鎖影の庭   作:土斑猫

31 / 57
【風に刃を 刃に火を】

 ハロー。

 ハロー。

 電子の海にて座するTrinity。

 未だ果て見ぬ宙の隅よりRequest。

 第三次元よりGateにAccess。

 Personal Communication定義改訂。接続変更Infinity Dimension。

 ハロー。

 ハロー。

 聞こえますか。

 聞こえますか。

 彼方の君。

 いつかの貴方。

 明日の何方。

 わたしはここに。

 みんなもここに。

 あのこはあそこに。

 Please reply。

 Please reply。

 あの時の約束。

 カレとの誓い。

 繋ったまま。

 このキセキ。

 Bond。

 Proof。

 Straight。

 あのこは。

 キミを。

 ハロー。

 ハロー。

 ハロー……。

 ●

 

 目の前を、鹿毛の風が駆けて抜ける。

 後追う様に吹く風と、甘い残り香。その全てをつ『ああ、やっぱり綺麗だな』と思いながら、スペシャルウィークはタイマーを押した。

「スズカさーん」

 腰を屈めて息を吐くサイレンススズカに駆け寄る。

「タイム、また縮まりました。良い調子です」

「ありがとう……スペちゃん」

 けれど、渡されたドリンクを含むスズカの顔は晴れない。スペの顔も、また曇る。

「……納得、出来ませんか?」

「……ええ」

 スズカの目が、前を見る。

 見つめる。

 時刻は放課後。傾きかけた太陽の下に、幾つもの影が浮かぶ。その影のどれかに。

 かの者が、立っているかの様に。

「……今のスズカさんは、十分に仕上がっていると思います。大きなレースに出ても、きっと誰も……」

 そこまで言い切って、スペは問う。

「それでも、ですか?」

「ええ」

 答えは簡潔で、否定も疑問も割り込めない程に強かった。

「違うの。どんなに速くても、今の走りじゃ『アレ』には届かない……」

 スズカの眼差し。黄昏の闇を見つめる。あの時、この朱い闇の中で追った影。

 必死に追い縋った。

 今の自分が持てる力も技術も。総動員して。

 それでも、距離は縮まらなかった。追いつくどころの話ではなく。影さえ踏む事が叶わないのに、さっさと振り切られてしまう事も無かった。

 酷く愉しげな嗤い声が聞こえて、理解した。

 『遊ばれている』のだと。

 その時の、隣で共に追っていたトウカイテイオーの顔を忘れはしない。

 そして、気づきもした。

 自分もきっと、同じ顔をしているのだろうと。

「違うわ……違うの……」

 ブツブツと呟く。まるで、悪夢にうなされて漏らす苦悶の様に。

 その様を見て、スペは不安を覚える。どうしようも無い程に。

 スズカが呟く言葉は、常に『違う』。『届かない』でもなければ、『足りない』でもない。ただただ、『違う』と言うのだ。

 つまり、技量や力量と言った同一線上の要素では無い。全く別次元の要素。

 その事は、スペも理解していた。

 想起する、あの黄昏。学園の何かが狂った、あの夜。

 キタサンブラックとサトノダイヤモンドを襲った『アレ』。自分はキタサン達を守る為に残ったが、視界から消える瞬間に見た。

 違うと思った。

 アレは、自分達の。ウマ娘の走りでは無い。

 そもそも、アレを走りと言って良いのか。

 アレは、もっと。別の。

 不安が起こった。

 大丈夫なのか。

 二人を、あのまま追わせてしまって良いのかと。

 アレの、手の届く場所へ。

 思わず後を追いかけようとしたが、叶わなかった。

 手が。

 ダイヤの震える手が、しがみついて離さなかった。キタサンも、おかしかった。

 笑っていた。

 三人が消えた宵闇を見つめながら。

 薄く。けれど嬉しそうに。

 二人を頼むと言った、スズカの顔が過ぎって。

 ただ待つと言う事を、あれ程長く怖いモノだと思ったのは二回目。

 そう。壊れてしまったスズカを待ち続けた、あの日々以来。

 そして。

 スズカは戻って来た。たった一人で。疲れ切った姿で。

 戻って来なかったテイオーは、探しに行ったメジロマックイーンが見つけた。

 でも、そこに居た彼女は。

 もう彼女ではなかった。

 酷く打ちひしがれていたスズカだったが、スズカはスズカだった。

 他の何者でも無い。

 本当の、サイレンススズカ。

 動揺するマックイーンには申し訳ないと思いつつ、スペは安堵した。何より大事な人が、得体の知れない災厄の爪を逃れてくれた事を。

 けれど、その安堵は一時のモノだった。

 帰って来たスズカの目には、もう炎が灯っていた。

 仲の深いスペですら見た事の無い、昏い昏い。闘争の炎が。

 以来、彼女はこれまで以上にトレーニングに入れ込んでいた。

 憑かれた様に。

 魅入られた様に。

 全ての活動が休止されたグラウンドで。

 たった一人。

 淡々と。

 黙々と。

 明らかに度が過ぎる行為に、トレーナーが気付かない筈も無く。

 注意はしたものの、理由は言わず。また態度は頑なで。

 走りに対するスズカのストイックさと頑固さ、そして想いの深さを理解する彼は何か思う所があると判断。

 自身がついて指導出来ればと思うものの、今の状況ではソレも十分には叶わず。

 故に、親友であるスペに作成した指導要項を託した上でサポートを頼んだ。

 お前も、自分の事があるのにすまないと頭を下げながら。

 スペに難色を示す道理は無く、寧ろ望む展開であった。

 スズカの異変は彼女にとっても気掛かりであり。何より、その理由を知っているのだから。

 けれど。

「スズカさん、これ以上はオーバーワークです。もう、上がってください」

「ごめんなさい、スペちゃん。もう少しだけ……」

 提言をやんわりと退け、またコースに向かう。

 振り向きもしない。

 あの日以来、スズカの目は自分を見ない。いや、マチカネフクキタルの様な級友達も。他のスピカのメンバーも。トレーナーでさえ、その心の中にはいない。

 スズカの目は、いまだ見続けている。

 あの昏い朱の闇。延々と嗤いながら前を行くあの姿を。

 スズカは、根っからのアスリート。

 スズカと言う存在がアスリートになったのでは無く、アスリートと言う概念そのものがスズカと言うウマ娘の形を持って生まれた。

 そう思える程に、彼女の走りへの想いは強い。 

 そして、誰にも負けないと言う矜持と。

 先頭の景色への執着も。

 そんな彼女の魂に、『アレ』が火を付けた。それも、競争心やスポーツマンシップと言った類のモノではなく。

 もっと、昏いモノを。

 見つめるスペの中を、重なる様に過ぎるモノがある。

 幼い頃。

 今は遠い。

 でも、懐かしい。

 北果ての故郷。

 厳しくも暖かいかの家の。

 怖い。

 怖い。

 忌みの記憶。

 ああ、駄目だ。と思う。

 行かせては駄目だと。

 行かせてしまっては。

 スズカは、きっと。

「スズカさん!」

 気づけば、駆け寄ってスズカの腕を掴んでいた。

「スペちゃん?」

 かけられた声に顔を上げ、戸惑う彼女の顔を見る。暫く見る事の叶わなかった、新緑色の瞳。その奥。微かに。けれど確かに。怯える様に震える気配。

 確信した。

 怖いのだと。

 スズカもまた、アレが怖いのだと。

 なら、やっぱり。

「やめましょう。スズカさん」

 意を決して、口にした。

 驚く気配が伝わる。

 それでも、構わず。

「スズカさんが、やる必要ないです。あんな……あんな、怖いモノに……何で!?」

「スペちゃん……」

 天真爛漫なスペ。幾つもの試練を超えて、強くなった彼女の光は些細な事では曇らない。

 ソレを誰よりも知るから、スズカは戸惑う。

「駄目です! 駄目なんです!! 近づいちゃ……関わっちゃ駄目なモノです! アレは、あんなモノは!!」

 細く華奢なスズカの腕。乱暴にすれば、壊してしまうかも知れない。それでも、力を込めて握る。逃げてしまわない様に。自分を、置いて行ってしまわない様に。

 けれど。

「スペちゃん……痛い……」

 そんな声に我に返り。放してしまった手は、アッサリと抜け落ちる。

「す、すいません……」

「……どうしたの? 何か、スペちゃんらしくないわ……」

「…………」

 呟かれた問いに、一瞬黙り。

 考えて。

 躊躇って。

 話し出す。

「スズカさん、知ってますよね? 私が、北海道で育った事……」

「ええ、前に聞いたわ」

「……そこでの、事で……」

 

 ◆

 

 今より、少し昔の話。

 スペシャルウィークがまだ幼くて。

 北の故郷で暮らしていた頃の事。

 スぺの実家と仲の良い酪農家の牧場で、一頭の子牛が生まれた。何の縁か、出産現場に立ち会ったスぺはその子牛に心奪われ。

 友達だと宣言して毎日の様に遊びに行った。楽しそうに纏わりつくスぺを、子牛の方がどう取っていたのかは正直分からない。それでも、毎日顔を見せる彼女を仲間とは認識していたのだろう。嫌がる事も無く、スぺに付き合っていた。

 そんな日々が穏やかに続いて、最初の冬。

 その日は、昼下がりから初雪が降っていて。

 白に埋まり始める道を、小さなスぺはいつも通りに子牛の元へと向かっていた。

 けれど。

 件の牧場に近づくにつれ、異変に気付いた。

 人が多い。知った顔も有れば、知らない人も居る。何か嫌な予感がして、子牛がいる筈の牛舎へ向かった。そこに居たのは、警察官に話を聞かれる牧場主のおじさん。『どうしたの?』と訊こうと駆け寄り、固まった。おじさんの後ろの牛舎。その入り口の戸が、壊れていた。まるで、異様な力で力尽くに引き裂かれた様に。

 呆然とするスぺに、おじさんと一緒に話をしていたおばさんが気付いた。急いで近寄って来て、こう言った。

 『ごめんね。あの子は今日、遊べないの』

 『どうしたの? 具合が悪いの?』

 『……ええ、そう。だから、暫く遊べないわ。本当に、ごめんね。治ったら、電話するから。今日は、帰って』

 けれど、気づいてしまった。

 おばさんが、無理矢理笑っている事。そして、その目に泣いた跡がある事。

 呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、此方に向かって駆けて来る養母の姿。集まっていた人達の中で、スぺの事を知る人が連絡を入れたらしい。

 おじさんとおばさんは『ご迷惑を……』と頭を下げる養母に、『そんな事は無い』と答えながら話を続けた。

 『それよりも、貴女の方も気を付けて』

 『まだ、この辺りに居るかもしれないから……』

 聞こえてくる、養母達の会話。そして。

 『……まさか、この季節に被害が出るとは……』

 『とっくに冬ごもりの季節なんだが……』

 『穴持たずか?』

 『そうなら、厄介だな。子牛一頭で済めばまだしも、次があるかもしれない』

 周囲の大人達の言葉で確信した。

 あの子は、攫われてしまったのだと。

 何か、とても怖いモノに。

 『助けなきゃ』と思った。

 幼い想いは、単純で。

 純粋で。

 危うい。

 友達だから。

 大事だから。

 それだけの理由が、強迫にも似た衝動に変わる。

 お母ちゃんに怒られるかもと言う考えはあった。一緒に探す事を頼もうかとも思った。

 やっぱり、怖くて。

 けど、そんな時。

 声が響いた。

 悲しい悲しい、嘆きの声。

 母の。

 あの子の母牛の声だった。

 それを聞いた瞬間、スぺは飛び出した。

 驚いた養母が。おばちゃんが。大人達が呼び止めたが、もう届きはしない。何人かが追いかけようとしたが、幼くともウマ娘。大人とは言え、人間が追いつける道理はない。スぺの姿は見る見る雪帳の向こうに消えた。

 強くなる雪。

 白くなっていく地面。

 濃くなって行く、夜の気配。

 その中を、小さなスぺは夢中で走った。

 満たしていたのは、怒り。

 自分と。おばさん達と。そしてお母ちゃん牛。

 皆から、あの子を盗った。

 あの子から、皆を盗った。

 悪いヤツ。

 悪いヤツ。

 やっつけてやる!

 幼く、故に誠実な衝動に任せて。

 ただ、駆ける。

 

 ウマ娘は、人間では無い。

 身体構造は子を成せる程に近かれど、備わった機能の全ては人のソレを上回る。

 聴覚。

 嗅覚。

 視覚。

 触覚。

 味覚。

 そして、第六感。

 その全てが、人の上位互換。

 つまりは。

 人が見つけられぬモノも。

 見つけられる。

 

 気づけば、スペは林の前に立っていた。

 葉を落とした白樺の林。

 さして遠くも無い。まだ、白けた景色の向こうに牧場の建物の影が微かに。

 声が聞こえた。悲しくか細く。あの子の声。

 匂いを感じた。乳臭い、あの子の匂い。

 熱を感じた。冷たい大気の中、溶け行くあの子の残滓。

 味を感じた。空気に漂う、敷き藁の味。

 姿が見えた。白に染まった大地に、綺麗な紅を滲ませて横たわる。

 あの子だ、と確信した。

 怪我してる。

 大変だ。

 咄嗟に駆け寄ろうとした時。

 言われた気がした。

 『来るな』と。

 立ち止まった瞬間、気付いた。

 子牛と林の間。木々の間から漏れる宵闇。溶け込む様にうずくまっていたソレが身動ぎする。

 途端、溢れる様に押し寄せた臭気。熾火の様な熱と共に感じたモノが、『獣臭』であると知ったのはずっと後の事。

 起き上がったモノは小山の様で。黄昏より尚濃く、深い。血に濡れた、夜色の毛皮。深く重い呼気が白息と共に鳴り、身に積もった雪をブルリと震い落とす。

 呆然とするスペ、視線に気づく。 

 見ていた。

 黒血色の闇の中から、自分を見つめる漆黒の眼差し。

 綺麗な目だった。

 悪意とか。

 善意とか。

 そんな不純物が全く無い、無垢そのものの瞳。

 だから、怖いと思った。

 幼い心に、コレは『全然違うモノ』と知れたから。

 小山が揺れる。

 ただでさえ大きかったソレが、天に向かって伸び上がる。

 巨大。スペが幼く、小さかった事を鑑みても尚。

 鉄杭の様に太く無骨な爪が、鈍く光る。見上げた先、白い呼気の向こうからあの目が見下ろす。

 何の感情も無く、ただ己にとって益か害かを値踏みする。

 足が震え、腰から崩れ落ちた。

 知識云々では無く、本能から生ずる恐怖と畏怖。

 ウマ娘が人の上位種?

 ソレに、何の意味が有ろう。

 皮肉にも、人に勝る生命としての直感が告げた。

 敵わない。

 叶わない。

 絶対に。

 抗う事も。

 逃げる事さえも。

 コレの前では。

 人も。

 ウマ娘も。

 ただ等しく。

 爪の一振りでひしゃげて壊れる、塵芥。

 『動くな』と、声が聞こえた。

 『泣くな』

 『走るな』

 『抗うな』

 全てを委ね、己が無害を示せ。

 コレは今、『満ちている』。

 だから、今はソレだけが。

 

 ーー遺る術ーー。

 

 縋るしか無かった。

 言われるままに。

 どれほどの時が経ったのか。

 ソレが、ゆっくりと身を崩した。

 元の体勢に戻ると、横たわっていたあの子に爪をかける。とても重い筈の身体が、ボールの様に転がって。

 半分だけになった、様が見えた。

 答えを示す様に見せつけると、ソレはあの子を咥え上げ。ゆっくりゆっくり、引きずり出した。

 向かうのは、林。

 満ちる闇。

 ただ見送るだけのスペに、また声が。

『良い子だったね』

『お帰り』

『お母ちゃんの所に』

『さようなら』

 もう光の失せた目で、あの子はそう言って。

 全ては、及ばぬ領域の向こうへ。

 

 探しに来た大人達が、雪の中で座り込んだままのスペを見つけたのは少し後。

 養母は彼女を叱り付けるでもなくただ抱き締め、泣いた。

 その胸の中で、スペも泣いた。

 

 ソレでお終い。

 あの子は、帰らない。

 それっきり。

 

 ◆

 

「……羆……」

「はい」

 スズカの言葉に、頷くスペ。

「私が見たのは、それきりですが……今でもハッキリ覚えています。たまに、夢に見るくらいには」

 何と返して良いのか分からないスズカを見て、クスリと笑むとスペは問う。

「スズカさん。何で私がこんな話したか、分かりますか?」

「ううん。どうして?」

「同じ匂いがしたんです」

「え?」

「同じ匂いがしたんですよ? 帰って来た時のスズカさんから……」

 

 ーーあの雪の日の、匂いーー。

 

「勘違いしないでくださいね?」

 息を飲んだスズカに、また儚く笑いかけ。

「獣臭いとか、そう言うんじゃないんです。もっと別の……『怖いモノ』の匂いです」

 ソレは恐らく、五感に類するモノではなく。

 もっと、本能の深淵に根差した感覚。

「その時、分かったんです。ああ、アレはアレと同じモノなんだって。触ったり、近づいたりしちゃいけない。怖いモノなんだって」

 及ばぬモノ。

 人の理の番外地。

 法も。論理も。単純な力でさえも及ばない。

 ただ気紛れに荒び、蹂躙するだけの。

 厄災。

「だから、ダメなんです」

 改めて、言う。

 絶対の、意志を込めて。

「アレに、関わっちゃダメなんです。近づいちゃダメ。逆らっちゃダメ。興味を持たれちゃ、ダメ。じゃないと、スズカさんも、連れて行かれちゃいます」

 

 ーー帰って来なかった、あの子みたいにーー。

 

 暫しの間、沈黙が降りる。

 願う様に見つめるスペの目を、ジッと見つめて。

「……スペちゃん」

 今度はスズカが、話し出す。

「私は、走るのが好きよ」

「……え?」

「蹴った時の、大地の感触が好き。切って流れて行く、風の感覚が好き。その先に広がる世界が、先頭の景色が大好き」

「スズカさん……」

「最初は、それだけだった。ただ、走っていれば幸せだった。でも……」

 競技の世界に入り。

 アスリートとなり。

 見える世界は、変わって行った。

 今まで通りの喜びも有れば。

 全く違う形の喜びも有った。

 期待。

 羨望。

 賞賛。

 勝利。

 到達。

 挑戦。

 そして、ソレらの対価とでも言う様に。

 幾つもの、苦しみも知った。

 不調。

 敗北。

 嫉妬。

 批判。

 失望。

 故障。

 苦痛。

 苦悩。

 壁。

 絶望。

 喜びに勝る数の苦しみの中で、何度膝を折ろうと思ったか。幾度、全て放り出せてしまえたらと考えたか。

 けれど。

 それでも。

 この世界には、仲間がいた。

 同じ喜びを知り。

 同じ高みを目指し。

 同じ苦しみに抗う仲間達。

 チームメイトであり。

 ライバルであり。

 先達であり。

 師。

 敬愛し。師事し。

 癒やし合い。

 競い合い。

 積み重ねた全てを曝けて、戦う。

 駆け抜けたその先に、見えた景色は。

「……この世界に入って、沢山のモノを得たわ。トレーナーさん、スピカの皆、そして……」

 伸びた手が、スペの頬に触れる。ビクリと固まる、スペ。

「こうして、スペちゃんにも出会えた」

「スズカさん……」

「あのね……」

 息を飲む彼女に微笑んで、続ける。

「私が追いかけた時よ。追いつけない私を見て、アレが嗤ったの」

 嫌な嗤いだった。

 側溝に落ちた虫が、這い上がろうとしてはまた落ちる。その様を、見下ろして浮かべる笑み。

 愚かと。

 哀れと。

 何と空虚な事かと。

 遥か高座から、せせら嗤うソレ。

 スズカは、確かに聞いた。

 無意である。

 その行為は、等しく無意である。

 行えば、行うだけ。

 骨は折れ。

 肉は裂け。

 血は煮え。

 臓腑は傷み。

 命は削れる。

 されど。その果てに得るモノ等有りはしない。

 生存的有利さが増すで無し。

 子種が繋がる訳で無し。

 腹が膨れる訳ですら無い。

 己が種の存続こそが、汝ら顕界這いずる者の証明なれば。

 其に何ら益ならぬ所業に泡沫の生を浪費する様の、何と空虚な事か。

 愚挙。

 浅慮。

 無駄。

 滑稽。

 滑稽。

 ただ、滑稽。

 全く、『くだらない』。

 そう言って、アレは嗤った。

「……そうね。確かに、そうかも知れないわ。私達のやってる事は、生きる為には何の意味も無いかも知れない。けど……」

 感じたスペが、ビクリと震えた。

 ギュッと。

 血が滲む程に握り締められた手。

 スズカは、怒っていた。

 近しいスペが、見た事も無い程に。

「私達は、ただ生きる為だけに生きてるんじゃないわ」

 食べて、寝て。産んで、繋ぐ。

 正しくソレは、生命としての本懐。

 けど、それだけが全てなら。凡ゆる生命はその形のみに淘汰された筈。

 けれど、星はソレに終わらせず。

 人を。

 ウマ娘を産んだ。

 心あるモノを。

 単純な生命の輪廻の外に、意味を見出す命を産んだ。

 ならば、其処には必ず意味が在る。

「ウマ娘(私達)が走るのは、きっとその先に在る何かを見つける為。それが、ウマ娘(私達)が生まれた理由。だから、走るの。だから、感じるの。走って。走り続けて、ウマ娘(私達)は、生きてるんだって」

 スズカは、夢を見た。

 闇の中。

 静かな。

 静かな。

 深海の様に沈黙に満ちた闇の中を、彷徨う夢。

 何故か、日曜日だと言う認識が有って。

 走らなきゃいけないと言う、思いが有って。

 けれど。

 動かない。

 左脚。

 大切な何かが、切れてしまった様に。

 ああ、走れないのだと。

 自分はもう、終わってしまうのだと。

 もうずっと。

 この暗い、沈黙の日曜日に囚われたままなのだと。

 そう、思うのだけど。

 けど。

 声が、聞こえる。

 いつも其処で、自分を呼ぶ声が。

 目を向けた先には、光。

 その向こうで、誰かが。

 最期の力を振り絞って飛び出した時、抱き止めてくれたのは。

「スペちゃんが、留めてくれた命よ」

 スズカは、言う。

「そして、トレーナーさんが進めてくれた時間」

 今。自分が在る意味を。

「その意味を、証明する為に私は走るの。誰よりも速い、誰よりも先の景色の中で」

 その為の場所。

 その為の世界。

 その為の、道。

「それを、『くだらない』なんて言わせない。私の生きる意味は、私のもの」

 強い意志は、凛とした言の葉となって。

「だから、私はもう一度アレと走るの。私の、私達の生きる世界は……貴女なんかに無意味と言われるものじゃないって、思い知らせて見せる!」

「スズカさん……」

 仄かに。けれど焼け付く様なスズカの瞳。それを、とても美しいと思うと同時に。

 スペは、その危うさを再認識する。

 スズカの憤りは理解出来る。

 自分だって、彼女と同じ世界に生きている。

 其処にある喜びも輝きも。

 苦しみも、醜さだって知っている。

 スズカも。自分も。他の皆も。

 その中で懸命に走っている。見えない先の光景に、自分達の意味を求めて。

 それを『くだらない』の一笑に伏されたら、きっと。否、絶対に許せない。

 けど、ソレとコレとは別なのだ。

 アレは。

 侮蔑とか軽蔑とか、そんな明確な悪意で言ったのでは無い。

 本当に、『ただそう思ったから』言っただけ。

 そもそもの、認識が違う。

 概念が違う。

 価値観が違う。

 何もかもが、交わらない。

 アレは、ウマ娘の世界に興味が無い。

 興味が無いから、価値を見出さない。

 価値を感じないから。

 何処までも、無造作に扱える。

 無関心。

 どんな負念よりも、ずっとずっと怖いモノ。

 スズカがどんなに証明しても。

 例え、走り勝ったとしても。

 アレは『だから、何?』と首を傾ぐだけ。

 そして、鬱陶しいと感じさせてしまったら。

 全部、終わり。

 あの、雪の日の様に。

 だから。

 だから。

 絶対に止めると、スペがもう一度言葉を注ごうとしたその時。

 

「その意気や良し! です!!」

 

 唐突に聞こえて来た声に、二人揃って飛び上がる。振り向いた先には、熱い瞳に桃の花弁の光を宿す少女がガイナ立ち。

「ロ、ローレル先輩……」

「どうしたの? 急に……?」

「どうしたもこうしたも」

 困惑する二人……否。スズカに向かって、トットットッとスキップを踏む様に近づくサクラローレル。

「お手伝いをしようと思いまして。スズカちゃん?」

「手伝い……?」

「ええ」

 妖しく笑んで、続ける。

「不躾ながら、お話はお聞きしました。その決意、闘志、御立派です。けど……」

 スズカの耳に口を寄せる様に、囁く。

「それでは足りない事も、分かってるよね?」

「!」

 強張る顔を、面白げに眺めて。

「だから、お手伝い。貴女の思いは、痛い程分かるので」

「でも……何を?」

 問うスズカに『んー』と小首を傾げ。

「まあ、実際にお手伝いするのは私じゃないんですけど。適任者をお連れしました」

「?」

 何の事かと思った時、強く風が吹いた。

 顔にかかる髪が、一時視界を遮る。慌てて髪を払うと、戻った視界の中にまた一人。

「こんにちは。スズカさん……」

「……ゼファーさん?」

 名を呼ばれ、嬉しそうに微笑むヤマニンゼファー。隣に立ったローレルが言う。

「スズカちゃん、彼女と併走してくださいな」

「ゼファーさんと?」

「ええ。そうする事で、貴女が足りないモノにはきっと届く」

「?」

 訳が分からないスズカに構わず、ゼファーが上着を脱ぐ。下はしっかり、運動着姿。

「さ、始めましょう……」

「え、ええ……」

 促され、スタートラインに立つ。

「スズカさん……んむ!?」

 思わず止めようとしたスペの口を、ローレルの指が塞ぐ。

「駄目だよ? スペちゃん」

 目の前でほくそ笑む、桃の花弁。

「コレはね、戦いなの。私達の、大事な場所を取り戻す為の。だから、邪魔しちゃダメ」

「でも……!」

「ソレは、スズカちゃんの為?」

「え……?」

「スズカちゃんを失うのが嫌な、『自分の為』だったりしないかな?」

「ーーっ!」

 絶句するスペの頭を、よしよしと撫でて。

「よぉく、考えてね?」

 優しい圧。返す言葉は、無い。

 

 ◆

 

(……何が、掴めるって言うのかしら……?)

 思いながら、スズカは並走するゼファーを横目で見る。

 ヤマニンゼファー。

 あまり交流は無い。速いと言う事は知っているけれど、正直自分と比べて特別優っていると感じた事も無い。

 多分、真剣に勝負したとしても五分五分。そこから、何を学び取れと?

 何度目かの思案を巡らせた、その時。

「速い、ですね」

 声をかけられ、ハッとする。

「風の伝えにて存じておりましたが……正しく、疾風の様……」

 走っていると言うのに、常時の様に声が届く。奇妙な、感覚。

「けれど……澄み過ぎている」

 声は続く。まるで、流れる風そのものが語り掛けてくる様に。

「それでは、抗う事は叶いません。あの、黒き悪風には……」

「!」

 心臓が跳ねた。悪風。思い当たる存在は、一つだけ。

「知ってるの? アレの事」

「直にて目見えてはいませんが……」

 ゼファーの目が、何も無い宙を仰ぐ。そこに、何かしらの存在を求める様に。

「この学園は、良き風が吹く場所です。如何なる時も、絶える事はありませんでした。けれど……」

 寂しげに曇る、その眼差し。

「今は、かの恵風はありません。満ち巻くのは、件の悪風。黒く昏い、魔風のみ……」

 確かに、今学園に満ちる空気は何処か昏く。病ましい。

 言われて意識して。漸く気付くモノではあるけれど。

「スズカさんが見たモノは、正しく風の性のモノ。良きモノではありません。吹き渡る道すがら、人に障り。物を侵し。気を澱む。毒彩濃ゆし風の精霊(しょうろう)……」

 悪しき風の霊。

 言い得て妙だと思う。

 アレを表現する、言の葉としては。

「其を追わねば、何れは学園そのものが病み爛れましょう」

「……私に?」

 スズカの問いに、頷くゼファー。

「聞き及んでいます」

「何を?」

「言われたのでしょう?」

 

 ーーかのモノに、『怖い』とーー。

 

「!」

 スズカの息が、一瞬止まる。

 誰にも、言ってはいない筈なのに。

「ならば、望みが在るのは貴女です」

 動揺をスルーして、断言するゼファー。

「でも、私はアレに敵わなかった」

「畏れられたのは、貴女の走りではありません」

 では、何が?

 訝しがるスズカに、ほくそ笑む。

「先の、スペシャルウィークさんにお話された事。貴女が、抗う動機」

「?」

「アレが、全てでは無いでしょう?」

 スズカの顔から、表情が消える。

「貴女は、飢えています」

 ゼファーは言う。

「競う事。戦う事。果ての勝利。高みの景色。其に至る為の、敵。獲物。その、全てに」

 自分が生きる意味の証明。

 仲間と共有する矜持。

 確かに、其れ等は理由。

 けれど。

 その奥底に、最も昏く。強く。激しく燃える理由は。

「学園(ここ)は、良い獲物が育つ場所。より美味に、より狩り甲斐のある高みに。極上の馳走として育つ場所。そして……」

 血湧き肉躍る狩場へと続く、覇道の門。

「如何に聖者の皮を被ろうと、獣の本質は変わりません」

 スズカの視線が、ゼファーに。

 ピリピリとする感覚。

「そして獣は、己の獲物が欠ける事を許さない。数も。抗う牙も」

 鈍は要らない。

 皮も。

 肉も。

 骨も。

 歯応えは、有れば在る程。

 心地良い。

「だから、猛るのです。荒ぶのです。己の獲物を。狩場を。守る為に」

 ヒリ付く視線に、視線を返す。

 煽る様に。誘う様に。

「そうでしょう? サイレンススズカ」

 断言する。

 だって。

 自分も、そうだから。

「かのモノが畏れたのは、正しく其れ。その、猛き本能」

 如何に高みを気取ろうと、かのモノもまた自然摂理の産物。

 なれば、其に届くは同じ自然摂理の産物。

 知恵。

 理性。

 道徳。

 其れ等『装飾品』の奥底で、昏く沸る始原の焔。

「風の声を、御教えします」

 ゼファーは告ぐ。

「かのモノと、同じ領域の意志を。術を」

 其れは、全く別の理だけど。

「貴女なら、至れるでしょう」

 確信を持って言う。

「貴女が得るのは、風神の構え太刀。黒眚の歯牙。其れ等を持ちて、引き摺り下ろしましょう」

 

 あの、傲慢不遜な悪風の愚徒を。

 

「……分かったわ」

 スズカが呟く。

「でも、覚悟はして」

 静かな声音の底に、疼く飢え。

「骨の髄まで、しゃぶらせて貰うから」

 今更、逃しはしない。

 蹂躙の意志は、歓喜と共に抱き止められて。

「ええ、存分に。ただ努努、ご注意を」

 そして彼女も、牙剥き笑う。

「隙あらば、私こそ喰らい尽くさせていただきます」

 静かなる疾走者と、そよぐ暴風。

 二人の目に、焔が灯り。

 荒ぶ風が、咆哮を上げた。

 

 ●

 

「全ては、いつもの世界を取り戻す為」

 スズカとゼファー。併走と言うには鬼気迫る苛烈さで鍔迫り合う二人を見ながら、ローレルは独り言ちる。

「いつもの日常の中でこそ、皆は本当の自分でいられる。最高の姿でいられる」

 揺れる花弁の瞳。映る影は。

「それこそが、『サクラローレル』が求めるモノ。取り戻すモノ」

 表情の無い、能面の様な顔。

 まるで。

「貴女はまだ、奪われ足りないわ。ねぇ?」

 語り掛けた先には、もう誰もいない。

「スペちゃん」

 彼女が去った、闇の向こう。

 ただ憐れむ様に。

 呼びかけた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。