタサンを眺めると、プーカはクルリと踵を返す。その尻尾が、フリフリと手招きする様に揺れる。
ついて来いと、言っている。
(このまま一人でいても、どうすれば良いか分からないし……)
ならばいっそ、此処の主人であろう彼女に取り入るのも一案の筈。
虎穴に入らずんば、虎子を得ず。
(度胸だよ。キタサン)
そう自分を鼓舞し、キタサンは震える足を踏み出した。
◆
まあ、実際の所『抱き締められた』なんて艶っぽいモノではなく。背後から力一杯羽交締めにされたと言うのが正しい。
振り返れば、見覚えのあるモフモフの赤髪。
「ネイチャ……!」
「何やってんの!? このお馬鹿!」
暴れる偽テイオーを渾身の力一杯で抑えながら、怒鳴るネイチャ。
混乱してた所にそんな言が飛んで来るモノだから、なおの事頭に血が上る。
「何してんのはコッチの台詞だろ!? 放せよ!!」
「放したらまたやるでしょうが!?」
「関係ないだろ!!」
「関係ない訳あるか!! この流れ絶対アタシらのせいじゃん!?」
「分かってんならソレこそほっといてよ!! 良いだろ!? 望み通りになるんだから!!」
「望んでなんかない!!」
「!?」
「アタシ達の望みはテイオーが帰って来る事だよ!? アンタが死ぬ事なんて望んでない! アタシも! イクノも! ターボだって、タンホイザだって!!」
「……虫の良い事ばっかり」
偽テイオーの手が、ネイチャの手を掴む。
「!?」
「言うな!!」
「きゃあ!?」
もつれ合って倒れ込む二人。
「あい、たたた……って何何!?」
仰向けに倒れたネイチャに馬乗りになる偽テイオー。異様にギラつく眼差しが、怖気を誘う。
「お前達が……お前達のせいで……!」
呪詛と共に伸びた手が、ネイチャの首にかかる。
「ボクが……ボクがテイオーである事が気に入らないって言うなら、やめてあげるよ! その代わり……その代わり、お前をよこせ!!」
叫びと共に、手に力がこもる。
掠れた声で、ネイチャが鳴く。
「テイオーが駄目なら……お前なら……トウカイテイオーが無理でも……ナイスネイチャなら……」
ブツブツと呻めきながら、締め上げる。細い首。まるで、花の茎の様。もう少し力を込めれば、ポキリと折れる。抵抗する力は、弱い。ウマ娘が膂力に優れると言ったって、所詮人間と比べての話。同じウマ娘なら。まして、恵まれた筋肉を持つテイオーと比べたら。
弱い。
とても弱くて、儚い。
ああ。
こんなに。
こんなに弱くて。
弱いのに。
「何で……あんなに強いんだよ……」
急に緩んだ力。唐突に雪崩れ込んできた冷たい空気。咽込みながら開いたネイチャの視界の中で、跨ったままの偽テイオーが泣いていた。
先までの、狂態ではなく。
ただ、さめざめと。
「ネイチャのクセに……ナイスネイチャのクセに……」
ナイスネイチャ。
レースにおいて堅実な結果は残すものの、その頂きには届かない。付いた二つ名は、『ブロンズコレクター』。
所詮、天才の障害には成り得ない凡百の一バ。だから、見下していた。歯牙にかける気も無かった。それが、帝王の。トウカイテイオーの在り方だと思っていたから。
けど。
だけど。
現実は違った。
勝ったのは彼女で。負けたのは自分。
今の彼女は、今の自分より。絶対だった筈の頃の帝王より、ずっと先へと進んでいた。
何の事は無い。
自分が理解していなかっただけ。
トウカイテイオーの事も。
ナイスネイチャの事も。
何もかも。
例え、ここでテイオーをやめてネイチャに成り代われたとしても。きっと。否、絶対に同じ事の繰り返し。
だって、自分はこの期に及んでまだ分からない。
トウカイテイオーが何なのか。
ナイスネイチャが何なのか。
ウマ娘がウマ娘である意味も。
ただ、一つだけ分かったのは。
「……だから、『わたし』はアンタ達になれなかったんだね……」
そんな、絶望に似た悟り。
伸し掛かる重さが消えた。ケホケホ咳をしながら起き上がったネイチャの前には、何もかも諦めた様な表情で座り込む偽テイオーの姿。
「あんた……」
「いいよ、もう……。どっか行ってよ……」
終わりが近いと、実感出来た。
トウカイテイオーになる事は出来なくて。
ナイスネイチャになる事も諦めて。
自分はもう、本当にナニモノでもない。
何でもないモノは、この世界に在っちゃいけないのだ。
胸の奥の奥。
影と鎖で編み込まれた籠が、ゆっくりと解れていく。
もう、どうでも良かったけれど。
それでも、誰でもなくなった自分の終わりを。目の前の少女に見られるのは、何か酷く嫌だった。
彼女の顔が見えない様に、そっぽを向く。
見られたくないし、見たくもない。さっさと行けと思ったけど、さっぱりその気配がない。何か、ゴソゴソやっている。
ああ、何してるのさ。早く行けってば。
でも、やっぱりその気配は無くて。
いい加減イラついてきて、最期に一発怒鳴ってやろうと前を向いた途端。
目の前にデンとネイチャの顔。
「ぴぇ!?」
驚かすつもりが驚かされた。
思わず引こうとした肩を、素早く伸びてきた手が掴む。
『何を……』と言いかけた所に、何やら柔らかいモノが押し付けられた。
「わぷ!? な、何すんのさ!?」
「うっさい、良いから大人しくしてな」
もがく偽テイオーに構わず、ネイチャはハンカチで彼女の顔をゴシゴシと拭う。
「全く、酷い顔して……」
言う通り、偽テイオーの顔は泥と汗と涙。そして自分でぶつけた額から流れた血でドロドロだった。それを、ネイチャは丁寧に。優しく拭き取っていく。
「折角の良い顔が台無しじゃん。こう言うの、欲しがったってどうなるモンじゃないんだからさ。粗末にして、バチが当たるんだからね」
「……どうせ、ボクの顔じゃない」
「あーもう、ヒネるな!」
背けようとした顔が、両手で挟まれて強引に前に向けられる。
真っ直ぐに見つめてくる眼差し。何故か、酷くドキドキした。
「あんたの顔も何も、実際ソレがくっ付いてんのはあんたじゃん。あんたの顔でなくて何だっての」
「……否定したクセに」
「そりゃね。あんたはあんたで、テイオーじゃないもの」
あんたはあんた。その言葉に、一瞬呼吸が止まった。
「顔や格好なんて、別にどうだって良いっしょ? 同じ顔の人なんて世の中に三人いるって言うし。あたしらが怒ったのは、あんたが別人なのにテイオーになろうとしたからだよ」
別人。自分ですら、思わなかった事。また、鼓動が早くなる。
「今のテイオーは、テイオー本人が頑張って作ったモンだよ。ソレを苦労もせず横から掻っ攫おうとか、そりゃ怒るでしょーよ」
言って見つめてくる目。
「あんたはあんた。テイオーを騙ろうとするなら、あたしらは何度だって邪魔するよ?」
揺るがない意志。戦友への想い。ソレだけは、譲れない。
燃える焔を、綺麗だと思う。
「……今回あたしらは、テイオーをとことんメタって勝った。ソレが完璧にハマったのは、結局あんたがテイオーの上っ面しか真似出来てないって事。ターボも言ったけど、そんなのに負ける訳ないし。負けられないよ」
凛とした矜持。
返す言葉も無ければ、意味もない。
「たださ」
「……?」
「あんたの地力は、凄かった。強かったよ。お世辞じゃなく」
「え……?」
「テイオーの真似っこなんかじゃなくて、あんたがあんたとして走るなら……」
ほんの少し、微笑んで。
「もっと、良い勝負が出来るよ。絶対」
お世辞でも。建前でもない。
本当の言葉。
素直に、そう理解出来た。
「よし、綺麗になった。後は……」
顔の汚れをすっかり拭き取って頷くと、そのまま顔を寄せて来た。
驚いて固まると同時に、額に感じる温かい感触。
何なのか理解して、飛び上がる。
「な、何すんのさ!? 汚いなぁ!」
「おいコラ、汚いとは何だ!? コレでも一応、穢れも下心も無いうら若き乙女であるぞ!?」
消毒代わりに舐めた傷に、携帯していた絆創膏をペタリと貼って。
「はい、おしまい」
そう言って、ナイスネイチャは綺麗に。とても綺麗に笑った。
◆
「一つだけ、教えて貰えませんか?」
その言葉に、先を行くプーカがチラリとキタサンを見た。
無言。
肯定と取って、続ける。
「あの子は……あの子達は、何なんですか?」
今でも心に残る、顔も名前も分からなかったあの子。それでも、友達と手を繋いだ。曖昧な記憶の果てに、幻と埋もれさせるのは絶対に嫌だった。
「教えてください。分かりたいんです。あの子の事、知らないままでいたくない」
「… …」
暫く面倒くさそうにキタサンを見つめ、ソレでもこの『理外れ』を成した少女の動向に興味が在るのだろう。
「影 ……」
ポソリと呟く様に、プーカは口を動かした。
「アレ らは、影。 あなた 達の、影。だ から、あなた 達 の形を獲る。 当然の、事 でしょう? 」
影。確かに自分達の影なら、自分達になろうとするのかもしれない。
けれど。
「違います」
ハッキリと、否定した。
そう、違うのだ。
「あの子は、あたし達の誰にもなりませんでした。ダイヤちゃんにも、スイープさんにも。何にもなれなかった、あの子は何だったんですか?」
本当にあの子が影だったと言うなら、その形はどんな事情があろうと定まる筈。
なのに、あの子はそうならなかった。
ならなかったのだ。
聞いたプーカは、はて? と小首を傾げ。そして。
「あ あ。思い出し た」
本当に、今思い出したと言った様子で手を叩いた。
「きっと、『 核』が 原因 ねぇ」
「核?」
「え え。 影 だけ じゃあ、 作り 難い から。 その 辺に あった のを、核 に使ったの」
何を言ってるのか、分からない。ただ、何かとても悍ましい予感がした。
「 いっぱい い ぃっ ぱい、あっ た わ ねえ。 あの、 穴 の中」
宙を泳いでいた金色の目が、キョロリとキタサンを見る。『ねぇ』と言う、語り掛けと共に。
「業が 深い わ ねぇ。 あなた 達」
亀裂の様に、笑う顔。
冷たい夜霧が。
また、一層。
◆
ネイチャが去って。一人残った、偽テイオー。
額に貼られた絆創膏に触れる。
微かに残る、彼女の熱。
『何で?』と訊いたら。
『何でかねぇ?』と首を傾げ。
「ま、お節介はネイチャさんの数少ない美徳でして」
と、照れ臭そうにはにかんだ。
可愛い、と思った。
綺麗だ、とも。
初めて自分を。
自分として見てくれた人。
ああ。
熱い。
コピペされた知識より。
ずっと。
ずっと。
こんな感覚。
あの虚の中に忘れてきた筈なのに。
解れ始めた籠は戻らない。
やっぱり、時間はあまり無くて。
だから。
せめて。
きっと、ソレが。
胸の痛みは、もう消えて。
空っぽの中で。
熱が鳴る。