「……奇妙な御方ですわね。まるで京を捨て、物語の中に生きておられるよう……」
「ただの旅の文人の従者の夢物語りでございますれば」
紋次郎はにやりと笑い、再び深く頭を下げた。
その様子を見た実枝は、扇をそっと膝に置き、言葉を継ぐ。
「さながら、風のままに歩まれる方。けれどその言の葉は、奇しくも私の心へと届きました」
「拙き語りで、御心に触れられたのなら、それこそ冥利にございます」
「……物語とは不思議なもの。筆にて紡がれるはただの仮の世と知りつつ、それでもなお、魂を預けてしまいたくなる時があるのです」
「仮の世ゆえに、真が映る……そう申す向きもございましょうな。されどそれがしの語りとは言い訳のようなものでして。生きてきた途の、せめてもの慰めを言葉に託したまで」
「それを『慰め』と呼ばれるのですね。……では、それほどに、おつらい道を」
「いえ、つらさも楽しさもひとつに混ぜれば、案外、
「……お優しいのですね、おかめ丸殿は」
「はて、どうでしょうな。優しきか、厄介か。……風と同じで、吹く先のことは、風自身にも分かりませぬことゆえ」
実枝は、ゆるりと頷いた。
「けれど、その風は確かに香を運びました。この三条西の奥座敷にも、遥かな地の気配と、人の真心を」
「風に混じった土の匂いまで届いたとあらば、そろそろ引き際でございましょうな」
「いいえ。もう少し……私はその風に吹かれてみたくも思うのです」
「それは光栄至極。ただ吹き過ぎた風は嫌われましょうゆえ、頃合いを見て、またどこぞへ流れさせていただきます」
「ではその折まで、どうぞこの屋敷に、香をとどめてくださいな」
「承りました」
言葉の余韻がまだ空に漂っているうちに、実枝がふと微笑を含んで言葉を継いだ。
「ふふ……口も筆も、よく回られますのね」
「いえいえ、貴族の方々のようなたしなみには遠く及びませぬ。ただ、野暮と無粋だけは背中に背負いたくないゆえ。せめて言の葉のひとつでも、ましな風に装って見せたくなるというものです」
飾るでも隠すでもない。語られた言葉の裏にあるのは、己が素性を明かさずとも伝わってしまう在り方そのものだった。
実枝は扇を軽く閉じ、その骨を細い指でなぞりながら、ゆるりと言う。
「……なるほど。京を捨てた方が、京にもっとも雅を捧げるとは、皮肉なものでございますわね」
「さればこそ。京とは土地のことにあらず、人の気配と心の有りようにございます」
「……詩のように語られますのね」
「まこと、詩にしてしまわねばやりきれぬ世の中でして」
それは冗談半分の口ぶりだったが自分でも思う。戯れ言に託さねば言えぬものが、この世には確かにあるのだと。
いくさびとたる己は、刀の錆になる命を数え、名誉の影で血を見てきた。戦の中で、何もかもを詩にせねば、とてもやってはおれん――そんな思いが言葉の底に沈んでいる。
すると実枝はふと息を継ぎ、扇を胸元に添えると、ひとときの沈黙ののち、言った。
「さて。とても良い物語でした。そのお話ぜひ筆に綴って私にお渡しくださいませ。蔵に納めるだけではありません。京に生きる者として、京の外にこそ息づく和のかたちを、私の周囲にも伝えたいのです」
実枝の声音は穏やかだった。
「写本を許す代わりに文化人としてあなた様の業を、私にお示しいただく。これは『貸し』ではなく、『交わし』といたしましょう。よろしいですね?」
差し出された交わしという言葉に、どこか愉快な響きを感じる。
紋次郎はわざとらしくならぬよう、静かに頭を垂れる。
「心得ました。拙き筆ではございますが、せめて伝える力を宿せるよう、誠心を尽くしましょう」
***
物語をしたためた巻物を、紋次郎は手ずから差し出した。
実枝は、応接の間の奥に座し、女中を介して丁重にその巻物を受け取る。
紙がすべるように広がる音だけが、座敷に静かに満ちる。
しばらくの間誰一人として口を開かなかった。
全てを読み終えたとき、彼女はふう……と長い吐息を洩らした。
「……やはり。なんという静かなる物語でしょうか」
「お気に召したようで何よりでございます」
「ええ。けれどやはり語られたときとは、趣が異なりますわね」
実枝は巻物に指を沿わせたまま、しばし遠い何かを思うように目を伏せる。
「文字は静かに沁みますが声に乗せられた物語には、また別の情がございます。筆で読むと、まるで後から届く風のような余韻が残りますの」
「ただの説話ではない。語ると読むとはこれは、理想と現実のはざまに生きる者の葛藤。人と自然の業、争いの愚かさと、赦しの難しさ……。それでもなお和を願うことの尊さが、滲み出ています」
彼女はしばし目を閉じた。
それから、ゆっくりと巻物を抱きかかえるようにして、胸元へと寄せた。
「この物語は……京のみに留めておくには、あまりにも惜しい」
そう呟いたその声は、わずかに震えていた。
誰に向けて言ったのでもない。ただ心の奥底に、ふいに生まれてしまった思いだった。
──この物語を、帝に献上すべきではないか。
文化の華をこよなく愛し、退屈な日常の中に物語を求めてやまぬ天皇の御心には、この静かな物語がきっと響くに違いない。そう確信してしまったのだ。
だが彼女は、それを口には出さなかった。
「……この巻物、我が家の文庫にて、大切に保管いたします。良きものを賜りました」
「光栄にございます」
紋次郎はそう応じたが、その隣で、秋子がふいに息を呑んだように目を見開いた。そしてまるで現実を受け止めきれぬかのように、戸惑いがちに口を開いた。
「……そ、それは。御家の文庫に、納められる……のですか?」
実枝は静かに頷いた。
「ええ。確かに、三条西家の文庫に。貴方が綴ったその物語は、京にて生きる言葉として、残させていただきますわ」
秋子は、はっと息を吸い込み、そして深々と頭を下げた。
「! これほどの名誉があるでしょうか。長尾の名代として、かの地より参った甲斐がございました」
「良き物を見せていただきました。先の通り、写本を許可いたします。期間は十日。書院の一室をお貸ししますので、そちらで心ゆくまで写しを進めてくださいませ」
深々と頭を下げる秋子。その肩越しに、貞子がそっと囁いた。
「……物語って、こんなにも人の心を攫うんですね。まさか、言葉だけであそこまで空気が変わるなんて…… 」
実枝はすぐさま女中に指示を出した。
「これ、文机と筆硯を用意なさい」
実枝の許しを得て、紋次郎たちは三条西家の一室を借り受けることとなった。
***
写本の許可を得て以来、紋次郎たちは書院の一室に詰め切りとなり、二日が過ぎていた。
文机の上には、綴じかけの巻物と、すり減った筆がいくつも転がっている。墨の香りはすでに衣服にまで染み込み、夜具の中にまで残り香が立ち込める有様だった。書き写すことそれ自体は嫌いではない。むしろ、筆を取る時間にはある種の静謐すら感じていたが――いかんせん、こうも長く続けば腰にくる。
たまに、貞子が筆を止めて伸びをしながら「うう……腰が……」と小さく呻き声を上げるのも無理はなかった。
「ついでに肩も凝ってきました。どうしてこう、前ばかり重くなるのでしょうか……」
ぼそりと呟く声に、隣の秋子も筆を止めて「貞子ちゃん、分かります……私もです」と、そっと自らの肩を押さえる。
「なんと秋子殿までも……」
ふたりの愚痴まじりのやり取りに、紋次郎は筆を進めながらも苦笑いを漏らした。書院の中にほんのりと、女たちの温もりが滲む。
――それにしても、随分と集中したものだ。そろそろ一息入れても罰は当たるまい。
そう思い、筆を置いたところで、不意に貞子が呟いた。
「やっぱり、紋次郎さんってただ者じゃありませんよねぇ……」
呼び水でも打ったつもりはない。
けれど、貞子が口を開いたのは、無言の間に積もった何かが、自然と滲み出た結果だったのだろう。
紋次郎は黙ったまま、わざと視線を動かさずにいた。問い返すのは野暮だ。彼女の言葉の続きが、自ずと落ちてくるのを待った。
「お公家さまも仰ってましたけど……あの時のお話、本当に……まるで絵巻の中のようでした。怖いくらい静かで、切なくて……でも、温かくて」
秋子も続いた。
「私も……まったくの同感です。紋次郎さんが、あのような物語を語られるとは思ってもみませんでした。言の葉の選び方も、間の取り方も。情が細やかに込められていて、あの場の空気までも、静かに染まっていたように思います」
褒められて悪い気はしない。けれど、それを額面通りに受け取るほど、己が立派なものを語ったとも思えなかった。
「ふむ、やれやれ……まるでオレが文化人か何かであるかのような持ち上げ方じゃないか。おやめなされ、背中がむず痒うなる」
そう口にしつつ、内心では――まあ、まんざらでもない――と思っていた。
紋次郎はからかい半分で返したが、二人のまなざしは本気だった。そこに嘘はなく、ただ素直に感じたままを言葉にしている。ならば、こちらも少しく真面目に答えるべきかと、紋次郎は息を吐いた。
「語りはしたが、あれは夢物語のようなもの。所詮、手練手管のひとつだ。だが語った相手が耳を傾けた。それだけさ」
言の葉は即興、されど無手の芝居ではなかった。
あれは――借り物だ。どこかで見聞きした物語を、あの場に応じてなぞったにすぎない。
だが京の公家にとっては、それが風雅と映るならば、やり方としては間違っていない。
模倣でも響けば勝ちだ。語りは写し絵。心の襞をなぞることさえできれば、それでいい。
「……いいえ、それだけではありません」
ぽつりと落ちた声に、紋次郎は視線を向けずに眉を僅かに動かした。
言葉を継いだのは秋子だった。
「確かに、策として語られたのかもしれません。ですがあの物語には――ただの手練では説明のつかない真がありました。聞いている間、私は……心を掴まれたまま、動けなかったのです」
続いて貞子も言った。
「紋次郎さんがあれをただの策で済ませたがる気持ちは分かりますけど……あのような語り、並の人では到底無理ですよぅ。情も理も知ってなければああは話せません。……それだけの人、そうそう居ないですからね?」
――なるほど、これでは逃げ道がない。煙に巻いたつもりが、思いのほか綺麗に包囲されていたらしい。
秋子の言葉も、貞子の声も、妙に真っ直ぐすぎる。あれがただの策ではないと、真顔で信じられてしまってはこちらとしても調子を崩すしかない。
こんなつもりではなかった。物語を語ったのは、写本を引き出すための方便、所詮は借り物の夢を繕ったに過ぎない。だが、それを「真だ」と返されては言い逃れもできなかった。
紋次郎はひとつ肩を揺らすように笑い、声の調子を少しだけ崩してみせた。
「ふむ。こうまで囃し立てられちゃあ、いっそ口説かれてるとでも受け取っておいた方が漢冥利に尽きようか」
冗談だ――という空気をまとわせたつもりだった。だが、次の反応で、その読みが甘かったと知る。
貞子の視線がじっとこちらを射抜く。笑わない。否定もしない。ただ、わずかに唇が動いた。
「……むぅ。そう言っていただけるのでしたら、はじめから本気にしてもよかったんですよ〜?」
ぞくりとするほど素直な声音だった。悪びれる様子も、照れた様子もない。むしろ、ずっと前からその言葉を待っていたかのように思えた。
紋次郎はわざとらしく目を逸らし、口の端を吊り上げる。
「おやおや、こりゃあ一本取られたかな」
その傍ら、秋子が慌てたように手を小さく振る。
「わ、私は違いますよっ。ただ……本当に物語が素晴らしいとそう思っただけでして、あの、そのぉ〜……!」
「ふふっ、冗談よ、冗談。だがまぁ女子にそこまで言ってもらえりゃあ語った甲斐ってもんもある。……ありがとよ」
やはり彼女もまんざらではなかったのだろうと思う。だが、それを深追いすれば、どこか壊れてしまいそうな繊細さがあった。だから紋次郎は、それ以上の言葉を口にせず、筆先を軽く払った。
――冗談にしておくのが、
そう思いつつ、まんざらでもない余韻だけを、ほんの少し胸の内に留めておくことにした。