屋敷の朝は静かだった。
日課の鍛錬を終えた紋次郎は部屋へ戻り、濡れた手拭で汗を拭っていた。上半身は裸のまま、片膝を立てて腰掛けている。
障子越しの朝日が畳を淡く照らし、屋敷の静けさが耳に沁みた。
肌を伝う汗の感触がようやく薄れてきた頃、戸口の向こうから秋子の声が届いた。
「紋次郎さん……ご在室でしょうか?」
声の調子に、わずかな遠慮が滲んでいた。
すぐそばに貞子の気配もある。ふたり揃って訪れるのは珍しくない――が、朝一番となると話は別だ。紋次郎は声を返した。
「どうぞ」
戸を開けた瞬間、秋子が「おは……」と言いかけて一瞬止まった。視線が紋次郎の上半身に触れ、わずかにたじろいだようだった。
「……も、申し訳ありません。いまお声をかけてしまって、大丈夫でしたでしょうか……?」
「何、ちょうど汗が引いたところだ。好い間合いよ」
視線は肩口に触れたのも束の間、気まずそうに障子の縁へと逸れていく。
声には平静を保つ調子があったが、礼を欠いたかもしれないという気遣いと、目にしたものへのささやかな恥じらいが滲んでいた。
秋子の視線はすぐに逸れていったが、後に続いた貞子は違った。じろじろと遠慮なく眺めてから、にやりとした調子で口を開いた。
「ふふ、朝から鍛錬とは流石にございますね。――その逞しさ、私にだけ見せてくだされば良いのですが……」
「ははっ。独り占めしたきゃ縄でも打っておけ。もっとも、この紋次郎、そう易々とは繋がらんがね」
冗談めかして笑ったものの、貞子はほとんど瞬きもせず、じっと紋次郎の胸を見つめていた。いちいち気にするほどでもないが、どうにも他人の目というものは妙に正直だ。
「なんだ、穴が開くほど見つめてからに。傷跡ばかりの肌を見たところで面白くもあるまい」
古傷に目を留めたのか、それとも――。どれもこれも武を振るってきた年月が、勝手に刻んだものだ。自慢にするほどの話でも、隠すほどのことでもない。
「…………紋次郎さんの肌は、どなたにでも見せていいものなのですか」
「まあ見せて困るほどのもんでもないからな。望むならいくらでも拝ませてやるぞ」
「!……そ、それは……。紋次郎さんのお口からそう申されると……胸が高鳴ってしまいます……」
紋次郎の言葉に、貞子は一瞬きょとんとしたのち、頬を朱に染めた。
「っ」
遅れて、横に控える秋子が小さく息を呑み、視線を伏せて袖口をきゅっと握った。貞子が言葉にして照れを見せたのに対し、秋子は言葉を飲み込んで仕草に隠した。冷静さの裏にわずかな揺らぎがのぞく。
――貞子ならいざ知らず秋子までとは、どうにも意外だが。はて、これは
場を乱さぬ気遣いゆえか、それとも別の思いが胸にあるのか。いずれにせよ、静かな屋敷の朝は、三人の間に言葉以上の気配を満たしていた。
もっとも女心を探るつもりはない。女の機微に心を寄せるのも嫌いじゃないが、何事にも時宜がある。確かむべきは、ふたりがここへ訪ねてきたその用向きである。
「――それで、何かあったのか」
そう言って、卓の脇にあった座布団を軽く手で示す。
秋子と貞子が静かに腰を下ろすのを見届けながら、さて――と息を整える。
こうして朝一番に揃って来たのだ、何かしら持ち寄るものがあるのだろう。もっとも表情に張りつめたものは見えない。深刻な話ではなさそうだ。
秋子がひと呼吸置き、やや気恥ずかしげに口を開いた。
「……こほん、その、少し相談があって参りました――」
そうして、秋子の口から出たのは、路銀の話だった。
越後への旅支度を整えるには、今の手持ちではやや心許ないという。
一葉の療養に費やした薬分が少なからず響いており、さらに帰路の一部を舟で下ることを考えれば、多少の余裕は残しておきたい。秋子はそう言った。
紋次郎は黙って耳を傾けていた。確かに余計な出費であったことは承知の上だった。だが無駄に費やしたつもりもない。とはいえ残った金は質に流した刀の代金に頼るほかなく、京の暮らしに削られた懐は、心許なさを拭いきれなかった。
「――となれば、懐を温めねばな」
ぽつりと漏れた紋次郎の一言に、秋子が問い返す。
「……つまり、働くということでしょうか?」
紋次郎は小さく首を振った。
「それも手だが、もっと手っ取り早い方法がある」
すると、貞子が声をひとつ添える。
「何か手があるのでしょうか」
「賊退治よ、彼奴等から品を巻き上げて売ればいい。運が良ければ褒美も出よう」
さらりと口にすれば、秋子が目を瞬かせ、小さく頷いた。
「なるほど……その手がありましたか。たしかに、思い返せば、アレはうまくいった策でしたね」
「さすが紋次郎さん。それでしたら、私もお力添えできると思います」
「ならば遠慮なく頼ろう。そうと決まれば行こうか。市の寄場をあたれば、何かしら話は転がっているはずだ」
昼下がりの陽を背に受け、三人は足早に雑踏へと向かう。
市の寄場は、今日も人で溢れていた――。
荷駄を担ぐ人足、工事の口を探す職人、刀を佩いたまま暇を持て余す浪人――。
紋次郎は秋子、貞子と肩を並べ、人波を縫うように歩いていた。
耳を澄ませば、賃銀の相場や荷駄の行き先、昨日の乱闘話など、断片が次々と飛び込んでくる。
やがて、寄場の端で声を潜める仲立ちの姿が目に入った。
腰を低くし、あたりを見回しながら数人に声をかけては首を振られている。
いかにも後ろ暗い話を抱えている様子だった。
「……道中の荷駄が荒らされてな。商人衆が血相を変えておる。腕に覚えがあれば褒美も出るが……命を賭ける覚悟がなきゃ勧められん」
仲立ちの小声は、耳を澄ませた者だけに届く調子であった。
言葉の端に、ただ事ではない緊張が滲んでいる。
秋子がそっと息を整え、声を落として問いかけた。
「……道を荒らす連中、ですか」
不意の声に、仲立ちは肩をびくりと揺らし、目を見開いた。
「な、なんだお前さん方は……」
言葉を切りながら、三人を順に眺め回す。
刀を佩いた紋次郎にまず目を留め、次いで秋子の落ち着いた面持ちへ。最後に貞子の腰の柄へ視線を落とし、短く息をのんだ。
――ただの冷やかしではない。そう察したのだろう。
「……ふむ。人足の口を探しに来たわけでもなさそうだな」
仲立ちの目がわずかに細まる。値踏みと警戒が、同じ色で宿っていた。
秋子はその視線を受けても崩さず、静かに言葉を継いだ。
「荷駄を狙うとは、相当に手慣れた連中なのでしょうか」
仲立ちは舌打ちめかした。
「素人の思いつきじゃねえ。兵の端くれか、浪人崩れか……どのみち只者じゃねえさ」
秋子は小さく頷き、吐息のように言葉を落とした。
「なるほど。それで我らのような者を当てにしているのですね」
「まあ、そういうこった」
仲立ちは肩をすくめ、周囲を気にしながらさらに声を潜めた。
「市から京へ入る道筋で、荷駄が立て続けに荒らされてな。商人衆が青ざめとる。だが町役人は腰が重い。だからこそ、こうして寄場で腕を探してるんだ」
そこで紋次郎は口を開いた。
「詳しく聞かせてもらいたいな。どこで、どんな手口だ」
仲立ちは少し考え、なおも三人を値踏みするように眺めた。
「……あんたら、命を賭ける覚悟はあるのか」
紋次郎は返答を惜しまなかった。
「賊の始末で懐が温まるなら、手間を惜しむ理由はないね」
仲立ちの口元に、ようやく安堵めいた色が浮かぶ。
「――いいだろう。場所を教える。荷主からの礼金も用意されている。命を拾って懐も肥えるかどうかは、あんたらの腕次第だがね」