朝から続けていた写本も、さすがにひと息つきたくなる頃合いだった。
筆を置いた紋次郎は、肩を回しながら重い息をひとつ吐く。
書きぶりはまだ続けられなくもないが、どうにも頭の奥が重い。
昼の光は残っていたが――これ以上、筆とにらめっこを続けていたら、頭のどこかが錆びついてしまいそうだった。
「こうも写し物ばかりじゃ頭が錆びる! ちょいと風にでも当たってくるが誰か付き合わんか?」
声をかけたのは、気晴らし半分、口ずさみ半分。誰も乗らなければ一人で出ようと思っていたが――貞子は、案の定という顔でするりと立ち上がった。
「私もご一緒します紋次郎さん。こういうときは誰かがついていた方が安全でしょうし、ね……」
言いながら、わざと間を詰めるように横に並んできた。
その面持ちは、「わたしが行くのは当然」とでも言いたげだった。
――うん。まあ、そう来るとは思っていた。
少し間をおいて、秋子もそっと腰を上げる。机のまわりを片づけながら、おずおずと口を開いた。
「では、私も……。たまには外の空気を吸うのも息抜きになりますから」
貞子と秋子も、筆を置いた紋次郎に続いて、それぞれ手元を片づけはじめた。
それを見届けながら、紋次郎は羽織をひとつ手に取る。
急ぎでもなければ、特別どこかへ行く用事もない。
ただ、これ以上この部屋の空気を吸い続けていたら、頭だけじゃなく心まで鈍りそうだった。
襟元をざらりと肩に引っかけて、戸口へ向かう。ふらりとした足取りのまま、気まぐれに、気分のままに、屋敷の外へ出た。
通りへ出てみれば、色褪せた反物や野菜、干物が棚に並んでいた。
日常は回っている。
だが、商人の声も、客の値切りもなく、ただ物が置かれているだけだった。
人は歩いているし、買い物もされている。けれど、誰も楽しんでいない。
売る者も買う者も、必要をなぞるだけの抜け殻のようだった。そこに満ちているのは、静けさというより、沈黙だ。
表には町家が並び、一見すれば町の形は保たれている。だがどうにも感触が違う。空気が薄いというか、匂いが抜けたというか――この町にはもう、“暮らし”というものが残っていなかった。
「……なんだか、声を出すのも憚られますね」
貞子が、通りを見回しながらぽつりと漏らした。
「皆、余裕がないのだろうな」
自然とそう答えていた。
黙って歩く町民たちは、周囲との距離を測るように通りを行く。
見知った顔に出会っても、下手に言葉を交わせば火種になる――そんな空気が漂っていた。視線さえ交わさず、ただ背を向け合って歩いている。
人の営みはあるのに、生きている気配がない。そんな町だった。
「表向きは落ち着いちゃいるが、戦火がくすぶってやがるな……」
妙な言い回しだと思ったがそうとしか言いようがない。
焼けた屋根の修復跡。煤けた土壁。物言わぬまま通りを歩く民の姿。刀が抜かれていないだけで、戦はまだ終わっていない――町のあちこちに、そんな気配が染みついている。
すると秋子が言った。
「今の情勢を思えば無理もありません。これが、今の京……なのでしょうね」
秋子の言葉に返すものはなかった。
そのとおりだと、思った。
戦の名を挙げずともこの町がどれほど痛めつけられてきたかは、歩けばすぐにわかる。
町の形こそ残っているが、人の心は、まだ焼け跡の中にある。
京――その名にこそ、未練がぶら下がっている。
それが、今のこの町だった。
***
乾ききった町の空気に、かすかな声が滲んだ。
路地の奥、風に押し流されるように掠れた子どもの声が漂ってくる。
物売りにも遊び声にも聞こえなかった。
弱々しいくせに、妙に耳にひっかかる。
紋次郎は歩みを緩め、そちらに視線を向けた。
貞子と秋子も、声は出さず、それに倣う。
人だかり――というほどではない。
噂を聞いて集まってきたという風でもなかった。
商家の軒先に四、五人ほどの町人が立ち止まり、遠巻きに成り行きを見守っていた。
それぞれの表情は硬いままだった。
皆、妙に目を逸らし、声を潜めている。
「紋次郎さん……あれは……」
貞子が呟くように言った。
見れば、少年が商人に詰め寄っているようだった。
少年は震える手で何かを差し出しており、商人はそれを一瞥したきり、嘲笑するような表情を浮かべていた。
「……妙な雰囲気ですね。あの商人の態度といい、ただの商売の行き違いとは思えませんね」
秋子が言った。
「そうみたいだな」
紋次郎も同意を示す。
「商人や職人相手には、ああ言ったのはよくあるんだがな。元締めにたかる、そういった手合いならこうも人垣にはならんはずよ」
「揉め事でもあったのでしょうか?」
貞子が言った。
「揉め事、か。確かに表面的にはそう見えるかもしれんな」
紋次郎は顎に手をやり、一瞬考え込むような仕草を見せた。
「だが、あの少年の様子を見ると、ただの揉め事とは思えん。何か事情があるのだろう」
実際こう言った揉め事など珍しくもないが――それにしては、引っかかる。
声の調子か、空気の重さか。
人垣の向こう、小さな背。すり切れた
そして、懸命に頭を下げながら、何かを訴えていた。
黙りこくる町人たちを、紋次郎は一瞥した――見て見ぬふりか、助ける気もない。
――どちらにせよ、気分のいい眺めじゃあないな。
唇の裏でそう毒づきながら、近くの町人に声をかけた。
「ちょいといいかい? あれは何の騒ぎだい?」
町人は周囲を気にしながら低く答える。
「あ、ああ。……あの子、病気の母の薬代を工面しようて、家にあったもんを質に入れようとしてはるんどすわ。けど、相手にされへんようで」
「ほう、なるほど……。そりゃあなんとも胸の詰まる話だな」
小さな体に、包みを抱き締めている。そんな姿に胸の奥で何かがかすかに軋んだ。
「……そのような事情が」
貞子が、紋次郎の脇でひと息吐くように呟く。
「……何とも言えませんけれど、誰も寄ろうとしない時点で、そう簡単な話じゃないのでしょうね」
秋子が小声で言った。
「あの商家は周りが手を出せないほどの相手なのでしょうか……」
貞子が言った。
「……沈黙が、何よりの答えでしょうね。誰もが関わりを避けている、そういう空気です。…………下手に動けば、かえって騒ぎになるかもしれません」
誰も声を上げようとしない。
ただ、息を潜めて、立ち尽くしている。
重苦しい沈黙が、通りを押しつぶしていた。
動かぬ町人たちをよそに、少年だけが懸命に訴え続けていた。
腕の中に隠した包みを、商人の男へ押し出す。
だが、商人は鼻先で笑い、わざとらしく顔を背けた。
――応じる気なんざ、これっぽっちもねえみてえだ。
――あの様子じゃあ、ろくな質屋じゃあないな。
「乞食みてぇなツラ下げてきやがって……ここは施し場じゃねぇんだよ」
商人の乾いた声が、通りに刺さる。
少年を、路傍の石ころでも見るような目つきだった
ああして、弱い立場の者を踏みつける――そんな光景は、いつだって胸に小骨のように引っかかる。
それでも誰ひとり、声を上げようとしない。
ただ、重苦しい空気だけが場を押し潰していた。
胸の奥に微かな引っかかりを覚えながら、紋次郎は町人に声をかけた。
「……あの男は?」
町人は、今度はさらに小声になり、言いにくそうに答えた。
「……土屋はんどす。街の復興のためにお金を出してくれはった方や……」
そこでいったん口をつぐむ。
だが、紋次郎が無言で視線を向けると、町人は居心地悪そうに付け足した。
「……最近は、町の連中に対しても、前より高圧的になってきてましてな……。それでも恩を受けたもんも、ぎょうさんおりますさかい。あんまり強う言うたら、あとが怖いんどす」
町人の声は、言い訳じみてどこか濁っていた。
――なるほど。そう言うわけか……。
土屋という男は、この町で復興のために金を出している。
いくら横暴に映ろうと、ああいう手合いに逆らって得をする道理はない。
町人たちも、好きで沈黙を選んでいるわけではなかった。
恩義と立場が彼らの口を塞いでいるのだ。
荒立てれば、損をするのは弱い側――そんな理屈が、この町には染みついていた。
「お願いします。お願いします。少しだけでも見てください……!」
「どうせ三文にもならんガラクタだろうが!! さっさと失せろ。店先を汚すな!」
「待ってください……! お願いします……母上が……!」
掠れた声が、必死にすがりつく。
だが、土屋の顔に浮かんだのは、憐れみではなく、露骨な苛立ちだった。
「ええい、いい加減にしろっ。鬱陶しい……!」
怒鳴りざま、土屋は少年の体を容赦なく蹴り飛ばした。
小さな身体が無様に宙を転がり、乾いた音を立てて地面に叩きつけられる――。
町の空気が、一瞬で凍りついた。
誰も動けなかった。
誰も声を上げられなかった。
張りつめた沈黙のなか、誰かが、震えるような声で呟く。
「……なんと酷いことを」
だが、その小さな声も、通りの空気に呑みこまれた。
その静けさを破ったのは、秋子だった。
ほんの僅かなためらいすら見せず、駆け寄る。
「大丈夫? すぐには動かなくていいですから、どこか痛みますか……?」
貞子も駆け寄った。少年の傍らに膝をつき、秋子とともにその体を支えると、土屋を睨んだ。
「子どもに相手にこのような仕打ちとは。恥というものをあなたはご存じないのですか」
貞子は、静かに、だが怒りを押し殺した声で呟いた。
「ああ!? 恥だぁ? 俺が悪いみてぇな顔しやがって……。悪いのはそのガキだろうが! ふざけんじゃねえ!」
「無論、ふざけてなどいません。この子に非があるというのなら、どうして向き合おうとしなかったのですか。ましてや子どもを蹴るなんて、人として恥ずかしい行いです」
秋子は語気を強めて言った。
貞子は何も言わなかった。ただ、少年を庇うように土屋を睨みつける。
口を開きもしないが、その無言の眼差しには、まるで何か汚れたものでも見るかのようにはっきりとした軽蔑が滲んでいた。
土屋は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「なんだその目は! いい気になりやがって……! 野次馬がえらそうに口ききやがってよ!」
怒鳴りながら、秋子と貞子に詰め寄ろうとする。
だが――貞子が一歩、秋子と少年を庇うように前へ出た。
その動きに、土屋の勢いが、ほんのわずかに鈍った。
「言葉に詰まり声を荒げるとは。威を張れば、ご自身が正しくなるとお思いか」
その冷ややかな一言が、土屋の怒りにさらに火をつけた。
「な、なんだと! てめえらぁ女のくせして、出しゃばりやがって……!」
怒りに飲まれたその様は、見苦しいを通り越して、もはや滑稽ですらあった。
感情だけが空回りしている――そんなふうに、紋次郎には見えた。
貞子の問いかけも、相手にとっては煽りに聞こえたのだろう。火に油を注ぐような真似になり、もはや収まりがつかなくなりつつある。
少年の包みを見てやりさえすればあるいは渋々とでも頭を下げていれば――紋次郎が出ていくまでもなかった。
町の空気も、それを期待していたに違いない。
しかし目の前の男は、ついぞ理を選ばなかった。
――ここまできちゃあ、もう引き際も見えんか……。
紋次郎は静かに息をつき、ふらりと前に出た。
「――まあまあ、待たれよ」
通りに響いたその声は、大きくはなかったが、不思議とよく通った。
「何やら騒がしいと思えば……人情も忘れたと見える。旦那、まずは質草を確認してみてはどうかな?」
その言葉に、土屋が振り向く。
だが、怒りの勢いは衰えず、吐き捨てるように言い放った。
「んなもん、確認しなくとも分かる! 乞食がもっとる質草なんぞたかが知れとる。ガラクタにきまっとるわ!」
「ふむ……そうかい」
胸の奥で、ふっと乾いたものが転がった。
強がりと見れば哀れ、吠えと見れば滑稽――だが、いずれにせよ品に向き合う度胸すら持ち合わせていない。
「そう言い切るあたり、さぞかし見る目に自信がおありと見える。だがなあ旦那。宝を見逃すのもガラクタを拾うのも目利きの腕次第ではないかね」
「はん、目利きと来たか! ならてめえが見ろよ、好きなだけな! どうせガラクタだってことも分かりゃしねえんだろ!?」
そう言い放つや、土屋は少年の腕から乱暴に包みを奪い取った。
ぐしゃりと抱え込まれた布が、無惨に引きはがされる。
質草は、少年の必死さを物語るように、震える手の中に抱きしめられていた茶碗だった。
それを、まるで値踏みするでもなく土屋は紋次郎へと突き出してきた。
「ほらよ! 目利き様の腕とやら、たっぷり見せてもらおうじゃねぇか!」