日常から最も遠いものとは。
それを聞かれた時、あなたはどう答えるだろうか。
***
聞き慣れた声と瞼の隙間から差し込む日光が、無銘を覚醒へと導いた。ゆらりと揺らぐ瞳は、眼前にいる美しい少女を映す。紫色の髪と、透き通った快晴の瞳。黒いパーカーは膝上まで伸びている。彼女の髪と、小さな息遣いが顔の表面へと触れていた。優しく癒され、安らぎを染み込ませてくるような感覚へと陥る。
少女は表情を変えぬまま、ただ淡々とこちらに告げる。
「おはよう。よく眠れたかしら?」
「……レイ」
レイと呼ばれた少女はこちらの上からどくと、表情を変えずに告げる。
「昨晩は珍しく〈怪異〉の夜襲がなかったわよ。よかったわね、そのおかげで私の機嫌が良くて。確かに退屈ではあったけど、あなたの寝顔を見たり月や雲が時間に流れていくのをじっくり見るのは、久しぶりだったわ」
ただでさえここ一週間は小春日和、暖かく二度寝をするにはもってこいだというのに、この少女の落ち着いた声を聞いていると本当に学校に遅刻してしまう。
身体を持ち上げた少年は中背中肉、やや筋肉質だろうか。黒い髪の毛はボサボサで何かの妖怪にも見えるが、ベッドの端に置いてあったヘアゴムでハーフアップにすると、未熟な切れ目とやや整った口元が見えてくる。
「それならまぁ……よかったんじゃねぇか? 少しゆっくり出来るかもな」
布団から出ると、これでもかという音で軋むクローゼットを開ける。というか、この家はベッド以外は老朽化した家具ばかりを使っていた。
それもそのはず、この建物は廃アパート、それも「曰く付き」のものだ。ガスや電気は通っていないものの、辛うじて水道は流れている。何故、そんな物件に住んでいて無銘は平気なのか。それにはきちんとした理由があった。
ハンガーにかかった制服を取り出すと、彼は無銘の方を見る。
「……何かしら?」
「いつも言ってるけど、見られると着替えにくいんだよね。そっち向いてくれない?」
「私は困らないわ。見るのも見られるのも」
「そりゃあお前はそのパーカー以外は着ないもんな。はぁ……」
渋々といった様子で茶色がかった制服へと着替えると、荷物を持って自宅を出た。欠伸をかみ殺しながら歩いていると、傍に居たレイに名前を呼ばれる。振り返ると、彼女は小包を持っている。
「朝食、取ってないでしょう?」
「……やっべ、忘れてた」
「はぁ、そういうと思って、あらかじめ作っておいたのよ」
中にあったのはおにぎりが二つ。朝はガッツリ食べない無銘にとっては嬉しいことこの上ない。
一つ目は鮭だった。これが嫌いな人間はいないだろうが、梅は派閥が綺麗に分かれると思っている。無銘は種ごと噛み砕くと、圧縮された布団のように顔を窄めてしまった。
「あはは、何その顔」
「テメェのせいだろが! オレが辛い酸っぱいが嫌いだってわかってる癖してよ」
だが、活力になったのは確かだ。ご馳走様、と口に出すと無銘は再び歩き出す。学校までの通学路で曲がる一回目の曲がり角。そこでいつもの彼女と出会う。
身長は……明らかに中学生だろうか。しかしこれでも無銘の一つ年上である。クールな出で立ちと、制服の上から羽織ったパーカー。成績も学校のトップであることから、うちの高校ではもっぱらの有名人だ。彼女はこちらに気づくと、すっと手を挙げる。挨拶だろう。無銘もまた軽くお辞儀をした。
「おはようございます、チスイー先輩」
「うん、おはよう。今朝はよく眠れたのかな。いつもより顔色が良い」
「あぁ、はい。寝付きが良いみたいで……」
チスイーは一度家の中に戻ると、無銘の前に小さな手提げかばんを渡す。
「これ、今日のお弁当。昨日お父さんの誕生日だったから、夕飯の残り物が多くてごめんね」
「それは別に構いませんよ。でも……いいんですか? 毎日」
少し困ったような顔をすると、無銘は彼女から差し出された手提げかばんを受け取るのを躊躇った。
「いくらオレが生活保護を受けてるからって、ここまでしてくれなくても……」
「それは大丈夫。これは私が決めてしていることだから。それに、君は一人暮らしだし、頼れる人がいなければそもそも頼ろうともしないから」
そう言うチスイーから、無銘は半ば押し付けられるような形で受け取った。彼女は「私も準備があるから」と言って、家の中へと入っていく。
取り残された無銘は、仕方なく弁当袋を学生鞄へと入れると、その歩を進めていく。隣にいるのは、不機嫌かつうらめしそうにこちらを見つめてくる。
「……私が作ったものより、彼女の手料理の方がいいのね」
「勘弁してくれ、オレもお前も、大したもの作れないだろ。というか、こう言っちゃ悪いが炒飯を作れる時点で、オレはお前より上だぞ」
「どんぐりの背比べって知ってるかしら?」
「大きい方手に取るとワクワクするだろうが」
しばらくすると、大通りに出る。沢山の生徒たちが行きかい、ここまで来ると無銘も出来るだけ声を出さないようにしていた。
スマホを触っていると、やはり今日の天気は晴れ。快晴とはいかないが、カラッとした小春日和を過ごせるらしい。視界にチラリと映る桜の木。お花見ブームは終わり、緑の葉がところどころ風でなびいている。夏が好きな無銘は、新緑というものが非常に大好きだ。だが、桜の満開を見ると優しい気持ちになるし、お花見を人生で一度くらいは、なんて思うこともある。
レイも少し見惚れているようで、桜の花びらに優しく触れている。本当、絵になる。
カメラ機能を使って、何となく桜の花びらと若葉が映るような写真を撮っていると、後ろからふと声が聞こえる。
「よお無銘! 何を撮ってるんだ?」
「うわうるさいな……」
肩をすぼめると、そこにいたのは無銘のクラスメイト、バンだった。
黒い髪に、制服。「普通」の域から出ず、それでいて「普遍」を感じさせない彼は、正直無銘からすれば苦手な相手の一人だった。
「桜を撮ってるんだよ。若葉と花は写って、風情があるのかなぁと思ってさ」
「どれどれ、オレに見せてみよ!」
「何でお前に見せるんだよ……別にいいけどさ。ほらよ」
「……なるほど、綺麗だな」
「何もわかってねぇじゃねぇか……」
もう一つ、無銘がバンを苦手な理由があった。
何を考えているかわからない。いや、そもそも考えていないのかもしれない。
次第に歩いていくと、クラスメイトたちがバンへと声をかける。バンは駆け寄ると、楽しそうに談笑を始め、またバンを除いた彼らは
「……いいようにさせていいの?」
「別に、いいんじゃないか。別にオレだって、仲の良い輪に入るつもりもない」
「呪ってやろうかな、バンって人」
「やめとけ。別にあいつは加担している訳ではないだろ。それに呪いはオレの異能力で打ち消して終わりだ」
「……むぅ」
レイは一人、頬を膨らませた。
***
この世界には不思議な力〈異能力〉と、人ならざる者〈怪異〉がいた。
レイ。無銘は〈怪異〉である彼女に呪われており、レイのことが見えるのもまた、無銘だけだった。
今回登場した新キャラは
・チスイー
・バン
の二人でした! それでは次回もお楽しみに!