とっぷりと降りた黄昏。
その中を、スペシャルウィークは一人トボトボと歩いていた。
別に、何処に行こうと思った訳では無い。ただ、当ても無く。丁度、今の心の様に。
逃げ出してしまった。
悲しくて。
情け無くて。
恥ずかしくて。
ーーそれは、本当にスズカちゃんの為ーー?
サクラローレルの声が、何度も頭の中で反響する。
ーースズカちゃんを失いたくない、自分の為だったりしないかなーー?
反論する事が出来なかった。
『違う』の一言が、どうしても言えなかった。
きっと、その通りだったのだろう。
自分ですら、気づいていなかったのに。
否定出来なかったのは、そう言う事。
スズカが故障した時。
海外に遠征した時。
怖くて。
寂しくて。
毎日毎日、夜が長かった。
離れて欲しく無い。
放したく無い。
トレーナーのお陰で、かつての依存は克服したと思っているけれど。
それでも、やっぱり。
そんな思い自体が、消える訳ではなくて。
だってソレは、自分のスズカに対する想いそのもので。
自分がスズカを想う限り、決して消す事は叶わないモノ。
自制は、しているつもりだったのだけど。
ああも、ハッキリ言われては。
「ローレル先輩は厳しいなぁ」
そう言って、戯けてみても。
虚しいだけ。
何がスズカの為なのか。
スズカの為に何か出来るのか。
そもそも、自分は必要なのか。
分からない。
解らない。
辿り着かない思考だけが、グルグル回る。
「スズカさん……私は……」
そこに在もしない彼女に、問いかけようとしたその時。
「スペちゃん」
名を、呼ばれた。
振り返った先で、甘色の髪が揺れる。一瞬、彼女の姿がだぶって。そう呼びそうになって。気づいて。既で留まった。
「どうしました? こんな時間に、こんな所で」
気遣う顔は、ただ優しい。自分の、失礼極まりない迷いには気づかれなかっだろうか。
いや。例え、気づいていたとしても、彼女は。
「……泣いて、いたんですか?」
変わらず、この優しさを向けてくれた筈。
「私で良ければですが……」
ただ、いつもなら安易にその優しさに縋ったりはしないのだけれど。
「お話くらいは、聞けますよ?」
今、この時だけは。
「スペちゃん……」
「ごめんね……。ちょっとだけ……」
「……はい」
ポスンと身を委ねてきたスペを、グラスワンダーはソッと抱き締めた。
◆
「……そんな事が……」
「うん、ソレで私……結局自分勝手なだけで、スズカさんの事は本当に考えて無かったんじゃないかって……」
近くのベンチに並んで座った二人。
か細く呟く様に紡ぐスペの話を、グラスは目を細めながら聞く。
すっかりしょげかえった声は、黄昏の風に紛れて消えそうで。でも、それをグラスは一つも零さず拾い上げる。
「馬鹿だね、私」
そう言って、ヘニャリと笑うスペ。
伸びて来た手が、風に乱れた彼女の髪を撫でる様に整える。
「そうですね。スペちゃんは、スズカ先輩が絡むと事の他周りが見えなくなりますから」
自分の事も。
キッパリ言われて、はぅ! と仰け反る。
「気をつけた方が良いですよ? ソレは、たまに他の誰かを傷つけてしまうかもしれません」
「アハハ、グラスちゃんは厳しいなぁ」
「痛くなければ、覚えませんので」
ただただ、笑うしかないスペ。合わせてグラスも笑う。言葉にも笑いにも悪意な無く、ただ気を楽にと叩く軽口。
友人の気持ちが優しくて。理解出来てしまうから、なおの事情け無い。
「でも……」
ふと真顔に。だけど、柔らかな表情でグラスが紡ぐ。
「心配はいりませんよ? それでも、スペちゃんがした事がスズカ先輩を心配した上である事に違いはありません。そして、そんな事……」
ーー誰よりも、スズカさんが分かっていますーー。
喉の奥が、ヒュッと鳴った。
「……そう、かな……?」
恐る恐るの問い、グラスはまた迷い無く『ええ』と頷く。
「自分の欲が行動に影響するのは、誰だってそうでしょう。だけど、ソレで発端になった想いが否定されるべきではありません。そして、スズカ先輩はその想いを見違える方でもありません」
あんまりハッキリ断言するモノだから、ちょっとビックリする。
「どうして、分かるの……?」
「分かりますよ。だって……」
スペの顔を、覗き込む様に見つめて。
「そう言う方だから、スペちゃんは惹かれたのでしょう?」
「!」
そう。スズカは、見てくれる。本当の自分を、真っ直ぐに。思い出した胸が、キュンと鳴った。
「だから、スペちゃんも見誤ってはいけませんよ? 本当の、スズカ先輩を」
「うん……うん!」
一生懸命頷くスペを、グラスは酷く。酷く穏やかな顔で見つめていた。
◆
「まあ、ソレはソレとして……」
「ん?」
少し変わった声音に、スペが小首を傾げる。
「スズカ先輩にも、非はありますね。走る事となると、周りの声が届かなくなってしまう。些か、自己本位が過ぎるかもしれませんねぇ」
ん? と思う。
何か、違和感があった。
「全く、スペちゃんにこんなにも心配してもらっているのに。正妻の余裕と言うか、傲慢と言うか……」
「せ、正妻って……」
サラリととんでもない事言われて狼狽しつつ、やはり違和感は拭えない。
何だろう。確かにグラスちゃんは厳しい所も有るけれど、こんな誰かを揶揄する様な事は……。
「ねぇ、スペちゃん」
「は、はい!?」
思考に埋没しかけていた意識に呼びかけられて、思わず背筋を伸ばす。
『気を緩めてはいけない』。
何故か、そんな予感が有った。
「私、思うのですけど……」
微笑みながら、グラスが言う。
降りて来た暗がりで、顔が良く見えないのだけと。
何故か、笑っているのがハッキリ分かった。
不自然な程に、ニコニコと。
「一度、罰を与えてみては如何でしょう?」
「……え?」
「先輩は、甘えているのです。スペちゃんは自分のモノだと。自分だけを想っていると。どんな事が有っても、決して何処かに行ったりしないと」
「グ、グラスちゃん……?」
「だから、そんな我儘が出来るのです。心配してくれるスペちゃんを放って、外野の虚言に靡いたりするのです」
「…………」
違うと思った。
此れは。
自分の知るグラスワンダーは。
「だから、罰を与えるのです」
彼女が言う。
グラスワンダーの声で。
グラスワンダーの姿で。
グラスワンダーじゃ、ない事を。
「スペちゃんは自分のモノなどと驕る自惚れ屋に、思い知らせてあげましょう」
「ど、どうやって……?」
どうすれば良いのか分からず、思わずそう呟いた瞬間。
「!?」
座っていたベンチの上に、押し倒された。
「え? え??」
混乱するスペに、覆い被さる彼女。
「簡単ですよ」
下がる長い髪。くすぐる甘い香の向こうで、彼女は笑う。
「スペちゃんが、逃げてしまえば良いのです。スズカさんの、手籠の内から」
「ど、どう言う事……?」
「分かりませんか? スペちゃんは、純粋ですから」
彼女の手が、スペの手を掴む。逃がさないと言う様に。
「は、放して……」
「駄目です」
捕まえた蝶。手の中でもがくソレを愛でる様に、クスクスと。
「ねえ、スペちゃん?」
彼女の顔が、グイと寄る。
スレスレの唇に、触る吐息。
「私が、お相手しましょうか?」
ドクンと、心臓が鳴った。
いくらスペでも、相応の年頃。ここまでされて、何を求められているかが分からない筈は無い。
「ば、馬鹿な事……」
「あら、馬鹿な事なんかじゃないですよ?」
上擦る声の抵抗は、一笑に伏され。
「気付いていませんでしたか? 私が、グラスワンダーが。貴女をどう想っていたか」
「し、知らない……」
「嘘は、駄目ですよ?」
更にのし掛かられる。
重い。
まるで、彼女の想いの様に。
「分かってたんじゃないですか? 気付いていたんじゃないですか? 私は、気付いていましたよ? 貴女の所作、節々から」
「…………!」
言葉に詰まる。
気付かなかった。
本当に。
だって、気付かない様に『していた』から。
「ねえ、スペちゃん」
彼女は笑う。冷えた声で。スペの残酷な思いやりを、責める様に。
「私はね、構いませんよ?」
寄せられる頬。
擦れ触れ合う感覚は、とても冷たい。
「例え、刹那でも。例え、まやかしでも。例え、終わりでも」
ーーこの一時、貴女が私のモノになるのならーー。
「私は、喜んで当て馬にもなりましょう」
囁く吐息は、耳の側。
耳たぶに走ったカリッと言う感触に、震えが走る。
「ち……違う……」
言葉が漏れる。
せめてもの、抵抗。
「私は、こんな……」
「違くは、ないでしょう?」
耳元で、沙耶沙耶と。
「だって、貴女は泣いてたじゃないですか。救いを、求めていたじゃないですか。痛みを与えた者は、見返りの痛みを受けなければいけません」
「スズカさんの、せいじゃない!」
「ソレでも、痛みの根源は彼女」
スペは、絶句する。
揺らがない。
覆せない。
確かに、グラスは意志の強い娘だけど。
この強さは違う。
自身の意を通す為に、誰が傷付こうとも構わないなんて。
そんなのは、自分の知るグラスワンダーの強さでは。
そこまで思い至って、気が付いた。
自分は、彼女に経緯の全てを話した。
全て。
スズカが執着するモノ。
何かがズレたあの夜の事。
そして、テイオーがテイオーでなくなった事。
全てを話して。
そして、彼女は全てを受け入れた。
何の疑念も。
幾許の困惑も。
驚きすらも無く。
全てを『当然』の様に受け入れた。
こんなにも、荒唐無稽な話なのに。
「あら?」
先までとは違う恐怖に強張ったスペの顔。見たグラスも、それまでとは違った笑みを浮かべる。
「ひょっとして、気付きました?」
抱いた疑念に対する、完全な答え。
「ふふふ。やっと……ですね。本当、先輩しか見てらっしゃらないのですから。スペちゃんは」
「……グラスちゃんじゃ、ないの……?」
「グラスですよ?」
戦慄くスペの言葉に、躊躇なく。
「違う! グラスちゃんは貴女みたいな……」
「でも、今。世界(ここ)に在るグラスは私だけ」
「!」
「『あっち』のグラスは、もう居ないんです。この世界の、あらゆる事象が肯定する『グラスワンダー』は此の私。だから……」
彼女が、顔を寄せる。綺麗な笑顔。グラスワンダーと言う造形そのままの、けれど能面の様な笑顔。
「スペちゃんも、私をグラスと認めてくださいな。そして……」
陶器に入った、ヒビ割れの様な笑み。
手を握る手が、愛撫する様に蠢いて。
ーー『私』を、愛してーー。
湧き上がる嫌悪に押される様に、覆い被さる身体を全力で突き飛ばした。
短い悲鳴を上げて尻餅を突く彼女を尻目に逃げ出す。自分を追う視線に、決して目を合わせない様にして。
彼女が追って来る事は無いと、妙な確信が在ったとしても。
◆
「……やれやれ、ちょっとやり過ぎちゃいましたかね?」
スペが走り去った闇の向こうを眺めながら立ち上がると、ポンポンと制服の埃を祓う。その顔には、罪悪の色も無ければ後悔の気配すら無い。
「本当に、スペちゃんは清純ですね。其処が魅力的なのですけど。ねぇ、そう思いませんか? エル」
「……そんな悪趣味に同意求められても困るデース」
いつの間にか立っていたエルコンドルパサーが、凄く嫌そうな顔でそんな事を言う。
「悪趣味とか、親友の逢瀬を盗み見る様な輩が言えた義理ですか。エル、腹を切りなさい」
「べっつに、エロい目的で見てた訳じゃないデスしー? そもそも……」
マスクの奥の眼差しが、冷淡な光を放つ。
「だーれが『親友』デスか? きっしょく悪い」
吐き捨てる様な言い草に、グラスの彼女はまた笑う。
「いけませんよ? エルコンドルパサーは、例えどんな輩相手でもそんな粗野な口はききません」
「アンタこそ大概デース。大人しく演じてりゃ良いモノを。わざわざバラすとか正気デスか?」
向けられる『同族』からの不信。ソレを、彼女は正面から受け止めて。
なお、笑う。
「だって、しょうがないじゃないですか。グラスワンダーとしてスペちゃんを手に入れたって、ソレはあくまで『あっち』のグラスワンダーのモノに過ぎません。私は、『私』としてスペちゃんが欲しいんです」
ブツブツと紡ぐ言の葉は、呪詛そのもの。
「所詮は、『グラスワンダー』と言う型に縛られたこの身。それ以上にも以下にも、それ以外にすら成れないなら、せめてもと願っても良いでしょう。それも叶わず、欲しいモノまで名ばかりの借物でお茶を濁すくらいなら……」
スと細まる眼差しは、昏く光って。
「いっそ、全て壊してしまった方がマシと言うモノです」
「ケー!」
エルの姿をした彼女が、大袈裟に天を仰ぐ。
「何の因果デスかねー? ただですら少ない御仲間内に、こんな地雷が混じってるなんて。暴走された挙句に巻き添えとか食らったら、とてもじゃないけどやってられんデース!」
嘆きを聞いて、こちらも大袈裟にほくそ笑む。
「そう言う割には、私を止めようとはしなかったのですね。ずっと見ていたクセに」
「そりゃ、当然デス」
返す言葉も、また昏く。
「……アンタが消えりゃ、『本当のグラス』が戻って来るデスから」
思っていた通りの答え。妙に嬉しい。
「酷いですね。私は、邪魔だと?」
「エルコンドルパサーが魅せたい相手は、『グラスワンダー』デス。アンタみたいな出来損ないじゃないデス」
空気が、張り詰める。
「あらあら、悪い口ですね。首ごと落とせば、少しはお行儀良くなるでしょうか?」
「上等デース。そっちこそ、エルの華麗なルチャで全身の骨粉々にしてやるデース」
ピリピリと張り詰める空気。けれど、最後の一線が切れる寸前。
「はいはーい、そこまで」
割り込んで来た声。二人が揃って向けた視線の先には、また人影が。
「あら、セイちゃん」
「何デスか? コレから良いトコなんで、邪魔しないで欲しいデース」
「『欲しいデース』じゃないよ。二人とも、時間になっても来ないから。見に来てみたらこの有り様。セイちゃん、ビックリじゃん」
心底呆れた顔で溜息を吐く、セイウンスカイ。
「物騒な遊びしてないで、早く来てよ。皆、もう集まってる。キングも、ツルちゃんも待ってるから」
「そう言えば、そう言う話だったデース。全く、何処かのクレージーメンヘラのせいで脱線甚だしいデス」
「あらあら。エル、首を出しなさい」
「だーかーら、やめなさいって。ほら、行くよ」
踵を返したスカイに促され、二人も歩き始める。
「あのさ、二人共」
アッカンベーしているエルと羅刹の笑みを返しているグラスを横目に見ながら、説く。
「自由に生きて良いんだよ。私達はオリジナルの型籠から出れない羽無しの鳥だけど、それでも籠の中で動く自由くらいはある筈だ。狭いなりに、好きに考えて、好きに生きよう。でも、その為にも今だけは足を揃えて」
「言われなくても、分かってるデース」
「異論はありませんよ。欲しいモノが、ありますし」
「だよね。私も、フラワーの側にいたい」
そう。
例え、偽りだろうと。
例え、代用品だろうと。
ーーそっくりさん(私達)は、世界(ここ)に在りたいーー。
「でも、スペちゃんが知ったらダメージデカいでしょうねー」
「そうだね。自分以外の黄金世代が皆、だからね」
「好都合です。弱った獲物ほど、狩り易いですから」
「うっわ……」
「やっぱ、何とかした方良くないデスかね? このクレイジーサイコ……」
変わり果てた軽口を。
変わらない声で交わしながら。
鍍金の少女達は闇へと消えた。
◆
逃げた。
泣きながら逃げた。
逃げて。
逃げて。
疲れ果てた先で膝を突き。
嗚咽を上げて。
また、泣いた。
「……そう、思いっ切り泣きなさい」
いつの間にか、後ろに立っていた彼女が言う。
「思う存分泣いて、泣き疲れたら。立ちなさい。立って、戦うの」
囁く声は、母の様に優しくて。
悪魔の様に冷たい。
「貴女は、少し。ほんの少しだけ、甘く見てたの。あの子達の事を。でも、あの子達にも個はあるわ。人の数だけ、心がある様に」
強く悪意を抱く者が在れば、荒ぶ衝動を持つ者だって居るが道理。
そして、そこに偽者だと言う不安定さが加われば。
「目を逸らしてたのは、貴女の罪。ほんのちょっと、絶望が足りなかった。でも、もう分かったよね?」
そう。
奪われていた。
メジロマックイーンの様に。
ダイワスカーレットの様に。
自分も、大事なモノを。
何を、勘違いしていたのか。
厄災が、人を選ぶ道理なんて有る筈も無いのに。
「取り戻しましょう。貴女の、大切な友人を。大事な日常を。かけがえの無い、世界を。大丈夫」
伸びて来た手が、優しく抱き締める。
「貴女は、強い。あんな、空っぽの擬物達なんかに負けはしない。まして、取り戻さなきゃいけないモノがあるのなら。そうでしょ?」
ーー日本総大将さんーー。
そう。もう一度、火を灯そう。
皆の想いを背負って戦った、あのレースの様に。
また、皆の為に。
濡れた目を、力強くグイと拭って立ち上がる。
その様を、愛しく見つめる桃の花弁。
火入れの対価に、求む願いはただ一つ。
どうか、サクラローレルの世界も諸共に。
対価など、惜しみはしない。
それこそが、私が此処に在る意味だから。
数多の願い想いは多重に絡み。
凍った時間は。
回り出す。