てなわけでどうぞ。
「私たちの意見が全て一致してしまうのは、決していいことじゃない。競馬が成り立つのは、意見の相違があってこそだからね」
-マーク・トウェイン
中山レース場のスタンドには、異様な空気が漂っていた。
通常であれば、G1に限らずレースが終わった後と言うのは、興奮の余韻に浸りながら熱くレースの模様を語ったり、勝者に惜しみない声援を送り、または惜しくも敗れてしまった者たちの健闘を称える光景がそこかしこで見られる。
だが、今回はそのような行為が全く無かったとまでは言わないものの、普段のレースに比べれば少ない。そして、その原因の主な原因である人物はスタンドの一角-関係者席に存在していた。
タキオンが1着でゴール板を駆け抜けた瞬間、関係者席もまたスタンドの他の席と同じように一瞬の興奮と歓声に包まれ-わずかな間を置いて静まり返った。皆、優勝したウマ娘を担当しているトレーナーが誰であるか、その直後に思い出したからだ。
暫しの静寂の後、驚愕と困惑が入り混じったざわめきがそこかしこでささやかれ、同時になんであいつが、とでも訴えかけるような視線が当該人物に集中する。
だが、そんなことを当の本人は意にも解していない。彼は周囲の状況ではなく、脳内で思考を巡らせることに意識を集中させ続けていたからだ。
-ふん、勝ったか。
自分の担当するウマ娘が一着でゴール板の前を駆け抜けた瞬間、小島が双眼鏡を覗き込みながら思ったのはそれだけであった。表情もまた、感動や興奮、喜びを露わにするのではなく、ただ口元を僅かに緩めたのみである。
ジャングルポケットが続けて2着に入り、クロフネが3着に、そして彼女にほんの僅か-ハナ差まで迫った
-タキオンは良いとして、カフェは4着か。確か5着まで賞金は出るはずだったから、タキオンとカフェを合わせて800万くらい-税金で差っ引かれる分を除いても600万は優に超えるな。うん、悪くない。
そこまで考えたところで、周囲が妙にざわついていることに気がつく。違和感を覚えて辺りを見渡すと、そこでようやく関係者席に座る者たちの殆どが自身に視線を向けていることをはっきりと理解した。その殆どに、衝撃や困惑と言った類のものが多々混ぜ合わされている。
それもそのはずであった。トレーナーを長年続けていても手に届かない者の方が多いG1タイトル。それをジュニア級のものとは言え、トレーナーとしての経験が1年にも満たない臨時雇いの余所者がいとも簡単に奪取してしまった事実は、衝撃と言う言葉では言い表すことが出来ないほどのものを本職の者たちにもたらしていた。
それを見た小島はシニカルな表情を浮かべ、思った。ふん、目の前の光景を現実として受け止めきれていないのは理解できるが、こうなってしまったのだから仕方がないだろう。全く、現実は小説よりも奇なりとはこのことだな。
静寂を破るように、両手を叩き合わせる音が彼の耳に聞こえてきたのはその時だった。音のする方に視線を向けると、自席から立ち上がった守とサーシャが小島の方を向き、落ち着いた笑顔を浮かべて拍手を送っている。
先に口を開いたのは守だった。サーシャも夫に続いてそれに加わる。
「おめでとう、小島君」
「
「ありがとうございます、守さん-
「小島君」臣下を睥睨する王のような態度と口調で真田が口を開いた。「よくやった」
「金の分、仕事をしただけですよ」
「今日の分の特別手当は、明日中に振り込んでおく」
「それは有難い」お年玉を待ちわびる子供のように彼は答えた。「手荒く楽しみです」
その時、一斉に拍手が沸き起こる。有沙と隆俊の拍手に合わせて、小島の家族全員、そしてアグネスフライトが彼の方を向いて立ち上がり、夫に父親、息子あるいは実の弟に義理の弟、あるいは叔父や親族、あるいは妹のトレーナーである一人の男に惜しみない拍手を送った。
他の者たちもそれに戸惑いつつ、遅ればせながら拍手を送る。周囲を見渡しながら小島は、母方から受け継いだ優しげな作りの顔に、作り物ではない自然の柔らかな笑みを浮かべながら軽く頭を下げた。その姿を見た他のトレーナーやレース関係者は、軽い驚きを覚えたように彼を見る。このような表情を彼が出来るなど、皆思ってもいなかったからだった。
彼は頭を上げるとすぐに、この後何をすべきかを思い出し-制帽とコートを着込んで歩き出そうとする。
姉-郁子が口を開いたのはその時だった。
「隆史」
「何だ、姉ちゃん」
「約束、忘れてないでしょうね」借金の督促でもするような口調で郁子は述べた。
「分かった分かった、奢ってやるよ」苦笑しながら小島は応じた。
「あの」フライトが口を開く。「私も小島さんについて行って良いですか。妹を-タキオンを出迎えたいんです」
「構わないよ」彼は答えた。「一緒に来るといい」
「分かりました」
フライトはそう言ってスカートを撫でつけ、移動の準備を始める。小島は彼女の準備が整ったのを見計らい、彼女と共にゆっくりと歩き出す。
そして2人が向かったのは、勝者の下では無かった。
「・・・どうして、こちらにいるんですか」
スタンドとコース入場用通路を挟んだ反対側に位置する、レースを終えたウマ娘達が様々な検査を行う建物の中で、訝しむようにカフェは答えた。
見ると周囲にいる、ホープフルステークスに出走し、そして敗れた他のウマ娘やその担当トレーナーたちも、彼女と同じような表情を浮かべつつ、ちらちらとこちらを見ている。
それらの視線の先-そしてカフェの傍らには彼女に加えて、今回のG1レースで勝利したウマ娘を担当しているトレーナー、そしてアグネスフライトの姿があった。カフェの隣に歩み寄った小島が、椅子に腰かけながら先程のレース結果に対する悔しさを噛み締めている最中の彼女に「4着か、お疲れさん」と声をかけ、それに対してカフェが発したのが冒頭の言葉である。
彼女の、何故タキオンの方に行かないのかとでも言いたげな言葉に、小島はどこか納得したような表情を浮かべながら、気遣うように柔らかな口調で応じた。
「勝ったやつは放っておいても、周りが勝手に褒め称えてくれる。だが、負けたやつのことを気に掛けてやれるのはそいつの周囲の奴だけだ」
「それで、私の方に」
「ああ」自分の役割と責任を自覚したような声で彼は答えた。「位置取りも、仕掛けるタイミングも-あとこう言っては何だが、お前さんの人気と1着とのタイム差から見た着順も-レースの内容そのものは悪くなかった。それでいてこの結果なら、立案した俺のミスだ」
「・・・小島さんが、謝ることでは無いと思います」カフェもまた、申し訳なさそうに応じた。「・・・私が取ろうとしたコースに、先にタキオンさんが入ってきました。それに気を取られて、仕掛けるタイミングが少し遅れて-その結果がこれです。それが無ければ、少なくとも勝ち負けには持ち込めたと思います」
彼女の言葉は正鵠を射ていた。事実、彼女のラスト上がり3ハロンのタイムは33秒8。34秒1のタキオンよりも早い、レース中上がり最速を記録している。位置取りと仕掛けるタイミングによっては、異なる結果になっていただろうことは容易に想像が出来た。
「その辺りは、今後の課題だな」
「それと」未知の存在とでも遭遇したかのような口調でカフェは答えた。
「なんだ」
「・・・『お友だち』が、いました。タキオンさんよりも、更に前の方に」
「そうか」感情を交えない声で小島は答えた。
「・・・勝ちたかった、あの子に、どうしてもッ・・・!」
肩を震わせながら奥歯を噛み締め、悔しさを絞り出すように、いまにも涙を流しそうな表情と口調で彼女は答える。それを見た小島は、穏やかな表情を浮かべると、先程よりもさらに優し気な口調で彼女に話しかけた。
「-とにかく、今は休め。この後、ライブもあるんだろう」
カフェは俯きながらも軽く肯く。それを見た小島はポケットからここに来るまでの道中で購入した缶コーヒーを取り出し、軽く微笑みながら放るようなしぐさで彼女に手渡した。突然の行動に戸惑いつつも、カフェはどうにかそれを受け取る。子供をあやすような声が、自分の担当トレーナーから聞こえてきた。
「コーヒーにうるさいお前さんには不足だろうが、とりあえずこれでも飲んで落ち着け。ああ、飲むのはドーピング検査の後にしておけよ」
「ありがとう・・・ございます」
担当トレーナーの予想外の行動に呆気にとられながら-そして、彼のほのかな温かさと優しさを感じながら、何処かぼんやりとした口調でカフェは応じた。
彼女の言葉を聞いた小島は、返答代わりに軽く右手を振って応じると、そのままゆっくりとした足取りでスタンドの方へと歩いて行く。フライトがカフェに話しかけたのはその時だった。
「お疲れ様、カフェちゃん」
「フライトさん」見上げるような形で彼女は言葉を返す。
「小島さんは、意外と優しい人なのね」背中で両手を組み、笑みを浮かべながらフライトは答えた。「ああいう気遣いが出来る人だなんて、思いもよらなかったわ」
「ええ」同意するようにカフェは答えた。「癖の強い人ですけど、それでも私とタキオンさんにとっては良いトレーナーです」
「そう」フライトは返した。「でも、あの人はいつもどこか、遠くを見るような目をしているわね。なんでなのかしら」
「会長さんから聞いたことはありますが-聞いていて、あまり気持ちの良いものではありませんでした」
「そうなの」
「はい」軽く咎めるようにカフェは答えた。「小島さんにとっては、一生消えることの無い心の傷ですから」
それを合図に、2人は揃って小島の方に視線を向ける。その先には、柵越しに詰めかけた観客からの惜しみない祝意に手を振って答えるタキオンと、それを出迎える担当トレーナーの姿があった。
(-これで俺も、G1トレーナーという訳か)
作り物なのか、はたまた自然のものなのか分からない笑みを浮かべながら観客に手を振るタキオンの姿を見て小島は思った。
貰えるというのなら、有難く貰っておこう。だが、俺が本当に欲しかった物は、最早未来永劫-
そこまで思ったところで、彼は先ほどまで聞こえていた、勝者に対する祝意の言葉が聞こえてこなくなったことに気がつく。同時に、タキオンを称えていた観客の多くが小島にへと視線を向け、彼女と自分を見比べながらざわめき、戸惑い、複雑な表情を浮かべるのが見える。
無理もなかった。彼ら彼女らは浸っていた幻想から、目の前の現実へと強制的に引き戻されたのだった。
そんな観客たちを見た小島の内心にいたずら心が浮かんできた。そちらに向かって微笑み、手を振ってやる。途端に、少なからぬ数の観客が電流に打たれたように姿勢を変えたのが分かった。
(-面白いな)
微笑しながら彼は思う。そのとき、自分の担当トレーナーの姿に気付いたタキオンが、小島の下へと軽い足取りで駆け寄ってきた。
「よくやった」
抑揚の無い、担当ウマ娘がG1レースに勝利したとは思えないような口調で小島はタキオンに話しかける。タキオンもまた、トレーナー君は相変わらずだねぇと思いながら口を開いた。
「どうだい、G1トレーナーになった気分は」
「パイロットライセンスの方が欲しかったよ」空に浮かぶ一条の飛行機雲を見上げながら、どこか羨むように彼は答えた。「一応、くれると言うなら有難く貰ってはおくが」
「実に君らしいね」苦笑しながらタキオンは応じる。「まあ、何に価値を感じるかは人それぞれさ」
「ああ、そうだな」
2人の下へフライトが駆け寄ってきたのはその時だった。彼女は祝意を隠そうともしない表情を浮かべ、勝負服の袖越しにタキオンの両手を握りしめて上下に振り回しながら口を開く。
「おめでとう、タキオン-これで私と同じ、G1ウマ娘だね」
「そう言えば、そうだったね」どこか気恥ずかしそうにタキオンもまた答える。「すっかり忘れていたよ-有難う、姉さん」
その光景を見た、周辺にいたテレビクルーやカメラマンたちが2人へと一斉にレンズの砲列を向ける。
共にG1を制した姉妹同士が喜びを分かち合う感動。彼ら彼女らにとって最高の被写体であり-そして同時に
節操のない奴らだ、小島は思った。まあ、あいつらにしてみれば自分の飯のタネなのだから仕方がない-そう思いながらタキオンとフライトに視線を向けた瞬間、憤然とした表情を浮かべたジャングルポケットがタキオンに歩み寄ってくる。
どうしたんだいポッケ君、彼女の姿を見てそう呟いたタキオンに、ジャングルポケットはタキオンの勝負服の襟を両手で掴みながら、獲物を睨みつける肉食獣のように、鋭い目つきをしながら口を開いた。
「お前が、あのトレーナーとG1を取ったのには納得してねえ-だけどよ」そこで言葉を切り、彼女は続ける。「次やるときは絶対に負けねえからな。覚えとけ」
「ああ、覚えておこうじゃないか」
どこか不敵にタキオンは応じる。ジャングルポケットはそれだけを聞くと、タキオンを掴んでいた手を離し、そのまま自分の担当トレーナーとフジキセキの下へと戻っていった。
「なんというか、野生児みたいな奴だな」
小島は答えた。タキオンは分析対象を前にしたような口調で言葉を返す。
「あれでいて中々真っ直ぐな人物だよ、ポッケ君は。まあ、悪くはないと言ったところかな」
「走り終わった後だってのに随分と冷静だな、お前さん」
「何を言っているんだい」
自分のドッペルゲンガーと相対したようにタキオンは答えた。
「君だって、似たようなものじゃないか」
表彰式はつつがなく進行された。スタンド前のコース上に設置された表彰台に2人が並んで上がり、静かに流れるようなテンポで「見よ、勇者は帰る」が奏でられる中、2人の紹介と花束の贈呈の後、優勝トロフィーを小島が受け取り、続けてレース名が記された優勝レイがタキオンの首に掛けられる。
祝意と珍しさ、更にはある種の複雑さ-様々なもの混ざり合った視線と一応の拍手が観客から送られる中、関係者やプレゼンターと並んでの記念撮影が行われ、それを持って表彰式は終わりを告げた。
2人は後ろに控えていたコンパニオンに貰った記念品を預けると、そのまま係員の案内でウィナーズサークルへと向かう。背景とマイクが用意された台の上に並んで乗る光景を見たメディア陣や観客は、その光景を-特に小島を見て、内心で驚いた。
無理もない。普段の言動や態度などから、どれほど傲岸不遜な人間なのかと待ち構えていた所に、背は高く足は長いが、所謂イケメンでもない、実年齢よりも幼く見えるような印象を受けるような顔立ちをした、何処にでもいるような平凡な外見の男が現れたのである。抱いていた幻想と現実の違いに戸惑うのも当然であった。
だが、メディア陣の中にいた乙名史悦子だけは違った。この中で唯一、小島と直接言葉を交わしたことのある彼女は、何事も第一印象だけで-特にこの男について-判断することの愚かさをよく知っていたからである。
-さて、どんな話を聞かせてくれるんでしょうか。ひょっとしたら今回も「楽しい事」になるのかもしれません。
内心で彼女はそんなことを思った。同時に、何処かでそれを期待している部分が自分の中に存在することも自覚する。そのような、職業病とでも言うべき愚かな性をどうにか抑え込んだタイミングで、インタビュアーがマイクに向かって口を開いた。
「皆さま、お待たせいたしました。それでは、今回見事ホープフルステークスを優勝いたしました、アグネスタキオンさんと小島隆史トレーナーです。おめでとうございます」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
手を振って見せるタキオンに続けて、すましたような表情で小島は応じる。
「早速ですが、お2人とも今のお気持ちをお聞かせください」
「中々、悪くない気分だねぇ」
「率直に言えば」抑揚の無い声で彼は答えた。「チョコレートが欲しかったのにビスケットを貰った気分ですよ」
「それは、どういう」
「欲しい物は他にあった、という事です」
彼の言葉を聞いた観客やメディア陣のなかから軽いざわめきが起こる。まあ、当たり前だろうなと思いつつ小島は続けた。
「まあ、私は頂けるものは不幸や災難の類でない限り貰っておく主義ですので、今回の賞は有難く頂こうと思っております」
「は、はぁ」
戸惑うようにインタビュアーは答えた。助け舟を出すようにタキオンが口を開く。
「彼はいつもこんな調子だから、あまり気にしないでおいてくれ」
「それでは、次の質問に移らせていただきます」軽く戸惑いつつ、インタビュアーは続けた。「今回、タキオンさんは近2走よりもやや後方からのレース運びとなり、第3コーナーから第4コーナーにかけて外に持ち出す形となりましたが、これは作戦だったのでしょうか」
「正直に言って意外でしたね」抑揚の無い声で小島は答えた。「いつも通り先行して押し切れと指示を出していたので、もう少し前の位置につけると思っていました」
まあ細かい所は本人任せにしていたので、何かあっての事だとは思うのですが-彼がそこまで言ったところで、タキオンが口を開いた。
「スタートで、少し出遅れてね」学術名でも述べるように彼女は答えた。「本当はもう少し前に着けようと思っていたのだが、前の2人にブロックされて、残り800メートルあたりで不味いと思ったんだ。それで第3コーナーからは思い切って外を回させてもらった、という訳さ」
トレーナー君がカフェに、外の方が綺麗だから思い切って回せと言っていたのを聞いて、それを利用させてもらったよ。彼女は続けて述べる。
-こいつも中々食えない奴だな、
それを聞いていた小島は、インタビュアーが感心したように頷くのを見て思った。そんな彼に、再び質問が投げかけられる。
「勝因についてはどのようにお考えでしょうか」
「運が良かったんでしょうね」しれっとした態度で小島は答えた。「よく言うじゃないですが、一番運のいい奴が勝つって」
それを聞いたインタビュアー、そして観客から表情こそ穏やかだが、そう言うことを聞きたいのではない、とでも言いたげな視線が小島に飛ぶ。それらを気にも留めることなく、上官の空虚な自慢話を聞かされたような表情を浮かべながら彼は答えた。
「たしか夏目漱石でしたっけ、仏像を彫る仏師を見て、あれは木から仏像を彫っているのではなく、木に埋まった仏像を掘り出しているだけだというシーンがありましたが、それと同じことですよ」
「その心は」
本気かこいつ、小島の言いたいことを察したような声でインタビュアーは問いかける。彼はその期待を裏切らなかった。不敵な笑みを浮かべ、口を開く。
「我々がどれだけ頑張ったところで、最終的に賽子を振るのは神様だという事です」
芝居がかったように彼が答えた瞬間、観客の間に衝撃が走った。中には小島を睨みつける者もいる。彼が何を言いたいのか、それをはっきりと理解したためであった。
インタビュアーが再び問いかける。
「今のお言葉は、どのような意味なのでしょうか」
「ご想像にお任せします」何を決まりきったことを、とでも言いたげに小島は答えた。
傍らでは、彼の言葉を聞いたタキオンが苦笑している。2人の様子に軽く戸惑いを覚えながらも、インタビュアーは続けてタキオンに問いかけた。
「タキオンさんにとってはお姉さん-アグネスフライトさんと姉妹でのG1優勝という事になりましたが、それについてはいかがでしょうか」
「姉さんは姉さん、私は私さ。まあ、それだけだよ」
関係ないとでも言いたげな彼女の言葉を聞いたインタビュアーは、最後の質問に移ることにした。これ以上問答を続けても得られるものは何もないと判断したからだった。
「それでは最後に、お2方からファンの皆様に何か一言」
「ふむ、そうだねぇ」
そう言って周囲を一瞥したタキオンは、一瞬何かを企むような表情を浮かべると、見ただけでどこか癖になりそうな、
「皆、見に来てくれて有難う-これからも応援の程、よろしく頼むよ」
その言葉を聞いた途端、観客の多くは先程までの感情をどこかへと投げ捨て、まるで彼女を心酔-と言うより崇拝するような、恍惚とした表情を浮かべていた。
-このマッドサイエンティストめ、妙な薬でも撒いたのか?
そう思った小島は観客を見回した。皆、どこか魂が抜けたようになっている。
見ると、集まったマスコミの中にも同じようになってしまった者が少なからず存在した。どうやらタキオンの笑みと声に魅了されてしまったらしい。
言い終えた彼女は、こんな物でいいだろうとばかりに小島の方を見る。次は君の番だよ、悪戯っぽく片目をつぶりながら、タキオンは彼に視線でそう訴えかけてきた。
全くこの女は、小島は呆れながらも口を開く。そこから出てきた言葉は、タキオンの言葉に惑わされた観客やマスコミ陣を正気に戻すのに十分すぎる内容であった。
「彼女の-タキオンのことを応援して下さるのは、とても有難い事です」アイドルのマネージャーの様に小島は答える。「ですが応援にあたっては、くれぐれも節度と距離を保った、適切な距離と間隔を保った応援をして頂けるようお願いします。くれぐれも崇拝や、ファンの皆さん自身と彼女を同一視するような過度な応援は謹んで下さい。そうして頂かなければ、我々にとっても皆さまにとっても、決して良い事にはなりませんので」
その言葉を聞いた観客やマスコミは我に返り-同時に彼の事を睨みつける。勿論、当の本人は何とも思っていない。相も変わらず、飄々とした表情で群衆を見つめていた。
そんな小島に更なる苛立ちを観客が覚えたところで、インタビュアーが問答の終わりを告げた。それに合わせて、記者とテレビカメラの群れが2人の近くににじり寄ってくる。
それを見た瞬間、小島は顔をこわばらせた。集団が近づいてくるのを見た彼の中で、中学時代に経験した恐怖が本能的に蘇ってきたのである。
「どうしたんだい」
担当トレーナーの様子に不信感を覚えたタキオンは何処か心配するような口調で、囁くように彼に問いかける。
「中学の時の事を思い出してな」
口元を歪ませながら小島は答えた。
「君の運命を決定づけた出来事の事かい」
実験に失敗したような口調でタキオンは応じる。
「まあな」諦観混じりに彼は返した。「ホモサピエンスが進化する過程で、生存のために脳に備わった機能だと分かっていても、正直やりきれん」
「そこに言及するのは止めておくことにしよう」ルドルフから聞いた、彼の過去を聞いた時にあったことを思い出しながらタキオンは答えた。「君を怒らせると、それは恐ろしい事になりそうだからね」
「ああ、そうしてくれ」
感謝するように小島は答えた。
やがてメディアとの質疑応答が始まり、2人の前に集まった何人ものマスコミが、雨後の筍の様に手を挙げ、インタビュアーに指名された記者が、決まりきった祝意の言葉から始まる質問を2人に投げかけてゆく。
いくつかの質問に答えたところで指名されたのは、日頃から政府や自衛隊に(戦後民主主義的な意味で)批判的な論調で知られる大手新聞社、その系列にあるスポーツ新聞の記者だった。社名と自身の名を名乗った後、小島に対する質問であることを明言した上で、鋭い口調で記者は問いかけた。
「小島トレーナーは、レースに興味や関心のないトレーナーであると以前おっしゃいました。それに対して批判的な意見がレース関係者やファンの間から、インターネットやSNSにおいて多々寄せられておりますが、その事をご自身ではどう捉えていらっしゃるのでしょうか」
他の記者やファンも、それが聞きたいとでも言いたげに小島を見つめる。その中の一部は鋭さを通り越して、悪意や憎悪の類さえ感じられるほどだった。
その言葉を聞いた小島は、少しの間考える。突き刺すような視線がいくつも向けられる中、彼は顔色一つ変えずに口を開いた。
「私の発言に対し、様々なご意見があるのは重々承知しておりますし、それこそが言論の自由のあるべき姿だと思っております。しかしインターネットやSNSと言うのは、広いように見えてその実狭い社会ですので、それがあたかも世の中の総意であるかの様に受け取るのは、正直どうかと思っています」
「どういうことでしょうか」睨みつけるように記者は答えた。
「この国には、1億2千万もの人が住んでいるのですから」害虫の学術名を読み上げるような声で小島は応じた。「私は
その言葉を聞いた記者たちはいら立ちを隠そうともしなかった。当然である。目の前の男は、自分たちの事を節操のない風見鶏だと揶揄したのだった
そんな連中にどう思われようが馬耳東風とばかりに小島は再び口を開く。その内容はここに集まった者、そして様々な端末の画面を見つめる者たちに更なる衝撃を与えるには十分すぎるものであった。
「第一、私がこの場所に来ることになった最大の理由は、レースに全く興味関心がないからですよ」
瞬間、メディア陣と観客たちがざわめく。彼の発言は、言論の自由の観点から見れば決して責められるべきものではない。
だが、問題は場所であった。何しろ、大勢のレース関係者やファンでごった返すレース場、それもG1レースの優勝者インタビューで、よりにもよって優勝者の担当トレーナーがそのような人々を前にして、地雷原の上でタップダンスを踊るが如き言葉を平然と言ってのけたのだ。
何しろ質問した記者本人でさえ、こいつ本気かとでも言いたげな表情を浮かべている。メディア陣でこれであるのだから、関係者やファンらがどのような表情と内心をしているのかについては-想像に難くない。
そんな周囲をよそに、どこか呆れたような声と態度で小島は言葉を続けた。
「レースに全く興味がないからこそ、担当と適切な距離を保って指導することが出来る、だから君を選んだ-上官にはそう言われましたよ。お疑いでしたら、張本人がここに来ていますから、聞いてみてはどうでしょうか」
「私からもいいかな」
傍らから声が聞こえたのはその時だった。彼がそちらに視線をやると、正答とは真逆の回答を見せつけられた教師のような表情を浮かべたタキオンが、嘗め回すような視線を記者たちに向けている。
何を言う気だこいつ、小島は思った。彼の視線に気がついたタキオンは、私に任せておきたまえとでも言いたげな表情を一瞬浮かべると、再度記者たちに向き直り、口を開く。
「トレーナー君が、レースに興味関心が無いことは確かに事実だ。だが、彼はトレーナーとして必要な仕事は十分に行っている。私もカフェもそれに満足しているし、そこに何の問題があるのか私には分からないのだが-それについて諸君の意見を聞かせてもらえると、非常に有難いのだがねぇ」
その言葉に記者全員が再びざわめき-そして皆、答えに窮した。レースの世界に関わる者たちの基準からすれば、問題児どころの話ではないような男が自分のトレーナーをしている事に何の問題も感じていない-担当ウマ娘にそう言われてしまったのでは返事のしようがなかった。
タキオンはそのような記者たちの反応を見て、悪戯を思いついた悪童の様な表情を浮かべ、再び口を開く。
「ついでに言わせてもらうとだね、彼が見た目に似合わず多芸多趣味な人間であるというのは皆知っていると思うのだが-基本的に彼が興味を持っている対象と言うのは一つしか無いんだよ」
「それは何でしょうか」
メディア陣の中から声が上がる。勝ち誇ったような口調でタキオンはそれに応じた。
「彼の左手の薬指-そこに嵌っているものを見れば、一目で分かると思うのだが」
それを聞いた瞬間、記者たちは先程までの態度を忘れ、おおっという声を上げる。ウィナーズサークル周囲に陣取る観客もそれと同じような態度を取り、興味津々と言った表情で小島を見つめ-中には黄色い声を上げた者もいた。
当の本人は担当ウマ娘の言葉に軽く慌てていた。何を言いやがるこの女、そんな顔でタキオンを見る。面白い玩具を見つけたような表情を浮かべながら、彼女は再び口を開いた。
「そういうことだから見せてやりたまえ、トレーナー君」
「しょうがねえなぁ」
担当ウマ娘の言葉に内心で呆れながらも、小島は自分の左手を顔の傍へ持ち上げて大きく広げると、その手の甲の面を記者たちに向けてかざす。その薬指には、上下の白金の間に炭素繊維が挟み込まれた意匠を持つ指輪が嵌められていた。
瞬間、先程までとは比べものにならないほどの黄色い声が周囲の観客、そしてメディア陣からも巻き起こる。別の記者が口を開いた。
「その、小島トレーナーが興味のあるものと言うのは」
「ええ」
先程までとは打って変わって、この上ない幸福に満ち溢れた表情を浮かべながら、堂々とした声で彼は答えた。
「妻という、美しさと聡明さと魅力において
色めきだつ観客。彼ら彼女らは先程まで小島に抱いていた感情をいつの間にかどこかへと放り投げ、彼の惚気話に聞き入る。
-まいったね。俺はただ思った事を正直に言っているだけなのだが。言葉一つで態度をここまでコロッと変えてしまうなんて、観客の連中はブンヤどもを笑えんぞ。周囲の光景に苦笑しながらそんなことを思いつつ、彼は話を続けた。
「もし皆さんがよろしければ、彼女の魅力についてたっぷり語って差し上げてもよろしいのですが-どうでしょうか」
「い、いいえ、結構です」
その記者はたじろぎながらも断る。だがこの時、この場にいるメディア陣の殆どが、会話の主導権を目の前の2人に奪い取られていることに全く気がついていなかった。
-尤も、自分たちがやった事を全く自覚していないという点については、2人も同じであったが。
-全く、あの莫迦は何てことを!!
公衆の面前で自分に対する愛を堂々と述べられた女は、着座しているスタンドの自席で長男を両腕で抱っこしながら、頭を抱えるようにして俯いた。その顔は完熟した林檎のように赤く染まっており、周囲からは見守るような、微笑ましいような、生温かい視線が彼女に降り注いでいる。
それは周囲も例外ではない。義理の両親、そして義兄の両親は揃って微笑みながら彼女の方を向き、真田と矢沢には苦笑しながら見おろされ、隣に座る義理の姉に至っては悠人に向かって、おじちゃんはおねえちゃんのことが大好きなんだよとこの上ない笑顔で述べている。
後ろから声が聞こえてきたのはそんな時であった。
「凄いな、小島君は」
声の主は藤堂守であった。微笑しながら驚いたような、感心したような口調で有沙に話しかける。
「私もサーシャに、あそこまでの事を公衆の面前ではああも堂々とは言えないな。まあ、伴侶に対する想いに関しては、彼と似たようなものだが」
「マモル」
軽く惚気て見せた夫の服を、サーシャが軽く引っ張る。その頬は薄っすらと赤くなっていた。仲が良いですな、真田がからかう。羨ましいだろう、守は応じた。
そのやりとりを聞きながら、顔を紅潮させたまま有沙はどうにか首を上げ、口を開く。
「当たり前じゃないですか」
この上ない幸福を感じていることを隠そうともしない表情を浮かべながら、彼女は答えた。
「何しろ、私が世界で一番大好きな男なんですから」
-やられた。
先程までの刺々しい空気がどこかへと吹き飛んでしまった中山のウィナーズサークルで、乙名史悦子は思った。
惚気話に見せかけて、いつの間にか主導権は向こうの2人に奪われてしまった。しかもそれを2人-特に航空自衛隊の制服を着こんだ男は、まるで何気なしに自然とやってのけた。そして、彼はその事を自覚している素振りすらない。恐るべき能力と言わざるを得なかった。
(ひょっとしたら)
小島隆史と言う男は、こちらの想像以上に優秀で手強く-そして恐ろしい人間なのではないでしょうか。
そんな人間がトレーナーとしてこちら側にやってきた事によって、レースの世界がこれからどう変わっていくのかは分かりません。ですが、
乙名史はそう決意し、真っすぐに手を挙げた。
「他に質問はございますでしょうか」
司会者がそう問いかけた時、細長い指をした手が挙がるのが視界に移った。挙手した人物を指名する。ありがとうございます、当該人物は軽く頭を下げてそう述べ、手帳とペンを手に、録音用のスマートフォンを起動しながら口を開いた。
「月刊トゥインクルの乙名史です。小島トレーナーにお伺いしたいのですが、アグネスタキオンさんのこの後の出走予定についてお聞かせ頂けますでしょうか」
やっぱり来てたかあの姉ちゃん、小島はそう思いながら乙名史の質問に答える。
「そうですね、皐月賞に直行するつもりです」
「では、やはりその後は」
「ええ」小島は応じた「何事もなければ-
彼の言葉に、周囲から歓声が湧き上がる。だが、彼はその中へ新たな爆弾を放り込んだ。
「実は、他にも考えていた-というより、タキオンの今日の走りを見ていて思いついたプランがありまして」
「それは何でしょうか」
急に真顔になる乙名史。他の記者も似たような表情を浮かべる。次に何が来るのだろうと身構えるメディア陣を前に、小島は皆が予想だにしなかっただろう言葉を発した。
「太平洋の向こう側で
彼の言葉を聞いた記者たちと観客がざわめく。当然であった。来年のクラシック、その主役の最有力候補とみなされているジュニア級2千メートルG1勝者を、よりにもよって同じクラシックとはいえ海外、それもダートで走らせようと言われて驚かない方がどうかしている。
それは当のタキオンにとっても予想外の出来事であった。君は何を言っているんだい、そう言いたげな視線をこちらに向ける。さっきのお返しだとばかりに小島は続けた。
「一応言っておきますと、クラシック級の間は芝に専念させるつもりです。が、シニア級になったらどこかで隣にいるマッドサイエンティストにダートを走らせてみたいと思っています」
再び沸く記者陣、そして観客席。乙名史は手早くメモを取りつつ、再度小島に問いかけた。
「そうお考えになった理由を、お聞かせ頂けますか」
「2つあります」研究発表をするように彼は答えた。「1つ目が、トレーニングの際にダートコースを走らせたら思ったより良い走りとタイムを見せてくれまして、ダートも行けるんじゃないかなとふと思ったのと-後は今日の走りですね」
「今日の走り、ですか」
「ええ。ご存知の通り、この時期の中山の芝はかなり使い込まれて力のいるコースになっています。それ故にダート適性のある者が人気問わず好走しやすいのですが、そんな状態のコースで好走できたのですから、彼女は芝・ダートどっちも行ける可能性は大いにある、私はそう思っています-とまあ、こんな所でしょうか」
「ありがとうございます」
戸惑いつつも乙名史は答えた。小島は集まったメディア陣を睥睨するように一瞥して挙手が無いのを確かめると、司会者に向かって口を開く。
「他に質問のある方がおられないようなので、この辺りで終えさせていただきたいのですが-司会者の方、それでよろしいでしょうか」
「え、ええ」戸惑いつつも司会者は答えた。「それでは質疑応答を終えさせていただきます。有難うございました」
「さっきの言葉、本当なのかい」
会見を終え、記者たちが去っていく様子を見届けた後、控室へ戻る道中でタキオンが小島に問いかけた。
「言ったろ、俺は何枚も舌を使い分けられるほど器用じゃないって」
「そう言うだろうと思っていたよ」
「第一、俺がそんなに器用に舌が回る男だったら、今この場にいないぞ」
「そして森宮トレーナーと結婚することも無かった、と」
「まあな」
「それにしても、私がダートを走ることになるかもしれないとはね」新たな研究テーマを見いだしたような表情でタキオンは答えた。「全く、これからますます面白いことになりそうじゃないか。本当に楽しみで楽しみでたまらない」
「チャップリンの喜劇みたいにしてやるから、任せておけ」
「お手柔らかに頼むよ」
笑いを押し殺すような口調で彼女は応じる。この時の一連のやり取りを、タキオンは3年後にメイダンとロンシャン、そしてベルモントパークで思い出すことになるのだが、この時点での彼女がそれを知る由もなかった。
(見事だ、小島君)
オーロラビジョンに映し出される、メディアや観客を一瞬にして手玉に取ってしまった部下とその担当ウマ娘の様子を見ながら、真田は小島がその隠れ持った才能を、当の本人も無自覚な内に発揮していることに大きな満足を抱いていた。
-やはり俺の目に狂いは無かったようだな。君をレースの世界に送り込んだ理由は、ウマ娘が嫌いだという以外に、君の持つその才能もある。それを思う存分に振るって、好きなようにやりたまえ。どのような世界であろうと、決まりきった形など存在しないのだからな。トゥインクルシリーズとやらがこれからどうなっていくのか-楽しみで楽しみで仕方がない。
半導体素子によって映し出される部下の姿に、彼はどこか悪魔的な笑みを浮かべていた。
尤も、真田が部下の様子を見て楽しんでいられた時間はそう長いものでは無かった。矢沢を伴って帰ろうとした所で、インタビューでの小島の発言を聞いたメディア陣が彼の下へと殺到したからである。
真田の狷介極まりない発言を聞いたメディア陣は、部下が部下なら上官も上官だ、という感想を抱いた。
「改めておめでとう、タキオン」
船橋法典駅近くの焼肉レストラン、その奥まった窓際の席でフライトは、目の前に座る妹に言った。2人の間にあるテーブルの真ん中に埋め込まれた七輪の上では、一皿で税込み2千円以上する黒毛和牛上カルビが、小気味よい音を立てながら火にあぶられている。
「ありがとう、姉さん」
アイスティーの入ったグラスを持ちながらタキオンは答える。その落ち着き払った様子は、つい数時間前にG1レースを勝った者の姿とはとても思えない。相変わらずね、フライトは思った。
その隣ではタキオンの勝ったG1レースで4着となり、ライブでもバックダンサーに甘んじたカフェが、複雑な表情を浮かべながらアイスコーヒー片手に座っている。そんな彼女を気遣うように、フライトは口を開いた。
「カフェちゃんも-正直どう言って良いのか分からないのだけれど一応言わせてもらうわね。4着、お疲れ様」
「い、いえ」遠慮がちにカフェは答えた。「気遣ってもらえるだけで、十分嬉しいですから」
「そう、ありがとう」胸をなでおろすようにフライトは返す。
「さあさあ、肉が焼けたようだよ」七輪に目をやったタキオンが口を開いた。「何しろトレーナー君の奢りなのだから、食べてしまわなければ勿体ないじゃないか」
「そうね。でも、その前に」
妹の様子を見て軽く笑いながら、フライトはにんじんジュースの入ったグラスを軽く掲げる。その動作を見て、彼女が何をしたいのかを理解した2人もまた同様の動作を取った。準備が整ったのを確認したフライトは妹の方に視線をやり、静かに口を開く。
「タキオンのG1優勝を祝って、乾杯」
ガラス同士を軽く打ち鳴らす音が席に響き渡る。皆、それぞれの飲み物を一口だけ口に含むと、めいめい焼けた肉を箸で掴んでタレの入った器につけ、口へと運んだ。途端に、タレと肉の脂が混ざり合った、何とも言えない旨味が3人の口中に広がる。
それから暫くの間、3人は注文に従って運ばれてくる肉や野菜を炊き立てのご飯と共に口に運び、同時に他愛のない会話を交わして楽しんだ。
ふと近くの席を見ると、3席に分かれた小島と彼の家族一同、そして守とサーシャが3人同様、料理と肉に舌鼓を打ちながら楽しそうに会話する様子が見えてくる。通路を挟んで隣の席に座る有沙が、運ばれてきた大量の皿に盛られた肉-大食漢な一部のウマ娘でさえ食べきるのに苦労しそうな量のそれ-を一気に七輪へとくべ、焼きあがるなり片端から物凄い勢いで平らげていく光景を目にした時には、彼女は本当に人間なのかと軽い驚愕さえ覚えたほどだった。
だがタキオンとカフェが何よりも驚いたのは、自身の担当トレーナーが見せた表情であった。
何しろ、自分の感情をあらわにすることが少ない小島が、笑みを浮かべながら皆と談笑しているのだ。2人とも彼のそのような表情を見たのは、半年以上の付き合いで今回が初めてであった。
-あんな表情が出来るなんて、意外ですね。
カフェがそのような事を思った時、不意に彼女のスカートが引っ張られた。何でしょうか、気になって見下ろすように視線を向けると、そこにはぼんやりとした顔立ちの男の子が立ったまま、じっと彼女を見つめている。彼はそのまま、カフェに向けて口を開いた。
「ぱふぇおねえちゃん」
その言葉を聞いた彼女は少々戸惑う。その様子を見たタキオンとフライトがそれぞれ誰だい、誰かしらと聞いてきた。
「小島さんの甥御さんです」カフェは2人に答える。「久しぶりですね、悠人君-それとパフェじゃなくてカフェ、ですよ」
「ぱふぇ」
「カフェ」
「ぱふぇ」
「カフェ」
「やあパフェ」
からかうようにタキオンが口を挟んでくる。その様子に軽い苛立ちを覚えたカフェは、タキオンを睨みつけるとそのまま、彼女の両頬を手でつまんで思い切り引っ張った。
「いふぁいいふぁい、何をするんだいカフェ」
「お返しです」
その時、誰かを探すように1人の女性が3人の下へ近づいてくる。悠人はママ、と一言発して女性の下に駆け寄っていった。彼女は笑みを浮かべながら自分の息子を抱き上げると、そのまま3人の方へと視線を向ける。そこにカフェの姿を認めた彼女は、そのまま口を開いた。
「カフェちゃんじゃない、久しぶりね」
「お久しぶりです、郁子さん」
カフェもまた、軽く頭を下げて答える。誰だいカフェ、隣に座るタキオンが再度聞いてきた。小島さんのお姉さんですよ、彼女は応じた。
「言われてみれば」タキオンは小声で述べた。「目のあたりがトレーナー君に似ているね」
「ええ」
カフェは答え、2人を郁子に紹介する。いつも隆史がお世話になってます、彼女はそう答えた。隣に座りますか、フライトが問いかける。いいのかしら、頭に疑問符を浮かべながら返した郁子に、トレーナー君の事を色々と聞いてみたいからねぇ、タキオンが姉との阿吽の呼吸で応じた。彼女の言葉を聞いた郁子はそれじゃあお邪魔して、そう答えて息子を抱っこしたままフライトの隣へと腰かけた。
「本当、あいつは変わったわよ」
暫くの間3人ととりとめのない会話を交わした後、通路を挟んで隣の席に座る弟と義妹が笑顔で焼肉をほおばる姿を見ながら、遠くを見るように郁子は呟いた。
「あの時-中学の時以来、あいつはいつも、死んだ魚みたいな目をしてたのにね」
その言葉を聞いた3人の間に、一気に神妙な空気が流れる。皆、何とも言えないような表情を浮かべていた。知ってるの、あいつの過去。郁子は3人に問いかける。
「・・・大体の事情は生徒会長から-ルドルフさんから聞いています」カフェが答えた。
「-聞いていて、あまり気分の良い話では無かったが」
物事の深淵を覗き込んだような表情を浮かべながら、彼女にしては珍しく真剣な口調でタキオンも述べる。
「トレーナー君の人格形成に多大な影響を及ぼしたであろうことは、想像に難くなかったよ」
「詳しいことは、妹から-タキオンから話してもらいました」フライトもまた答えた。「確かそのせいで、パイロットになる夢を諦めなくちゃいけなかったんですよね」
「ええ、そうよ」神妙な声で郁子は応じる。「そのせいで、あいつは歪んじゃったわ-確か、3年前のお正月だったかしら」
その言葉に、3人は表情を硬くした。愉快ではない話が始まることを本能で感じ取ったためだった。
彼女は話を続ける。
「私と拓郎-旦那ね-で悠人を連れて、初めて実家に顔を見せに行ったの。隆史の奴も来てて、お父さんとお母さんと一緒に沢山可愛がってくれたわ。そこまでは良かったの。問題はその後」
自分の名前が出てきた事に反応したらしい息子が、いつも通りのぼんやりとした顔でこちらを見上げていることに気付きながら、郁子は語った。
「実家から帰るとき、方向が途中まで同じだったから4人で一緒に帰ることにしたんだけど、その途中で隆史が悠人の乗るベビーカーを押しながら言ったの-『甥っ子でこんなに可愛いんだから、自分の子供だったらどれくらい可愛いんだろうな-でも、俺には多分一生縁のない話だ』って」
それを聞いた3人は、俄かにはそれを信じることが出来なかった。なぜならば、小島隆史と言う男が置かれている現状とは、全くと言っていいほどかけ離れすぎているからだ。
話は続く。
「私も拓郎も、耳を疑って-それで言ってやったの、あんたまだ30にすらなってないじゃないの、そんなこと言うには早すぎるし何なら今からでも、って返したわ。そしたらあいつ、なんて言ったと思う」
3人は息を呑む。郁子は答えた。
「『あのな、姉ちゃんみたいに高校の頃から付き合ってて、一度別れたけどよりを戻した相手と結婚したんならまだしも、この歳で異性とつきあった経験が全く無いような人間が結婚できると思うか-統計的にも到底無理な話だ』よ。あまりにもはっきりと言うものだから、直ぐには言い返せなかったわ」
「・・・何というか、その、小島さんらしいですね」
カフェが答えた。その目にはどこか同情的なものが浮かんでいる。
「それでもなんとかこう、『あんた、本当の所はどうなの。嘘をつかずに正直に答えなさい』って言ってやったのよ」
「それで、トレーナー君は何と答えたんだい」
今度はタキオンが、問いかけるように答えた。それに対して郁子は軽い逡巡を見せ、少しの間黙り込む。やがて彼女は目線を軽く下に向け、何かを振り払うように頭を軽く左右に振ると、意を決したように首を上げ、口を開いた。
「そりゃ俺だって人並みに恋愛もしたいし、結婚願望だってあるさ。だけどな-」
郁子はそこで言葉を切り、少し間を置くと、まるで鉛を吐き出すように、重苦しさを隠すこともできないような口調で、どこか躊躇うように続けた。
「-こんな性格のねじ曲がった人格破綻者のことを好きになって結婚したがる奴がどこにいるんだ、って」
それを聞いた瞬間、3人は辛うじて表にこそ出さなかったものの、少なからぬ衝撃を受けた。自分たち、そして妹とその知り合いを担当しているトレーナーの性格は理解していたつもりだったが、ここまで自分を蔑むことが出来るほどだとは思ってもいなかったからだった。
郁子は続けた。
「あいつはこうも言ったわ-フィクションならこういう所で都合よく相手が現れたりするんだろうが、残念ながら俺たちが生きているのは現実であって、創作の世界じゃない。現実と物語の区別がつかないほど、俺は莫迦じゃないよ-って。全く、現実主義者にも程があるわよ」
それを聞いて、3人は思った。彼は『つくりもののおはなし』ではなく『ほんもののおはなし』の方に価値を置く人間であり、その意味では、前者を重視するファンたちと何ら変わりはない。ベクトルが正反対であるだけで、根源的には同じような人間であるのだ。どちらを重んじるか、ただそれだけの話である。
それ故に『つくりもののおはなし』を重視する者たちからは、本人の性格と相まって決して好意的は見られない。彼ら彼女らが求めているのは幻想であって現実ではないからだ。小島もまたファンたちがそう言う人種であることを理解しつつ、自分の意見ははっきりと主張する。そこに衝突が生まれるのも、無理からぬ話であった。
だが同時に、3人はこうも思った。
小島の本職-自身が好き好んでやっているわけでは無いと公言して憚らない仕事に、最も向いている性格をしているのではないか、と。そして、それは決して的外れな考えでは無かった。
「そのとき、あいつが最後に言った言葉は今でも忘れられないわ」
助かる見込みのない患者を前にした医者のような表情で郁子は答えた。
「死んだ魚みたいな目をしながら、何もかもに絶望したような表情で、どうせ俺は独身男性の平均寿命-たぶん50代から60代くらいかな-で一人寂しく死ぬだろうから、そしたら俺の金も持ち物も全部姉ちゃんの子供にやるよ、済まないけれど小島家は俺の代で潰すから、後はまあ、姉ちゃんの方で細々と繋いで、せいぜい俺の分まで長生きしてくれ-って。だからなのかしらね、悠人にあれこれ買ってやってくれてたのは」
彼女はそう言って寂しげな表情を浮かべ、自分の膝の上に座る長男を-悠人-を見つめる。3人もまた、意味深長な微笑を浮かべながら、ただ静かに彼を見つめた。
おかあさんもおねえちゃんたちも、みんなどうしてさびしそうにしてるんだろう、母親とその周囲に座る3人のウマ娘の様子に、悠人は首を傾げ、ほんの僅かに不思議そうな表情を浮かべる。それから少しの間をおいて、この場に漂う空気とは正反対の口調で彼は答えた。
「おじちゃんね、おもちゃとかおかし、ぼくにいっぱいかってくれたんだよ」
その言葉に、4人分の視線が悠人に集中する。いろいろ買ってもらってよかったね、悠。わざとらしさを隠そうともしない声で郁子は息子に語った。続けて、タキオンが尋ねるように言う。
「そうなのかい、悠人君」
「うん」
悠人は元気な声でそう答えると、首を思い切り上下に振った。そんな彼の姿を見つめながら皆、微妙な表情を浮かべ-暫しの静寂がテーブルを支配する。
それを氷解させたのは、タキオンが再度放った一言であった。
「でも、そうはならなかったんだろう」
自分を担当するトレーナーと、その生涯の伴侶に視線をやりながら彼女は答えた。
「ええ」彼女と同じ方向を見ながら、微笑ましそうに郁子は答える。「そうじゃなきゃ、あいつは今ここに居ないわ-未来がどうなるかなんて、誰にも分からないものね」
「小島さんと森宮さん、本当に仲がよさそうですもんね」
フライトが口を開く。本当よ、郁子はそう返した。
「有沙ちゃんと出会ってから、あいつは本当に変わったわ。あんな子が隆史と結婚してくれたのもそうだけど、あいつほど現実は空想より奇なりを体現したような人間はいないと思ってるもの、私」
「・・・本当、ですね」カフェが答える。「あんなに綺麗で聡明な人が、小島さんの奥さんだって、最初に聞いた時は全く信じられませんでした」
「無理もないわよ。私も有沙ちゃんを初めて紹介されたとき、本気で結婚詐欺を疑ったもの。職場の同僚だって言われて、ようやく納得できたけど、それでもしばらくは信じられなかったから」
苦笑する3人。タキオンが口を開いた。
「まあ、私もカフェもトレーナー君と森宮トレーナーが夫婦だと、未だに信じ難い部分があるのは事実だからねぇ」
「でしょうね。でもそれが現実」郁子は答えた。「ただ、あいつは有沙ちゃんがいることでどうにか精神のバランスを取ってるような所があるから、有沙ちゃんがいなくなったらどうなるのか-正直、考えただけで恐ろしいわ」
どこか物憂げな表情を浮かべる彼女。そんな郁子にカフェが語りかける。
「私のデビュー戦の前に、森宮さんが私に話してくれました-小島さんとの関係は、割れ鍋に綴じ蓋のような物だと」
「言い得て妙ね。どっちが鍋なのか蓋なのかは分からないけど」
「今の話を聞く限り小島さんが鍋で、森宮さんが蓋だと思います」
「そうかもしれないわ」軽く語気を強めながら郁子は応じた。「だから結婚前に有沙ちゃんにはしつこいくらいに言ってやったの-あいつを裏切って他の男のところに走るような真似をしたら、絶対に貴方を私は許さないって」
軽い怒りを覚えたような表情を浮かべる郁子。その時の彼女の目元の様子を見た3人はやはり姉弟だな、そんなことを思った。
彼女は話を続ける。
「まあ、幸いそんな事は無さそうだし、あの2人の仲の良さは見てるこっちが恥ずかしくなるくらいだけど」
3人は再度苦笑した。確かに、公衆の面前で妻への愛を恥ずかしげもなく、あそこまで堂々と電波に乗せて全国に発信できる程の関係ならそんなことはほぼ無きに等しいだろう。
「それに有沙ちゃんの方も隆史に、あいつと同じことをしてバランスを取ってるところがあるの-なんだ、皆知ってるみたいね」
驚いた様子を見せない3人を見て、郁子は意外そうに呟く。タキオンがそれに応じた。
「まあ、森宮トレーナーの方も複雑な事情を抱えていることは、会長から聞いているよ。さしずめ、同病相憐れむと言ったところかな-お互いの存在を、精神安定剤にしているようなものだね」
「ええ、そうね」郁子は答える。「結局、あいつも有沙ちゃんも所詮は一人の人間に過ぎないもの-それだけは皆、覚えておいて欲しいわ。これは姉としてのお願い」
3人はその言葉に大きく肯く。それを見た郁子は満足げな笑みを浮かべながら、七輪に乗っている、丁度良く焼き上げられた肉を、いつの間にか用意していた自分の取り皿へ運んだ。
-タキオンとカフェ、そして2人と同時期にデビューした競走ウマ娘達にとって、最も重要な1年が始まろうとしていた。
冒頭に書いた言葉は、船橋法典駅から中山競馬場に向かう地下通路に書いてありますので、 機会があれば見てみてください。
タキオンのダート云々については子孫のアルクトス君と、実馬タキオンが実はダート馬だったのではないかと言う話から思いつきました。
・・・・・決してサイコロローテの某2022年ホープフルステークス勝ち馬から思いついたわけではないですよ、ないですってば。
次回からいよいよタキオンとカフェがクラシック期に入りますので、どうぞ楽しみにお待ちください。
(明日から3連夜勤の作者より追伸:チクショー、夜勤手当たっぷり分捕ってやる)