「……タキオンさん……」
「ん?」
呼ぶ声に目を向けると、マンハッタンカフェが戸の前で佇んでいた。
「どうしたんだい? カフェ」
「……部屋の外に……出れません……」
自分を見る金色の瞳に戸惑いの色を見て取り、アグネスタキオンは席を立つ。
近寄って見れば、ドアノブを掴んだまま震えるマンハッタンカフェの手。
「……どう言う事だい?」
「『お友だち』が、邪魔します……。私の、中に……」
「……ふぅん」
手を伸ばす。彼女の代わりに、ドアノブへ。
「駄目!」
叫びと共に、赤い滴が散る。
「おやおや」
振り払う様に一閃したマンハッタンカフェの手。爪で裂かれた傷を見て、クスリと笑う。
「君のお友だちは、過激だねぇ」
「……すみません……」
「君が謝る事じゃないさ」
手の甲の傷を舐めながら、マンハッタンカフェの右手に掴まれている左手を眺める。
「どうやら、真剣に私達を此処から出したくない見たいだねぇ」
「……はい……」
抵抗する左手を縊り上げながら、頷く。
感じる違和感が、確かな意志となって伝わる。
『此処から出れば、守れなくなる』、と。
つまりは。
「……タキオンさん……」
忠実な感覚器は、その情報を司る頭脳へ伝える。
「……始まり、ました……」
「……そうか……」
答えて、窓を見る。
すっかり夜闇が落ちた中に、漂う霧の帳。何かが、その向こうで。
「……今晩は、泊まりかもしれないねぇ……」
「……え?」
「言っておくが、心配も期待も必要ないよ?」
「……あ、はい……」
コホンと咳払いするマンハッタンカフェ。
まあ、多少のおちゃらけくらいは。
◆
「うわっ!?」
「ひゃあ!!」
濃さを増していた霧の中、唐突に顔を突き合わせたトウカイテイオーとスペシャルウィークが同時に吃驚した。
「あ、スペちゃん!」
「そう言う貴女はテイオーさん!」
「スズカさんも、ご一緒ですのね?」
「ええ、マックイーンさん。ひょっとして、貴女達も……」
サイレンススズカの問いに、頷くメジロマックイーン。
「それなら、丁度良いです! 皆で行きましょう!」
「そうですわね。コレだけ手勢があれば……」
スペシャルウィークの提案に、頷くメジロマックイーン。
確かに、ウマ娘が四人もいれば余程の事が無い限り大概の事に対応は出来る筈。意見が一致するのに、時間はかからない。
「なら、早く行こう! ダイヤちゃんが……それに、キタちゃんも!」
トウカイテイオーの言葉に、皆も頷く。そう、この暗さの中をサトノダイヤモンドが一人で居る可能性は薄い。彼女の側には、いつもキタサンブラックがいる筈。
再び走り出す皆。誰かが、『間に合って』と呟いた。
◆
サトノダイヤモンドはただ、呆然としていた。
何もかもが、分からない。
あの影の様な女性が何だったのか。
あの踊る鎖の中で起こった事は何だったのか。
今、目の前にいる『彼女』が何なのか。
何もかも。
「ダイヤさん!」
マックイーンさんの声が、聞こえる。
「良かった、無事だったんだね!」
テイオーさん。
違う。無事じゃ。
「やっぱり、『キタさん』もいたんですね! 何があったんですか!?」
キタちゃん?
ああ。
違います。
スペさん。
違うんです。
そのキタちゃんは。
キタちゃんは。
「……貴女は、誰?」
スズカさんの声に、心臓が竦む。
ああ、そうだ。
いるのだ。
アレが。
あの怖いモノが。
まだ、此処に。
「誰と、聞いているのだけど?」
答えない。
「君が、何かしたの? ボクの後輩達に」
テイオーさんの問いにも。
「お答えが無いのならば、その通りと受け取らせていただきますが……?」
マックイーンさんに訊かれても。
答える筈ない。
だって。
アレは。
スズカさんが、一歩前に出た。
テイオーさんも、立ち上がる。
怒ってる。
二人とも。
皆、怒ってる。
でも、駄目。
アレに、関わっては駄目。
教えなきゃ。
伝えなきゃ。
私が。
知ってる、私が。
声を絞り出そうとして、固まった。
キタちゃんが。
キタサンブラックが、私を見ていた。
私が大好きな、真っ黒い瞳で。
私、だけを。
ただ。
それだけで。
ーー良い子、だねーー。
微笑んだ口が、そんな風に。
「何、アイツ。ずっと突っ立って」
「……気をつけて。考えてる事が、分からないわ」
少し離れた所に立つソレを注視しながら、トウカイテイオーとサイレンススズカは話し合う。
「捕まえちゃう?」
明らかな憤りが籠るトウカイテイオーの声。無理も無い。この上なく可愛がっている後輩達が、傷つけられたかもしれないのだから。だから、今はサイレンススズカが考える。努めて、冷静に。
本来であれば、此処はダイヤ達を守るに徹して後は警察に任せるべき所。
けれど、相手はウマ娘。単純な膂力だけで人間には脅威な上、身体も頑強。対応に必要なハードルは、グンと上がる。
当然警察には対ウマ娘用の備えはあるが、準備が必要であればそれだけ遅れが生じる。
間に合わない。
見逃した場合、彼女が逃走してくれればまだ良い。けれど、問題はその意志がなかった場合。
もし、そのまま犯行を続けようとしたら?
学園は広い。加えて、夜と言う時間帯と視界を不明にさせる霧。
紛れ込まれてしまったら?
阻止しなければならないと言う義務感と、害意を持つ相手に対する純粋な恐怖。
狭間で迷った、その時。
悪寒が走った。
彼女が、笑った。
仮面の様に綺麗な顔に、亀裂の様な笑みを浮かべて。
確かな、悪意の証明。
確信した。
終わりにするつもりはない。
まだ、続けるつもりなのだと。
(……見逃せない……!)
足に、力を込める。
「行くの? スズカさん」
確認に、頷く。
「でも、無理は駄目。無茶苦茶な抵抗して来たり、凶器を出したりしてきたらすぐに引くの。その時は、絶対に踏ん張らないで。良いわね?」
「……分かった」
トウカイテイオーの足にも、力が。
「テイオー……」
「スズカさん!?」
「二人は、ダイヤさん達をお願い」
「側に、いてあげて」
それだけ告げると同時に、二人の足が土煙を上げて地を蹴った。
『う ふ』
猛スピードで迫る二人を見た彼女が、破顔する。
とても。とても楽しそうに。
そのまま身を翻すと、自身も走り出す。
『うふ、うふ ふ! アハ ハハハハ ハ!!』
「逃げる!?」
「この!」
その姿は、霧の向こうに。
追う、二人もまた。
「行っちゃった……。大丈夫かなぁ? スズカさぁん……」
「学園でもトップクラスの二人です。向こうもウマ娘と言えど、トレーニングも積んでいない身で逃げ切れる筈はありません。けど……」
この胸騒ぎは、何だろう。
メジロマックイーンは、小さな胸をそっと抑えた。
キタサンブラックは、見つめていた。
二人の先輩が消えた、霧の向こうを。
その顔に、亀裂の様な笑みを浮かべて。
◆
(……どう言う事?)
感じる違和感に、サイレンススズカは眉を顰める。
追跡を始めて数秒。自分はトップスピードに近い速さまで来ている。それは、恐らく隣を走るトウカイテイオーも同じ。
なのに、前を走る彼女との距離が一向に縮まらない。
あり得ない話だった。
スタートした時点での違いの位置は決して遠いものではなく。まして向こうが走り出したのは此方より一拍遅れて。
可能性としてあり得るのは、彼女が自分達を超える実力を有していると言う事。
けれど、それほどの実力を手に入れるには専門知識を有するトレーナーや対応する設備が不可欠で。そう言ったものを利用するには何処かの組織に所属するしかない。
必然、その様な組織に在して頭角を表せば界隈において名を知られる様になる。
常にライバルの存在・出現に常に目を光らせる自分達にも知れるが道理。
けれど。
(私は、彼女を知らない……)
トップアスリートである事を、自他共に認める自分。
それを凌駕する力を持つ者。
それほどの者が、全く存在を知られていない。
正しく、有り得ない事。
まるで、此の世の事ではない様に。
(貴女は……誰……?)
言い知れない恐怖が、疼き始める。
トウカイテイオーもまた、感じていた。
(何? あの走り方)
猛烈な違和感を感じる走り。
走法、スタイルは各選手によって差異がある。けれど、その全てに共通するのは。
世界の理(ルール)との戦いである事。
スピードを求めれば求める程。
叩きつける空気の壁は厚さと強度を増し。
殴り返す地面からの反動は、威力と衝撃を倍化させていく。
挙句、元より規定された限界からの逸脱を禁忌と定める肉体が、それ以上を求める精神に耐え難き痛みと疲労を持って警告する。
力学。
物理学。
果ては生物学。
ありとあらゆる法則が、走るウマ娘を地べたに縛り付けようと牙を剥く。
だから、皆は肉体を鍛え。技術を磨き。補佐するトレーナーや組織はそれらをより高みへ昇華する為に研究に没頭する。
そして、それでもなお。
冷酷な世界の理は足掻くウマ娘達を容赦なく叩き伏せる。
骨折。
筋肉損傷。
靭帯破損。
なけなしの身体を破壊され、数多の選手が道を絶たれて去って行く。
無念の、涙と共に。
サイレンススズカも。
トウカイテイオーも。
かつてその絶望に飲まれかけた。
だからこそ、自分達は走り続ける。
この背には、それすら叶わなくなった同胞達の願いを背負っていると知っているから。
君達の想いも、あの地平の彼方へ連れて行くと誓っているから。
それなのに。
目の前を行く彼女の走りは、そんな苦悩労苦を尽く否定していた。
その動きは、明らかに全ての抵抗を無視していて。
大気も。
大地も。
恐らくは、自身の肉体さえも。
あらゆる拘束を、無きが如くに。
風そのモノと疾走する。
それは自分達が追い求め、そして永久に辿り着けない領域。
「そんな事されたら……」
知らずのうちに、唇を噛む。
「ボク達が……馬鹿みたいじゃないか……」
『アハ、アハハ ハハ ハ アハハハハ!』
彼女が笑う。追う二人の苦痛を嘲笑う様に。空舞う鳥が、地べたを這う芋虫を見下す様に。
瞬間、彼女が加速した。
トップレベルのウマ娘を寄せ付けない速さ。その頂きから、更に。
あっさりと。
造作も無く。
それはまさに、自然現象そのモノの具現。
「嘘でしょ……」
「訳、分かんないよ……」
呆然とする二人を残し、渦巻く大気が流れ行く。遠く聞こえる、哄笑と鎖の音。
「何なんだよ……。こんなの……」
とてつもない無力感。軽い目眩が、トウカイテイオーを襲って。
『アハ』
声が、耳元で。
『可愛 い、踊り子』
心臓が凍るよりも、なお早く。
『行き ましょ う』
鎖が、巻き付く。
荒い息を吐きながら、サイレンススズカはなお折れてはいなかった。
正しく、敗北感はある。
けれど、それはあくまで先を行かれたと言う現状事実に対してだけの事。
理解していた。
アレは。
ウマ娘(自分達)の走りではない。
自分達とは、全く別の理。
別の理論。
別の構造。
別の法則。
根底から異なる存在の領域。
翼で飛ぶ鳥と、脚で駆ける獣。同条件で語れる筈もない。
文字通り、疾る事に特化した機能美の思考。
全てを精査し。
全てを受け入れ。
その上で。
「……理屈が知れれば、十分ね……」
なお、牙を剥く。
そも、駆ける獣が飛ぶ鳥に勝てぬなど。誰が決めた摂理か。
所詮は同じ世界と言うターフの上の事。
届かぬ道理など、『認めはしない』。
そして、その我欲は更なる高揚を。
自分の知らぬ速さ。
自分の知らぬ領域。
ならば、それを超えた先は。
ーー如何なるモノかーー。
心が燃える。
血が沸き、肉が躍る。
世界がある。
まだ自分が知らぬ、先頭の景色。
疲れ果てた顔に、なお壮絶な笑みを浮かべ。
「……仕掛けたのは、貴女」
最速の機能美は、冷酷に告げる。
「逃げるのは……」
後ろに立つ。
「許さない」
彼女に向かって。
『……貴女 は 駄 目ね……』
呟く声に、先までの楽しげな気配は無く。
『……『怖 い』……』
淡々と、告げる。
「……何の事かは知らないけど、どうでも良いわ」
陽炎の様に揺れる姿に、楔を打つ。
「次は、捕まえるから」
『あ あ……怖い 人……』
声が揺れる。微かな、畏怖の気配。
それを持って。
「聞いておこうかしら」
印を付ける。
「貴女の名前は、何?」
定めた獲物への、マーキング。
それは、正しく精神の威。
この世ならざるモノへの、現界から届く矢の一本。
『……púca』
彼女が、呟いた。
「?」
『『プーカ』』
「そう、ありがとう」
サイレンススズカが、笑む。不敵に。綺麗に。
「覚えたわ。プーカさん」
返した時には、もうその姿は無く。
ただ、霧の遠くに。
鎖の音が。
◆
「テイオー、テイオー?」
彼女の名を呼びながら、メジロマックイーンはまた霧を掻き分けた。
その、先に。
「テイオー!」
見つけた姿。急いで駆け寄る。
「マックイーン……」
「ああ、良かった! なかなか帰って来ないから、心配しましたのよ!?」
「ああ、ごめんね。ボクは、大丈夫だよ」
「……テイオー?」
微笑みかけてくる彼女。
けれど。
「貴女……テイオー、ですわよね……?」
「そうだよ? どうして?」
「いえ……何か、その……」
戸惑うメジロマックイーンに、優しく笑む。
「心配して、乱れちゃった?」
言葉と共に上がって来た両手が、頬を包む。驚いて固まる彼女に、息がかかる程に顔を寄せ。
「心配しないで。ボクはテイオーだよ。君の、トウカイテイオーだ」
囁く吐息は、酷く甘くて。
「ね、ボクの」
酷く。とても酷く。
「マックイーン」
心が、冷えた。
鎖が鳴る。
ずっと。
ずっと。
霧の中。