翌朝。空が赤みを帯び、明るみはじめた時間帯に起き出した。
まだ少し眠気が残っていたが、気分はとても爽快だった。昨日一日の疲れが完全に抜けている。布団で寝るというのはいいものだなと改めて思った。
──よし!
気合いを入れて立ち上がった。
慶次郎はそのまま外に出た。明け方の空気はひんやりとして、肌を切るように冷たかった。だがそれが心地好い。全身の細胞一つ一つが活性化するような感じだ。大きく深呼吸して冷たい大気を吸い込むと、肺臓の中に溜った熱いものが押し出されて出て行きそうな錯覚を覚えた。
慶次郎は手ぬぐいと木棒、それと長巻を引っ提げて、軒を連ねる長屋一帯から広場に来た。長尾家が所有している剥き出しの地面が広がった空き地だ。
早朝の広場は閑散としている。誰もいない。ただ早起きの小鳥だけがさえずっているだけだ。慶次郎はその真ん中に立った。
早速、木棒を手に取った。素振りを始める。突き、払い……どれもこれも一心不乱に打ち込んだ。三百回も振らぬうち、汗が噴き出してきた。全身が燃えるようである。
戦国時代における戦の主流は槍だ。扱いが容易でリーチもある。基本戦法は突きや払いの他に石突きによる打撃だが、槍術は柄の長さを変えると戦術も変わってくる。槍を長く持って斬れば槍の長所である長射程はそのままに攻撃範囲の広さを確保できるし、短く持てば懐に飛び込まれても対応出来るのである。
慶次郎は朱槍を得物としていた。長さ二間半(約四.五メートル)重さ六貫目(十八キログラム)。慶次郎はこれを巧みに用いた。相手の攻撃を紙一重でかわしながら、槍を突き入れる。相手にとってこれほど厄介なことはないだろう。
第二の得物である長巻の鍛錬も欠かさない。一太刀ごとに稲妻のような斬撃が疾り、空気さえも切り裂くような音を立てる。
この得物は長い柄のついた刀である。その刃渡りは三尺前後。重さは三貫目以上あるだろうか。普通の人間が持つと振り廻すことはおろか、構えることさえ出来ない代物だ。だが慶次郎はこれを軽々と扱うことが出来た。
朱槍と長巻ともに並の武将なら腕の筋肉が耐え切れずに千切れてしまうに違いない重量物である。それを信じられないことに慶次郎は素手で掴んで自在に操る。何より恐ろしいことはこの大業物をまるで棒きれのように振り廻すことであった。
普通なら手首が折れるか腱鞘炎になる筈なのだ。しかし慶次郎はそれを平然とやってのける。事実、慶次郎の腕は鋼のように鍛え上げられていた。筋骨隆々たる肉体には無駄なものは一切ついていない。贅肉など一切なく、引き締まったしなやかな筋肉だけがついている。
これがいわゆる武芸者という人種だった。
だが鍛錬は素振りのみにあらず。無論、武器の心得も重要だがそれ以上に身体を鍛えなければならない。武士足るもの身体が資本である。
広場の外周を駆けはじめる。スピードとリズムを意識しながら一周して戻って来るまで五分とかからなかった。
三周、四周する間に日は完全に昇り、朝の喧騒が始まる。
井戸端で顔を洗ったり、朝飯を食べたり、仕事に出かける用意をしたり、長屋の住人は様々だが慶次郎のすることは同じである。つまりひたすら走ること。走り終わると今度は腕立て伏せ、腹筋と続く。
汗びっしょりになって滴る汗を手ぬぐいに吸わせ、再び広場の土の上に戻る。
今朝はここら辺にしておこう。
慶次郎は井戸から水を汲み上げ、頭から浴びた。冷たい水が心地よい。ついでに顔も洗った。これでやっと人心地がつく。
「ふぅ。気持ちいい〜……」
汗をかいた後の水浴びは格別だ。思わず声が出る。
そのとき、ちょうど広場に入って来た女性がいた。貞子だ。
「おはよう」
慶次郎が挨拶をすると、寝ぼけ眼を擦りながら「ほえ?」と可愛らしい小声を出す。暫くの間、ぼんやりと慶次郎を見ていたが、やがて目を丸くした。裸体を凝視している。
「どしたい。そんな食い入るように」
「あっ、いえ申し訳ありませんっ。じ、時間をズラしてからまた来ますっ」
すぐさま身を翻すと、はたはた駆け出してしまった。
「初心だねえ〜」
慶次郎は苦笑した。色々とからかい甲斐のありそうな娘だ。
このところ女性ばかり見ているせいか、若い女性に対する審美眼が出来上がっている気がする。詰まるところ彼女は良い女ということである。もっとも男にとって一番よい女とは千差万別なのだが。
助平な慶次郎はそんなことを考えながら身体を拭き終えた。
彼女の長屋に寄ってみる気になったのは当然の成り行きである。
貞子の長屋を訪ねてみた。「終わったぞー」と一声かけておく。返事はなかった。
しばらくしてから慶次郎の長屋に頬を染めた貞子が訪れ、おずおずと謝罪をしてくる。
慶次郎からすれば裸を見られたとて何ともないので「気にするな」とだけ言って、その話は終わった。
「紋次郎さんはいつも朝早くから鍛錬を?」
「まあな。もののふたるもの初心忘れずべからずってね」
我ながらそれらしい事を言えた。実際に腕が鈍ると戦に影響するは事実である。そのため腕が衰えないよう日頃から鍛錬は欠かせなかった。
「なるほど……」
何か思う所があったらしい。考え込む仕草を見せる。
「あの、紋次郎さん」
「なんだ?」
「もしよろしければ、明日からの鍛錬にご一緒してもよろしいでしょうか?」
「構わないが朝早いぞ?」
彼女は二つ返事を返すのだった。
+++
月日が経つのは早いもので長尾家のお世話になり始め、早四ヶ月が経とうとしていた。
沙綾の言った通り慶次郎たちはしょっちゅう戦に駆り出されていた。それもかなり激しい戦ばかりである。はじめは国人衆との小競り合い程度のものだったがそのうち一城、二城の合戦の様相を呈するようになっていた。
ある年の八月の下旬、越後国人衆との大規模な合戦があった。この時、長尾の軍勢が敗北を喫したのである。しかもただ負けただけではない。敵の大部隊に包囲され、退路まで断たれてしまったのだ。絶体絶命の危機であった。その時、先頭に立って戦ったのが他ならぬ慶次郎だった。
慶次郎はこの窮状を見かねると自らが部隊を率いて敵陣に突入し、大暴れを始めたのである。
馬上にあっても朱柄の朱槍を振り回し、敵をばったばったとなぎ倒す。馬蹄にかけ踏み潰す。槍で突いて撥ね飛ばす。
とにかく派手だった。
しかも強い。
槍をかいくぐられれば、そのまま馬上で蹴りを入れる。それも当身ではなく、本気で蹴るのだ。慶次郎は体格に恵まれた巨漢である。首の骨ぐらい簡単に折ってしまう。しかし馬が慶次郎の動きについて来れず潰れてしまうことが常であった。
だが慶次郎は馬から下りても強かった。朱槍を風車のように振り廻して近寄る者を片っぱしから叩き殺す。まさに暴れ馬そのものといった戦いぶりだったが、慶次郎には何時でも余裕があった。味方の窮地を救ったばかりか、返す刀で敵部隊の一部を殲滅させ、名うての首級まで挙げてしまったのである。
当然のように慶次郎の名は越後中に知れ渡った。
この活躍によって国人衆に大きな打撃を与えることができた。その後暫くして長尾軍は態勢を整え直すことに成功すると、今度は一転して攻勢に出た。こうして長尾家は窮地を脱し、以後ますます勢いづいて行ったのである。
慶次郎が戦場に出るようになって以来、優勢だったことは言うまでもない。決して無理はしなかったのだ。危ないと見ればさっと馬首をめぐらせ、退却してしまう。だから味方の兵も安心して戦うことが出来た。
それでも慶次郎たちの強さは際立ったものであった。誰もが慶次郎たちの強さに舌を巻き、一目置くようになっていたのだ。
この日の戦は慶次郎たちが到着したとき殆ど勝敗が決していた。特にやることもなくお役御免となった慶次郎が帰路につこうとすると見知った顔と目が合う。
「あ! 紋次郎さん、貞子ちゃん」
「ん? おお、秋子殿!」
「お疲れ様です、秋子さま」
慶次郎はひらりと馬を飛び降りると、秋子に近寄った。
「久しぶりだな」
「はい、ご無沙汰しております」
「お礼の言葉ひとつも無く申し訳なかった」
「? えっと、何のことでしょうか」
「口添えの件だよ」
「そのことでしたら私からのお礼なので気にしなくて良いですよ。むしろお互い様ですから」
そう言って彼女は破顔した。相変わらず明るい娘だ。笑うだけでぱっと花が咲いたようになる。
「そうか。ありがとう秋子殿」
「いえ。それより最近ますますのご活躍をされているようですね。お二方の噂が私の耳にも入って来ていますよ」
「オレたちの名が轟いているのか」
「それはもう、『朱槍の紋次郎』と『鬼小島』の名を知らない者はおりませんよ」
「ほう。そんな名がついているのか」
「あら。ご存じではなかったのですか?」
「ああ。だがそいつはいいな」
慶次郎は満更でもない顔つきだった。
「お、鬼小島……ですか」
貞子が口籠った。
『鬼小島』の由来は貞子の技の冴えにある。彼女は抜刀術を得意としている。『抜き打ちに人の首三つ、四つ落せる』そう自負していた。事実、彼女の腕は確かである。並の相手ならば、まず一刀のもとに切り伏せられる。一対多の戦いにおいても敵を瞬殺することができた。一度抜き放たれた刀身は、相手の命を奪うまで止まらない。そんな貞子の戦いぶりを評した『鬼小島』であった。
「なんだ。気に入らないのか」
「そういうわけでは……」
「いいじゃないか貞子。『鬼小島』いい響きだよ。なあ秋子殿」
「はい。とても良いと思います。……紋次郎さんと並び立てるなんて、とても羨ましい限りです」
「何を言う。秋子殿こそ、その若さで家老にまでなったではないか」
「でも若輩者ですよ。もっと年上の人が沢山います。それに比べたら、私なんてまだまだで……」
秋子が謙遜しているわけではないことは慶次郎にも分かった。家老といっても単なる飾りではなく実務を取り仕切る立場にいる。それも極めて有能な部類に入る。
実際、秋子はよくやっている。まだ二十にも届かないのに家老職に昇るのは異例といってよい。それだけに家中の嫉妬や反感も大きい筈だが、それを跳ね返して頑張れるところが、彼女の凄さだと慶次郎は思っている。実際、現在進行形で頑張っているのだろう。
「秋子殿はよくやっていると思うぞ」
「そうでしょうか……」
秋子は浮かない顔である。自分に自信がないのだ。自分の能力に対する評価が低いとも言える。
「秋子殿は人柄がいい。その上、利発だし頭もいい。誰一人としてお前さんの代わりは出来んよ」
これは本心だった。事実、秋子の処理能力は抜群に高く、その仕事ぶりを見ただけで他の者は舌打ちするほどだと言う。
「人は人、自分は自分さ。自分の出来ることをすればいい。あんまり他人と比べることはないと思うがね」
「はい」
素直に肯くところを見ると、やはり相当気になっているらしい。
「そうだ、秋子殿、今度一緒に酒を飲まないか?」
話題を変えるために言った言葉だったが、これは思いの外効果があったようだ。秋子は見る間に顔を輝かせ、
「えっ、私なんかを誘っていただけるんですか」
と訊き返した。
「もちろんさ。是非にと言って貰えると嬉しいね」
「はいっ! 勿論です。絶対行きます。約束しますっ!」
秋子は嬉しさの余り、声が上ずった。
慶次郎はこういう話術にかけては天才的である。
相手に喋らせ、自分が話しているようでいて実は相手を自分の思うとおりに動かしているのだ。
しかし慶次郎は天然自然のままに振る舞っているだけである。だから相手は慶次郎の言葉の一つ一つに感動し、一喜一憂するのである。慶次郎はこの方法で女を口説いた例は枚挙暇がなかった。当然のことながら、口説かれた女たちは必ず慶次郎の誘いに応じることになる。これが『おかめ丸紋次郎』改め前田慶次郎という男の不思議な魅力となっていた。
ちょうどそこに兵士の一人がやってきた。
「秋子様、ご歓談中失礼致します。準備が整いました、どうされますか」
「分かりました。持ち場に戻りなさい、私もすぐに行きます」
「はっ」
兵士が去った後、慶次郎が訊いた。
「これから何かあるのか」
「残党狩りです。それが済み次第、引き揚げる予定でいます」
「そうか。それは大変そうだな」
「はい。ですからこれで失礼させて頂きます」
「判った。武運を祈る。ではまたな」
「はい、また後日に」
ぺこりとお辞儀をして、手を振って立ち去った。
部隊を引き連れた秋子は馬首をめぐらして、帰路とは真逆の方向に進んで行った。
「……紋次郎さん」
突然、声をかけられた。慶次郎は振り向く。そこには淀んだ瞳をした貞子がいた。
「……あの、随分と親しげなご様子でしたが、秋子様とはどういった関係なのでしょうか……」
「おい、貞子」
慶次郎は呆れたように貞子を見た。
「何を考えているか大体見当がつくぞ。秋子殿はただの顔馴染みだよ」
「本当ですかぁ……」
貞子の目に光が帰ってきた。
「勿論だとも。嘘だと思うなら、秋子殿に直接聞いてみろ」
「えー、嫌ですよぅ」
「それじゃ聞くな」
慶次郎は苦笑しながら、馬に跨った。馬がいななく。
「オレは帰る。お前はどうする」
「もちろん一緒に参りますとも。あなたと離れるのは死ぬより辛いことなのですから」
貞子の目の中に、一瞬、妖しい光りが宿ったが、慶次郎はそれに気づいていなかった。
「大げさだな。よし、それでは行こう」
慶次郎たちは再び馬首をめぐらすと、帰路についた。