正直に言って、この小説を書き始めて以降、作り上げるのに一番難儀した話です。書いては消し書いては消しを繰り返し、やっとの思いで完成させたら、気がつけば前回より2か月近くが経過してしまいました。
・・・・まあ新たな参考資料を買って読んだり、ウィポに嵌ったり、日光白根山と磐梯山に日帰り登山したりと趣味の方にも全力投球していたんですけどね!
後はまあ、今の仕事の勤務形態が変則的で中々上手く執筆のリズムが取れなかったというのもありますが、そんな中でもどうにか苦労しながら書き上げましたので、皆さんそれぞれのペースでお読みいただけますと幸いです。
alea iacta est=ラテン語で「賽は投げられた」
トレセン学園の理事長室には、異様な空気が漂っていた。傾きだした太陽の光が中途半端に窓から差し込んでいる。
応接セットのソファには2組のペアが向かい合う形で腰かけていた。片方は菫色を基調としたセーラー服-この学園の制服を身に纏っている。そして、もう片方は濃淡3色のグレーがまだら模様に配された服を纏い、いずれも決して機嫌が良いとは言えない表情を浮かべていた。
そしてこの部屋の主はそんな4人の座る、それぞれの延長線と垂直に交わる形で自らの執務机に腰かけていた。そんな彼女の後ろには、緑色のジャケットを着た女性が控えている。
「それで、俺たちをこんなところに呼び出したのはどういう理由なんですかね、理事長」
普段から感情を露わにすることの少ない彼にしては珍しく、不機嫌であることを隠そうともせずに、足と腕を共に組みながら小島は答えた。
これから何を言われるか、大方の予想はついているのだろう。理事長はそう思いながら自分から見て左斜め前に座る2人の方を向き、抑揚の無い声でゆっくりと話しかけた。
「不快。これから話すことは君たち-特に小島トレーナーにとって、途轍もなく不愉快極まりないだろう事は承知の上で聞きたい」
それを聞いた両名の表情が僅かに強張る。特に小島は理事長を鋭い目で睨みつけていた。部屋に緊張が漂う。ルドルフとエアグルーヴは唾を飲み込む。駿川は初めて見る彼の鋭い表情に、わずかに怯えを見せた。
そのような小島の様子を見た理事長は、大きく息を吸い込んだ後、まるで清水の舞台から飛び降りるような気分で答えた。
「理由。小島トレーナー、君が何故私たちウマ娘の事を嫌うようになったのか、その経緯を聞かせて欲しい」
-その瞬間、小島の目から光が消えた。眉間には皺が寄り、口元は歪んでいる。表情は鋭さで言い現わすことの出来るレベルを超え、まるで噴火寸前の火山のようになっていた。傍から見ても、湧き上がってくる感情を並々ならぬ精神力で抑え込んでいるのが分かる。
それを見た瞬間、ルドルフとエアグルーヴは目の前の男に対して、初めて本能的な恐怖を抱いた。それぞれの頭頂部にある1対の耳が前側に倒す形で伏せられていることが、その事を如実に表している。
そしてそれは理事長もその秘書も同じであった。帽子の中に隠された両名の耳は、ルドルフとエアグルーヴ同様前に倒されている。
しばらくして彼は、どうにか感情を抑え込むことに成功したのか、大きなため息をつくと、努めて冷静であろうとしているのがはっきりと分かるような口調で口を開いた。
「-いいだろう、話してやる。但し、条件がある」
「条件。条件とは、なんだ」
「今から俺は話が終わるまで理事長、あんたに対しても一切敬語を使わん。それを認めろ」
「りょ、了承。分かった」
脅迫するような声におびえながら、どうにか理事長は答えた。
「それともう一つ。俺の話が終わるまでこの場にいる全員、一切口を開くな。言いたいことがあるなら終わった後に全部聞いてやる」
冷静であろうとしながらもどこか怒りを露わにしたような声に、全員が肯くしかなかった。それを見た小島はゆっくりと、まるで黙示録でも話すような口調で語り始めた。
「-切っ掛けは、ちょっとした出来事に過ぎなかった」
小島隆史は東京の下町にある、地下鉄とJR常磐線(後につくばエクスプレスも加わる)の駅が存在する地区の東側、都営住宅やマンションが立ち並ぶ土地で、会社員の父と薬剤師の母の間に生まれた。
大金持ちでは無かったものの経済的にはそれなりに恵まれた家庭で、3つ年上の姉や同じ都営住宅に住む父方の祖父母に可愛がられながら、大学卒業までをこの地で過ごした。幼い頃から乗り物-特に飛行機が好きで、小学生の頃までの彼は、将来パイロットになりたいと願う優し気な少年に過ぎなかった。
-彼の人生に悪い意味で大きな転機を与える出来事が起こったのは、地元の公立中学に入学してしばらく立った日の事である。
彼が通っていた中学にはウマ娘が複数人生徒として在籍しており、そのうちの1人が彼と同じクラスにいた。彼女は学業成績もスポーツも学年でトップを走っており、担任教師からの信頼も厚く、生徒・教師問わず学校中から1目置かれるような人物であり、休み時間になると彼女の周りには大勢の人だかりが出来ており、あたかもクラス全体が彼女の取り巻きであるかのような様相を呈していた。
だがそれにどこか、本能的な薄気味悪さを感じていた小島はそれに加わらないでいた。彼は休み時間ともなると図書室に行って本を読んだり、彼女の周りに人が集まる姿を適当に横眼で見ながら、教科書を適当に眺めるなどして過ごしていた。
だがそれは、彼女にとって気に食わない事であった。
彼女は何度か小島の事を自らの下へと誘おうとした。だが、彼女にどこか薄気味悪さを感じていた当の本人は、年齢相応の態度でその全てを拒絶した。
彼女にはその事が気に食わなかった。そしてそれが高い知性と運動能力を兼ね備えた者に時折見られる歪んだ考えへと変化するには、そう時間がかかることは無かった。
-成績もスポーツも一流の私に従わない人間など、壊してしまえばいい。
彼女はその考えを実行に移した。ある日の放課後、自身の取り巻きをしている同学年の男子を呼び寄せ、帰宅途中の小島を袋叩きにしたのである。
小島隆史にとっての地獄が始まったのはそこからだった。彼女とその取り巻きは毎日のようにロッカールームで彼に幾度も殴る蹴るの暴行を加え、教科書やノートに誹謗中傷の言葉を書き連ね、それらを破り捨て彼の上履きや体操着と共にトイレに沈めたり、やってもいない悪さを皆で口裏を合わせてでっち上げる-中学生が思いつく限りの非道を小島に行い続けた。
そしてその主犯格たる彼女は自らの手を汚すことなく、それら全てを取り巻きの連中に指示を出す形で行わせ、自分に従わない人間が苦しむ姿を見て愉悦に浸っていた。
無論彼も黙っていたわけでは無い。担任の教師にその事を打ち明け、どうにかして下さいと訴え出たこともあった。
だが担任の女性教師は一言「あんないい子がそんなことをするわけが無い、嘘をついて困らせようとするのは辞めなさい」と言っただけだった。
何しろ加害者本人は表向き、文武両道と清廉潔白を絵にかいたような人物として通っており、3年生にもなると中学の生徒会長を務め、トレセン学園の高等部への推薦編入学も決まるほどであった。加えて、中学の教師全員から高い評価を受けている。
そんな彼女の非道を、成績はトータルで見て中の中(国語と社会科系の科目は5であったが)、スポーツは言うまでもない彼が訴え出た所で信用されるはずもなかった。挙句、体育大学を出て配属されたばかりであったこの教師は、そのような行為が発覚した場合に自分の評価が下がることを恐れ、自己保身のために当の加害者に密告した。
-結果は言うまでもない。小島への非道は更に陰湿さと過激さを増すことになった。
そして彼が2年生になったある日、その後の小島の命運を決定づける出来事が起こる。
その日、彼女は取り巻き連中に小島を無理矢理校舎裏に引きずり込ませると、面白半分に小島を取り巻き連中に抑え込ませて、その額を思い切り蹴り上げたのである。
ウマ娘の力で蹴り上げられた彼がどうなったのかは言うまでもなかった。衝撃で脳震盪を起こし-当たり所が悪ければ命の危険すらあった-額から血を流しながら気を失い、その場に倒れこんだ。
加害者らが立ち去り、目が覚めた時、彼の視界は大まかにしか周囲の状況を判別できなくなっていた。その事に違和感を感じながらもどうにか帰宅し、親を伴って病院で診察を受けた小島は、その場で医者から永久に視力は戻らないであろうことを告げられた。
ウマ娘の蹴りが彼の眼球にどのような影響を与えたのかは分からない。重要なのは、それによって彼の視力が大幅に低下した事である。
-その瞬間、彼は失意のどん底に叩き落された。
それはとりもなおさず、幼い頃からの夢であったパイロットへの道が永久に閉ざされたことを意味していたからだった。
学校と言う空間の外で行われた場合、傷害罪での刑事告訴すらありえたこの行為であったが-学校側は校長はじめ、教職員からPTAまでもが一丸となってこの行為を隠蔽した。成績優秀かつ将来有望な競争ウマ娘を育て上げたという実績を欲した学校側にとって、彼に対する非道は、加害者本人の実績から考えれば隠しておくべき汚点に他ならなかった。
-つまるところ、彼は学校の自己保身と名誉欲のために生贄となったのである。
ウマ娘による面白半分の行為で将来の夢を強制的かつ永久に閉ざされ、周囲の人間は一連の非道を咎めるどころか自己保身と名誉欲のために率先して隠蔽した-その事実を親経由で知った小島は、パイロットの夢を絶たれたショックと相まって、学校に行くことを拒絶するようになった。
そのため、彼は2年生の後半から3年生の前半まで、ほとんど学校に行っていない。3年の半ばからどうにか学校に通えるようになったのは、彼自身の意志ではなく、教師が何の法的根拠も無しに彼のことを「このままでは卒業させない」と脅したからに過ぎなかった。更に不登校の結果、内申点も低く抑えられた彼は、自身が持つ本来の学力に遠く及ばぬ高校へと進学するしかなかった。
これらの一連の行為の結果、彼はウマ娘の事を嫌うようになった。更に家族以外の周囲の大人からの一連の行為は、彼の心から他者に対する信用や友情・信頼・他者の善意というものを奪い去るには十分すぎるほどであった。
結果としてウマ娘に対する嫌悪感と他者への絶対的な不信がベースとなった、自らも自覚するほどに歪んだ性格が彼の中で形成され、それは現在もなお彼の心に重い影を映し出している。
「-とまあ、こんなところだ。分かってもらえたかな」
一連の小島の言葉を聞いた4人は、重苦しさと申し訳なさを混ぜ合わせたような表情を浮かべていた。特にルドルフとエアグルーヴに至っては、すぐにでも謝り出しそうな雰囲気すら漂わせている。
それを見た彼は、諦観混じりに口を開いた。
「お前さんたちが謝る必要は無い。そんなことをした所で、俺の目が元通りになる訳じゃないんだからな」
2人は何も言わず、ただ小島を見つめる。彼はそんな2人を見守るように、優し気な目つきで肯くと、傍らのファイルからとある資料を取り出し、放り投げるようにして両名に渡した。そこに書かれた名前と写真を見て2人は驚く。
なにしろG1レースを6勝して現役を退き、現在はURAの幹部職員として働く傍ら「夢をかなえるサポートをする」と言う名目を掲げて起業した、世間一般にも名の知られたメガベンチャー企業のカリスマ経営者 となったウマ娘の名前が記されていたのだ。2人ともその名前はよく知っている。
-なぜ彼はその人の資料を?
2人がその疑問をぶつける前に、小島は輝きの消えた瞳を見せながら、極刑を下す裁判官の様な、氷のように冷たい声で告げた。
「俺から視力を奪ったのは、こいつだよ」
その言葉を聞いて驚く2人と理事長。信じられない、とでも言いたげな3人を尻目に、彼はたっぷりと皮肉を込めて続けた。
「全く、トレセン学園と言うのは素晴らしいところだよ。こんな、他人の夢を奪ったやつを平然と入学させるんだからな。本当にどうかしている」
沈黙が理事長室を支配した。小島はそこで言葉に区切りをつけると一度口を閉じ、体ごと理事長に向き直る。
彼は答えた。
「理事長、トレセン学園の試験官を全員入れ替える事をお勧めする。なにしろ、そいつらには目玉の代わりにガラス玉か節穴が詰まっているようだからな」
まあ筆記試験はともかく面接なんか、入学試験でも企業の採用選考でも外面の良さと口先だけでいくらでも誤魔化しが効くような選考方法だから本質を見抜けないのも仕方ないだろうが、彼は諦め混じりに答えた。
理事長は何も言わない。ただ小島の事を見つめている。彼は答えた。
「人の夢を奪っておいて『夢を叶えるサポート』とは-全くもって、理解に苦しむよ」
表情こそ平静を装っているが、爪が皮膚に食い込まんばかりの力で両手を握りしめ、歯を食いしばりながら体を震わせている。傍から見ても、辛うじて怒りを抑え込んでいるのが分かるような態度だった。
皆、何も言わない。重苦しい表情を浮かべながら、ただ黙って小島の話を聞いている。
「とまあ-俺がウマ娘を嫌う理由については、理解してもらえたと思う」
言いたいことはあらかた言い終えたとばかりに、先程までの怒りをどこかに放り投げ、態度を一変させた小島は答えた。3人と駿川は黙りこくったまま肯く。彼は続ける。
「世の中には俺みたいに、ウマ娘を嫌う人間もいる事を知っておくことだ。後はまあ、ウマ娘の事は嫌いではないがレースの世界やこの学園を嫌う人間も存在する-そうだろう、森宮一尉」
それを聞いた瞬間、4人の視線が有沙に集中する。彼女は口を開いた。
「ええ、その通りよ」
小島ほどではないが、怒りを湛えたような表情を浮かべながら有沙は答えた。
本来、彼女はこの場に来るはずではなかった。最初に呼び出されたのは小島1人だけだったが、傍で話を聞いていた有沙が
「あたしも一緒に行かせて頂戴。いい機会だから貴方達に言っておきたいことがあるの」
と強い口調で申し出たため、それに何かを察した小島と共にこの部屋に来ることになったのである。その時彼は既に、彼女が何を話したいかの大まかな検討はついていた。故に、先述の言葉を有沙に振った。
今度は何だ、とばかりに4人は背筋を伸ばし、身構える。有沙はそのまま、顔の前で手を組みながら、溜息と共に、重苦し気に口を開いた。
「-あたしには、レースで走っていたウマ娘の幼馴染がいるの」
有沙がマーちゃんと呼んでいる、マーキュリーと言う名のウマ娘と出会ったのは、彼女がまだ保育園の頃だった。『自分の周囲だけが世の中の全てではないことを知る』と言う森宮家の教育方針の元、保育園も小学校も公立の学校に通った有沙は、その幼馴染と共に様々な、名家の箱入り娘として育てられたままでは経験すら出来ない数多の出来事を経験した。
そのような幼馴染と彼女との関係が、やがて唯一無二の親友へと昇華したのは自然な流れと言える。
2人に転機が訪れたのは中学生の頃だった。ウマ娘として走ることが大好きであったマーキュリーはレースの道に進む事を決意し、中央トレセン学園の入学試験に合格。京都を離れ、府中で寮生活を送ることになった。一方の有沙は地元京都にある旧軍の師団司令部を転用した、瀟洒な煉瓦作りの校舎を持つミッション系のお嬢様学校、その中等部に入学し、学園生活を送っていた。
そのような中でも2人の関係性は途切れることなく継続し、高等部になってからデビューしたマーキュリーのデビュー戦には有沙がレース場へと駆け付け、共に勝利を祝った。その後も幼馴染がレースに出走する度、有沙はどこのレース場であっても幼馴染の下へ応援に向かった。クラシック級でこそマーキュリーの成績は振るわなかったが、シニア級になると次第に頭角を現し、得意の逃げ戦術を持って次々と重賞勝利を重ねていった。
そのような、マーキュリーの気持ちよさすら見せながら走る姿に魅了された観客やレースファンは次第に彼女の虜となっていき、やがて彼女は有沙だけではなく多くのファンから活躍を祝われるようになっていった。その流行に乗っかった多くのレースやスポーツ関係のメディアからもひっきりなしに彼女の下へ取材が舞い込み、学業に練習に取材、そしてファンとの応対に追われる日々であったが、それでもマーキュリーは、彼女にとってのファン第1号の事を忘れることなく、関係を保ち続けた。
-そんな彼女を悲劇が襲ったのは、押しも押されぬ初めてのG1-秋の盾での出来事でもあった。
G1こそ未勝利であったが、それまでに見せた高いパフォーマンスを買われ、押しも押されぬ1番人気で、京都から駆け付けたファン第1号もスタンドから見守る中、彼女はレースに臨んだ。
いつも通りの気持ちよさそうな逃げ。2番手以下を大きく引き離し、前半千メートルを57秒台前半と言うハイペースでまとめて見せ、そのペースを保って走り続けている彼女の勝利を誰もが確信していた。
-だが、運命の女神は最悪の形で彼女に牙をむいた。
コースの内側、依田摂津守是政の墓がある大欅-正確には榎-の傍を通過した直後、彼女の右足首の骨は砕け散った。マーキュリーの戦術-スピードとスタミナを活かしたハイペースでの逃げによる大きな負荷に、彼女の右足首の骨が付き合いきれなくなったことが原因であった。
関係者席から幼馴染が走る姿を見守っていた
騒然とするスタンド、第4コーナーの奥に倒れる幼馴染、複雑な表情を浮かべる優勝者の姿-全てが、何かの夢であるかのように感じられた。
そこから先の事はよく覚えていない。何も考えず、ただ幼馴染の下へと駆けだしていったことまでは記憶に残っていた。
マーキュリーが競争能力を喪失したことを有沙が知ったのは、京都に戻ってからの事であった。彼女はそれを、幼馴染本人からメッセンジャーアプリを経由する形で伝えられた。
レースに全てを捧げてきた幼馴染に有沙は何を言っていいのか分からず、ただ慰めになりそうな言葉を機械のように返信する事しかできなかった。
不運は続く。年が明けてしばらくの頃、トレセン学園を去ることになった。
トレセン学園の生徒は制度上、走れなくなったとしても学園を去る必要は無い。そのような憂き目を見たウマ娘向けに、様々な支援制度も用意されていた。しかし、走れなくなった殆どのウマ娘は学園を去る。彼女ら-特にレースの世界に身を置く者にとって、自らの脚で走る事は種族の性質的に大きなウエイトを内心に有しており、そのような
だが、マーキュリーの場合はそれだけではなかった。怪我をして以降、学園で尊敬ではなく噂話と軽蔑の対象となったのである。特に彼女の陰に隠れて見向きもされなかった者、敗北してきた者が率先してそのような噂を学園中に広めた。
基本的に女子校であるトレセン学園内で、彼女に対する根も葉もない悪評が広がるのに、そう時間はかからなかった。一部の教職員がそれに同調するような態度を見せたことも、彼女を更に追い詰める結果となった。
さらに、あれだけ彼女に注目していたファンとマスコミも彼女が走れなくなったと見るや、表向きは残念がったり無念を慮るコメントや記事を量産したが、それが終わると用済みとばかりに彼女への注目を一斉に捨て去り、今までの事は忘れたとばかりに、新たな話題や『推し』を求めて彼女を見放した。
無論、それまでと変わらない態度で接する者たちもわずかに存在したが、大きな流れの前には無力に過ぎなかった。
こうして、彼女はトレセン学園に在籍し続けるだけの精神力を失い、失意のうちに帰郷することになった。
学園側も何もしなかったという訳ではない。様々な支援制度を説明して彼女を引き留めようとした。だがマーキュリーに、あれだけ称賛しておいて手のひらを返したマスコミやファンの存在、さらには学園内で悪意を持った噂話と軽蔑の対象となることに耐えられるだけの余裕は失われていた。
その後マーキュリーは家に引きこもるようになり、殆ど家の外に出る事が無くなった。数多の精神的衝撃は、彼女の心を粉砕するのに十分すぎたのである。
そのような、幼馴染の変わり果てた姿を見た有沙は、世の中とトレセン学園を含んだレースに関係する物全てに対する憤りを深めた。一握りの栄光と無数の屍を生み出しながら、屍を見せることなくきれいな面ばかりを切り取って、あたかもそれが全てであるかのように虚飾で飾り立て、その幻想を求める数多の者に青春を費やさせ、競技スポーツとそれを取り巻く者たちの醜悪な側面を具現化したような幼馴染への仕打ちに、有沙は我慢がならなかったのだ。
だからこそ彼女は、マーキュリーのファン第1号としての義務を果たし続けることにした。幼馴染が走っていた頃と変わらない態度で接し、他愛のない会話を続けた。マーキュリーの側もまた、それが彼女にとっての唯一の心の支えであり続けた。
「・・・そのようなことが」
ルドルフが絞り出すように口を開く。エアグルーヴは有沙の発する圧に気おされ、黙りこくったままであった。
「話はまだ終わりじゃないわよ」
憤りを通り越して、怒りすら込めたような目で有沙は答えた。
「決定的な出来事がこの後に起こったの」
「決定的な出来事?」
「あたしが防大へ進学して、唯一後悔していることよ」
どこか自分を罰するように述べると、有沙は話を続けた。
その後3月になり、母親と喧嘩をして家出同然に防大への進学を決めた有沙は、関東へ向かう前日、幼馴染の元を訪れた。
レースを走っていた頃の朗らかさはどこかへと消え去り、目からは輝きが失われていた。長い髪も最低限の手入れしかされておらず、服装も洗濯こそされているものの味気の無い、地味な色合いの物だった。
明日から防衛大へ行くことになったの、それを聞いたマーキュリーは寂しそうな顔をしながら有沙ちゃんにはこっちにいて欲しかったんだけれど、どこか引き留めるような口調で言った。
ごめんなさい、でも、うるさいママから逃げるにはこれしか考えつかなかったの。謝るように答えた有沙に、でも有沙ちゃんが自分で決めたことでしょ、私は応援するわ。マーキュリーは強がるように答えた。
有沙は幼馴染の言葉が本心ではないことを察しながらも、二度と会えなくなるわけじゃないんだし、お休みを貰ったらその度に帰って来るわよ、同じように強がってそう答えた。
その後は2人でしばらく雑談に興じ、最後は玄関までマーキュリーに見送られて有沙は彼女と別れた。その時、自分がどこか後ろ髪を引かれるような思いでいた事を、有沙は今も明確に覚えている。
その後有沙は防大での生活に追われ、幼馴染と連絡を取り合うだけの余裕が無くなっていた。広瀬彩香と土井美咲と言う新たな友人を得たこともまた、それをさらに加速させる結果となっていた。
マーキュリーから彼女のスマホに電話がかかってきたのは、そんな忙しい日々の間に存在する、とある休日のことであった。
なかなか連絡が出来なくてごめんね、こっちでの生活が忙しかったから。そう謝るような有沙の言葉で始まった会話は暫く続いた。
お互いの事、今の生活の事、とりとめのない世間話-幼馴染と話している時、有沙はいつの間にか、自分が家出同然に出てきた防大生であることを忘れ、一人の女の子の姿に戻っていた。
そして会話も終盤となり有沙が別れの挨拶をした時、電話越しの幼馴染は
「今までありがとう」
そう言って電話を切った。
どうしたんだろう。幼馴染の言葉に違和感を感じた彼女であったが、その時は全く気にも留めず、翌日からの課業と校友会(防大における部活動の呼び方)の事に頭を切り替えていた。
-マーキュリーが遺書を残してマンションの屋上から飛び降りた、という知らせを有沙が父親経由で受けたのはその数日後の事であった。
特別に1週間の外泊許可を貰い、憔悴しきった顔で大急ぎで制服を着こみながら荷物をまとめて新幹線に飛び乗り、京都市内の病院-その集中治療室の前にたどり着いたのは夜の更けた、日付も変わろうかと言うころだった。
そこには有沙の父親と、マーキュリーの両親がいた。何れも沈痛な面持ちで視線を下に向けている。特に、幼馴染の両親は沈痛や憔悴と言う言葉でさえ言い現わすことの出来ない表情でただ、うつむいていた。
彼女はそこで、幼馴染の母から一通の手紙を手渡された。そこには幼馴染が学園を去ることになった経緯とその詳細、そして何故このような行動を決意したか、最後に両親とファン第1号に対するこれまでの感謝の言葉が書き連ねてあった。それを読んでいるうちに、自分の心のどこかにしまい込まれていて、自分でも忘れていたレースやトレセン学園に対する怒りが再び心の中で湧き上がってくるのを彼女は感じていた。
そして、怒りの感情と同じほどに幼馴染に対する自責の念もまた、有沙の中で湧き上がってきていた。
(私が防大に行かず、あの後もずうっと傍にいてあげられていたら)
今回のようなことにはなっていなかったのかもしれない。有沙は心の中で自分を責めた。京都を離れる前日に交わした会話と、別れ際に感じた後ろ髪を引かれるような思い、そして幼馴染の表情が有沙の中で鮮やかすぎるほどに蘇ってくる。それを思い出しながら、後悔と謝罪が彼女の脳内を渦巻く。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
彼女の頬を目から溢れた熱いものがとめどなくつたう。有沙は自分が防大の制服を着ていることも忘れ、顔を両手で覆った。いくら防大生とはいえ、この時の彼女は20にもならない、大人への成長過程の中途にある一人の少女に過ぎない。そのような有沙にとって今回の幼馴染の行動は、彼女の精神に対して打撃を与えるには十分以上の働きをもたらした。
そんな時、マーキュリーの母親が呟いた一言が、現在に至るまで続くトレセン学園とレース関係者を嫌う彼女の性格、その最後のトリガーを引く事となった。
「-こんなことになるんなら、レースの世界にあの子を入れるんじゃなかった」
泣きながら震えるような声で絞り出された発言を聞いた時、同じように涙を流していた有沙の中で何かが切れた。両手で顔を覆い涙を流しながらも、自責の念を上回るほどの怒りが内心で湧き上がってくるのを彼女は感じていた。
その時集中治療室の扉が開かれ、無地の
医者はマーキュリーが分厚い植え込みに着地したために衝撃が吸収されたこと、たまたま近くを歩いていた人がすぐに通報したのが良い方向に-少なくとも、彼女の生命を維持するという面では-働いたのであろうことを説明した後で、出来る限りの平静を保ちながら口を開いた。
「彼女は、もう2度と自分の足で立って歩くことは出来ないかもしれません」
脊髄の神経が損傷していて、腰から下を動かすことは2度と出来ないでしょう。将来医学が進歩すれば別ですが、現在の医学ではこれが限界です。
-ウマ娘にとって、実質的な処刑宣告に等しい言葉であった。医者は出来るものなら自分だってこんなことは言いたくない、とでも言いたげな表情を浮かべている。
そうですか、4人は沈痛な面持ちでそう言うのが精一杯だった。
有沙はそのまま実家に泊まり、翌日、意識を取り戻したマーキュリーを見舞いに、彼女の病室へ向かった。虚ろな目でベッドに横たわる幼馴染。傍らの椅子に腰かけた有沙を見て、彼女は絞り出すように話し始めた
「・・・私ね、もう2度と自分の足で立って歩けないんですって」
それなのになんで生きているのかしら。本当に莫迦みたい。走るどころか、2度と歩けなくなっちゃったのに。無機質な声が有沙の鼓膜を揺さぶる。
それを聞いた有沙は、自分の両手で幼馴染の手を握りしめながら、震えるように口を開いた。
「あたしね、貴女をこんな体にしたレースとトレセン学園の事が憎い」
年頃の少女そのものでありながら、怒りのこもった声で彼女は答えた。
「あんな奴ら、大嫌いよ」
マーキュリーは何も言えず、何も分からなかった。彼女にできたのは、ただ俯き、目から涙を流し続ける有沙の事を見つめるだけだった。
しばらくの間、無言の時間が続く。やがて有沙は両手を離し、顔を上げて涙を拭うと、口を開いた。
「これから、どうするの」
「分からないわ」マーキュリーは答えた。「今はまだ、現実を受け入れる時間が欲しいのよ」
「そう」
有沙は答え、これから向こうに戻るまで毎日ここに来るわ、そう言って病室を後にした。
その言葉の通り、有沙はそれから防大に帰るまで、全ての日を幼馴染の見舞いに費やした。それがどのように作用したのかは分からないが、マーキュリーは次第に往時の輝きを取り戻していった。
「じゃあ、また必ず会いましょう」
防大に帰る日、車椅子に乗って病院の正面玄関まで見送りに来た幼馴染に、防大の制服を着ている有沙はそう言って病院を出ようとした。その刹那、マーキュリーは何かを思いついたかのようにファン第1号を呼び止める。どうしたの、とでも言いたげな表情で振り返る有沙を見て、彼女は答えた。
「あの、わたし」
ゆっくりと言葉を紡いでいくマーキュリー。有沙は穏やかな表情でそれに応じた。
「なあに、マーちゃん」
「レースの世界だけが世の中の全てだって、知らないうちに思い込んでしまっていたのかもしれないわ」
「ええ、そうね」何かを思わせるように有沙は答えた。
「有沙ちゃんも、頑張って」幼馴染は返した。「防大の生活って、とても大変なんでしょう」
「そうね」制帽を被りながら有沙は答えた。「でも、あのうるさいママといるよりは幾分かましだわ」
「じゃあ、またね」
「ええ。また必ず、会いましょう」
そう言って幼馴染に背を向け、有沙は病院を出ていく。振り返ることは無かった。
しかしマーキュリーはその姿が見えなくなるまで、背を向けたままの有沙に手を振り続けた。
有沙はそのまま胸中に渦巻く、レースの世界に対する怒りの感情をどうにか抑え込みながら防大へ戻り、翌日からはそれを内心に抱えながらも、表面上は他の学生同様の生活を4年の間送り続けた。
その間も長期休みの度にマーキュリーに会いに行き、ゲームの専門学校を卒業した後で京都にある大学の文学部に編入学した彼女との間で、年齢相応の会話や外出を楽しんだ。
幹部候補生学校を卒業して任官した時には、有沙はまるでファッションモデルのようにふるまいながら真新しい三等空尉の制服姿を幼馴染に見せ、それを見たマーキュリーは制服姿で様々なポーズを取る有沙の写真を手当たり次第に撮って彼女に送った。
以来、有沙とマーキュリーは深い友人としての付き合いを続けている。有沙が将来の夫となる男性を、自分の両親に次いでマーキュリーに紹介したことがそれを物語っていた。
「-あたしが結婚することを、マーちゃんはとても喜んでくれたわ」
無表情かつ輝きの無い目で、有沙は淡々と静かに語った。その言葉には強い意志と憤りが込められていた。
4人は何も言わない。小島の言葉から続く一連の話を黙ったまま聞き続ける。部屋には重苦しい空気が漂っていた。
有沙の独唱は続く。
「教えて頂戴、ルドルフちゃんにエアグルーヴちゃん、どうしてあの子があんなことにならなきゃいけなかったの?あたしはあれ以来、レースもこの学園のことも大嫌いになったわ。勿論、誉めそやすだけ誉めそやしておいて、価値がなくなったらお役御免とばかりに手のひらを返して捨て去るファンも、マスコミも、関係者も」
先程よりも語気を強めて彼女は言った。その目には怒りが渦巻いている。2人は何も答えない-と言うより、答えることが出来なかった。
有沙は話を続ける。
「そこまでして貴方達がレースにこだわる理由って何?一握りの栄光と無数の屍を生み出すこの世界に、何の意味があるって言うの?あなたたちは、二度と戻らない時間と青春を対価にした幻想を見せつけているだけじゃないのかしら?」
その言葉を聞いたルドルフとエアグルーヴは複雑な表情を浮かべた。今有沙が語った事の意味は、2人とも痛いほどに理解していたからである。
どれ程努力を重ねたところで、勝利の女神の接吻に浴することが出来るのは、幸運と偶然に恵まれたほんの一握りに過ぎない。勝利する事すらできずに心が折れて学園を去る者、有沙の幼馴染のように怪我で二度と走れなくなり、結果として精神を病む者-この学園の生徒会を代表するものとして栄光の裏でそのような、数えきれないほどの影を見てきた。
結局のところウマ娘のレースも他のプロスポーツ同様、一握りの栄光と無数の屍を生み出すシステムであるという軛から逃れることは出来ない。
だからこそルドルフは、レースの世界がそうであることを痛いほどに理解しながらも「全てのウマ娘の幸福」という理想を掲げ、そこから零れ落ちる者の存在にも目を向けた上で自らの理想を実現するべく、限界はあるとはいえ皆を導きながら常に努力している。エアグルーヴも彼女のその姿勢に共感し、ルドルフに仕えていた。
-そしてそれ故に、今の有沙には何も言い返す事が出来なかった。何を言っても、かけがえのない幼馴染を二度と歩けぬ体にした元凶に対する怒りに燃えた彼女の逆鱗に触れることにしかならないという事を、有沙から伝わってくる気迫によって十分に理解していた。
無表情かつ無言で細君の話を聞き続けていた小島が口を開いたのはそんな時だった。
「まあ、君たちには君たちなりの考えがあるのだろう。それについて否やは無い。自分と同じ考えばかりの世界などつまらないよ。十人十色、多様な考えがあってこそ世の中は発展していくものだ」
まるで普段のルドルフのような口調で彼は答え、続けた。
「だからこそ、ウマ娘に対して俺たちのような考えを持つ人間も少なからず存在することを-その事に反感を持ってもらって構わないから-理解してほしい」
「理解、ですか」ルドルフが答えた。
「ああ」小島は答えた。「特に、君たちはレースの世界で育ったのだからレースの世界を中心に考えてしまうのも無理もないと思うが」
そう言いながら小島はおもむろに、乙名史が書いたWEB記事を印刷したものを持ち出した。そこには阪神で彼が何を語ったかが一言一句余すことなく記されている。それについては4人とも読んでいた。
怪訝そうな表情を浮かべる4人。代表してルドルフが答えた。
「何故このようなものを」
「俺が言いたいのはつまり、ここの部分だよ」
そう言いながら小島は記事のとある部分を指さす。彼が示した箇所を見て、ルドルフとエアグルーヴはわずかに表情を変えた。何故ならばそこが、この記事の中で2人の琴線に最も触れた部分だったからだ。
-自分たちの身の回りだけが世間の全てだと思ったら大間違いだぞ。
「・・・何をおっしゃりたいのでしょうか、小島トレーナー」
エアグルーヴがここで初めて口を開いた。相変わらず、表情は硬い。
-全く、お義母さんから聞いてはいたが、
「君たちはどうやら自分の周囲半径5メートルだけが、世の中の全てだと思い込んでいるようだからな」
-あくまで個人的な考えに過ぎないが、彼はそう付け加えた。
「私たちの視野が狭いというのですか」
信じられない、とでも言いたげにエアグルーヴは答えた。傍らに座るルドルフもまた、彼女と同じことを言いたげな表情を見せている。
「理解に苦しむ発言です。私たちのどこを見れば、そのような考えを」
「では聞くが」エアグルーヴの発言を遮るように小島は答えた。「レースに全く興味がないウマ娘がいる事を、君たちは信じられるのか?」
途端に2人の表情が変わった。まるで宇宙人を目の当たりにしたようなものになっている。それを見た小島は、ほらな、とでも言わんばかりに答えた。
「それが答えだ」
ついでだから話してやる、そう言って彼は言葉を紡ぎ始めた。
それは、小島が航空幕僚監部付きを経てトレセン学園分遣隊の長として着任する前に勤務していた、習志野の高射隊での出来事であった。
彼はこの日、部隊長-一番下っ端の二等空士から叩き上げたベテランだった-のお供で、御殿場に駐屯している教導機甲連隊を訪れていた。その際に当時の連隊長の好意で、まだ配備が始まったばかりの、2022年に勃発したウクライナとロシアの戦争の教訓をもとに改修された16式機動戦闘車と10式戦車の改良型の走行の様子を見る機会に恵まれたのだった。
案内役としてつけられた、戦車中隊長を務める小柄で金壺眼の三等陸佐-確か新城直衛とかいう名前だった-の説明を受けながら暫しその光景を眺めていると、目の前で2台が停止した。搭乗員が降りてくる。16式からは4人、10式からは3人。
驚いたのはその全員がウマ娘であったことだ。頭頂部にある1対の耳を保護する特殊な形状のヘルメットを被っていること以外は、一般的な戦車搭乗員と何ら変わりはない装備を身に纏っている。
我が連隊のエースですよ。尤も、少々お転婆な所はありますが。新城は茶目っ気混じりに答えた。それを見た小島は多少の困惑を浮かべながらも10式の車長を務める、一等陸曹の階級をつけたウマ娘に少々不躾ともいえる質問をぶつけた。
-走ることに興味はないのか。
彼のその質問に、目の前のウマ娘ははっきりと答えた。
「自分の足で走るのは嫌いじゃないですけど、私は戦車を動かす方が好きですから。これと言ってレースに興味はないですね」
その言葉を聞いた小島はどこか新鮮な気分を味わった。それまで彼は、ウマ娘といえばレースや走ること一辺倒の連中だとばかり思っていたからだ。そのような中で彼女の様な、レースに興味を持たないウマ娘を見いだすことが出来たのは、ウマ娘-特にレースで走る競争ウマ娘の事が
彼はその後他の乗組員6人にも同様の質問をぶつけてみたが、何れも同じような回答が返ってきた。自分の足で走るより楽しいですし、そう言ってきた者もいた。
結果、彼はそれ以前からの信条としていた、自分の身の回りだけが世の中の全てではないという自らの考えを更に強固なものとするに至った。彼の阪神での発言の裏には、そのような背景が存在している。
一連の話を聞いてもなお、ルドルフとエアグルーヴはレースに興味を持たないウマ娘が存在するという事を信じられずにいた。
無理もない。レース場で誰よりも早く駆ける事だけを第一に考え、そのために幼い頃から鍛錬を重ねてきた者たちにとって、レースとは世の中の全てであり、それ以外の事に視野を広げることは、基本的に思考の埒外に存在している。
そのため、彼女たちはどうしてもレースの世界だけが世の中の全てであるとの思考を持ってしまいがちであり、この件について殊更に彼女たちを責めるのは酷な話であった。
「百聞は一見に如かずと言うからな、無理もないさ」
教え子を諭す教師のように小島は答えた。
「自分の目で見た事じゃなきゃ、誰しも信じられないのは世の常だ-ともかく、俺と森宮一尉がウマ娘に対して好意を抱いていないことは、理解してもらえたと思う」
「理解できません」
そのとき、訳が分からないとでも言うふうにルドルフが答えた。
「我々ウマ娘や、レースの事が嫌いであるのならば、何故お2人はこのような場所におられるのですか」
「この記事に載ってるだろ」乙名史の書いた記事を示しながら小島は答えた。
「言葉で直接お伺いしたいのです」ルドルフは反論するように応じた。「初対面の際に、嘘偽りを述べないとおっしゃったのは、どなただったのでしょうか」
それを聞いた小島は頭を抱えると、軽い諦観を浮かべて沈黙した。しばらくして一度溜息をつき、口を開く。
「思想信条と仕事は-完全とは言わないが分けているんでね」
何をかいわんや、といった風に彼は述べた。
「何しろ、俺たちはこれで銭をもらっているんだ。自分の懐が潤うのならそれで文句は言わん。金の卵を生み出すガチョウの首を絞めるほど、俺も森宮一尉も愚か者じゃないからな。ウマ娘やレースの事が嫌いでも、それを理由に君たちに対する差別的な発言や暴言暴力の類は絶対にやらないとだけは言っておこう、何なら文章にもしてやる」
ただし、そう前振りして小島は続けた。
「君たちが俺たちにそれをやるというのなら容赦はしない。ありとあらゆる手段を使ってこの学園も、トゥインクルシリーズも、ドリームトロフィーリーグも、URAごと完膚なきまでに叩き潰してやる」
それを聞いた4人の背筋に冷たいものが流れた。彼の言葉が嘘偽りの無い本心から出たものである事を、その鋭い目つきと感情の無い機械的な口調から瞬時に読み取ったからであった。
更に恐ろしかったのは、彼がその事を意識することなく言葉を紡ぎ出していることである。小島にしてみれば、余すところなく本心を語ったに過ぎないが、ともかく彼の言葉はそのような印象を4人に与えていた。
それを見た小島はどこか満足気な表情を浮かべると、言いたいことは全て言い終えた、とばかりに口を開いた。
「とまあこんなところだが、今の話について何か君たちから言いたいことはあるか」
返答はなかった。4人ともただ重苦しげな表情で黙りこくっている。その様子を見た彼は答えた。
「そう言う事なら、俺たちはこの辺でおさらばさせてもらうとしよう。後は批判するなり罵倒するなり、好きにしてくれ」
そう言って小島は席を立つ。隣に座る有沙もまた彼に倣った。4人はそれを引き留めなかった。2人はそのまま無言で扉を開け、廊下へと出ていく。
-その後には沈黙だけが残された。重苦しい空気が理事長室を支配する。
「・・・・確かに、返り血ではすみませんでしたね」
漂う重苦しさを振り払うように、エアグルーヴが口を開いた。ルドルフもまた、似たような口調で言葉を紡ぎ出す。
「・・・・これから、どうなっていくのだろうな」
「不明。全くもって分からない」頭を抱えながら理事長が答えた。
「あそこまではっきりと
駿川が答える。それが出来たら苦労はしない、言葉に出さずとも4人は皆そのように、同じことを思っていた。この日幾度目かの沈黙が部屋に漂う。
そのまま数分が経過したとき、腕を組み瞑目していたルドルフが、何かをひらめいたかのように口を開いた。
「・・・・そのようなものとして、受け入れるしかないのではないでしょうか」
正気か、とばかりに他の3人は彼女の方を見つめる。エアグルーヴなど、ルドルフの言葉に衝撃以上の何かを受けたかのような、驚きと困惑の入り混じった、異様な表情を浮かべていた。
それらを見てもなお、ルドルフの決意は変わらなかった。彼女は続ける。
「敢えてあのような人間を置くことで、見えてくる物もあるのではないか、と思います」
その言葉を聞いた理事長は、まるで絶叫するように口を開く。
「危険っ!それは下手をしたら毒薬にすらなりかねないぞ!最悪、トゥインクルシリーズ自体の存続にも関わって来かねん!」
「それは理解しています」ルドルフは答えた。「ですが毒と薬の違いと言うのは-アグネスタキオンが言いそうな言葉を借りるなら-量の問題に過ぎません」
「意図。何が言いたいのだ、ルドルフ」
「彼はもっと多面的に物事を見ろと言っていました。であるならば彼にその材料を-レースの世界の暗い側面を明らかにするような材料を-提供してもらおうと思います」
「側面。暗い側面、だと」
理事長は答えた。
「お2人の話を聞いている中で、私は疑問に思ったことがあるのです-今のままで、果たして『全てのウマ娘の幸福』と言う理想を実現することが出来るのだろうか、と」
全てのウマ娘の幸福。ルドルフはその理想を達成すべくこの世界に身を置いている。少女の青物語と笑う者も少なくないが、少なくとも彼女はその実現のために邁進していた。
それを疑問に思うとはどういうことなのか、聞いた3人は思った。ルドルフはその様子を見て、まるで深淵を覗き込んだかのように答えた。
「今まで私はレースで走り、その結果によって皆を導くことこそが、理想を実現するための手段であると考えてきました。しかしあの2人のように、ウマ娘に-特に我々の様なレースの世界に生きる者によって不幸をもたらされた人々を目の当たりにした時、その理想が揺らいでいくのを実感せずにはいられませんでした」
それに関しては他の3人も量の大小こそあれど、同じような感情を抱いていた。2人の話を聞く中で、レースの世界に生きる者としてのレーゾンデートルやアイデンティティが揺らいでいくのを否が応でも感じさせられたからだ。
「『全てのウマ娘の幸福』と言う理想が実現したとして、果たしてお2人のような方々とどのように接して行くべきなのか-そのことを考えた時、一つ思いついたのです」
ルドルフはそこで言葉を切る。少しの間を置いて、悪魔のささやきのようでありながら、どこか重苦しさを持った声で彼女は答えた。
「あのお2人に、この世界のダークサイドを発信して頂こうと」
その瞬間、理事長室の空気が再びざわつく。部屋全体からルドルフは一体何を考えているんだという言葉が聞こえてくるようであった。彼女はそれを肌で感じ取りながらも、覆水盆に返らずとばかりに話し続ける。
「勝者と敗者が生まれるのはこの世界の常です。しかし、我々のように裏も表も知るような者ならともかく、レースの世界について世間には基本的に表面しか-華やかな側面だけしか伝わっていません。数多く生まれる敗者など、過酷な側面は殆ど知られていないのが現状です」
ルドルフの言葉に沈黙しながらも、3人は内心で彼女の言葉に同調していた。レースについて伝える雑誌、テレビ、インターネットなどの各種メディアが伝えるのは、基本的にレースの華やかな側面ばかりで、その裏にある暗い側面に目が向けられることは殆どない。
華やかさだけを求める者の方が大多数を占める世の中では暗い側面に目が向けられることは殆どないし、メディアがそれらを報じたところで一銭の金にもならない。組織や生活を維持するために仕方のない事とは言え、権力の監視や社会の木鐸などの題目を掲げていても、自分たちの銀行口座の残高はそれらよりはるかに優先順位が高いのだ。
そして世間はそれらだけがレースの世界の全てであると信じ込み、余計に華やかな側面ばかりを見続けることになる。有体に言ってしまえば悪循環としか言いようがなかった。
ルドルフは続けた。
「そのような面を知らせないままでいることが、レースの世界に生きる者として果たして正しい事なのでしょうか。この世界の表も裏も十分に理解して頂き、その上で今まで通り応援を続けるファンを増やす方が、長い目で見れば多大な利益を我々にもたらし、より望ましい形で自分の理想の実現に資する-そう考えました」
その時、ふと違和感を感じた理事長はエアグルーヴの方を見る。彼女は軽い驚きを覚えた。
なぜならばエアグルーヴの表情が、どこかルドルフに同調するようなものに変化していたのだ。ルドルフもまた、それを理解しているかのように話し続ける。
「幸いなことに、あのお2人-ひいては分遣隊の方々は部外者に過ぎません。ですから逆に、私たちの様な内側にいる者では決して言うことの出来ないことを遠慮なく言って頂きましょう」
どこか責任を転嫁するようにルドルフは述べた。続ける。
「無論、それに対するこの学園やURA、世間からの風当たりは少なくないでしょう。私たちにも火の粉は降りかかってくることと思います。ですがそれでも、あのお2人のような異分子を敢えてこの世界に存在させることが、未来のウマ娘にとって多大な幸福と利益をもたらすことになる、そう私は思っています。勿論、危険性は覚悟の上で」
ルドルフは覚悟を固めた目で理事長を見据える。つまるところ、彼女のプランは小島と森宮を主とするトレセン学園分遣隊と言う異分子を利用して、リア王に対する道化の役割を担わせようというものだった。
彼女のプランは決して悪いものではない。なぜならば分遣隊メンバーがどのような発言や行動をしても、その批判は防衛省や自衛隊に行くことになるからだ。学園やURAにとっては痛くも痒くもない。
-彼ら彼女らのこれからの発言や行動、さらにはそれらがレースの世界に何をもたらすのか、その影響が全く予測出来ないという点を除いては。
それが唯一にして最大の懸案事項であった。こちらの常識で推し量ることの出来ない、分遣隊メンバー-特に隊長と副長-の発言や行動を鑑みると、こちらの予測の斜め上どころか3回転半ひねりでも足りないくらいの事をするであろうことは容易に想像が出来た。そうなった場合、どのような影響がこちらに降りかかってくるのか、どのように転ぶのかが全く予測できない。最悪、この国におけるウマ娘レースの世界を根底から覆しかねないのだ。
だがルドルフはそれを承知の上で、レースの世界のダークサイドを詳らかにさせようというのだ。そしてそれが長い目で見たこの世界の利益や、彼女の理想の実現のための一助になるとまで言い切った。
つまり-彼女は既に腹をくくっているのだ。
「捨身。肉を切らせて骨を断たせようというのか、ルドルフ」
理事長が問う。彼女は頷き、少しの間を置いて答えた。
「最悪骨すら切られるかもしれませんが-その時はその時です。なるようにしかならないでしょう」
「エアグルーヴ、君はどうなんだ」
「私は、会長のおっしゃることに従うまでです」彼女もまた据わった目で答えた。
生徒会長と副会長の決意に、理事長は驚いていた。何より驚いたのは、2人の幹部自衛官の一連の言葉が、レース一辺倒と言っても過言ではない2人にそのような覚悟を固めさせるだけの影響力を持っていた事に対してである。
理事長は思った。
-あの2人は自分たちの言葉が持つ重みを理解していないのだろう。ただ自分の思いを正直に述べる。それが何をもたらすかは、自らの思考の範疇の外にあるのだ。自分の意志とは関係なく強制的に与えられた現実に打ちひしがれながらも、どうにか前へ進もうと必死でもがいてきた2人に、自らの行動や発言が周囲に及ぼす影響など考えるだけの余裕は無かった-そう言う事なのだろう。
ならばなるようにしかならない。理事長は決意し、息を肺の奥まで吸い込むと、あたかも戦場へ向かう兵士への訓示のように告げた
「修羅。ここから先は-修羅の道だぞ」
全員が頷く、この瞬間、この場にいる全員は、自らが
-その先に何が待っているのか、全く分からないまま。
お読みいただきありがとうございました。
1年近くかかりましたが、ようやく本作に一区切りをつけることが出来てほっとしています。
次回はしばらく時間が(作品中で)飛んで、初秋ごろの話になりますので、どうぞよろしくお待ちください。
(以下余談)
・・・・次回はもう少し早く投稿出来るように頑張ります。おしごとたいへんです。