前田慶次郎──後に“傾奇者”として名を馳せるこの男が、生まれ落ちた。
いや、正確には“この時代に再び”生を受けた日と言うべきか。
現代日本に生きていた男は、ある日突然“目覚めた”。
己がよく知る歴史とはどこか違う、いや、明らかに別物である世界──『戦国†恋姫』の世界に。
歓喜と興奮の渦の中で、彼は天を仰いだ。
「来たか。ようやく、俺にも運が巡ってきたらしい」
ただの偶然とは思わなかった。
この転生を、ただの“ご褒美”として受け取るつもりもない。
外に出て、風に吹かれて、世を渡って――その先に、救わねばならぬ命がある。
己ひとりの生き様に酔って終わるには、この“世界”はあまりにも惜しい。
あの戦で、何度も散っていった者たち。何度も涙を飲み、報われなかった者がいる。
その結末を知っている自分が、ただ見ているだけでは済まされない。
――ならば、やることは一つだ。
どうせ一度きりの“転生”だ。だったら、命を張るに足る戦場で、誰かの“運命”を傾けてみせようじゃないか。
そして彼は誓った。
――無印でも、『X』でも救われなかったあの彼女を、今度こそ救ってみせる。
己の知識と、この命を賭して。
***
四月中旬。昨夜の土砂降りが嘘のように、空はどこまでも澄み渡っていた。真新しい若葉がそよぎ、風は涼しく、旅の門出にはあまりにも出来すぎた青空だった。
胸元をだらしなく開けた着流しに、腰には瓢箪一本ぶら下げて――誰がどう見たって“武士の風格ではない。だが、そんな世間の物差しなど、とうに手放した男には些細なことだった。
前田慶次郎利益。武家の名門に連なる男にして、名を捨て、己を通すと決めた放蕩者。
――こりゃあ、幸先のいい旅立ちになりそうだねぇ
天に浮かぶ雲ひとつ、すらりと引いた筆の一閃のよう。慶次郎は空を見上げて、にやりと笑った。今日を境に、武家の型からも、養家の影からも足を抜く――ようやく“物語”が始まる。
そう語れば聞こえはいいが、つまりは――“出奔”だ。
もっとも、放蕩者の自由気取りは世間に向けた建前にすぎない。
実際のところは、己がこのまま家に残れば、いずれ火種になると分かっていた。あの家には、優しすぎる妹分がいる。火をつけるつもりはなくとも、己の存在そのものが油になる――慶次郎はそういう役回りだった。
武家の家督争いは、たかが“我”ひとつで平気で燃え広がるものだ。ならば――早めに身を引いておいた方が、余計な血を見ずに済む。
慶次郎は愛馬の手綱を引いて、歩き出した――そのとき、背に声が掛かった。
「……本当に出て行くのか」
立ち止まりこそすれ、振り返る気はなかった。誰の声かなんて、聞かずとも分かっている。前田家当主。かつて“父上”と呼びかけた男。だが、今となってはもう、それ以上でも以下でもない。
「ええ。もう決めたことですから」
あっさりと返す。けれど、それで終わらせるほど気楽な別れでもなかったのか――続く声は、少しだけ間を置いていた。
「それで……お前は、いいのか」
――いいか、悪いかで言やあ、そりゃ――。
だが、迷いはない。口から出たのは、言い訳でも悔いでもない、ただの本音だった。
「……オレは、名を継ぐより、自分を通したくなりましてな」
表の顔で笑う。だがその裏では、自分自身でも気づいていた。この決断には、どこか「後ろめたさ」や「惜しさ」のようなものが、ほんの少しだけ滲んでいる。だがそれすら、“風のように”吹き飛ばすのが、己の流儀だ。
「家も名も、それを背負うに足る覚悟があればこそ。……けれどオレは、どうにもああいう“きっちりとした生き方”が苦手でしてな」
捨てたわけじゃない。ただ、合わなかっただけだ。きれいな箍を嵌められて生きるくらいなら、いっそ傾いて、咲いて、笑われてやろう――それが慶次郎という男だ。
「……お前は、昔からそうだな」
絞るように洩れた義父の声には、呆れと、そしてどこか羨ましさが滲んでいた気がした。いや、気のせいかもしれない。だが、その気のせいが少しだけ胸に温かった。
「だが、それでこそ“前田慶次郎”か」
次に届いた声は、確かに――惜別だった。
「好きに生きよ。……ただし、前田の名を背にしたこと、その誇りだけは、捨てるな」
ふっと口元が緩む。見えない背中越しのやり取り、それでも伝わるものがあった。
「ご安心を。必要とあらば名乗るくらいの礼儀は心得てますよ」
背筋だけは真っ直ぐに、遠くを見据えていた。
名を返す日が来るのなら――せめて、埃を払った上でだ。
どんな顔であれ、胸を張って渡せるくらいには自分なりに磨いておきたい。
「──武家の看板、借りたまま埃まみれってのも性に合わねぇ。いざって時ゃ、しっかり拭いて返しますよ」
それ以上、言葉はなかった。
慶次郎もまた、多くを語るつもりはない。ただ一礼し、そのまま門をくぐろうとした――そのときだった。
「けいちゃーん!」
幼い声が風を裂き、慶次郎の背を追いかけてきた。
振り向けば、小さな体で懸命に駆け寄ってくる少女の姿があった。
前田利家――通称“犬子”。槍の又左として後に名を馳せる少女である。
「どうしたんだ、そんな顔して」
「だって……寂しいよぉ」
涙を堪えたまま、精一杯の笑顔で慶次郎を見上げる犬子の姿に、慶次郎は思わず微笑んだ。
まだ幼い。だが、その気持ちはまっすぐに胸に届く。
「大丈夫だ。また会える」
「ほんと……?」
「ああ、約束だ」
「うん! 約束だよっ!」
その小さな拳を突き上げるように、犬子は笑った。
その笑顔を背に、慶次郎は深く礼をして、ついに屋敷を後にする。
風は吹く。傾奇者の旅立ちを告げるように。
***
いずれは森一家ひいては織田に仕官するが、今すぐにというわけではない。二、三年くらいはのんびりしても罰は当たるまい。
「とりあえず、どこかで腰を落ち着けるとするか」
屋敷を後にした慶次郎は草原に走る獣道を進んでいる。道などと云うほどのものではない。草が風になびいて自然に出来たものだ。
この時代の街道が整備されていることは殆どない。とはいえ恋姫の世界線なので多少は思いもしない技術が使われていることはままある。しかし殆どがこの時代で培われた技術である。
この道もそうだ。道幅は馬一頭が通れるほどしかないが一応踏み固められているし、雑草も生えていない。誰かが定期的に手入れをしている証拠だった。
「親父さん、いつものを頼む」
慶次郎はとある飯屋へ訪れていた。
尾張にある「一発屋」と言う老舗である。その名の通り、一発勝負の賭けに出るような料理を出すことで有名だった。
慶次郎はその店で一番高い『天むす』という料理を注文した。
これは海老の尻尾を入れた御握りに味噌をつけて揚げたもので、その味と歯ごたえからして津島の港あたりで獲れたものを使っていると思われた。
これが実に美味い。酒の肴に最適だが、慶次郎は昼日中から酒を呑まない。その代わり必ずこれを頼んだ。
店主は慶次郎が常連客であることをよく知っていた。だから今日もまた同じものかと思いつつ注文を受けた。
「あんたも飽きねえな。いっつもそればっかだ」
「まあな。他じゃ食えない味なんでね、こいつは」
実際そうなのである。ここ以外で食べたことも見た事もなかった。そして何より美味いのだ。
「ははっ。そりゃ料理人冥利につきるってもんだ」
髭面の店主が嬉しそうに笑った。ここで提供される料理は前世と比べそこまでの差異がない。揚げ物の定食などがある辺りかなりの技術進歩があった。
やがて給仕が運んできた「天むす」が卓上に置かれた。舌鼓を打とうとして――そこではたと気づく。座敷に座る慶次郎の側で身を乗り出しながら「天むす」を見つめる少女がいたのだ。
「なんだい、お嬢さん」
慶次郎は愛想よく訊いた。
「これ何?」
「これは『天むす』という食べ物だよ。米を丸めて油で揚げたものさ」
慶次郎は親切に教えてやった。
「へえー」
感心したように声をあげると「美味しそう……」と呟いた。
「どうだい、少し食ってみるかい?」
「いいのー!」
ぱぁっと少女の笑顔が輝いた。
そのとき。
「こらあ!! キヨ、客の飯を食うんじゃねえ!」
突如響き渡った怒声に店内が一気に静まりかえる。少女はやや面食らっていたが、やがて涙を孕みはじめる。
「お、おとうさ、ご、ごめんなさい……ぐすっ」
「おいおい親父さん。そんな怒鳴る事でもないだろうよ」
「いんやだめだ。客は客。領分は守んなくちゃなんねぇ」
「まだ子供だ。少し位多めに」
「悪いなあんちゃん。それでもダメだ。領分ってもんがあるんだよ」
「……おじちゃん、ごめんなさい。お腹空かせて来てるのに、ご飯貰っちゃうのはダメだよね」
「気にすんな。オレは大丈夫さ」
「うん……」
キヨはこぶしを握り締め涙を流さまいと必死に堪えていた。
若干の居心地の悪さが漂う中、店主の親父がパンッと両手で快活な音を立てた。
「いやすまねえな、みんな。今日は半額にすんぜ! 沢山食っていってくれや!」
一瞬の間を置いて店内は賑わいを取り戻す。
やんや、やんやと喧騒が戻りつつある中、親父がキヨへ手招きした。キヨが厨房に戻ると「怒鳴ってごめんな」と親父が謝り、キヨはついに泣き出してしまい感極まって抱きついたのだった。