仕事と家事と登山のための筋トレの合間に参考資料を読みふけったり、高松宮記念と桜花賞を東京から現地に日帰りで見に行った(ついでに3連複を当てた)り、安達太良山と西吾妻山に登りに行ったりと、色々やっておりました。
(なお、一昨日のユニコーンステークスと青葉賞は盛大に外し、昨日の天皇賞はワイドだけ当ててトリガミになりました)
ーそんなことをしている暇があるなら書けよというのはごもっともですが、人はパンのみにて生くるにあらずと申しますので、はい。
・・・兎にも角にも投稿が遅くなってしまったことについては申し開きの仕様がございませんので、この場を借りてお詫びさせていただきます。誠に申し訳ございません。
それではどうぞ。
この日、トレセン学園はいつも以上の熱気と賑わいに包まれていた。年に2回、学園が一般に開放される日という事もあって、レースファンを初めとした多くの者たちが大勢に訪れている。そんな中、熱気と賑わいと趣を異にする空気が支配する空間が一つだけ、学園の一角に存在していた。
臨時の実行委員会事務局と化した生徒会室には実行委員のメンバーが詰め、聖蹄祭の円滑な運営と、それに伴って起こる様々な問題に対処するべく待機していた。
机の上には充電ケーブルに繋がれたタブレット端末と業務用スマートフォンが置かれ、周囲にはバインダーに閉じられた書類が積み上げられている。部屋の片隅には高速Wi-Fi通信用のアクセスポイントが設置され、通信機器が密集する中でも快適な通信環境を保証していた。
(今のところ、大きなトラブルは起きていないようだな)
その光景を俯瞰しながら、ルドルフは一人思った。生徒会長として聖蹄祭の実行委員長を務める彼女は、大過なくイベントが進行していることに満足感を覚えている。イベントが始まってからこの時までに何度か細かなトラブルこそ発生していたものの、聖蹄祭の進行そのものに影響を与えるほどのものでは無かった。
「会長」
彼女はその声に振り向く。声の主はエアグルーヴだった。
「どうしたんだい」
「もしよろしければ、私と見回りに行きませんか」
「実行委員の皆に、任せておけばよいのではないかな」ルドルフは答えた。「私は皆の事を信用しているよ」
「そうではなく」エアグルーヴは訂正するように応じた。「ここの所お忙しそうでしたので」
それを聞いたルドルフは彼女の言いたいことを察した。つまるところ、普段から多忙なルドルフに、こういう時くらい息を抜いてほしい-そういうことであった。ふと他のメンバーを見渡すとエアグルーヴと同じような表情を浮かべ、こちらを見つめている。
-やれやれ、敵わないな。ルドルフは白旗を上げ、女帝の言葉に従うことにした。それにしても、彼女は思う。
「君と一緒に行く必要性は」
「会長お一人では、本当に息抜きになるか不安ですので」
その言葉にルドルフは苦笑した。以前にも、休みの日に生徒会の仕事を行っていた事をエアグルーヴに咎められたことがある。それでは休日の意味がないではありませんか、まるで母親のようにそう言われた。彼女はあの時の事をよく覚えているらしい。
「確かにそうだな」どこか後ろめたそうに彼女は答えた。「それではエアグルーヴ、君にエスコートしてもらうとしよう-ブライアン」
葉っぱ付きの枝を口に咥えながら、面倒くさそうに椅子に腰かけるもう1人の副会長にルドルフは言う。それを聞いた彼女-ナリタブライアンはぶっきらぼうに答えた。
「後の事はこっちでやっておくから、せいぜい女帝様と2人で遊んで来い」
「ああ、そうさせてもらうよ」
ルドルフはそう言い残し、エアグルーヴと共に部屋を出る。廊下を2人で歩きながら、先ずは美術展でも見に行こうか、生徒会長はそんなことを考えていた。
美術展の会場にたどり着くと、ゆっくりと部屋に入る。それなりに鑑賞者はおり、思い思いに作品に目をやっている。2人もその中に入り込んで、目的もなく作品を鑑賞しながら歩いていると、来場客の中に混ざって、一人のウマ娘がある一点に視線を集中させている様子が視界に入ってきた。その姿はまるで、美しい一枚の絵画を見ているような印象を周囲に与えている。
後頭部にまとめられた艶やかな青鹿毛。黒曜石のような輝きを持つ瞳。美しさと気品、そして妖しさを兼ね備えた、実年齢よりも大人びた顔立ちに均衡のとれた体-それはまさに、『魔性の青鹿毛』そのものであった。
そんな彼女に2人は近づく。気配を察知したそのウマ娘は、首を軽く回して顔だけを2人の方に向ける。その仕草だけでも優雅さを感じさせる彼女は、たおやかな声で口を開いた。
「あら、ルドルフ、エアグルーヴ」
「やはり君か、ラモーヌ」
「ええ」
同性ですら見とれてしまうほどの美しさを持った彼女-メジロラモーヌは答えた。彼女は史上初のトリプルティアラ-桜花賞・オークス・秋華賞の3レース全てを制したウマ娘として知られている。この学園においては、クラシック無敗三冠にしてG1・7勝の『皇帝』たるルドルフと肩を並べるほどの実力を持った存在であった。
「生徒会長と副会長自ら見回りとは、殊勝なことね」
腕を正面で組みながら、無表情に彼女は答えた。その姿にさえ妖しげな美しさが漂う。同じ性別であることを忘れてしまいそうになりながらも、ルドルフは問いかけた。
「働き過ぎだと、追い出されただけだよ-それで一体、何を見ていたんだい」
「見て、分からないのかしら」不可思議な物を見たような表情で彼女は答えた。「この絵よ」
そう言ってラモーヌが示した先には、見ているだけで心が温かくなるような光景が、まるで別の場所からそのまま切り取られたかのように存在していた。
-縦に並んだボタンのついた寝間着を着こんで病院のベッドに腰かけながら、この上ないほどの幸福に満ち溢れた微笑みを浮かべながら、生まれてまだ数日であろう我が子をその腕に抱き、見つめる母親。
そのような彼女の、肩よりもやや高い位置で切りそろえられた艶やかな黒髪に、はっきりとした瞳を初めとする、ラモーヌのそれと同様の、同姓ですら見惚れてしまうほどの顔立ち。それらが全て、黒鉛の濃淡の違いと輪郭だけで厚紙の上に表現されていた。
『題名:私のたった一つの望み』
『作者:小島隆史』
作者の名前に目が行った瞬間、2人は自分の目を疑った。続けてそれが幻覚などではなく、眼前に存在するれっきとした事実であることを自覚した。
-ピアノだけではなく、このような才まであったとは。多趣味なことは聞いていたが、それにしても随分と多才な人だな、彼は。ルドルフは思った。
作品説明には長男が生まれて間もない頃に撮った写真を模写した物であること、間もなく生まれて1年になるのでそれに合わせるつもりで少しずつ描いていたが、聖蹄祭の美術作品展の事を知って少し急いで書き上げたので粗削りな面があるかもしれない、と言うことが記されていた。
「本当、悪くはない絵ね」
微かに表情を緩め、目を細めながら彼女は述べた。そんなラモーヌにルドルフが尋ねる。
「この絵のどこに惹かれたんだい、ラモーヌ」
「有体に言えば」彼女は答えた。「優し気で、複雑な所かしら」
ミステリアスさを醸し出すような表現で紡がれた言葉。それがまた、彼女の妖艶さを一層引き立てる。そんなラモーヌを見たルドルフは、自分の中で何かが刺激される感覚を覚えた。
-不味いな。私に
「ああ、そうだな」
ラモーヌは無表情のまま軽く首を縦に振る。そしてそのまま、思いもよらぬ言葉を2人目掛けて放った。
「この絵に描かれた女性、多分私の知っている人ね」
驚きを覚えるルドルフとエアグルーヴ。そんな2人をよそにラモーヌは相も変わらず、落ち着き払った態度を続けている。
「それは一体、どういうことかな」
心の中で動揺を覚えながらもルドルフは答えた。
「実際に会ってみれば、はっきり分かると思うわ。ついて来て頂戴」
そう言うと、ラモーヌは唐突に歩き出す。ルドルフとエアグルーヴもまた、彼女の後を追いかけるように歩いて行った。
彼女に連れられて2人が向かったのは、畳敷きの部屋であった。普段は主に、選択科目である『礼儀作法』において使用される教室だが、この日は楷書体で茶道体験と書かれた紙が扉に貼られていた。
「ここかい」
ルドルフは問いかけた。
「ええ」
ラモーヌもまた答える。そのまま入り口を入ると、そこにはグラスワンダーの姿があった。どうやら受付をしているらしく、3人の姿を見て軽く驚いたような表情を浮かべる。そんな彼女にラモーヌは声をかけた。
「3人よ。よろしいかしら」
「少々、お待ちいただけますか」
「ええ」
グラスは立ち上がり、部屋の奥へと下がる。しばらくして、お客様に入って頂いて頂戴という、聞き覚えのある声が聞こえてきた。承知いたしました森宮トレーナー、そのようなグラスの声が続いて聞こえる。
それを聞いてルドルフとエアグルーヴは顔を見合わせた。一方のラモーヌはやはりね、そう言いたげな表情を浮かべる。
「お待たせいたしました、どうぞお入りください」
グラスワンダーの言葉に誘われて中に入ると、そこには正座した森宮有沙の姿があった。淡い紅色の着物に、紅葉の意匠をあしらった象牙色の帯を身に纏っている。幹部自衛官と言うよりも、どこか老舗旅館の若女将を思わせるいで立ちであった。
「いらっしゃい、ルドルフちゃん、エアグルーヴちゃん-あら、貴女」青鹿毛を認めた有沙が答えた。「ひょっとしてメジロラモーヌさん、かしら」
「やっぱり。お久しぶりね、森宮さん」ラモーヌも答える。「いえ、今は小島さんとお呼びするべきだったかしら」
「別にどっちでもいいわ。夫婦別姓が多数派になったのに、あえて同姓にした変わり者ですもの」
数年前に行われた民法、および戸籍法の改正によって夫婦別姓がこの国で認められるようになってからというもの、毎年結婚するカップルの多くが夫婦別姓を選択するようになっている。しかし、少数ながら夫婦同姓を選択したカップルも存在しており、目の前の女性はその貴重なサンプルという訳だった。
「知っているのか、ラモーヌ」
ルドルフが問いかけた。
「ええ」ラモーヌもまた答える。「小さいころ、時々遊んで頂いたの」
「本当、懐かしいわね」この上ない微笑みを浮かべながら有沙は答えた。「私が中学に入ったばかりの頃、メジロさんのお屋敷にママと遊びに行った時、またよちよち歩きをしていた貴女が私の膝に座って、私に出されていたお菓子を勝手に食べ始めたことがあったっけ」
それを聞いて、ラモーヌは若干ばつの悪そうな表情を浮かべる。残りの3人はぽかんとしていた。同時に内心では面白いものを見ることが出来たと思っている。「魔性の青鹿毛」と呼ばれ、妖艶さとミステリアスさ、そして美しさを兼ね備えた彼女がやり込められる様など、滅多に見られるものではなかったからだ。
「昔話に浸るのは、年を取った証拠ではなくって?」
嫌味の様にしか聞こえないような声でラモーヌは応じた。
「どうとでもおっしゃいな」
有沙はそれを軽くあしらう。彼女にもそのような頃があったんだな、3人はそう思った。
「それにしてもなぜ、苗字をお変えになったかしら」
純粋な疑問を聞くようにラモーヌは問いかけた。それに対して、どこか遠くを見るような目つきで有沙は答える。
「有体に言えば、私を縛り付けていたものからの独立を宣言した、ってところね」
「何かしら、それ」
ラモーヌが再び問いかける。
「決まっているじゃない、『森宮』という苗字よ」禅問答に答えるような声で有沙は返した。「あんなもの、私にとっては重荷でしかなかったわ」
「そう」理解できなくもない、と言いたげにラモーヌは答えた。「私は何も言わないことにするわ。貴女の選択に、口を出すことは出来ないもの」
「そうして頂けると有り難いわね」
様々なものを含んだ声で有沙は答えた。
「ささ、3人とも上がって頂戴。せっかく来てくださったのだし、皆にお茶を点てて差し上げるわ。グラスちゃん、ご用意をお願いね」
「承知いたしました、森宮トレーナー」
すぐに準備は整った。逆さにした台形のような形の火鉢の上に鉄瓶が置かれ、その前には丸盆に乗った茶道具一式が整えられている。
用意を終えたグラスワンダーは有沙の傍らに控えるような形で腰を下ろし、正座した。
そんな2人と向かい合うような形で3人も正座し、背筋を伸ばす。そのままお互いに一礼し、茶席が始まった。
3人を前に、有沙は手慣れた動作で茶を点てて行く。出された菓子を口に運びながら、ルドルフとエアグルーヴはその動きに感心していた。立ち居振る舞いの一つ一つを取っても、彼女の高い品性を窺い知ることが出来る。
同時に2人は思った。なぜこのような素晴らしい女性が、言い方は何だがあのような男の伴侶となったのだろうか。不思議でならない。2人はそんなことを考えるのに夢中で、いつの間にか内心が表情に現れていたことに気がつかなかった。
茶を点てながらも2人の事を横目で見ていてそれに気がついた有沙は、視線を茶碗に戻し、口を開いた。
「2人とも、何か聞きたいことがありそうね-大方、なんで私とあいつが結婚したのか、ってところだろうけれども」
その言葉を聞いたルドルフとエアグルーヴははっとした。ラモーヌが2人の方を見ながら、顔に出ていたわと呆れ気味に呟く。グラスもまた、ラモーヌと同じような表情を浮かべていた。無理もないわね、とでも言いたげに有沙が再び口を開く。
「よく言われるわ。あいつのお姉さんにだって、最初は結婚詐欺かと思われたくらいですもの。あいつが職場の同僚だって言って、ようやく納得して貰えたのよ」
それを聞いた4人は、小島に姉がいる事に意外性を感じ、同時に実の姉でさえ結婚詐欺を疑ったのだから、赤の他人である自分たちが小島と森宮が夫婦であることを信じられないのも無理はない、そんな事を思った。
「それで、森宮さん」ラモーヌが口を開いた。「貴方はなぜ彼の事を好きになって、結婚しようとまで思われたの?」
その言葉を聞いた有沙は少し考え込む。少しの間を置いて、茶碗に入った抹茶を茶筅でかき混ぜながら彼女は答えた。
「端的に言えば私の本質を-森宮家の長女でもなく、防大次席で幹部候補生学校主席のエリートでもなく、ただの一人の森宮有沙と言う女として見てくれた初めての人間だったから、かしら」
「一人の女、として」
反駁するようにルドルフが答えた。
「そうよ」恋する少女そのものの表情を浮かべながら有沙は応じた。「あいつはああ見えて、物事の本質を見抜く力に長けてるわ。真田海将補も、あいつのそう言う所を買っているみたいだしね-尤も、当の本人は全く自覚してないようだけれど」
ルドルフにエアグルーヴ、そしてグラスの脳裏に、中背小太りの醜男の姿が思い浮かぶ。3人は共に、外見を見ただけではアドミラルである事を俄かには信じ難いような人間がそこまで彼の事を買っていることに、違和感を禁じ得ないでいた。ラモーヌは相変わらず、優雅かつミステリアスな態度を浮かべながら沈黙している。
有沙は話を続けた。
「ともかく私は隆史のそう言う所を好きになって、結婚して、子供まで生んであげたの。勿論、今でもあいつの事は大好きだけれどね」
そう言いながら彼女は微笑む。本人は勿論のこと、それを見ていた4人にさえ、この上ない程の幸福を感じさせるような表情であった。
「お幸せそうね、森宮さん」口元を緩めながらラモーヌが答えた。「これからも、旦那様のことをお大事に」
「勿論よ」有沙は応じた。「さて、お茶が出来たわ。お菓子を召し上がった後で、頂いて頂戴」
皆が菓子を食べ終えたのを確認した有沙は茶碗をラモーヌに差し出す。ラモーヌが言葉とお辞儀の後で茶碗を受け取って作法どうりに回した後、数回に分けてゆっくりと中身を飲み干す。
茶を全て飲み終えた後でお礼の言葉を述べ、傍らに置かれた布巾で茶碗の縁を拭って有沙の下に戻す。彼女はそれを受け取り、そのまま茶を点ててルドルフに渡す。彼女、そしてエアグルーヴもまた、ラモーヌ同様の動作と言葉の後、茶碗を有沙に返却した。
茶を飲み終えた3人は有沙に対して礼を述べて軽く頭を下げ、退出しようとする。それを見た有沙は、引き留めるように口を開いた。
「あら、もう帰っちゃうの?」
「お気持ちは有難いのですが」ルドルフが応じた「他にも見て回るところがありますので」
「残念ね」悪戯めいた笑顔を浮かべながら有沙は答えた。「せっかくこの後、隆史との
それを聞いたラモーヌ以外の3人は揃って頬を赤く染めた。グラスワンダーなど、頭から湯気が出そうなほどになっている。ラモーヌだけが口に手を軽く当て、くすくすと笑っていた。
全く、夫婦揃って何という人間だ。頭を抱えながらルドルフは思った。呆れながらも返事を返す。
「申し訳ありませんが、遠慮させて頂きます。
「それもそうね」笑いながら有沙は答えた。「また今度、機会があったら聞かせてあげるわ。あいつを好きになった詳しい経緯も合わせて」
3人は何も言わずに部屋を離れた。
聖蹄祭が行われているこの日、多くの来場者に交じってある一組の夫婦が学園を訪れていた。夫の方はどこかとぼけた、緊張感のない顔つきをしている。一方、妻の方は品のある顔つきをしており、年の割には体のラインが崩れていない。態度や聞こえてくる会話などから察するに、彼女の方が年上であるようだ。
2人がこの日トレセン学園を訪れたのは、ここに勤務している次男の結婚相手に誘われたためである。何より義理の娘から、舞子も会いたがっていますしと言われたのでは祖父母として行かないわけにはいかなかった。
そのようなわけでこの日はお互いの仕事の休みを合わせ、横浜と横須賀の境界、京浜急行の駅からもほど近い辺りにある住宅街の内陸側にある自宅から鉄道を乗り継いで府中へとやってきたのだった。
「まあ、進ちゃん」とある出店を見た妻が答えた。「チキンカレーですって。食べていきましょうよ」
「うん、丁度お腹も空いたころだし、食べていこうか」
緊張感のない声で夫は返した。普段は船乗りを-今は陸上勤務に移っているが-しているとは思えないような態度だった。
「先に行ってるわね」
溌溂とした声で妻は返した。私立小学校で教師をしている彼女は仕事柄、時折そのような声を上げることがあった。
「いや、一緒に行こう」
夫はそう言って妻の手を握る。彼女はどこか気恥ずかしい気分になったが、すぐに笑顔を浮かべて夫と共に歩いて行った。
ラモーヌと別れた後、ルドルフとエアグルーヴは駐車場の近くまでやってきていた。ふと近くのテントを見ると、災害対策杳として学園に常備されている移動式キッチンの周りを、エプロンの下に迷彩服を着こんだ男たちが取り囲んで、何かを調理しているのが見えた。
2人は彼らの姿に見覚えがあった。この学園に戦車を運んできた輸送隊の隊員たちであった。その中にはマヤノトップガンの姿もあり、大人たちに混ざって忙しく動き回っている。
あの人たちも料理が出来るのか、そんなことを思っていると香辛料とバター、そして炊き立てのご飯の香りが2人に襲いかかってくる。
ルドルフとエアグルーヴが空腹を自覚するのと、制服の上からエプロンをつけたライスシャワーが怯えた小鹿のような声で彼女たちの事を呼んだのは、ほぼ同時であった。
「か、会長さん、エアグルーヴさん」
「ライスシャワーか、どうした」ルドルフが応じた。
「あ、あの、よかったら、食べていってください」
そう言って彼女が指さした先には、ポテトバターチキンのトマトカレーと書かれたのぼり旗が立てられていた。護衛艦かが謹製、とまで書かれており、長くはないが行列も出来ていた。
それを見た2人の中で食欲が急激に高まってゆく。互いに顔を見合わせ、軽く肯きあった後でルドルフはライスに視線を合わせ、口を開いた。
「それではライスシャワー、君の言葉に甘える事にしよう-それでいいかな、エアグルーヴ」
「ええ」彼女は答えた。「丁度、お腹も空いてきた頃ですし」
2人はそのままライスに列まで案内されると、代金を払って器を受け取った。しばらくして順番が回ってくる。迷彩服とエプロンを着た男が2人から器を受け取り、ご飯、そして鶏肉のたっぷり入ったルウを盛りつける。仕上げにルウの上に生クリームをかけ、福神漬けを器に盛って2人に手渡した。途端に涎が溢れてくる。2人は気持ちを抑えながら食事スペースとして用意された机に腰かけると、プラスチック製のスプーンでライスとルウを掬って口に運んだ。
途端に口の中がトマトとジャガイモの風味を感じさせるカレーとよく煮込まれた鶏肉、そしてご飯の混ざり合った何とも言えない美味しさで満ち溢れ、ルドルフとエアグルーヴは思わず表情を緩ませる。
普段は学園中から崇拝に近いほどの畏敬の念を持たれる彼女たちであったが、この時ばかりはそれをどこかへ捨てさり、
ふと隣の机を見ると、そこでは2組の夫婦が向かい合わせに座って談笑していた。一組は年嵩で、もう一組の方は若い。
若い夫婦の妻の方は土井美咲であった。青を基調とした迷彩服の上にエプロンをつけている。彼女の膝には自分の子供であろう赤子が座り、母親の腕の中でもぞもぞとうごめきながらも周囲に笑顔を振りまいていた。若夫婦、年嵩共にそれぞれの夫は顔つきが似ている。親子だろうか、2人は思った。
その時、聞き覚えのある声が鼓膜を打つ。声の聞こえた方を見ると、灰色の迷彩服を着こんだ小島隆史の姿があった。
「失礼いたします。ひょっとして、藤堂一佐ではありませんか」
そんな事を述べながら中年男性に向かって背筋を伸ばし、敬礼している。件の人物は、古くからの友人と再会したような表情を浮かべながら、幕末以来連綿と受け継いできた海軍一族の血を引く者として、優しげながらも威厳の溢れる態度で答えた。
「君か。久しぶりだね、小島一尉。それと」
中年男性-海上自衛隊一等海佐、藤堂進は
「今はこのような格好をしているのだから、『職場』と同じように接する必要はないよ。ここに空いている席があるのだから、君も座りなさい」
「ではお言葉に甘えさせて頂きます、藤堂さん」
親戚にでも語りかけるように小島は応じ、進の隣に腰かけた。その時不意に、ルドルフとエアグルーヴの視線が進のそれと交錯する。反射的に目をそらそうとした2人を咎めるでもなく、優しげな声で彼は語りかけた。
「君たちもこっちにきたらどうだい-確かシンボリルドルフさんとエアグルーヴさん、だったね。真田さんから話は聞いているよ」
それを聞いた2人はややバツの悪そうな表情を浮かべながらも腰を浮かせ、6人と同じ机へと歩み寄っていった。
小島隆史と藤堂進の関係が始まったのは、小島がまだ幹部候補生であったころに遡る。
藤堂進が呉で護衛艦の艦長をしていた頃、その護衛艦を見学に来た空自の幹部候補生の中で、どこか皆と距離を取るようにしていた、どこか幼さの残る顔立ちの候補生に、進が気になって声をかけたのが最初の切っ掛けであったが、その時はまだ幹部候補生と艦長と言う間柄だけで終わった。
2人の関係がより親しいものになったのは、進の次男-輝男の結婚式で
「そう言えば」藤堂進は言った。「兄さんが君に会いたがっていたよ」
「守さん-元空将が、ですか」
「正確には義姉さん-サーシャさんが森宮一尉に、だね。義姉さんは君の細君と話すことを楽しみにしているし、なにより彼女は
「そうでしょうね」
同情するように小島は答えた。進の兄の妻、その母国たる国連安保理常任理事国が、公然と核兵器をちらつかせて隣国への侵略戦争を開始してから既に数年の歳月が経過している。
「あの人はキエフ-今は確か、キーウと呼ぶんだったな。お兄さん共々あそこで生まれ育ったんだ。複雑な気分だろうね」
「コンドラチェンコさんでしたっけ」借金の証文を読み上げるように小島は答えた。「俺としては
小島は答えた。何しろ自衛隊の人間が仮想敵国の人間と結婚するというだけでも面倒臭いことになるのに、その国の軍人の家族と結婚するとあっては、当の本人らが強いられた苦労は、この組織に属する人間であれば誰でも容易に想像がつく。そんな彼の言葉を聞いた進は、表情を浮かべて応じた。
「確かに、結婚にあたって色々と『面倒な事』があったのは事実だからね。それでも兄さんは義姉さんと結婚したんだから、大したものさ-君ならその辺、理解は出来るだろう」
「どういう事でしょうか」
「決まっているじゃないか」何を言うんだい、とでも言いたげに進は答えた。「君は森宮一尉と昇進だったら、どちらを取るかい」
それを聞いた途端、小島は全てを理解したような表情を浮かべた。
「ああ、確かにそうですね-ところで、お二人は今どこに」
「揃って松戸に住んでるよ。近所に住んでる、ほら何と言ったかな。眼鏡をかけてひげを生やした、東大の准教授の家族とは仲良くやっているらしい」
小島はその人物に心当たりがあった。ロシアの軍事や安全保障についての専門家で、ロシア人の妻を持ち、2022年2月24日以降あちこちのマスメディアに引っ張りだこになっている人間だった。彼自身、当該人物の姿を何度もテレビや新聞、ニュースサイトの記事にネット配信番組の中で見かけており、彼のSNSアカウントもフォローしている。
「そういうことでしたら」小島は答えた。「12月28日に、中山レース場までお越し願えれば幸いだとお伝えいただけますでしょうか」
「どうしてだい」
「私がトレーナーとして担当しているウマ娘2人が、その日に行われるG1-ホープフルステークスに出走する予定になっております。念のために言っておくのなら、まだ本決まりではありませんが」
その言葉を聞いたルドルフとエアグルーヴはほう、とでも言いたげに感心した。彼が担当しているウマ娘の内、アグネスタキオンは既にその能力と実績からジュニア級王者候補の筆頭に挙げられている。
何しろ、彼女を来年のクラシックの最有力候補に挙げる者さえいるのだ。その実力は疑いようがない。ルドルフ自身、彼女の持つパフォーマンスの高さ-自分と同等か、下手をすれば上回っている-は、本人と行った1対1の模擬レースで十分に理解していた。
2人が驚いたのはむしろもう1人-マンハッタンカフェの方である。確かに制度上可能ではあるが、先日未勝利戦を勝ちあがったばかりの彼女を、重賞初挑戦でいきなりG1に挑ませるとはどういうことなのだろうか。小島トレーナーが何を考えているのか、未だにもって理解できない。
そのような2人をよそに、進は小島に言葉を返した。
「そう言う事なら、兄さんに伝えておくよ」
「お願いします。当日は有沙-森宮一尉と私の長男も連れていきますので」
「ああ」
頷きながら進は答えた。
「しかし、羨ましいですね」
「何がだい」
進が小島に尋ねた。
「藤堂元空将と、貴方のご子息がですよ」二度と手に入れることの出来ない宝物を見るような目つきで彼は答えた。「元空将は
その言葉を聞いた時、藤堂家4人の表情がどこか神妙なものに変化したのをルドルフとエアグルーヴは見た。雪子に至っては、どこか悲しそうな顔をしている。彼女の膝に抱かれた舞子だけが屈託のない笑みを浮かべていた。どうしたのだろう、2人がそう思った時、進が口を開いた。
「君には確か、拓馬の事を話しておいたはずだが-その様子だと気持ちに変化はない、そう見るべきなのだろうね」
「申し訳ありませんが、その通りです」死んだ魚のような目で小島は答えた。「駄目で元々のつもりで受けた飛行要員の採用試験、その際の筆記式操縦適性検査で上位10位に入るほどの高い適性を持っていると判定された人間からすれば、そのようにしか答えようがありません」
「誰から聞いたんだい」
咎めるように進が答えた。
「真田海将補が教えてくれましたよ-その後の選抜を潜り抜ける事が出来るかどうかは別として、悪くないパイロットにはなれただろうとまで言われました」
水子の齢を数えるように小島は応じた。それを見たルドルフとエアグルーヴは、彼の目に数多の競走ウマ娘と同じようなものが宿っていることに気付く。
彼のそのような様子を見た2人。その内心では、ある一つの思いが浮かび上がってきていた。
(レースでの勝利を求める私たちと、叶わぬ夢を内心では今なお諦めることの出来ない彼。そこに何の違いがあるのだろう)
勿論、小島の発言や行動が物議を醸していることは歴然たる事実であったし、それを批判する者はファンやレース関係者、そしてマスメディアにも数多く存在する。
(だが)
そんな者たちが彼と同じ運命-恋焦がれてきた夢が無惨にも打ち砕かれたとき、小島の様にならぬという保障がどこにあるというのだろうか?この世に生きるもの全てが、彼の様になってしまう潜在的な因子を持ち合わせているのではないか?それらを全て差し置いて、私たち、そして世間の全ての者に彼を批判する資格がどこにあるというのか?
疑問ばかりが2人の脳内を駆け巡る。トゥインクルシリーズと言う蟲毒の中で無数の夢が打ち砕かれていく様を誰よりも多く目の当たりにしながら、幸か不幸か一握りの栄光を持つ側になってしまった2人は、今になってようやく、小島の気持ちが痛いほど理解出来るようになってきていた。
それをよそに、小島は言葉を続ける。
「ご長男-拓馬さんのことはお気の毒に思っています。ですが持てる者が持たざる者に、持てる者ゆえの苦しみを語っても、持たざる者の心に響くことは恐らくないでしょう」
金持ちが貧乏人に、金があっても幸せになれないと言うようなものですよ。そう言う小島の態度には、どこか寂しさすら感じさせるものがあった。
「それに、私を含めて大空を飛ぶことを夢見た者は、そのようなリスクを十分承知の上で目指しているのです。不躾を承知であえて言わせて頂きますが、
その言葉を聞いた土井美咲は傍らに居る夫が腕を組みながら、小島の言葉は十分理解できると言いたげに首を軽く何度か縦に振るのを目撃した。彼もまた、小島のような思いであの大空を目指し、それを成し遂げたものであるからだ。
-尤も、美咲の夫がパイロットになったのは大空よりもはるかな高みに存在する、星の世界を目指すためのステップという意味の方が強かったのだが。
エアグルーヴがおずおずと声を上げたのはその時であった。
「あの、よろしいでしょうか」
「どうしたんだい、エアグルーヴさん」
紳士的な声で進は応じた。
「ご長男に一体、何があったのでしょうか」
それを聞かれた進は少し間を置く。しばらくした後、ウマ娘のように元気に駆け回って欲しいという願いを込め、ウマ娘が走り回る様子を見て足が4本あるように見えたことを示す江戸時代の古事に由来する、点4つの『馬』の字を用いて「拓馬」と名付けた長男を思いながら進は答えた。
「あいつはパイロットになった後、千歳の飛行隊に居てね。何年か前、訓練飛行で千歳を飛び立った後、操縦していたF-15がエンジントラブルを起こして操縦不能になって-そのまま日高山脈に墜落したんだ。拓馬がどうなったかは、言うまでもないだろう」
後悔するような声。それを聞いた2人は、G1レースで一着入線した後、進路妨害による降着を命じられたような顔を浮かべた。そんな2人を見ながら、進はどこか遠くを見るような表情で話を続ける。
「『だから言っただろう、どっちか一人はせめてまともな仕事に就けてやるべきだったんだ』-葬式で兄さんからそう、責めるように言われたよ」
「申し訳ありませんでした」エアグルーヴは頭を下げながら答えた。
「気にする必要はないよ」進は応じた。「こうして話すことで、どうにか気持ちに折り合いをつけている部分もあるからね」
「それは、理解できなくもありません」
「まあ小島君は、もう少し話し方を工夫すればより良くなる-そう思っているのだが、彼には無理だろう。何分、過去が過去だからな」
「ええ」出来る事ならそうでありたかった、そう言いたげに小島が答えた。「まともに生きるためには、その部分を全て焼却炉にくべざるを得ませんでしたので」
彼はそう、辺りを見渡しながら答えた。そして彼が次に言い放った言葉に、2人は衝撃を受けることになる。
「だからこそ私は、ここにいるウマ娘の事が羨ましい、そう思っています」
その言葉を聞いたルドルフとエアグルーヴは驚いた。当然である。ウマ娘の事が大嫌いだと公言して憚らない人間の口から、自分たちの事を肯定するような発言が飛び出すとは夢にも思わなかったからだ。それをよそに小島は続けた。
「彼女たちは、私が失った物を全て持ち合わせています。たとえ、一握りの栄光ではなく無数の屍になる確率の方が高かろうとも、その点だけは素直に羨ましい」
「ちょっといいかな、小島君」
2人を代弁するように、進が彼に問いかけた。
「君は確か、ウマ娘の事が嫌いな人間だったと記憶しているのだが-そのような君がなぜ今、ウマ娘に理解を示すようなことを言ったんだい」
「『敵』を理解するべく色々とやっているうちに、羨ましいと思うようになっただけです」苦悩と葛藤を抱えたような口調で小島は答え、続けた。
「ウマ娘を嫌いな事に、変わりはありません」
「そうか」
進は何とも言えない面持ちを浮かべてそれだけを述べると、ルドルフとエアグルーヴの方に向き直った。なんだろうか、2人は態度と表情を僅かに強張らせる。そんな彼女たちを見た進は、柔らかい声で口を開いた。
「ルドルフさん、エアグルーヴさん、君たちに一つ聞きたいことがある」
「何でしょうか」
ルドルフが答えた。
「君たちから見て、小島君はどのように映っているのかな」
それを聞いた2人は考え込んだ。当の本人との初対面から現在までに至るまでに起こった様々な物事が脳裏を流れてゆく。
それらを脳内で撹拌し、必要な回答を抽出しようとするが上手く行かない。小島の言動や態度があまりにも多岐にわたり過ぎており、それ等を纏めて明確な形にするのは困難を極めたからだった。
やがて、どうにか断片的ながらも『それ』の言語化に成功したルドルフが口を開いた。
「一言で申し上げるのならば、私たちの見えなかった物を見せてくれる存在、とでも言う所でしょうか」
「成程」
2人の頭脳がフル回転していたことを悟った進はそれ以上何も言わなかった。再び小島に向き直り、口を開く。
「だ、そうだが。どう思う、小島君」
「私はただ、思った事をそのまま述べているに過ぎません」
どこか寂し気に、そして自分を嘲るように小島は応じた。
「尤も、自分の金と精神的安定、そして『たった一つの望み』のことしか考えていないからこそ出来る芸当ですが」
「作品は見たよ」進は答えた。「これからも大切にしなさい。私にとっての
「進ちゃん」
恥ずかしそうな、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべながら、弟を窘める姉のように雪子は言った。まあまあいいじゃないか母さん、とでも言いたげに進は笑う。この2人も仲が良いな、進と雪子のやり取りを見たルドルフとエアグルーヴは思った。
「言われずとも、そのつもりです」小島はその様子に微笑みながら答え、腕時計を見た。「申し訳ありませんが、この後の準備がありますので、そろそろ」
「分かった。最後に一つ聞きたいのだが」
罪の告白を聞く聖職者のような口調で進は尋ねた。
「もし今からでもパイロットになれるとしたら、君はどうする」
「決まっているじゃないですか」何を今更、とでも言いたげに小島は応じた。「こんな服脱ぎ捨てて、とっととそっちに行きますよ-今の制度や基準がそれを許せば、ですが」
「確かに」どこか理解を示すように進は答えた。「今の制度や基準のままでは、な」
「ええ-それでは、このあたりで」
「兄さんと義姉さんには言っておくよ。12月28日に会ったら、よろしく言っておいてくれ」
「承知いたしました。あとはお願いします」そう言って、小島は足早にその場を離れた。
「では、私たちもそろそろ」
小島が離れたのを見たルドルフは進に申し出る。
「君たちと話せてよかったよ」進は答えた。「機会があったら、また会おう」
「ええ」
ルドルフとエアグルーヴは頷き、席を立つ。入れ替わるようにしてマヤノトップガンが藤堂家の席に座り、あたかも家族の一員であるかのように談笑していた。そう言えば彼女の父親はパイロットだったな、その光景を見ながら2人は思った。
その後、彼女達は駐車場へと向かった。そこは多くの人で混雑しており、その中には明らかにレースファンとは異なる存在が幾人も紛れ込んでいる。それもそのはず、彼ら彼女らのお目当てはウマ娘では無かったからだ。
そのような者たちが視線を注いでいる先には、重厚さを感じさせる車体と砲塔を持ち、砲塔にはある種のたくましさの象徴の如く突き出す主砲を備え、緑色と茶色で迷彩塗装が施された二両の
ウマ娘を目当てに来た者たちも、その物珍しさに足を止めて見入っている。その傍らでは迷彩服を着たウマ娘と人間の双方が客にあれこれと説明をしたり、10式戦車や16式機動戦闘車、そして戦車輸送車を前に写真を撮ってやっていた。
なかなかの大盛況のようだ、そう思っていると、戦車の乗組員たちの下に陸上自衛隊の制服を着こんだ広瀬彩香が、ワイングラスと瓶に入った高級人参ジュースを手に近づいて行く様子が見えた。それを合図に、周囲を取り囲んでいた者たちがゆっくりと離れていく。
何をするのだろう、疑問に思ったその時、車体後部の排気口から一瞬だけ煤のような煙が見え、重低音と共にゆっくりと戦車が動き出した。少しばかり動いて駐車場に設けられた広場に出ると、今度は砲塔が旋回する。主砲には俯角-つまり、下向きの角度がかけられていた。
広瀬はその傍らに歩み寄って踏み台に乗ると、砲口の側面から突き出した厚板のような部分にワイングラスを置き、そこにジュースを注ぐ。続いて彼女は幅を広くした結束バンドのようなもので砲身にそれを固定し、戦車の傍から離れた。乗組員であるウマ娘がハッチから上半身だけを出してそれを確認し、同じくウマ娘の操縦士に合図を送る。
次の瞬間、左右の履帯がそれぞれ前後反対方向へと動き、車体がその場で回転を始めた。砲塔も回転を始め、合わせて主砲も揺れ動く。
-あれではこぼれてしまう、それを見た多くの観客は思った。だが、主砲の先端部に置かれたワイングラスは静止したかのように動かず、その中に注がれたジュースもまた、液面が僅かに揺れ動く以外はこぼれる様子を見せなかった。
その光景に、観客からどよめきが上がる。高速移動と振動の中でも的確に標的を撃ち抜くべく備え付けられた、世界でも1・2を争うほど高性能な
やがて砲塔が一周し、主砲が車体正面を向いたところで急に止まる。グラスの中身は一滴もこぼれる事が無かった。
それを確認した広瀬彩香は戦車に近づく。ワイングラスを手に取ると優雅さ、そしてある種の艶めかしさすら醸し出すような態度を周囲に見せつけながら口元に運んで傾け、中身を全て飲み干したあとで観客の方に向き直り、優雅に一礼して見せた。
途端に観客から壮大な拍手が送られる。2人もいつの間にか、それに加わっていた。
それが鳴りやんで少しした頃、彼女たちは駐車場を離れた。この場所のみならず、学園の敷地中で開催されている多種多様な催し物を見て回るには、少々急がなければならないからだ。
「準備に抜かりはありません」
「そうですか」
遠藤の報告を聞きながら、迷彩服から濃紺の制服に着替えた小島は応じた。その傍では同じ色の、スラックスタイプの女性用制服に着替えた有沙が愛用のストラディバリウスを手に携えている。
「では手筈通り、最後の演奏が終わったタイミングで」
「了解しました」
遠藤はそう答え、自分に与えられた命令を実行するべく上官の下を離れていった。
学園のメイン棟、その中央部にある吹き抜け部分では、大勢の観客が航空自衛隊中央音楽隊による生演奏に聞き入っていた。一流の演奏者が集うオーケストラの演奏だけあって見事なものであり、一曲一曲が終わるごとに盛大な拍手が沸き起こる。大きなガラス張りの窓からは夕暮れに傾きつつある日差しが差し込み、演奏にアクセントを加えていた。
「中々のものだねぇ」
「そうですね」
2階部分から見下ろす形で演奏を聞いていた2人-タキオンとカフェは言った。 普段は殆ど旧理科準備室にこもっている両名であったが、この日ばかりは物見遊山としゃれこんでいる。彼女たちは学園のあちこちを見て回った後、最後の締めにとここへやってきたのだった。周囲は両名同様、演奏を聞きに来た客で満たされている。
「しかし『あれ』には、些か驚かされたよ」
「ええ、小島さんがまさかあんな特技を持っていたなんて」
-2人は美術展で見た、自分たちの担当トレーナーが描いた作品のことを思い出していた。題材については彼らしいと思ったが、それ以上に作者名を見た時に感じた、小島の意外な側面に対しての驚きの方が、両名の内心で大きなウエイトを占めている。
そんな2人の眼前では、今まさに最終演奏が行われようとしていた。
(それにしても)
あれは何なのでしょうか。先ほどから一度も使われている様子がありませんね、片隅にある、グランドピアノを見ながらカフェはそのような事を思った。
彼女がそんな事を思っているうちに、最終演奏が終わる。演奏の余韻が冷めやらぬ観客からは名残惜しいとばかりに盛大な拍手が送られ、2人もそれに加わって手を叩く-次の瞬間、窓が全てカーテンに覆われた。同時に照明が落ち、暗闇が空間を支配する。
突然の出来事にざわめく観客。2人も例外では無かった。きょろきょろとあたりを見回す。その時再び明かりが灯った。見ると、ピアノの前に置かれた椅子に腰かけ、鍵盤に指を置く人物の姿があり、そのすぐ隣にはヴァイオリンを手にした女性が佇んでいる。
その両名を見て、タキオンとカフェは軽い驚きを覚えた。何故ならば、鍵盤に指を置いていたのは自分たちを担当するトレーナーであり、ヴァイオリンを手にしていたのは彼の細君であったからだ。
思いもよらぬ人物の登場に観客は再度ざわめく。2人はそれらを意にも介さず、ざわめきが落ち着くのを待って顔を見合わせると、小島が右手の親指以外の全ての指を立て、リズムを取りながら小指から順に1本ずつ折り曲げていく。人差し指を折り曲げると同時に、親指を勢いよく立てた。
それを確認した森宮有沙が手を動かし、ヴァイオリンからスローテンポな音楽が流れだす。一呼吸置いてどこかラテン調の、フラメンコのBGMを思わせるリズミカルな曲が聞こえてきた。小島の指が滑らかに鍵盤を叩いて行く。
-戦闘機同士の空中戦を思わせる、アップテンポな曲。今までに10作品以上が発売されたフライトシューティングゲームの内、20年ほど前に発売された、国土は小さいながらも豊富な天然資源を持つ国の傭兵となって隣国からの侵略に立ち向かうという内容の、シリーズの中でも傑作と名高い6作目、その最終ミッションにおけるBGMとしても使用されている、当該作品のメインテーマであった。
演奏を聞きながらタキオンは思った。
-全く、あのデッサンと言い目の前の演奏と言い、トレーナー君には意外な特技があったものだね。本当、彼が私とカフェのトレーナーで良かったと思うよ。こちらが考えつかないような驚きを私たちにもたらしてくれるし、見ていて飽きないし面白い。
欲を言えば私のモルモットになってくれるとより有難いのだが。まあ、森宮トレーナーと遠藤さんがいる分望み薄だろう。
そんな事を思いながら、タキオンは無意識のうちに面白がるような笑みを浮かべていた。
(また、変なことを考えてますね)
それを見て、隣にいるカフェは思った。まあ、今更どうなることでもありませんし放っておきましょう。そう思い、演奏に耳と目を傾ける。
(それにしても)
本当に楽しそうですね、2人とも。まるで魂のレベルで共鳴し合っているみたい。やはり、お互いに深く想い合っているからこそなのでしょうか。
そのような彼女の思いを体現したかのように、小島と森宮は実に楽しそうな表情を浮かべながら演奏を続けていた。
「私もエアグルーヴも、初めて見たときには驚いたものだよ」
いつの間にか2人の傍に来ていたルドルフが口を開いた。傍らにはエアグルーヴも居る。
「ご存知だったのですか、会長さん」
「ああ」彼女は答えた。「始めて見た時もそうだが、彼は本当に突拍子もないことをするきらいがあるな。良くも悪くも」
「そう言う所が面白くもあるんだよ」新薬の開発に成功したような表情を浮かべながらタキオンが答えた。「トレーナー君はあれで中々、私とカフェの事を楽しませてくれる」
「あの問題児がここまで様変わりするとは」
『女帝』さながらの鋭さを含みながらも、感心するような表情を浮かべながらエアグルーヴが答えた。
「アグネスタキオン、小島トレーナーと貴様は随分と相性がいい様だ」
「マイナス同士をかけ合わせればプラスになる-本人はそう言っていたよ。まあともかく、私のやっていることにとやかく言わないでくれるのは有難い」
マイナス同士か、言い得て妙だ。エアグルーヴは思った。
そして、その『マイナス』を敢えて受け入れることにしたのは私であり会長であり、そして理事長でもある。
-この先、いったいどこへ向かって行くのだろうか。皆で覚悟を決めて修羅の道を歩み始めたとは言え、先行きが分からないというのは不安なものだ。全く、まるでゴール板までの距離が分からないレースのようなものだな。
「あれでも、小島一尉は変わったものだよ」
中年男性の声が響いたのはその時だった。見ると遠藤が、六平と共に4人の傍で演奏を眺めている。息子を見守る父親のように彼は口を開いた。
「昔と比べれば、随分と明るくなった」
「あの男とは付き合いが長いんだろ、保やん」
極道のような声で六平は問いかける。
「幹部候補生の頃から知っているからね」懐かしみながら遠藤は応じた。「その時の小島一尉は、世の中の全てを信じていなくて、何もかも諦めているような-まるで、20代の頃の俺と全く同じ態度や目つきをしていたよ」
その言葉に、この場にいる全員が反応した。皆、目を丸くしている。ただ1人、六平だけが全てを悟ったかの様に無表情で佇んでいた。
遠藤は話を続ける。
「それを気になって本人に聞いてみたら案の上、
「確かラリー・ドライバーになりたかったんだよな、保やん」
六平が答えた。
「その通りさ、六ちゃん」死児の齢を数えるような声で遠藤は応じた。「俺が高校の時、親父が仕事帰りに酔っ払い運転のトラックに撥ねられてくたばってなかったら、そんな未来もあったかもしれない」
それを聞いた4人は共に、彼の事をどこか悲しみに溢れたような表情で見つめる。そんな様子を見た彼は苦笑しながら応じた。
「気にしないでくれ、そっちの半分くらいは今何とかなっているから-とにかく、どうにかしてやらなくちゃと思ってね、色々と世話を焼いてやったのさ。そしたら卒業式の前日に小島一尉に呼び出されて、色々と助けてくれてありがとうございましたって、お礼を言われたよ。目つきや性格も入学当初よりはマシになっていたし、あの時は本当に嬉しかった」
表情を緩めながら紡がれる柔らかな声に、4人はどこか微笑まし気な気分になる。そのような態度を取る男が、生身の人間でありながらウマ娘でさえ抑え込んで見せる身体能力を持ち合わせていることをこの時ばかりは忘れそうになった。
遠藤は話を続ける。
「それ以来会ってなかったんだけど、同期の連中から色々と話を聞き及んではいたのさ-少なくとも悪くない幹部だって、ね」
「悪くない幹部、ですか」
カフェが答えた。
「俺達の基準で言えばそうなるね」品物を見定める商売人の様に遠藤は答えた。「部下に対して必要以上に口を出すことはしないし、無理を強いることも無い。それでいて自分の意見を持っていて、それをしっかりと言ってくれる。満点とは言わなくても、合格点は与えられるよ」
まあ上官受けはしないけれども、小島一尉はああいうふうにしか出来ない人間だからね、本人も出世するつもりは無さそうだし。付け加えるように遠藤は答えた。その言葉を聞いて、4人とも同じような感想-端的に言ってしまえば、彼の言葉と同じようなもの-を頭に思い浮かべる。
彼女たちが浮かべた表情からその事を読み取った遠藤は、まあそうだろうなと思いつつ話を続けた。
「市ヶ谷であった時は驚いたよ。昔に比べて、随分と明るい目をしていた。それは多分、森宮一尉のおかげだと俺は思っている。あの2人は本当に、ベストパートナーとしか言いようが無い」
その言葉を聞いた4人のウマ娘は首を縦に振った。2人の関係性については全員が否定することの出来ない、共通の認識であったからだった。
「それでもやはり、夢を諦めきれないでいる所は変わっていなかったけれどね」
読経でもするような遠藤の口調に、ルドルフとエアグルーヴは音楽室での一件、そして藤堂進とのやり取り、その時に感じた事を思い出して複雑な気分になる。やはり小島トレーナーと私たちは根源の部分で同じようなものではないのか、2人は思った。
「どうしたんだい、会長、副会長」
その様子を見たタキオンが問いかける。遠くを見つめるような表情を浮かべながら、ルドルフがそれに応じた。
「少し、考えていたのさ-小島トレーナーと私たちは、結局のところ
「なんだいそれ」
分からないとばかりにタキオンは述べる。
「意外だな」からかうようにルドルフは答えた。「博識な君なら、意味を知っていると思っていたのだが」
「私にだって、知らないことはあるさ」苦笑交じりにタキオンは応じた。「例えばそうだな、トレーナー君と遠藤さんが意外と似た者同士だってことのように、ね」
「ああ、そうだな」ルドルフは答えた。「それに関しては、私もエアグルーヴも同意せざるを得ないよ」
「貴様と意見が一致するのも、また意外ではあるがな」
エアグルーヴもまた述べる。
「少なくとも俺は、昔の夢を半分近く取り戻すことは出来た」
一連の話を聞いていた遠藤が口を開いた。
「でも、小島一尉のように最愛の伴侶を得てもなお、昔の夢を欠片すら取り戻せていないような人間を見ていると思うよ」
年長者としての重みを感じさせる表情を浮かべながら遠藤は答えた。
「個人の努力というものが、運と偶然、そして環境と才能という大きな流れの前にはいかに無力であるのかという事をね」
それを聞いた5人は何も言わなかった。皆彼の言葉を噛み締めながら五者五様の表情を浮かべ、押し黙っている。
2人の奏でる演奏だけが、ただ鼓膜を打ち続けていた。
-アグネスタキオンとマンハッタンカフェ、2人のホープフルステークスへの出走が正式に決定したのは、この約一か月半後の事であった。
https://www.mod.go.jp/msdf/kanmeshi/menu/cr/028/index.html
作品中に出てきたカレーについては上記のリンクからレシピがご覧いただけいますので、よろしければどうぞ作ってみてください。
次回はいよいよホープフルステークスになります。既に話の流れについては決まっておりますが、全てを纏めて書いてしまうとあまり切りが良くないため、これまでの話より字数を短くして3話くらいに分けて書いていこうと思っております。
今年のダービーまでに次回を投稿できるよう頑張りますので、これからもお付き合いの程よろしくお願い致します。
それでは。