寺を後にした慶次郎は風来坊だ。
時節は初夏。肉厚の葉をみっしり付けた木々が左右から覆い被さるようにして行く手を阻んでいた。木漏れ日さえもまともに通さない、暗い道だった。
澄んだ空気をしているが、あられもない蒸し暑さがあるせいでじっとりした汗が滲み出てくる。少し行った所に沢があり、汗でも流して行こうと足を向けた。小休止したところで再び歩き出した。
「どうもおかしいな」
そう思ったのは三十分ばかり歩いてからだった。道らしい道そのものがいつの間にか無くなっていたのだ。気が付けばただ木立の間を縫って行たのである。
しかしここまで来て引き返すわけにも行かない。もう少し行ってみて駄目なら引き返そうと決心し、さらに二時間ほど歩いた。
そして遂に、慶次郎は道に迷ったことを確信したのである。慶次郎は元来方向感覚には自信があった。それがこの山ではまるで役に立たない。目印になるようなものが何一つないからだ。
「参ったな……」
独り言を呟きながら、それでもまだどこかに救いの道はあるはずだと信じて進んだ。
だが日射病になりそうなほどの炎天下である。水分だけは充分摂っていたが、さすがに疲労感を覚え始めた頃、前方に小屋らしきものが見えた。藁葺屋根の古びた小さな家だ。
——やっと出たか。
と、思ったのも束の間。ポツリポツリと夕立ちが襲い始める。
どこか雨が凌げる所は――目を移動させると茅葺き屋根が目に止まる。
ぽつんと佇む山小屋に急いだ。見た目とは裏腹に戸の建てつけは良く、すんなりと中に入りこむ。埃臭いが小綺麗で、土間は狭く床の間は五畳ほど広さだった。
囲炉裏端に腰を下ろし一息つく。
外を見ると激しい雨になっている。
「こんな所で野宿か……」
思わず溜息が出た。慣れたものではあるが布団があるのと無いのとでは疲労の感じ方が異なる。当然あった方が良い。
「ふぅむ。坊さんを殴った罰でも当たったかもな」
その途端、雷鳴と共に稲光が走った。
随分と心の狭い仏様だ。そんなことを思いながら水を吸って重たくなった衣服を近くの物干し竿へ吊るし、髪紐を解いた。
そのとき、ふっと気がついた。
おあつらえ向きに土間の隅に薪が積んであった。幾つか投げ入れて火をつける。
煙が立ち上りはじめたところで、ようやく人心地ついた思いになった。
そうしていると酷く腹が空いてくる。そう言えば余りの蒸し暑さに食欲を失くしてしまい、何も口にしていなかった。
不味そうな兵糧丸と川魚の干物を早速口に放り込む。塩気が強いが美味かった。
それから半刻ほどして辺りが完全に闇に包まれるころ、ようやく雨が上がった。雲間から月明かりが見える。その淡い光を頼りに寝床の準備をした。と言っても雑魚寝するだけである。
キュルキュルキュル〜……。
どこからか小気味の良い音が耳に届く。慌てて視線を凝らすと部屋の片隅に身を潜める子どもと目が合った。白い髪をした子どもだ。小暗い中でもくっきりと白が浮かび上がっている。
「……」
「おまえさんかい。いまの音は」
声を掛けると小さな身体がビクリとはねた。そして恐る恐るという風にこちらを見上げてきた。
「なぁに心配することはないさ。別に取って食いやしないよ」
安心させるように微笑んでみせるも、少年の顔色は変わらない。それどころか益々怯えているように見える。
――これは参ったねぇ。
どうしたものかと考えあぐねていたその時だった。再びあの腹の音が響いたのだ。今度は先程よりも大きな音で鳴り響く。
思わず苦笑してしまった。
「くくっ」
「っ!」
キッとこちらを睨みつけてきた。
「すまんすまん。オレは旅の浪人でね。一晩泊まらせて貰えると嬉しい」
「……別にいいわよ。けど変なことはしないでね」
「しないしない。……あまりもんだが、どうだい」
余っている兵糧丸と干物を差し出した。慶次郎の言葉に彼女は一瞬息を呑んだように思われる。子どもの顔は小暗いことも相まってよく見えなかった。
「ふぅ……」
空きっ腹もやや埋まり始めたころ、夜も深まり、冷たい空気に包まれはじめる。
流石に初夏といえ、ふんどし一丁では肌寒く囲炉裏の火から離れられない。
一方先程の子どもは床の間の片隅に身を寄せたままだった。薄手の装いで、それも寺の小坊主が着るような服を着ている。寒くはないのだろうか。いや十中八九肌寒いだろうけど我慢しているのだ。
「なあ」
「……何よ」
不機嫌そうに彼女はこちらを見る。敵意満載である。どうにも何か気に障るような事をしてしまったようだが、皆目検討がつかない。
とはいえ放っておくわけにもいかずに慶次郎は言った。
「寒くないか?」
「……別に」
本当に寒くないのか。それとも興味がないのか彼女は興味なさげに答えた。
「そっか。しっかしどうしてこんな山奥にいんだい。父ちゃん母ちゃんはどうしたんだ」
心配してるんじゃねえの? と付け加える。
「……」
おっと。これは、地雷を踏んでしまったらしい。
そう言えばこの時代、捨て子や親を亡くした子どもが多かったと聞いたことがある。
——やっべ。変なこと聞いちまった。
慌てて言い直すことにした。
「あー。やっぱいまの無しだ。それより何でオレのこと泊めてくれるんだい?」
「気遣いはいらない。両親はちゃんといるし、元気よ……たぶん」
やはり地雷だったようだ。
「……っくしゅん!」
「ほら見たことか、こっち来いよ、風邪引くぞ」
「大丈夫」
沈黙が返るのみ。しかし小坊主は、じっと慶次郎を見たかと思えば視線が合うと逸らした。
そのとき初めて慶次郎は自分の装いに気づく。
ふんどし一丁なのである。
そんな男が子どもを傍に呼ぶことはあられもない行為を連想させた。無論、慶次郎はそんな趣味は一切合切持ち合わせおらず優しさで声を掛けたのである。
しばらくすると、子どもは囲炉裏の向かいにちょこんと座った。やはり寒かったらしく座るそばから囲炉裏の火にあたる。
子どもの全貌が囲炉裏の火によって露わになる。
純白を象ったような白髪。燃えるような紅い瞳。その姿に既視感を感じられずにはいられない。
そんなねっとりした慶次郎の視線に子どもは何を思ったのか、そっと顔をそむけた。
(……こいつ、たぶん景虎だ)
──長尾景虎。通称美空。後の上杉謙信である。
既視感といい、覚えのある特徴は紛れもなくそうだ。異なる点と言えば髪型くらいか。小坊主の装いなので当然髪は短い。一見すると少年にしか見えなかった。
「……虎千代」
試しに幼名を呟く。
「っ!」
その息を呑むような反応。やはり彼女は長尾美空景虎のようだ。
「ど、どうして……」
信じられないものを見たような顔つきで彼女は呟いた。
「ん? 」
「惚けるな! 今あんた私の名前を……っ!」
慶次郎の声を遮り、彼女はすくっと立ち上がった。余りの威圧感に若干腰を引かしながら「ままま、落ち着け落ち着け」と慌てて告げる。
彼女は眉を顰めたが耳を貸してくれるようだ。
さて言い訳を考えねばと慶次郎はおもった。
後先考えずに彼女の名を呟いてしまったことが悪かった。よくよく考えれば見ず知らずの人間が自分の名を知っていることは気味が悪いだろう。ましてや有名でもなく悪名が轟いているわけでもないのだから尚更。訝しむのも無理もないことだ。
「越後には美少女がいるって聞いたんだよ」
「……は?」
「すまん、嘘だ」
何だよ、美少女がいるって。いやまあ何れ美少女引いては美女になるのだからあながち間違いではないのだが。
そんなことよりも早く言い訳を考えねばならない。
「……オレの妹が千代って名前でな。可愛いんだが噛み癖があるから、虎になぞらえて虎千代って呼んでんだ」
おお。中々良い言い訳じゃないか。
自分で言うのも何だがかなり信憑性というか現実味を帯びているようである。
「もう暫く会ってないからな。つい呟いちまったらしい。まさかお前の名前だとは思わなかったよ」
「……」
「誤解させたようで悪かった」
「……そ。なら一先ずそれでいいわ」
一先ずではあったが、ともあれこの場は収まったようだ。
どこか居た堪れない空気の中、ふと彼女が尋ねてきた。
「貴方の妹は、私に似ているの?」
「い、いや」
──あーっ! 不味い不味い。嘘なのに、嘘なのにーっ!
「じゃあ、似てないの?」
「ええっとな」
──よ、よし。こうなったら犬子を……!
とはいえ目の前少女と犬子は似ても似つかない。いやまあ性別は同じではあるが……。
慶次郎は咄嗟に「似ているよ」と口にした。口に出してから後悔したが遅かった。口は災いの元、口は禍の門と良く言ったものだとしみじみ思う。
ぐいぐいと聞いてくる彼女を無下に出来ず。慶次郎は犬子と彼女の共通点を探すために頭をフル回転させるのだった。
こうして今宵は二人の談笑と共に更けていった。
翌朝、慶次郎は凝り固まった身体を伸ばしに外に出た。
まだ未明の空であるが雲は見当たらない。
「いい日和になりそうだ」
思わず声に出していた。天気が良いと自然、朝稽古にも身が入るというものだ。軽めに運動して汗をかいた後で、近くにあった井戸から水を汲むことにした。
昨日は急いでいたこともあり井戸がある事に気づかずにいたが、この古屋にはしっかりとした井戸があった。水の豊富な土地柄なのだろう。
滑車の先に付く釣瓶を井戸奥へと投げ入れる。ぽちゃんと水の音が井戸奥から響いたことを合図に滑車に括られる縄を引っ張った。
顔を洗う。ついでに頭も濡らし、手拭いで身体をざっと拭き上げる。最後に残った水で口を濯いだ。そうしてから、ようやく一息ついて顔を上げた時だった。
眼の前に小坊主がいた。言わずもがな昨夜の小坊主こと美空である。寝ぼけ眼を擦りながらぼけーっとした顔で慶次郎を見ていた。
「お早よう」
無邪気そのものの挨拶だ。昨夜の大人びた口調が嘘みたいである。
「お早よう」
つい釣られて同じ言葉を返してしまった。だがすぐに思い直して言った。
「まだ早いぞ」
未だにお天道様は半分も顔を出していない。とはいえ寺の小坊主となればこのくらいに起床しているのかもしれない。なにしろ朝のお勤めがあるのだから。
半裸の慶次郎を一瞥した美空は別段恥ずかしそうな様子もなかった。それどころか興味津々といった表情になって近づいて来た。
「傷だらけね」
しみじみと言って、いきなり左の腕に触れた。
「痛い?」
「いや別に……」
実際痛みなど感じなかった。ただ触れられるとひどくくすぐったいというだけだ。
「肩にも刀創があるわ」
今度は右の二の腕に触れる。
「背中一面よ」
自分では見られないが、多分背筋に沿って同じような痕がついている筈であった。
「どうすればこんなになるのかしら……」
不思議そうに見つめるその視線には好奇心があった。同時に何か哀れむような色もあったように思う。
「……可哀想」
不意に涙ぐんだかと思うと、ぽろりと落涙した。
慶次郎としては呆気に取られたというよりない。女子供というものは泣くことを恥とはしないらしい。ましてや男の前で泣けば情けないと思われることも知らないようだ。
ふと、そんなこと思ってしまったが、随分と戦国時代に思想が染まっていたようである。
――……まぁいいさ
心の中で苦笑したが、それでも女の泣き顔を見るのはあまり愉快なことではない。
「何処へ行くの?」
「朝飯だよ」
「私も行っていい?」
「好きにしな」
ぶっきら棒に答えた。
朝食の間中、美空は始終傍を離れようとしなかった。
慶次郎にしても慣れぬ土地に来ている以上、多少神経質になっていることは否めない。見知らぬ土地の見知らぬ宿では熟睡出来るものではないのだ。眠りが浅い上に夢見が悪いことが多い。今朝もその種の悪夢を見てしまって目覚めさせられたのだが、そんな時は気分転換が必要だと思っている。だから特に追い払うつもりもなく放っておいた。
それにしても本当に美空なのだろうかと慶次郎には疑問が湧いて出た。というのも慶次郎の知っている美空とは余りにも違うのだ。子どもだからというのもあるだろうが、刀創に触れて、涙ぐむ姿をどうしても想像出来なかったのだ。
ふと、彼女の姿が見えない事に気づく。
外からぽちゃんと音がした。外を覗いて見ると、顔を紅くしながら釣瓶を引いている美空の姿がある。
全く動かせていない。昨夜の語らいと言うか談笑で分かったのだが彼女は一丁前に大人ぶる癖があるようだった。
天命だの何だとの言うものだから可愛げがあるし、まあ丁度背伸びしたいお年頃なのだろう。
「手伝うぞ」
「ん……ありがと」
彼女の警戒心は昨夜の語らいで大分薄らいだように思える。
「……ねえ」
「なんだい」
「臭わなかった?」
「あん? 何も感じないが……」
「そ、ならいいわ」
どこかほっとしたような表情をして、彼女は古屋に戻っていった。
朝食を摂った後、慶次郎は古屋を発つべく荷物を纏めた。吊るしていた服はすっかり乾いている。袖を通すと路銀が入る巾着が袖の下から落ちた。
拾い上げて中を確かめると路銀が半分に減っている。中身を出して見れば無情なものだった。道理で軽いわけだ。
「もう行くの?」
「ああ。泊めてくれて助かった」
「別にもっと居てくれてもいいのよ?」
そう言う彼女の声音は寂しげであった。慶次郎はそれを察してはいたが、だからと言ってこれ以上この娘と一緒に居る気はなかった。
「オレは根無草さ。何処へでも行くさ」
「ふふっ。何よ、格好つけちゃって」
「本当だ。風来坊なんだ」
「判ったわ。じゃあね」
美空の手が伸びて来た。握手を求めているのだ。
慶次郎はその手をじっと見つめていたが、やがて言った。
「悪いが……男とは握らないことにしているんだ」
美空の顔から表情が消えた。そしてその顔のまま言う。
「ふーん。そ、ならい――」
「冗談さ」
「……貴方、性格悪いって言われない?」
「よく言われるなぁ」と慶次郎は笑った。
慶次郎は差し出された手を握った。柔らかくしなやかな掌だった。その手が急に強く握り返して来て、次の瞬間には両の手で握られていた。
「……お別れだもの。これぐらいいいでしょ」
「まぁ……そうだな」
一晩共に過ごしただけであったが彼女には情が湧いたようだ。とはいえ少なからず慶次郎も同じだ。寂しさはあった。
「達者でな」
それだけいうと慶次郎はくるりと背を向け、振り向きもせずに出て行った。