白々しく漂う朝霧の中に、泣きじゃくる音が鳴る。
シャ・ノワールは、泣いていた。
自分が『堕ちた』その場所で。
ゴールの、手前。
ほんの、数メートル。
もう少し。
本当に、もう少し。
勝つ事は、出来なかったかも知れない。
届く事は、叶わなかったかも知れない。
ソレでも。
超える事は出来た筈だった。
前を走る、マンハッタンカフェの形。
閉じ込める、閉鎖の扉。
越えられれば。
突き抜ける事が出来れば。
ゴールする事が出来たなら。
行けたかも知れないのに。
向こうに。
あの人達が在る、未来(向こう側)に。
そうすれば、きっと。
あの人達と、本当の意味で競い疾る事が叶ったろうに。
私は堕ちてしまった。
扉の前。
閉じてしまった。
否。
開ける事も叶わなかった。
もう少し。
本当に、もう少しだったのに。
もう、届かない。
子供の様に泣きじゃくる彼女の上に、影が落ちる。
涙に滲む視界。向けた先には、いつの間にかダンツフレーム。
同じ様に、泣きそうな顔をして。
座り込むシャ・ノワールの視線に合わせる様にしゃがみ込むと、そっと彼女を抱き締めた。
何も言わない。
何を言っても、癒す事は叶わない。
シャ・ノワールに、非はなかった。
彼女はただ、一生懸命に走った。
今の自分の、全てを持って。
ソレで敗れたのなら、正当な摂理。
悔しさもあろう。
憤りもあろう。
自身を、許せなくもあろう。
ソレでも、嘘偽り無く全身全霊を振り絞って駆け抜けた先には必ず意味が在る。
先の可能性への、道が見える。
けれど、シャ・ノワール(彼女)は違う。
彼女は、出し切ってない。
あと少しで至れた筈の道を、掻っ攫われた。
明らかな悪意と暴意によって。
奪われた。
彼女にとって、ソレが如何に残酷な事か。
分かる。
理解出来る。
当たり前。
同じ、ウマ娘なのだから。
まして、この二人だけのレースがシャ・ノワールにとって如何に大きな意味を持っていたかを知れば尚。
どんな慰めも、同情の言も。ただ、薄寒いだけ。
だから、出来る事は一つだけ。
せめても、共に。
抱き締める温もりに顔を埋め、迷子の夜猫はより一層声を上げた。
◆
広いターフ。その何処かに佇んだまま。
プーカと呼ばれる怪異は、呆けた様に小首を傾げていた。
濁った金の瞳に映るのは、抱き合って泣く少女二人。その様に、何を思っているのか。自身でも分かりかねるかの様に、ユラユラと。
気配を感じた。
視線を向けると同時に、繰り出されてくる拳。微塵の手加減も無く抉り込まれたソレは、顕界の理の外にある『ソレ』に触れる事も無く。
「テメェ……」
いつの間に近付いたのか。抑えようも無い怒りに表情を歪めたジャングルポケットが、振り抜いた拳をなおギリギリと握り込む。
「茶々、入れやがったな……? 俺とアイツの……ウマ娘(俺達)の走り(勝負)に!!」
違う事の無い、種の命そのものへの侮辱。
「……許さねぇ! テメェが何だろうが関係ねぇ!! この場で、ぶちのめしてやる!!!」
怒号と共に、再び捻り込む拳。けれど、結果は同じ。構わない。届かないなら、届くまで。掴めないなら、掴むまで。この怒りが、果てるまで。
「逃げるな!!」
『ソレ』の姿が辟易した様に揺らめくのを見て、吠え掛かる。
「シャノ(アイツ)は逃げなかった! なのに、アイツを造ったテメェは逃げるのか!?」
揺らぐ姿が、一瞬止まる。
ソレに向かって、また振りかぶりながら。
「例えまやかしだろうが、その姿はテメェが選んだモンだろう!? なら、合わせた矜持の切れっ端くれぇ見せやがれ!!」
怒号と共に振り抜く。今度こそ、『ソレ』の顔を捕らえんとした瞬間。
「!?」
交わった視線に、微かな違和感。そして、拳はまた虚しく空を切り。
後にはもう、何も無く。
刹那の忘我の後、ジャングルポケットは虚空に吼えた。
己と、友と。そして哀れな好敵手(ライバル)の無念を代弁する様に。
◆
「泣かないで……は違うかな? 泣いて良いんだよ。思う存分」
かけられた声に、シャ・ノワールとダンツフレームは顔を上げる。
立っていたのは、トウカイテイオーの姿。彼女が何かを知るダンツフレームは、咄嗟にシャ・ノワールを抱く腕に力を込める。
そんな彼女の所作に、嬉しそうに。本当に嬉しそう顔を綻ばせて、偽テイオーは言う。
「何もしないよ。する筈、ないじゃないか」
腰を屈めて、涙に濡れた同胞(シャノ)の頬を撫ぜる。
「この涙はね、本当ならそっくりさん(僕達)には有り得ないモノだから。頑張ったキミへのご褒美なんだよ。ダンツ(この人)が抱き締めてくれるのも、ポケット(あの人)が怒ってくれるのも」
そして、拭い取った涙を握り締めて。
「ああ、温かい……」
尊いモノを抱く様に、息を吐く。
「……ですが、私は行けなかった……。マンハッタンカフェの……扉の向こうに……だから、もう……」
「違うよ」
シャ・ノワールの絶望を、キッパリと否定して。その薄い左胸を、トンとつつく。
「だってキミは、今だこうして此処に在る」
言われて、気付く。
マンハッタンカフェの『最頂点』のコピー。その存在定義の一つは『ジャングルポケットに負けない』事。
かの賞における結果がマンハッタンカフェと言う存在の絶対条件であるならば、ソコに『ジャングルポケットに負ける』と言う事象は有り得ない。
かの時のマンハッタンカフェがジャングルポケットに勝利したと言う事は、世界に刻まれた不変の記録。
故に。かの時のマンハッタンカフェの代理であるシャ・ノワールはジャングルポケットに敗北した時、その権利を失うが理。
しかし。
彼女は今だ、世界(ここ)に在る。
「世界の意思は、まだキミの存在権利は保留してる」
「……どうして?」
同胞の問いに、酷く愉快そうに笑って。
「キミが負けたのは、キミのせいじゃないから」
シャ・ノワールとダンツフレーム。二人が揃って目を見開く。
「そうさ。キミが負けたのは、プーカが変なちょっかい出したせい。不可抗力。世界の意思は、ノーカンと判断したんだ」
笑う。さも良い気味だと。
「プーカはね、『怖くなった』のさ。キミの頑張りが、自分の『庭』にひびを入れそうになったから。自分の掌を、飛び出しそうになったから。だから、手を出してしまった。でもその先は、もう『世界の理』の範疇」
世界は冷酷。
故に、平等。
人であろうとなかろうと。
尊卑無く。
全てをその法の下へと律する。
「思い出せたし、確信出来た。アイツも、プーカも所詮、世界の下に在るモノなんだって。なら、必ず……」
強く頷いて、呆けるシャ・ノワールの手をそっと取る。
「ありがとう。キミの『奇跡』のお陰でボクは進める」
そして、取った手の甲に感謝のキスを。
「私は、届かなかった……奇跡なんて……」
「ううん、奇跡だったよ。少なくとも、ボクには。そして、この人達にも」
愛しい同胞に寄り添うダンツフレームと、今だプーカの溶けた虚空を睨み続けるジャングルポケットに感謝の視線を送り。
「受け取ったよ。だから……」
立ち上がり、背を向けて。
「今度は、ボクの番だ」
思いは違う。
想いも違う。
形すらも。
それでも、導かれた決意は同じ。
あの時。
葵の無垢の願いが。
折れた絶対に、また熱を灯した様に。
「そうさ。そっくりさん(ボク達)だって」
踏み出した儚の脚は。
ソレでも確と、ターフを咬む。
◆
「痛っ……」
立ち去った偽テイオーの背を見つめていたシャ・ノワールが、急に呻いて目を押さえた。
「シャノちゃん!?」
驚いたダンツフレームの問い掛けにも答えず、目を押さえたまま痛みに震える。
「どうした!?」
「分かんない! 急に……」
異変に気付いて駆け寄って来たジャングルポケットに、狼狽しながら答えるダンツフレーム。
「何だ? 目が痛ぇのか?」
覗き込んだ二人が、ギョッとする。
両目を押さえるシャ・ノワールの指の間から、ツツと流れる赤い雫。
「血!?」
「お前、怪我してたのかよ!?」
レースの最後。トップスピードに乗っていた所をプーカによって転倒させられた際にだろうか。
最高時となれば、時速70kmにも到達すると言うウマ娘のスピード。下手に転びなどすれば、その速度は一転凶器となって本人に牙を向く。
まして、目を負傷したとなれば今後の生活にすら影響を及ぼすかも知れない。
「ポッケちゃん、保健室に!」
「分かった!」
ジャングルポケットが痛みで動けないシャ・ノワールを担ぎ上げようとしたその時。
ーー案ずるに、能わずーー。
不意に聞こえた声に、飛び上がる。
慌てて声の方向を見ると、朝霧の中に今の今まで無かった筈の人影。
「お前は……」
「フクキタル……ちゃん?」
立っていたのは、後輩のマチカネフクキタル。格別親しい仲ではないが、知らぬ間柄でもない。
けれど。
ーー其は、傷病みの痛みに非らず。開闢の痛み。産土に至りしが故の胎の痛みであるーー。
「は?」
「かいびゃく……? たい……??」
淡々と語る声は酷く透明で、無機質で。彼女らしい愛嬌も姦しさも無い。
まるで、マチカネフクキタルの声だけ借りた別の『何か』が話している様。
困惑する、二人。
けれど、構う事も無く。彼女は続ける。
ーー此方と彼方。結ぶに要るは扉であるーー。
ーー扉は表裏一にして、また異なる意を各に持つモノである。至らずば、開くは常に等しき向きのみと叶わずなればーー。
何を言っているのかは、分からない。
けれど、伝える意味は明確に脳漿に解けていく。
厳かに。
穏やかに。
けれど、畏ろしく。
ーー併して、影と在りて尚足掻きし娘よーー。
不思議な光を宿す眼差しが、シャ・ノワールを見つめ。
ーー其方は、満たした。故ーー。
ただ、静かに。
ーー『世界』な其方に、『意』を与うーー。
神託を告げた。
「あ……」
微かな声で、シャ・ノワールが声を洩らした。
見れば、彼女は目から手を離していた。
「シャノちゃん、大丈夫なの!?」
ダンツフレームの呼び掛けにも、答えは無い。代わりに焦点の合わない目を瞬かせ、『見える……』と呟く。
「シャノちゃん……?」
彼女の目を覗き込む、ダンツフレーム。
流れた鮮血の朱に染まった奥に、金色に輝く瞳。
その中に、ダンツフレームは見た。
「何……? コレ……」
金色の珠の中に浮かぶのは、今合わさる筈の己の姿ではなく。
風景。
とても、とても良く知る風景。
けれど、全然知らない風景。
知る者が見れば、今はかの名を持ちて其を呼ぼう。
『鎖影の庭』、と。