トレセン学園分遣隊活動記録   作:山屋な司令官(改)

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どうにか前回より短い間隔で投稿出来ました。(と言っても5日ほどですが)

・・・いや、私生活の方で色々あったんですよ。夏風邪をひいて38度台の熱を出して白山登りに行く予定がおじゃんになったり、それが治ったと思ったら母方の叔父が急に亡くなったり仕事が忙しかったりと。

決してウィポに嵌っていたとかそういうのではありません。

・・・ピルサドスキー×アグネスレディーの子供、かつファインモーションの同期でオークス勝たせたり、フジキセキの子供(だったと思います)にノリさん乗せてバーデン大賞典勝たせたり、エルコンドルパサーの子供でホープフル・皐月・ダービーを無敗で勝たせたり(無敗の三冠狙った菊花賞は距離が少し長かったです)、40年近くかけて牝系を構築したりと色々やってました。ごめんなさい。

なお今回途中に実在する曲名が出ていますが、ハーメルンの歌詞使用ガイドラインを見たところ、曲名のみであればコード入力は不要との事なのでコードは入れてません。予めご了承ください。

それではどうぞ。



第12話  多重奏

「さて、次のレースだが」

 小島が応接スペースでそう告げたのは、9月も終わりに差し掛かったとある日の事であった。目の前には2人のウマ娘-アグネスタキオンとマンハッタンカフェが並んで、革張りのソファに腰を落としている。

 

 タキオンは先日、中山で行われた芙蓉ステークスで2勝目を挙げ、オープン入り-端的に言えば重賞への出走資格を手に入れた-した。一方のカフェもデビュー2戦目で2000メートルの未勝利戦を勝利し、どうにか一息つくことが出来ていた。

 その意味は大きい。何しろ、未勝利戦を無事に勝ちあがるのと勝ち上がれないのでは、下手をすればその後のレース選びに天と地ほどの差が出てくる。そう言った意味でいえば、今のところ勝利の女神はこの2人を見放してはいないようであった。

 

「いよいよ次は重賞、という訳かい」

 足を組みながら、どこか不敵な表情を浮かべてタキオンは応じた。芙蓉ステークスの勝利以降、来年のクラシック候補として少しずつ注目されつつある彼女であったが、相も変わらず怪しげな研究に勤しんでいる所を見ると、その辺りはあまり気に掛けていないらしい。

「まあ、そんなところだ」

「それで、どれを狙うつもりだい」

「それについては、もう決めている」悪戯を仕掛けるように小島は答えた。「ホープフルステークスだ」

 

 それを聞いたタキオンはほう、とでも言いたげに興味深そうな表情を浮かべて彼の言葉に応じた。

 一方のカフェはジュニア級とは言え重賞の中でも最高峰の格付けを持つ、競争ウマ娘の中でも選び抜かれたほんの一握りの者だけが出走を許されるグレード1レースの名を平然と、まるで親戚の子供に菓子でも手渡すかのような軽さで言ってのけたことに軽い驚きを覚えていた。

 

(まあ、小島さんに私たちの常識を適応すること自体無理がありますが)

 

 彼女は同時にそうも思った。何しろレースの世界に生きる者から見れば、彼は良くも悪くも部外者に過ぎない。そんな人間をこちら側の常識で推し量ること自体に無理があるのだ。

-それに何より、常識の通用しない者に対する対処法についてカフェは、これまでのタキオンとの付き合いの中でよく理解していたからである。

 

 彼女はこの時もそれに則って対処した。具体的に言えば、話を聞きはするが右から左に受け流すことにしたのだ。

 それは正しかった。いや、だからこそ、この少し後に起こった出来事を(最初は)受け入れることが出来なかったのである。彼女の傍らには、相変わらず不敵な表情を浮かべながら、自らの組んだ膝を支点として右手で頬杖をつくタキオンの姿があった。

 

「その理由は」タキオンは答えた。

「2つある」小島も答えた。「お前さんの距離適性と、レース間隔だ」

「成程」

「ジュニア級の重賞競走で、お前さんの適性距離(中距離以上)に合致しているものは2つ-G3の京都ジュニアステークスと、今言ったホープフルステークスしかない。両方に出走するというのも考えたが、お前さんの脚のことを考えると少し間隔が狭すぎる」

「ふぅん」

「それならば、目標をG1レースに絞ったほうがいいと思った。俺はG1だろうが所詮2千メートルの1レースに過ぎないと考えてるから、それにどんな価値があるのかなんて知ったこっちゃない。だが-」

 小島はそこで一度言葉を切った。そして続けた。

「お前さんたちにとってみれば、G1に勝つというのは黄金よりも価値のある物らしいからな。ならば、より重要な目標に狙いを定めるべきだ-そう考えた」

 

 彼のその言葉を2人は、ある種の意外さを持って受け止めた。ウマ娘-特に競争ウマ娘の事が大嫌いだと公言して憚らない人間から出てくる言葉とは思えなかったからだ。

 そんな2人をよそに小島は言葉を続けた。

「勿論最終的な選択はタキオン、お前さんに任せる。出るも出ないもお前さん次第だ」

 それを聞いたタキオンは、少しの間考え込む。やがて、何かを閃いたような表情で答えた。

「良いだろう。出ようじゃないか。格の高いレースに出て強者と競い合うのは、私の研究目的にも合致しているからねぇ」

「そうか」小島は無機質に答えた。「なら、こっちで出走登録とトレーニングメニューをこさえておく。お前さんはせいぜい、体調管理と自分の研究に専念しておけ」

 

 -トレーナー君も、本職のトレーナーとしての態度が中々板についてきたねぇ。

 

 タキオンは彼の話を聞いていて思った。それでも相変わらずの迷彩服姿である事には、どこか違和感を禁じ得ないが。彼女はその何とも言えないおかしさに、自然と頬がゆるんでいた。

 

 傍らで微笑するタキオンを見て、カフェは私には今のところ縁のないお話ですね、そう思いながら紙コップに入ったコーヒーに口をつける。分屯基地のドリンクサーバーから持ってきたものだが、豆を直に挽いた直後に抽出しているだけあって中々の味であった。口腔内に広がる、ほど良い苦みと酸味を味わうこのひと時は、彼女にとって何物にも勝る至福の時であった。

 

 -尤も、そのような馥郁(ふくいく)を楽しんでいたからこそ、次に小島が放った言葉に面食らったわけであるのだが。

 

「それでだ、カフェ。お前も出ないか」繁華街の客引きのように小島は答えた。

「何に、でしょうか」

「決まってるだろ。ホープフルステークスだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、彼女は飲んでいたコーヒーを危うく気管に流し込みかけた。何を考えているんですかこの人は、むせながらもどうにかコーヒーを食道へと導き、気分と体勢を落ち着かせた後で言葉を返す。

「・・・私は、未勝利戦を勝ちあがったばかりですよ」

 お前は何を言っているんだと目で訴えかけるカフェに、小島は平然と応じた。

「それがどうした。ジュニア級のG1なんて未勝利戦を勝ちあがったばかりの、お前さんみたいな奴が平然と出走しているじゃないか。お前さんたちにとって、G1に出るというのはそれだけで価値のあることなんだろう」

「それは、そうですが」

 カフェは答えた。

 実際のところ、ジュニア級のG1と言うのはそのようなウマ娘も平気で出走してくる。レースの体系上-抽選に通ればの話であるが-不可能ではない。

 だが、曲がりなりにもG1はG1である。それなりにレベルのある面子が出走している以上、未勝利戦を勝ちあがったばかりの自分が挑んでも苦戦するだけではないか-彼女はそう感じていた。

 

 そんな彼女をよそに、小島は話を続ける。

「取りあえず、出走の登録だけはしておいてもいいんじゃないか。おそらくは抽選になるだろうが、出られれりゃ儲けもん、出られなきゃその時に後の事は考えるさ」

「クラシックを無理に狙わない、と言っていた人の言葉とは思えませんね」

 カフェは答えた。実際、ジュニア級のG1と言うのはその翌年のクラシックを占う上で重要な意味を持っている。その意味で、ジュニア級G1へ出走するというのは、場合にもよるがクラシック競争の候補として見られることが多い。

 そんなところにクラシックを無理に狙わないというトレーナーが、自身の管理するウマ娘を2人も送り込む-そこに矛盾を感じたカフェが放ったのが上記の台詞であった。

 

 小島は彼女の言葉を聞いて少し考え込んだ後、返答した。

「それは変わっちゃいないさ。でもまあ、G1なんて出られるときに出ておかなくちゃ、次がいつになるか分からないだろ」

 彼の言葉の通りである。レースの世界が他のプロスポーツ同様、一握りの栄光と引き換えに無数の屍を生み出すシステムである以上、出走したG1レースが生涯最初で最後のG1にならないという保障はどこにもないのだ。

 そのような世界に身を投じた以上、G1に出走する機会があれば狙いたいと言うのは、一定以上のレベルに達した競争ウマ娘なら殆どが持っている感情である。

 無論、カフェもその中の一人であった。いくらこのチームの方針が方針でも、やはりG1レースには出られるときに出ておきたいというのが、彼女の偽らざる本心であるが-自分はまだそのレベルに達していないのではないか、と言う感情も彼女の中にあった。

 

 双方の感情がカフェの中でぶつかり合う。逡巡し、机に置かれたコーヒーがぬるくなるくらいの時間が経った後、彼女はようやく口を開いた。

「・・・・まあ、登録だけでしたら」

「分かった」

「それにしても」意外そうな表情を浮かべながらカフェは答えた。「小島さんがそんなことを言うなんて、思ってもみませんでした」

「そりゃまたどうして」

「だって小島さん、私たちウマ娘の事が嫌いで、レースにも興味がないんですよね。なのに、きちんとしたトレーナーみたいなことを言うのでつい」

「よく知ってるな、そんなこと」

 どう答えるべきか迷っている表情を浮かべながら小島は答えた。苦笑いを浮かべている。

 カフェの代わりに答えたのはタキオンだった。

「会長と、君の上官が教えてくれたよ。まあ私もカフェも、その前から薄々感づいてはいたがね」

「全く、あのおっさんは」

 上官に対する敬意など微塵も感じられない口調で小島は答えた。

 

「ともかく、私とカフェは感心しているんだよ」

 紙コップに入った紅茶を飲みながらタキオンが答えた。彼女にしては珍しく、自分で分屯基地のドリンクサーバーから淹れたものである。

 最初は目の前の男に、

 

「さて、私に紅茶を淹れてくれたまえよ、トレーナー君」

 といつも通りのわがまま具合を発揮して要求したのだが、彼女の性格を熟知している彼に、

「それくらい自分でやれ、マッドサイエンティスト」

 と軽くあしらわれたため、小島との押し問答の末に文句を言いつつも自分好みに淹れた物である。甘党の彼女らしく、砂糖が飽和水溶液一歩手前の水準まで溶かされていた。

 

「私たちウマ娘の事もレースの事も嫌いな君が、曲がりなりにもトレーナーをしている事にね」

「仕事と個人的な好悪は分けるさ。何しろ毎月たっぷり俸給と特別手当が入って来るからな。そのためなら妥協してやる」

「要はお金のためかい」

「何が悪い」

「まさか」タキオンは答えた。「そうやってはっきり本音を言ってくれる方が有難いよ」

「そりゃどうも」

 話を聞きながら小島は思った。そういえば、こいつに感謝されたのは初めてだな。そんなことを考えていると、か細げな声でカフェが口を開いた。

「・・・話を戻してもいいですか」

「いいぜ」

「・・・一応私も、小島さんが私たちの事を考えてくれていることは、有難いと思っていますので」

 彼女は答えた。

「さっきも言ったろ」ぶっきらぼうに彼は応じた。「何に価値を見いだすかなんて、人それぞれだ。俺にとっては価値が無くても、お前さんたちには大切なものなんだろう。なら大事にしておけ」

 まあそれについて、俺がどういう意見を述べるかは別だが。小島はそう答える。トレーナー君らしいね、からかうようにタキオンが応じた。

 

 一連の話を終えた小島は、立ち上がって帰り支度を始めた。時計を見ると、16時を少し回ったところである。2人は腰かけながら軽い驚きと共に、荷物をまとめる彼の姿を見つめた。タキオンが再び、からかうように口を開く。

「帰宅するには少々早すぎやしないかい」

「今日の仕事はもう終わったからな」

 彼女の言葉を無視するように小島は答えた。

「俺は基本的に、その日の仕事が終わったなら職場に一秒でも長く居たくない人間でね」

「相変わらず自衛隊の人間らしくないことを言うねぇ、君は」

「生憎と俺は」小島は答えた。「毎月の給料日以外に、この仕事をやる楽しみなんて持ってないのさ」

「正直者だねぇ」

「好きでやってる仕事じゃないからな。まあだからこそ、ここに来たようなものだが-ともかく、俺は帰る。お前さんたちもとっとと帰って好きな事でもしていろ」

 

 そう言って鞄とベビーカーを両手に抱えて執務スペースを出た小島は、学園のとあるところに向かった。そこで彼は、少し前からある種の楽しみとして行っていることを楽しむつもりであった。

 

 

 シンボリルドルフは安堵の表情を浮かべながら廊下を歩いていた。それに付き従うエアグルーヴもまた、同じような表情を浮かべている。

 無理もない。秋に学園で行われる一大イベント-聖蹄祭の準備がひと段落ついたところであるからだ。なにしろこの学園で毎年秋に行われ、春のファン感謝祭と双璧をなすイベントである。ファン感謝祭を大運動会のようなものとするならば、聖蹄祭はいわば文化祭のようなものだ。

 毎年生徒たちが様々な出し物を出店し、それを目当てにファンや近隣住民など数多くの者が学園へと詰めかける大イベントであるだけに、それに伴って膨大な数の手続きや事務作業-スポンサー企業からの協賛や商品の発注や管理に加え、警察や消防、府中市などの行政機関との打ち合わせや必要書類の提出と言った行政手続き-が必然的に発生する。

 その多くは学園側で対応することになるが、数多くの職員を雇用しているトレセン学園と言えど、全てを処理しきれるわけでは無い。必然的に生徒会にもその一部が回ってくることになる。彼女らはようやくそれらの処理を終えたところであった。

 とは言え聖蹄祭の準備がこれで終わったわけでは無い。生徒会でやらなくてはならないことはまだ多くある。だが今は2人ともそれを忘れ、どうにか一つの山場を越えた事に胸を撫で下ろしていた。

 

(そう言えば)

 

 廊下を歩きながらルドルフは思った。聖蹄祭の出し物について、分遣隊の皆さんからは何も聞いていなかったな。機会を見て聞いておくことにしよう。彼女はそう思いながら、ウマ娘の事を心の底から嫌いながらもトレーナーをしている男について考えていた。

 

 理事長室での一件以降、しばらく彼女は小島隆史に関わるのを控えていた。彼のことを思い出すたびに、あの男が理事長室で浮かべた、般若と呼ぶのもおこがましいほどの表情が自身の脳裏にちらつき、本能的な恐怖が呼び起こされるからだった。

 実際あの後も何度か生徒会の仕事で分屯基地を訪れたが、何れも小島(と、その細君)のいない時を見計らって赴いている。その甲斐あってか、2人以外の自衛官-土井美咲、広瀬彩香、遠藤保とは、どうにか良好な関係を構築することが出来ていた。

 特に遠藤とは彼にもまた、ルドルフやエアグルーヴに年齢の近い子供が3人(うち1人は2人より年上だった)もいることから、いつの間にか親戚のおじさんのような関係を築き上げている。その優しげな表情を見る度に、アグネスタキオンから聞かされた、人間の身でウマ娘を平然と抑え込む事が出来るほどの、恐るべき身体能力を有する人物とは思えなくなっていたほどだ。 

 

 2人はそれを思い出す度に、人を見た目や第一印象で判断してはいけないという思いがそれぞれの心の中で大きくなっていくのを実感している。こと小島隆史についても、最近はそのような思いを抱くようになっていた。

 

 そのきっかけとなったのは、聖蹄祭の図書委員会の出し物についての話をするべく図書室を訪れた際に、図書委員をしている、小柄で丸眼鏡をかけている三つ編みのウマ娘-ゼンノロブロイからとある話を聞かされたことだった。

 聞けば先日、彼女が図書室の貸し出し当番をしていると、仕事終わりらしい小島が入ってきて、数多くの本を文庫・新書・ハードカバー問わず本棚から取り出すと、閲覧席の机にそれらをすべて積み上げ、一心不乱に読みだした。

 それだけなら時折あることで気にも留めなかったそうなのだが、ふと気になって遠目に見てみた所、読んでいる本の内容に一貫性がなかったのだ。社会問題について取り上げた本を読んでいたかと思えば次は化学に関係する内容の本であったり、それ以外にも歴史やスポーツ、教育、労働に関する分野の本に小説や漫画、更には本職らしく軍事や政治に関係した内容の物-とにかく、多種多様なジャンルの本を読みふけっていたそうだ。

 彼の様子が気になってゼンノロブロイが他の図書委員に聞いてみた所、あの人は時々あんな感じで本を読んでは帰っていくのよ、という答えが返ってきたという。

 

 その後、本を全て読み終えたところで棚に戻してさっさと帰ってしまったんですけど、あれは読書家の域を超えてもはや濫読家ですね。どこかおかしそうな表情を浮かべながらゼンノロブロイは語った。それを聞いていたエアグルーヴが、それだけの本を読んでいるのに努力嫌いとは腑に落ちないなと呟いたのが印象に残っている。だが聞くところによるとそれだけでは無かったらしい。

 

 あ、あとは何度か本の出し入れを手伝ってくれましたね。ゼンノロブロイは付け加えるようにそう答えた。

 聞けば、小柄な彼女が高い場所にある棚に本を戻すのに苦労していた所、小島が何度か代わりに戻してくれたのだという。それも決して下心あってのものではなく、ごく自然に当たり前のことをするかのような態度だったそうだ。

 随分優しい人なんですね、あの人。巷で言われているのとは違う印象を受けますよ。そう言って彼女は2人との話を終え、図書委員としての仕事に戻っていった。

 

 それ以外にも、ちらほらと彼についての話は耳に入ってきている。その中でもよく耳にするのは、小島がどんな相手に対しても基本的に丁寧に接する事だった。学園の用務員や給食スタッフ、コースの整備員などといった社会的には低く見られがちな人々にも敬語を使い、敬意を払った丁寧な応対をしている-そのような話がよく聞こえてくる。

 彼女自身もまた、そのような態度を取る彼を何度か目撃している。それを見る度に、あの時の般若のような表情が脳裏に描き出され、何とも言えない複雑な気持ちになっていた。

 

 -彼の事をどう評価すべきなのだろう。全く分からない。そう考えながらエアグルーヴと共に音楽室の前に差し掛かったとき、鍵盤を奏でる音が聞こえてきた。こんな時間に誰だろう、そう思って手元の、背面にかじられたリンゴの意匠がデザインされたタブレット端末に目を通し、音楽室の使用許可を確かめる。 

 許可は出ていたが、誰が利用しているのかまでは分からない。それもそのはず、音楽室を含めた学園施設の利用は、この学園の生徒のみならずトレーナーを含めた教職員であれば、学園のシステムに学籍番号もしくは職員証番号を登録していれば許可を得た上で使用できる。だが、だれが許可を取得したかまでは個人情報保護の観点から明らかにされないのだ。

 スムーズだがどこか荒削りさと既視感-この場合は既聴感と言うべきだろうか-を感じさせる、プロと素人のどちらとも言えぬような演奏。

 いつの間にかルドルフはそれに聞き入っていた。ふとエアグルーヴの方を見る。誰が演奏しているのでしょうね、そう言いたげな表情を浮かべていた。

 「見てみようか」

 ルドルフは答えた。

 「ええ」

 エアグルーヴもそれに応じる。2人は演奏者に気取られぬよう静かに音楽室の扉を開け、足音を立てずに中へと入っていった。

 

 

 演奏の進行に連動して映し出される譜面が切り替わっていく、かじられたリンゴの意匠が背面にあしらわれた私物のタブレット端末の画面を見つめながら、小島隆史は純粋に己の楽しみのためだけに音楽を奏でることの楽しさを味わっていた。それは彼がここにきて見いだした、楽しみの一つであった。

 数十分ほど前にこの部屋に入って以降、彼はアニメやゲーム、映画やドラマのテーマソングといった自分の興味のある楽曲をただひたすら、自分で聞くためだけに弾き続けている。勿論これらばかりではなく、行進曲や伝統的なピアノ演奏曲と言ったものも彼のレパートリーには含まれていた。

 

 (しかしまあ)

 

 迷彩服姿でピアノを弾くというのには、我ながら奇妙さを感じざるを得んな、小島は思った。

-まあ、俺の人生も似たような物か。彼は鍵盤を弾きながら、中学以降のこれまでの人生を思い出していた。

 

 中学を卒業して小島が進学した都立高校は、中学生の頃に様々な事情-いわゆる『ワケアリ』だった、もしくは現在進行形でそうである生徒を対象に、基礎的な学力の習得や体験学習を通じてやる気やチャレンジ精神を育む事を目的に設立された学校であった。

 母親の勧めで入学した学校であったが、幼い頃からの夢を失った彼にとってその辺りはどうでもいいことだった。しかし、そこでの経験もまた、彼を構成する一部となっていく。

 

 彼はそこで様々なものを見た。非行や望まぬ妊娠で退学を余儀なくされる者、他の生徒の財布から平然と金を盗む者(自身も一回被害に遭った)。とはいえ、生徒の多くは何ら普通の高校生と変わるところは無く、友人とまでは言えないものの時折会話を交わす程度の者もいた。

 そして、先述したような生徒たちが家庭環境など様々な部分に問題を抱えた人間であることを耳に聞こえてくる話などで知った小島は、自分の身の回りとは異なる世界が存在することを次第に認識していった。

 

 更に、彼はこの高校で教師にも恵まれた。2学年の頃の担任をしていた、現代文担当の女性教師が親身になって小島の事を心配してくれたのだ。彼女に様々な相談に乗ってもらったこともある。それらを続けていくうちに、あまり他人を尊敬することの無い彼の中で、次第にその教師に対する尊敬の念が大きくなっていった。

 高校卒業後も、彼はその恩を忘れたことは無かった。大学に入学したときは真っ先にその教師のところへ報告に向かい、更には有沙との結婚式にさえ呼んだほどだった。

 

 そのような高校で3年間を過ごした小島は入学試験を経て神保町と九段下の間にある、ビルディングのようなキャンパスを持つ、創立して130年ほどになる中堅私立大学に入学した。

 彼が専攻に選んだのは政治学-国際政治学だった。その学問が対象とするのは、きれいごととは無縁のドロドロとした物事と国益、欲望がぶつかり合う世界であり、世の中にまん延するきれいごとにうんざりしていた小島にとってはぴったりの、彼が最も興味を惹かれる学問でもあった。

 結果、大学において小島は中学高校の比では無い位学問にのめり込むようになった。優秀とまでは行かないものの、平均して中の上から中の下、自分が興味を持った科目では上位に入るほどの学業成績を維持していた事がその証左である。

 

 そして大学生活も後半に入り、就職活動が始まった。パイロットになるという夢を絶たれていた彼は、就職活動にあまり気乗りがしなかったが、それでも企業説明会に参加し、応募書類を書いて応募すると言った一通りの事は行っていた。

 

 当時は今ほどではないが好景気の只中にあって売り手市場と呼ばれており、周囲の学生が次々と就職を決めていく中、彼は中々就職を決めることが出来なかった。何故ならば、彼の性格は日本型組織が持つ同調性とは水と油のようなものであったためだ。

 基本的に採用選考と言うのは国や洋の東西を問わず、選考者の持つ能力ではなく組織文化との同質性の高さで決まることが多い。特に、前近代的な共同体的性格を持つ多くの日本型組織ではその傾向が顕著である。

 小島の選考を担当した企業や組織の採用担当者は、応募書類や面接における会話などから見て取れた彼の性格を見て社風にそぐわない-より露骨に言ってしまえば、組織に従順な奴隷として洗脳することが出来ないと判断したのだった。

 

 結局彼が内定を得たのは、腕試し(と、少しの興味と憧れ)のつもりで受けた航空自衛隊の一般幹部候補生のみであった。

 小島はその結果に納得しなかった。何故ならば基本的に他人に合わせたり集団行動が苦手、かつ個人主義者である彼とは対極にあるような組織が何故自分のようなものを採用するのかと、自分の下に送られてきた内定通知を見て頭をひねった程であった。

 返答期限ぎりぎりまで迷った結果-小島は内定を受諾することにした。勿論、自分から進んで自衛隊に入りたいと思うような内心の変化があったわけでは無い。就職先が決まらないまま卒業するよりましだという、消極的なものに過ぎなかった。彼が自衛隊に入隊した理由はそれ以外に何もない。

 以来、入隊してから今の今まで、彼は惰性でこの仕事を続けてきた。愛国心や職務に対する高い志など今なお持ち合わせていないし、小島が自衛隊に求めているのは労働の対価として毎月貰える俸給と年二回の賞与、更には各種勤務手当や諸々の福利厚生だけである。

 

 -全く、それもこれも皆ウマ娘のせいだ。あの女が俺の額を蹴り上げたりしなければ、こんなことにはなっていなかったはずなのに。

(だが)

 その件が無ければ俺が自衛隊に入ることも無く、そこで最愛の女と出会って結婚することも無かった。皮肉なものだ。

 全く、このことをどう評価しろというんだ?将来の夢と最愛の妻、どっちを選べと?訳が分からん。

 -もういい、やめよう。彼は全ての指を鍵盤にたたきつけて、不協和音を意図的に作り出すと思考を止め、鍵盤から指を離した。奇妙な静寂が音楽室に漂う。

 

「ところで」彼はピアノに視線を向けたまま答えた。「そこに居るのは分かってるんだがな、お2人さん」

「お気づきでしたか、小島トレーナー」

 戸惑いと驚きが織り交ぜられた表情で、入り口の傍に佇むルドルフは答えた。隣のエアグルーヴに至っては、信じられないとでも言いたげな表情すら浮かべている。

「中学で酷い目に遭って以来、人の気配には敏感なのさ」

 ピアノに視線を向けたまま彼は答える。

「それよりも、お尋ねしたいことが」

 目の前の光景を疑うような声でルドルフが応じた。

 分からないでもない。俺だってこんな、迷彩服姿の男がピアノを弾くなんてシュールな光景を見たら自分の目を疑うさ。座ったまま2人の方に振り向きながらそう小島は思い、そして答えた。

「なんで俺がピアノを弾けるのか、という事だろう」

「ええ」

「子供の頃習っていてね。しばらくやってなかったんだが、大人になってから自分の好きなゲームや映画のテーマソングをピアノ演奏する動画を見てまた始めて見たくなって、それでやってみたら意外と上手くいってね。それ以降、趣味の一つとしてやってる」

 身体は覚えているものだな、彼はそう付け加えた。

「趣味の一つ、ですか」

「こう見えて多趣味な人間でね」小島は答えた。「登山とバックカントリー含んだスキー全般、読書に本屋巡りに旅行に史跡や博物館・図書館巡りにゲームにそれ以外にも色々-まあどれも、それなりの腕前は持ってるさ」

「一体いくつあるんですか」

 突っ込みを入れるようにエアグルーヴが答えた。彼女は右手で頭を抱え、半ば呆れている。

「仕事だけで終わらせるには、人生は短すぎるぜ」

 金さえ十分にあるなら仕事なんかさっさと辞めて趣味に全力投球したいものだよ、小島は笑いながら明け透けにそう答えた。

 

 -全くこの男は、それを聞いて2人は思った。

 だが、彼が次に放った一言を、2人はある種の衝撃を持って受け止めることになる。

 

「それとまあ、『乗馬』かな」

「「乗??」」

 その言葉を聞いたルドルフとエアグルーヴは眉をひそめ、発言者の真意を測りかねるような表情で小島を見つめる。

 無理もない。何故ならば、ウマ娘の前で「乗」という言葉を発するのは、セクシャルハラスメントと捉えられかねない行為であったからだ。

 それに気がついた小島は訂正するように答える。

「ああすまん、変な意味じゃない。真田のおっさんから聞いてるだろ、『馬』って言う動物の事」

 それを聞いた2人の脳裏に、目の前の男の上官と初めて会談した時の光景が鮮明に蘇る。真田忠道から見せられた、牛の体にアルパカの頭が付いたような、それでいて細身の、見るからに俊敏そうな外観を持った四足歩行動物。あの中年男はその動物を『馬』と呼んでいた。そしてそれに跨る小島と森宮。

 なるほど、そう言う事か。納得した2人は疑いの表情を解く。

「つまりは」

「その動物に乗って動き回ることを『乗馬』と言うんだ。決して変な意味じゃない。ラクダや象に乗るのと同じことだよ」

 第一、俺は乗っかるのも乗っかられるのも有沙一人で十分だ-喉まで出かかったその言葉を彼はどうにか肺へと押し戻した。それを知ってか知らずか、ルドルフが答える。

「・・・初めて聞く言葉ですね」

「そりゃそうだ、俺の造語だからな」

 危ない危ない、本物のセクハラになってしまうところだった。そう思いながら小島は答えた。

「未知の動物を平然と乗り回してる人間なんて、俺と有沙含んでこの国に十数人くらいしかいないだろうさ。少々コツがいるが、それを掴んでしまえば後は面白い。乗り物を運転するのとはまた違った感覚を味わえる」

 逆に十数人も居るんですね、2人は思った。そして同時に、目の前の男がどこか楽しそうな表情を浮かべていることにも気がついた。

 

「是非一度、実際にその『馬』と言う動物を見てみたいものですね」

 ルドルフが興味深げに答えた。

「機会があったらな」小島は応じた。「それより、話をピアノに戻してもいいか」

「どうぞ」

 ありがとう、そう前置きして彼は話を続ける

「おかげで、演奏の腕もそれなりのものになってな。有沙と一緒に、土井さんの結婚式でデュエットしてやったよ」

 それを聞いた2人は再び困惑する。エアグルーヴが怪訝と好奇心の入り混じった声で問いかけた。

「森宮トレーナーも音楽をされるのですか」

「ヴァイオリンをね」小島は答えた。「ああ見えて、中々の腕前だぞ。なにせ、あいつ専用のストラディバリウスが-1基数億円する超高級ヴァイオリンが-あいつの実家には置いてあるくらいだからな」

 土井さんの結婚式の時はそれで演奏したんだ、流石兆単位で資産を持ってる家だけはある、彼はどこか愉快そうに答えた。

「は、はあ」

 2人は苦笑交じりにそう答えるのが精一杯だった。

 

「しかし、なぜそこまで上達されたのですか?私たちのように、結果を求められるわけでは無いのに」

 戸惑いながらもルドルフが答える。

「だからこそかな」小島は答えた。「結果を求められることなく、純粋に自分の興味と好奇心の赴くままにやっていたら、いつの間にかここまで上手くなったというわけさ」

 さっきも言ったが、他の趣味も似たような物でね。君たちとは対照的だな。彼はそう言って言葉を締めた。

 

 それを聞いた2人は思う。

 -結果を求められないからこそ上達したとはどういうことなのだろう?結果を求めて他者と競い合うからこそ上達するのではないか?競争無くして上達するとは、とても思えないのだが。

 彼女たちがそのように、小島の言葉に違和感を覚えたのは決して悪いことでは無い。他者と競い合い、勝利することを求められるこの世界に身を投じているものであれば、むしろ普遍的な感情と言える。誰もが異質な考えを目の前にした時に感じる相克と、全く同じものだ。

 それでも2人にとってみれば、今の小島の言葉がどうにも違和感を覚えざるを得ないものであることもまた、事実であった。

 

 その時、2人の内心を察知したかのように、釈迦が教えを説くような口調で小島は答えた。

「つまるところ、色々あるってことさ。他人と競い合って上達する者もいれば、1人で楽しむことで上達する者もいる。ただそれだけの事だ」

「それは-まあ、理解できなくもありませんが、それでもやはり、どこか違和感を禁じ得ません」

「気にするな。俺も自分のものとは異なる考えに遭遇したら同じことを思う。それが正常な反応だ」

 

 -全く、この人間を理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 ルドルフは目を細め、一息つきながらそう思った。ふと目の前の男に目をやる。そこにはどこか優しげな様子で2人を見つめる小島の姿があった。

 それを見た彼女は妙な感情を抱いた。あの日に理事長室で見せた、悪魔ですら青ざめる様な表情と現在のそれとが、あまりにもかけ離れ過ぎていたためだった。

 あの時の彼と今の彼。どちらが目の前の男の本質なのであろうか。ふとそんなことを思う。その時不意に、真田忠道の一言が頭をよぎった。

 

 -我々は多面ダイスの一面を見ているに過ぎない。

 

 傲岸不遜極まりない、出る所に出れば提督(アドミラル)と呼ばれる地位にあるのが信じがたい外見をしているあの男は、確かそのようなことを言っていた。

 正直、真田の事は好きになれない。だがあの男は、外見と裏腹に非凡な能力を有しているだろうことは、他の発言からも見て取れた。それもまた、多面ダイスの一面という事なのだろう。

 (さらに言うなら)

 目の前の光景もまた、その一つという事か。彼女はそう、自分の中で現状に対する結論をつけた。

 

 そんなルドルフの内心を知ってか知らずか、観客からアンコールを受けたミュージシャンのような口調で小島は答えた。

「さて、そろそろ仕舞いにしたいところだが-どれ、折角客がいるんだ。最後に一曲弾いてやろうじゃないか」

 そう言って彼は再度ピアノに向き合う。タブレット端末を操作すると、ある楽譜が画面上に浮かび上った。それを確認した小島は鍵盤に指を置く。

 その光景を見ていた2人は息を呑む。一瞬の静寂が音楽室を支配したのち、流れるようなメロディが2人の鼓膜を震わせた。

 細いながらも男性的な指が再び、流れるように鍵盤を弾いてゆく。18世紀にオーストリア人の作曲家によって作られた、どこか聞き覚えのある、軽快なテンポで進むリズミカルなメロディが部屋中に響き渡った。

 ピアノソナタ11番・イ長調・K.331(300i)。一般的には『トルコ行進曲』の名で知られるその曲が迷彩服を着た目の前の男によって奏でられる光景を、どこか現実味の無いふうに見つめながらも、2人はただそれに目と耳を傾け続けた。

 

 やがて演奏が終わる。2人は演奏の余韻に浸りながら、自分でも理由が分からぬまま、目の前の男へ拍手を送っていた。後片付けをしながら小島が口を開く。

 

「音楽には荒ぶる魔獣をなだめ、岩を柔らかくし、樫の木(オーク)を曲げる固い魔力がある-たしか、ウィリアム・コンクリーブとかいう英国の喜劇作家の言葉だったか」

 それを聞いて、2人はどこか感心したような目で彼を見る。目の前の男が見た目とは裏腹にかなりの教養の持ち主であることを、これまでの彼の話や態度から薄々感じ取っていたからだ。

「よくご存じですね」

 樫の木、と言う単語に反応したエアグルーヴが尋ねた。

「自分の興味の赴くまま本を読み漁ってたら、いつの間にか覚えちまったのさ」

 実際には日本と英国が同盟を組み、共産主義国家となった合衆国(アメリカ)と戦うという内容の仮想戦記に書いてあったことを孫引きしただけなのだが、彼はそれを口にしなかった。それを言ったところで何の意味もないからだ。

「それもまた、結果を求められないが故の結果という事でしょうか」

「そんなところさ」

 父親として、家庭人としての表情を浮かべながら小島は答え、続けた。

「さてと、帰るか。隆俊を迎えに行って、夕飯を作らなきゃならんからな」

 そう言って鞄とベビーカーを抱えた彼は音楽室を出る。2人は気になって、小島に許しを得た上で彼について行った。

 

「それにしても」廊下を歩きながら、ルドルフが小島に問いかけた。「小島トレーナー、貴方が何故自衛隊に入ったのか、その理由が杳として知れないのですが」

「簡単だよ」軽薄そうな声で彼は答えた。「大学を出て、自衛隊以外に仕事が決まらなかったから仕方なく入隊しただけさ」

「それだけですか」

 信じられない、とでも言いたげにルドルフは応じた。この男の事だからもっと深い理由があるのだろうと思っていたからだ。

「それだけさ。正直、この仕事に就いて後悔していることはいくらでもあるし、何ならこれまでの俺の、中学以降の人生の殆どが後悔の連続だったよ-ある一点を除いてはな」

 嘲るように小島は答えた。だが最後の一言だけは嘲りの無い、素直な口調だった。それに違和感を覚えたルドルフは尋ねる。

「その一点とは」

「決まってるだろ」愛情をたっぷりと込めた声で小島は答えた。「有沙と結婚した事さ。この仕事に就いてなきゃあいつと出会うことも無かったし、ましてや結婚なんて出来なかったろうと思ってる。その出来事だけで、今までの人生のクソったれな出来事を差し引いても、一生かかっても使いきれないくらいのお釣りをもらったような物さ。その出来事だけは-いるのか分からんが-神様とやらに感謝したいところだね」

 はっきりと言いきるように言葉を終えた彼。そこからは純粋に、心の底から愛する女性を生涯の伴侶に選べたことへの喜びが伝わってくる。そして何より小島は、先程までのものとはまた異なる、どこか気恥ずかしそうながらも幸福に満ち溢れた表情を浮かべていた。

 この男はこんな表情も出来るのか、それを見たルドルフとエアグルーヴは思った。2人は森宮有沙のことを思い浮かべながら、年頃の少女らしい、純粋な羨望が込もった表情で小島の事を見つめる。

 

「森宮トレーナーが羨ましいですね」エアグルーヴが答えた。「そこまで深く、純粋に、一途なまでに愛して下さるご夫君をお持ちになっている事が」

「あいつは俺を底なし沼から引っ張り出してくれた女だからな」

 照れくさそうに小島は答えた。

「それも、自分が汚れることにも構わず、自分から底なし沼に入って引っ張り上げてくれたようなものさ。そんな女を愛するなと言う方が無理な話だ」

 そこまで言うからにはそれなりの何かがあったのだろう、それを聞いた2人は思った。詳細を聞いてみたいところだったが、直ぐに野暮なことはするものではないなと思い直し、止めておくことにする。

 そんな2人の内心を悟ったかのように小島は答えた。

「まあ、機会が来たらその辺りは話してやるさ」

「楽しみに取っておきましょう」

 会話を交わす中で2人はいつの間にか、目の前の男に対する恐れの感情が薄まっていることを自覚していた。

 

 やがて3人は託児所の前にたどり着く。ちょっと待っててくれ、小島はそう言い残して中に入っていった。

 

(そういえば)

小島トレーナーの子供を見るのは私もエアグルーヴも初めてだな、果たしてどんな子供なのだろうか。

ルドルフがふとそんなことを思っていると、何かを思いついたようにエアグルーヴが話しかけてきた。

「良いでしょうか、会長」

「どうした、エアグルーヴ」

 ルドルフは傍らの副会長を見つめる。自らの学説の誤りを認める学者の様な表情を浮かべながら、彼女は答えた。

「先ほどまでの話を聞いていて、思ったことがあるのです」

「なんだい」

「私たちは、小島トレーナーに対する認識を修正するべきではないか-と」

 エアグルーヴの言葉に、ルドルフはどこか納得したような表情を浮かべる。なぜならば副会長の言葉は、自身の中で先ほどから薄々感じていた事だったからだ。

続けてくれ、とでも言いたげに彼女はエアグルーヴに頷く。副会長はそれに応え、口を開いた。

「話を総合するに、彼は私たちが思っているよりもずっと複雑で、様々な面を持っているように思えます。それをただ、私たちウマ娘の事が嫌いで、レースの世界に対する興味関心の薄い人間というステレオタイプで捉えるのでは、小島トレーナーの本質を見失ってしまうのではないでしょうか」

 ルドルフは何も答えない。ただ腕を組み、黙ってエアグルーヴの話を聞いていた。

彼女は話を続ける。

「彼の上官-真田海将補も似たような事を言っておりました。あの男は基本的には優しい人間で、我々が見ているのは多面ダイスの一面に過ぎないのだと」

 いい加減に部品が配置された顔つきの、底知れない恐ろしさを感じさせる男の事を思い出す。確かにあの人はそんなことを言っていたな、そう思いながらルドルフはエアグルーヴの話を聞き続ける。

「正直、あの人の事は好きになれないを通り越して嫌悪感すら覚えます。ですが-その言葉の内容には一考の余地があるように思いました」

それを聞いたルドルフは先程までの小島の様子を思い出しながら、自分の中での彼に対する思いを言語化するように口を開いた。

「私も同じことを考えていたよ、エアグルーヴ」

「会長」

「我々は小島トレーナーについて、より理解を深める必要がありそうだな」

「ええ」

 

 その時扉が開き、小島が出てくる。その腕には可愛らしい赤ん坊が抱えられていた。もぞもぞと体を動かしながらどこか呆けたような、愛くるしさを感じさせる表情を浮かべ、澄んだ丸い目で2人の事を見ている。

それを見た2人は先ほどまでの話を忘れたように相好を崩し、軽く微笑みながら少し屈みこむようにして、目の前の愛くるしい生命体を見つめた。

 ルドルフは彼に触れようとそっと指を伸ばす。隆俊は小さな両手でそれを捕まえると自分の口元へ近づけ、しゃぶり出した。

「こらこら、くすぐったいぞ、隆俊君」

 困惑しつつも、笑みを浮かべながらルドルフは暫くなされるがままにしていた。エアグルーヴもまた目を細め、その光景を微笑ましそうに見守る。少なくともこの時、2人はトレセン学園の生徒会長と副会長であることを忘れ、可愛らしい生命体を愛でる年相応の少女へと立ち戻っていた。

 

 そのような2人の姿を見た彼は、両名によかったら抱っこしてみるかと声をかけた。良いのですか、そう答えるルドルフに小島は

 

初対面で怪しげな薬を飲まそうとする奴(アグネスタキオン)に抱っこさせるよりは余程安全だ」

 

 笑いながらそう答え、抱っこしていた長男をルドルフに引き渡した。苦笑しながらも彼女は両手で隆俊を抱きかかえる。柔らかさと温もりを持った愛くるしい生命体は、ルドルフの腕の中でうごめきながら、本人にできる精一杯の言語能力と表情とを駆使してその喜びを伝えた。

「よしよし、いい子だ」

 腕をゆすって隆俊をあやしながら、ルドルフの口からそのような台詞が無意識のうちに出てくる。彼女はふと、私もいつか、このように我が子をあやす日が来るのだろうか、そんなことを思った。

 

 小島の長男をまるで実の母親(森宮有沙)であるかのようにしばらく抱っこしていると、エアグルーヴがこちらを見てきた。彼女は何も言わなかったが、背後と言わず全身から、可愛らしい生命体を抱っこしたいという空気が漂ってくるのが分かる。

 それを見たルドルフは、隆俊をエアグルーヴに受け渡した。その途端に彼女は普段の、厳格そのものと言っていい表情とはかけ離れた満面の笑みを浮かべながら、柔らかく愛くるしい赤子をこれでもかとばかりに愛でる。ルドルフと小島はその光景を微笑ましそうに見守っていた。

 

 (しかし、だ)

 

 こんなにも可愛らしい赤子の父親が、小島隆史と言う男である事だけはどうにも信じがたい、ルドルフは思った。

 森宮有沙が母親である事にはまだ納得が行く。女性としての魅力を存分に活用できる仕事であれば今以上に稼げるであろう、同性から見ても美しいとしか言いようのない顔と素晴らしいスタイルを持った女性だ。

 そのような女性ならもっといい男性と結婚できただろうに。なぜ小島トレーナーのような、どこかぱっとしないような男と結婚したのだ?未だにもってそこが分からない。

 もちろん、この2人の夫婦仲が仲睦まじいの遥か先を行くレベルにあることは理解しているのだが。

 

 (さらに信じられないのは)

 

 目の前で父親としての柔らかな態度を浮かべている男と、あの時の、怒りと言う言葉で形容するのもおこがましいような表情を浮かべていた人間が同一人物であるとは到底思えないのだ。

 どういう事だろう。ルドルフは小島をまじまじと見つめる。ふと脳裏に真田忠道の一言がちらつく。それを思い出しながら考え、やがて一つの結論に達した。

 

 -そう言う事か。つまりこれも、彼の持つ多面性の一つなのだろう。幹部自衛官であり、妻を心から愛する夫であり、我が子を慈しむ父親であり、そして趣味を楽しむ小島隆史という一個人でもある。

 

 この男をもっと様々な側面から見てみるべきかもしれない、ルドルフは思った。そうすることで、今までとは異なるものが見えてくるのだろう。それが私たちウマ娘に負の結果をもたらすことになるかもしれないが-その時はその時だ。

 あの時、理事長に肉を切らせて骨を断たせるような提案をしたのは、この私-シンボリルドルフなのだから。骨まで断たれた時の事はその時に考えればよい。

 

(それに、ひょっとしたら)

 

 その事が思いもよらないような発見や利益を私たちにもたらすかもしれない。イノベーションとは異質なものと交わることによってのみ生まれるのだ。同質的な者とのみ交わっているだけでは、新しい発見や発明は決してもたらされない。

 

(-なるほど、そういうことか)

 

 その時、再び彼女は思った。真田海将補はこのようなことになることも半ば見越したうえで、小島トレーナーをこの学園に送り込んだのかもしれない。だとしたら、あの男は何度か会って話した際に感じたもの以上の傑物なのかもしれない。

 全く、あの人には敵わないな。あの人と話していると、私たちは所詮、20にもならない-それなりの数、なっていたり越しているものもいるが-小娘であることを思い知らされる。あの人の前では、無敗3冠ウマ娘にしてG1レース7勝の『皇帝』と言う称号など、紙切れ一枚程の価値も持たない。

 そしてそれは目の前にいる小島トレーナーも同じだ。彼は肩書や地位をひけらかすだけで頭を下げるような男ではない。そのことは今までの付き合いの中でおぼろげながらも理解が出来ている。

 よしんば下げたとしてもそれは所詮、面従腹背に過ぎず、心の中では相手に対していくつもの悪罵を叫び続ける。自分の心が純粋に敬意を払えると判断した場合にのみ、初めて本心から頭を下げる。そのような、自分の中のルールを誰に対しても厳格に守る人間なのだろう。

 ルドルフは自分の中で、小島に対する一つの意見とでもいうべきものを見いだした。そしてそれは決して間違ってはいなかった。

 

 彼女は再び彼の事を思う。確かに、日本型組織では評価されにくく扱いづらい人間だ。自衛隊側でも問題児扱いされていたのも無理はない。だがそのことを理解した上で、本人の才能や能力にピタリとはまる仕事をさせてやれば、予想以上の結果をもたらしてくれるかもしれない。

 問題はそれが何であるのかという事だが-分からない。今度、理事長に聞いてみることにしよう。あの方なら、何かを知っているかもしれない。

ルドルフはいつのまにか、自分が真面目腐った表情で沈思黙考している事に気がつかなかった。

 

 彼女の様子を見ていた小島は、不可思議極まりないものを見たような表情を浮かべると、隣で彼の長男を抱っこしてあやしているエアグルーヴに尋ねた。

「どうしちまったんだ、ルドルフの奴」

「分かりません」

 隆俊にセーラー服のリボンを涎まみれにされ、どうしたものかと困惑した表情を浮かべながら彼女は答えた。

「会長にはなにか、深いお考えがあるのでしょう」

「成程」彼もまた答えた。「それよりもそろそろ、隆俊を返してもらってもいいかな。買い物して帰って夕飯作って、隆俊を寝かしつけてやらなきゃいけないのさ。そうしないと有沙に怒られちまう」

 今日は俺が当番の日でね、小島はそう続けた。妻帯者だから無理もないが、随分所帯じみているなこの男、エアグルーヴは内心でそう思いながらも、そういうことでしたらと述べ、隆俊を実の父親の下に返却した。

 

 2人はそのまま、小島が自分の長男をベビーカーに乗せて帰宅していくのをどこか名残惜しそうに見送る。2人の姿が見えなくなった後、エアグルーヴが呟くように口を開いた。

「どうしましょう、これ」

 彼女はそう言いながら目を細め、涎まみれにされた胸元のリボンを困ったような、それでいて微笑と名残惜しさが同居しているような表情で見つめていた。

「クリーニングに出すべきだろうね」

 ルドルフはからかうように答える。彼女もまた微笑んでいた。

 その時ふと、聖蹄祭のことをルドルフは思い出す。しまった。小島トレーナーに、自衛隊の皆さんの出し物について聞いておけばよかったな。

 まあ良いか、またの機会にすればいいことだ。今度、あの人がいる時にエアグルーヴと分屯基地に行って聞いてみよう。

 

 彼女はそう思いながら、エアグルーヴと共に学園の廊下を歩いていく。聖蹄祭まであと1か月程の、とある日の事であった。

 




今回はこんな所です。

次回は前の話でちょこっと触れた、戦車乗りをしているウマ娘達が本格的に出てくることになると思います。

今回よりはもう少し短い間隔で投稿出来るように尽力しますので、どうぞ気長にお待ちください。

(余談)
今週末は中山にスプリンターズステークス見に行きます。どの馬を買うかはまだ決めてないです。私は複勝とワイドで手堅く行くタイプなので。
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