(ちなみに東京競馬場も同じくらいの時間で行けます)
ちなみに馬券成績ですが、夏競馬はほぼ全滅です。京成杯とローズステークスと今日のセントライト記念(とムーランドロンシャン賞)は当てましたが、それ以外はものの見事に爆発四散しました。
今年は色々とスケジュールが変わって過去の傾向を当てにしにくいので、基本的に過去のデータ(あと血統とパドック)で予想している自分にとってはなかなかむつかしい・・・
最近は騎手も予想ファクターの一つに加えようと奮闘中です。ちなみに馬券は基本穴党です。
それではどうぞ。
遠藤保は呆然と立ち尽くしていた。辺りには硝煙と生臭さが入り混じった、独特の香りが漂っている。彼の手には様々なパーツで装飾されたアサルトライフルが握られており、その銃口からはうっすらと煙が漂っていた。
そしてその視線の先には、折り重なるようにして大勢の人間が倒れている。顎髭を生やした男、顔全体を覆う布を被った女性、杖を突いていた老人、そして子供。皆、中東風の顔立ちと服装をしていた。
皆、5分前までは生きていた‐神を称える叫び声と共に自爆ベストのスイッチを押そうとした男を、自分が射ち倒すまでは。
それが全ての引き金だった。悲鳴。パニック状態になりこちらに襲いかかろうとする群衆。誰が最初に水平射撃を加えたのかは分からない。確かなのは全員が我が身を守るため、乱射同然に撃ちまくったという事だけ。その結果として引き起こされたのが、眼前の光景という訳であった。
ともかく報告だ、報告しなければ。そう思い、インカムに手を当てた瞬間だった。目の前で倒れていた者たちが、いきなり糸を吊り上げられたマリオネットのように、全く不自然な動作で立ち上がる。全員が生気のない目でこちらを見つめ‐ゆっくりとした足取りで彼の方へと迫ってきた。
瞬間、本能的な恐怖が彼の脳を支配する。目の前の光景を拒絶したくなったのだった。
一方、体の方は訓練で叩き込まれた動作を無意識のうちに正しく実行していた。迫りくる異形に銃口を向け、引き金を引く。何かが引っ掛かるような金属音が響くばかりで弾が出ない。生気の無い、人間の形をした異形の集団が彼ににじり寄ってくる。何度も繰り返す。弾は出ない。異形に取り囲まれた。恐怖で体が凍り付く。1人が自分の首に手を駆ける。
遠藤は叫んだ。来るな、来るな、来るな。声帯そのものが消え失せてしまったように言葉が出ない。それでもなお、狂ったように叫び続ける。来るな、来るな、来るな!
何本もの腕に体を掴まれる。無数の、白目と土色の肌をした顔が彼の視界を覆いつくす。やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ‐
「―――――――――――――――――――!!!」
目が覚める。上半身だけを起こして辺りを見回すと、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。それを見た遠藤はここが自宅の寝室のベッドの上であり、先程までの光景が夢であることを認識する。パジャマが汗で濡れ、べったりと肌に張り付いていた。
‐あの日起こった、時間にして10分にも満たない間の出来事。できるのなら思い出したくもない、忌々しい事件。そのような自分の思いとは裏腹に、無意識が夢の形で何度も現実を突きつけてくる。そしてそれは時が経つほどに加えられるアレンジにより、さらに強固な形で自分の脳裏へ固定され続けていた。
彼は苦悶の表情を浮かべ、手で顔を抑えた。そこで初めて、いつも傍らに寝ている筈の妻がいないことに気がつく。慌ててベッドから出ようとしたところで、寝室の扉がノックされた。声が聞こえてくる。
「起きてる?父さん」
声の主は長男だった。遠藤は応じる。
「どうしたんだ」
「母さんが朝ごはんできたから、父さん起こしてきてって」
「そうか」彼は答えた。「着替えてすぐに行くから待っててくれと、母さんに伝えてくれ」
「分かった」
長男はそこで話を終えた。足早に階段を下りる音が聞こえてくる。遠藤は起き上がって箪笥を開けると、きっちりと折りたたまれた迷彩服を取り出し、着替え始めた。今日の朝食当番が自分であることを彼が思い出したのは、その最中であった。
迷彩服に着替え、身支度を終えた遠藤がリビングに姿を見せると、そこには既に家族全員が揃っていた。3人の子供たちは皆椅子に腰かけ、朝食が用意されたテーブルに着いている。キッチンでは母親が、最後の料理を皿に盛りつけ終えたところであった。
彼の姿を見た長女と次女が口を開く。何れも通っている高校の制服を着ていた。
「お父さん、おはよう」
「おはよー、お父さん」
「ああ、おはよう」
笑みを浮かべながら彼は応じる。続けて、キッチンに立つ妻に声をかけた。
「すまないね、母さん。今日の朝食当番は俺だったのに」
「よく眠っていたから、起こすのは悪いと思ったのよ」
何かを含んだような表情を浮かべながら彼女は応じた。「よく眠っていた」が、本当はどのような状態であったのかを、誰よりもよく知っているからだった。
「そうかい」
妻の言葉を噛み締めるように遠藤は答えた。
「代わりに今日の夕ご飯、お願いしてもいいかしら。今日は手術が入ってて、少し遅くなるかもしれないの」
妻は答えた。彼女は武蔵台にある都立病院で整形外科医として働いており、同時に整形外科部門の長を務めてもいる。
双方の仕事が仕事であるため、互いに手の空いた方が家事にあたることが当たり前になっており、そのような両親の様子を見て育った子供たちも学業の傍ら、自然と家事をこなすようになっていた。
「分かった、そっちは俺が作っておくよ」
「ありがとう、お願いね‐さてと、朝ごはんにしましょうか。お味噌汁が冷めちゃうわ」
「そうだね、食べるとしよう」
配膳を終えた妻が椅子に座ったのを見て、遠藤も着席する。それを合図に皆で両手を合わせ、食前の挨拶を終えると同時に食べ始めた。
雑談をしながら30分ほどで食事を終えて皿を片付けると、同じ高校に通う長女と次女は家を出た。大岡山にある大学の工学部に通う長男もそれに続く。いつの間にか、家にいるのは遠藤と妻の2人だけになっていた。
「それじゃあ、私もそろそろ行くわね」
出勤の準備を終えた妻が話しかけてくる。遠藤よりも1つ年上だが、生まれ持った特性と本人の努力によって、40代どころか30代と言っても通用するほどの外見を維持し続けていた。
「ちょっと待ってくれ、母さん」
「何かしら」
「済まないが、いつものを頼む」
「しょうがないわね、全く」
分かってるわよとでも言いたげに妻は答え、そのまま目の前にいる、彼女にとっての唯一無二の男を抱きしめた。
遠藤も唯一無二の女の背中へ手を回す。彼にとって他の如何なるものよりもかぐわしい香りが鼻腔を満たし、伝わってくる温もりが安らぎを与える。時間にして数分にも満たない間であったが、2人にとっては永遠にも感じられるほどの至福の時であった。10年前の出来事以降、毎朝の様にこれを行っている。
「それじゃあ行ってくるけど、戸締りと電気水道ガスの確認、忘れないでね」
「分かったよ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
そう言って妻は玄関の戸を閉める。少しの間を置いてマツダ車のエンジン音が聞こえ、ゆっくりと遠ざかっていった。
遠藤はその後10分ほどかけて電気水道ガスの確認と窓の鍵かけを終わらせ、出勤のために家を出た。玄関を出てすぐの所にあるガレージに停められた愛車‐トヨタ・86に乗り込む際、彼はふと振り返り、家を見つめる。
5人が済むには十分すぎる大きさの、2階建ての一戸建て。ちょっとした球技を楽しめるほどの広さを持つ庭。自動車が3台は優に入るガレージ。全て、あの時の経験の根本となった出来事に志願したことによって手に入れることが出来たのかと思うと、何かしらの皮肉を感じざるを得なかった。
まあいいさ、遠藤は思った。どうせ今の仕事は、それと全く縁のない事なんだから。
彼は車に乗り込み、エンジンを始動させる。現在の職場である日本ウマ娘トレーニングセンター学園までは、15分もあれば着くはずであった。
(なんでこんなとこにいるんだろうか、俺は)
ちょっとした洋館の一部屋、とでも言える内装をした生徒会長室の応接用ソファに座りながら、小島隆史はそんなことを思った。机を挟んだ目の前にはシンボリルドルフとエアグルーヴが並ぶようにして座っている。彼の隣には妻が座っており、いつも通り、2人揃って迷彩服を着用していた。
事の発端は彼が今朝出勤してきたときにまで遡る。今朝(といっても10時過ぎだが)出勤してパソコンを立ち上げた際、学園職員及び生徒のみが使用できるオンラインチャットにメッセージが来ていることに気がついた。送り主はルドルフであり、お話があるので午後の適当な時間に会長室まで来て欲しい、とのことだった。
その際に小島が気になったのは、森宮トレーナー、つまるところ有沙と一緒に来て欲しいという内容が記されていた点である。
彼はそこだけが引っ掛かったが、対して気にも止めることなくメッセージを有沙に転送する。1530以降ならいつでも空いている、と直ぐに返事が返ってきたのでその旨をルドルフに返送し、昼休憩と幾度かの小休憩を挟みつつ1515に今日のタスクをすべて終えると、有沙を伴ってこの部屋に来たという訳であった。
「それで、要件ってのは何なんだ」
「3月の終わりに、『リーニュ・ドロワット』があるのはご存知ですね」
ルドルフに問われた小島は思考を巡らせる。確か、この学園の生徒同士が親睦を深め合うために行うダンスパーティーだったか。言われてみれば、あちこちにポスターが貼ってあったような気がする。だが‐
「それと俺達に、何の関係があるんだ」
疑問を浮かべた彼に、ルドルフは若干の戸惑いを見せながらも答えた。
「お二人にはそこで、エキシビジョン・ダンスを行って頂きたいのです。勿論、ペアで」
全て説明済み、とばかりの口調で話す生徒会長に小島は目を丸くする。彼の視線の先にいる2人は、その態度に困惑を深めた。
‐おいおい、どういうことだこれは。訳が分からないぞ。
目の前の2人と同様に戸惑いつつも、外面にそれを出さないよう努めながら、小島は言葉を返す。
「初めて聞く話だな、それは」
「おかしいですね」首を軽く傾げながらルドルフが答えた。「森宮トレーナーからは、すでに話を通しておいたと伺っているのですが」
ちなみにこのお話を最初に持ち掛けてきたのも森宮トレーナーです、そう彼女は述べた。
「はあ?」
呆けたように答えた小島は隣に視線をやる。そこでは、夫への奇襲作戦を成功させた有沙が自信を湛えたような笑みを浮かべていた。彼はそこで初めて、妻にまんまと一杯食わされたことに気がつく。
「やりやがったな、お前」
小島は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、腕を組みながら答えた。何のことかしら、とでも言いたげな素振りで有沙は夫に応じる。
「あんたが私にプロポーズした時の事を、応用したまでの事よ」
「出会ったばかりの頃はこんなのと結婚するなんて、思ってもなかったさ。全く、本当にろくでもない女だ」
「私もよ」売り言葉に買い言葉、といった具合で有沙は答えた。「こんなろくでもない男と結婚して子供まで作るなんて、考えても無かったもの‐でも仕方ないじゃない、好きになっちゃったんだから、あんたのこと」
「同感だ」微笑みながら小島も応じた。「俺もお前の事を好きになっちまったんだから、お互い様さ」
それを聞いた有沙は、恋にときめく少女のような表情を浮かべ‐その光景を目の当たりにしたルドルフとエアグルーヴは、目の前の夫婦に対する困惑を更に深めた。
当然である。夫婦喧嘩が始まるのかとひやひやしていたら、あっという間に惚気話が始まるなどと言う光景は、2人の思考で理解できる範疇の遥か彼方に存在していたからだ。
「惚気話はそのあたりにしていただけると、大変助かるのですが」
咳ばらいをしながらルドルフが答える。悪い悪い、いつもの癖だと小島は応じ、有沙も笑いながらごめんなさいねと返した。
(まったく、この2人は)
彼女は頭を抱えながらそんなことを思う。隣に視線を向けると、エアグルーヴも同じような感情を抱いているらしいことが見て取れた。互いに視線を合わせて感情を確認しあった後、ため息交じりに本題を問い直す。
「改めて回答の方をお伺いしたいのですが、小島トレーナー」
「分かった、やるよ、やってやる」
小島は投げやりに答えた。
「ありがとうございます」
「ただし、腕前のほうはあまり期待しないでくれ。防大の時に経験してる有沙と違って、俺のダンスの腕前はどれだけ下駄を履かせたとしても、日光の一駅手前だからな」
小島の言葉を聞いた2人の頭上に疑問符が浮かぶ。この人はまた訳の分からないことを、とでも言いたげな表情を浮かべていた。
「それはどういう意味でしょう」
ルドルフが問いかける。小島は悪戯を成功させた子供のような表情を浮かべ、答えた。
「
それを聞いた瞬間、生徒会室は静まり返った。少しの間を置いて、小島の言葉の意味を理解したルドルフは口元を抑え、肩を震わせて笑い出す。エアグルーヴの方はと言えば、眉間にしわを寄せ、頭を抱えていた。有沙はいつも通りの、涼しい表情を浮かべている。
「小島トレーナー」
呆れかえった声でエアグルーヴは口を開いた。
「なんだ、エアグルーヴ」
「・・・まさかあなたが、会長の同類だったとは」
「ユーモアを解せざるもの幹部自衛官たる資格なし、さ」彼女の言葉を気にも止めずに小島は返した。「これくらい言えなきゃ、こんな商売やってられん」
「戦場のコツ、というわけですか」
「そういうことだよ」笑い続けるルドルフに視線をやりながら彼は答えた。「とりあえず、君の隣で笑い転げてる奴を止めてくれないか。洒落を言ったことは謝るから、まともに話ができるようにしてくれ」
「承知しました」
「大変失礼いたしました」
借りてきた猫のようにおとなしくなったルドルフは答えた。だが、まだ何かを言いたそうな眼をしている。
彼女は続けた。
「それでなのですが」
「なんだ」
「もし差し支えなければ、ユーモアのコツを私にご教授いただけませんでしょうか」
「会長」
呆れたような表情で再び嗜めようとするエアグルーヴ。小島はそれを手で制すとルドルフに向かって続けてくれ、と促すように述べた。
「私はどうも学園の皆から親しみづらく思われていまして、少しでも皆から親しみやすくなってもらおうと試行錯誤しているのですが、なかなか上手く行かないのですよ」
「なるほど」
小島は合点した。ルドルフがこと駄洒落に関して独特のセンスを持っていることを、彼は色々なところから耳にしていたからだ。
まあ、俺の洒落のセンスも似たようなもんだが。そんなことを思いながら彼は口を開く。
「一言で言うのなら‐上手くやろうとするコツは上手くやろうとしないこと、さ」
「上手くやろうとしないこと、ですか」
「ああ」色々なものを含ませた声で小島は答えた。「上手くやろうとすると、かえって失敗するからな」
「そういえば」雑談したい、とばかりにルドルフが口を開いた。「今年のクラシックは、なかなか面白いことになりそうですね」
「主役に祭り上げられて困惑してるよ」
苦笑しながら答える小島の台詞は、今年のクラシック戦線を端的に要約していた。
昨年末のホープフルステークスにおけるアグネスタキオンの勝ちっぷりに加えて、昨年のジュニア級年度代表に選ばれた、朝日杯FSの勝者が脚部不安を発症し春クラシックを断念して長期休養に入ったこと、更にはホープフルステークス2着のジャングルポケットが2月の共同通信杯を快勝、といった具合にいくつもの要因が重なったことで、今年のクラシック戦線はアグネスタキオン一強という風潮が既に色濃く形成されている。
だが一方で彼女を担当するトレーナーに関しては、ホープフルステークスにおけるインタヴュー内容が一部でもてはやされているものの、今なお全体から見れば好意的ではない論調が大半を占めていた。
あんな奴が今年のクラシックの主役を担うだろう娘、その担当をしているという点だけは全く評価できないし、そもそもレースに興味も関心もない人間がトレーナーをしていること自体理解できない、そんなことを平然とメディアでのたまう者さえ(それも一人ではなく複数人)いる程である。
また一部の、独特のイデオロギーを持つ者たちがこれに便乗し、トレーナーの本職が幹部自衛官であることに目をつけて、このような言説を利用して自衛隊批判を行ってすらいた。
これらの言説について、当の本人は
「言論の自由は、何人たりとも犯すことのできない神聖な権利さ」
と述べるにとどめている。要するにどうでもいい、ということであった。
「まあ、とりあえず明後日の弥生賞次第、といったところだな」
小島は答えた。弥生賞には彼が担当するもう一人のウマ娘‐マンハッタンカフェが出走することになっている。事前の報道を見たところ、上位人気確実とまではいかないもののそれなりの評価を受けてはいた。
「その割には、あまり強気な話をしていないようですが」
「そりゃそうだよ。本当なら出すつもりはなかったんだから」
再び小島は答えた。実際事前に受けた取材でも、高い能力は持っているが体調が安定しないので、結果よりも無事に走り切ってくれれば、という趣旨の回答をしている。
「あいつの体のことがあるからな。本人がどうしてもクラシックに出たいというから妥協したんだ。まったく、G1なんて出したのが悪かったぜ。我ながら莫迦なことをしたもんだよ。完全に俺の責任だ」
「あなたらしいですね、小島トレーナー」ルドルフは述べた。「クラシック競走への出走は、この世界に生きるもの全てが願うことであるのに」
「俺は君たちとは異なる考えをもっている、ということさ‐それは2人とも、よく理解しているだろう」
静かな声で答える小島。その言葉に、2人はわずかに表情を硬くする。あの時に彼が浮かべた、般若同然の表情を忘れてはいなかったからだ。
彼は話を続けた。
「大体、俺はプロスポーツ全般に価値を見出せん人間でな。あんな一握りの栄光のために無数の屍を作り出すシステムを健全とは思えん。極論、全て廃止しちまってもいいとすら思ってる‐レースも含めて、な」
その言葉に2人は若干のいら立ちを覚える。無理もなかった。自分たちが懸命に取り組んでいるものを否定するようなことを言われて、そのような感情を抱くなというのは不可能に等しい。
だが同時に2人は目の前の男、そして彼の妻が過去にどのような目に遭い、どのような感情を抱くに至ったのかを十分すぎるほどに理解していた。だからこそこの世界に、リア王のそばに侍らせる道化として、小島隆史という劇物を置くことを承知したのである。無論、副作用は承知の上で。
僅かの間を置いて、逡巡や苛立ちなど、様々な感情が入り混じった口調でルドルフは答えた。
「しかし、それは」
「ああ、とてつもなく面倒なことになるな。それくらいは理解しているさ。だから必要悪として存在を許容するというスタンスで、俺はどうにか感情との折り合いをつけてる。たとえ、俺を虫けら同然にもてあそんで、パイロットになるという夢を奪ったことをひた隠しにしてG1を6勝もしやがった挙句、社会的な成功を収めてのうのうと暮らしてやがる奴がいたとしても、だ」
抑揚のない口調であったが、彼の言葉には怒りが含まれていた。だが同時に2人は、自分たちに対する配慮のようなものもその言葉から感じ取った。
嫌いなものを嫌いと言っておきながら、同時にそれに対する配慮を見せる。究極の矛盾とも言うべき言葉を聞いた2人の脳裏に、真田が目の前の男について語った際の言葉が不意に浮かんできた。
彼は癖こそあるが、本質的には優しい人間だ‐その言葉がどのような意味を持つのか。そんなことを考える2人の脳内で更に、メジロラモーヌが彼の描いたデッサン画に対して語った内容が思い出される。
優しげで複雑。それを思い起こした瞬間、2人の中で何かが嚙み合った。つまるところそれこそが、小島隆史という男の本質なのだろう。
頷く2人。それを見た当の本人が、軽く首を傾げながら訪ねてきた。
「どうかしたのか」
「いえ」憐れみをわずかに含んだ声でルドルフは返す。「貴方という人間に対する理解が、僅かなりとも深まったことを実感していただけです」
「それは良かった」
わずかに微笑みながら小島は答えた。
「そういえば、アグネスタキオンの方は」
「いつも通り、妙な研究とトレーニングに勤しんでるよ」
小島は答えた。タキオンは皐月賞への直行を表明してからも相変わらず、トレーニングと研究三昧の日々を送っている。
尤も、以前のように生活そっちのけで徹夜したり理科準備室にこもり切り、というのではなく、1日最低7時間の睡眠にきちんとした食事を三食取り、毎日入浴して体を清潔に保つという、健康的を絵に描いたような生活の傍ら、という具合であったが。
「主役に担ぎ上げられたことなんて、どこ吹く風といった具合だ。まあ、どうせあいつは俺同様、そんなものに興味がないんだろうがな」
「ええ‐ですが」ルドルフは真剣そのものの目で答えた。「私はタキオンが、ことレースにおいて自分に匹敵しうる逸材だと思っています。彼女と実際に走ってみて、掛け値なしにそう思いました。おそらく、クラシック三冠さえ十分に狙えるでしょう」
クラシック三冠。皐月賞・東京優駿・菊花賞の3レースを全て制覇したものだけに与えられる、レースに関わるもの全てが最上の栄冠とする称号。それだけに難易度は恐ろしいほど高く、これまでに達成したのはルドルフを含めて5人しかいない。それも無敗でとなると‐ルドルフ1人しか存在しなかった。
「つまりあいつは6人目になれるかもしれない、ということだな」
「ええ。さらに申し上げるのであれば、私以来の
その言葉に小島は目を丸くした。ルドルフは、タキオンが無敗での三冠を達成するかもしれないと本気で考えているらしい。
さらに言えば、彼女自身はジュニア級時にG1へ出走したことがないため、ジュニア級G1を制しての無敗での達成となると、初めての出来事になる。
「そりゃまた、随分大きく出たな」
「彼女の能力をもってすれば、不可能ではないかと」
「エアグルーヴ、君はどう思う」
「少なくとも」不意に話を振られながらも、競走者としての目で彼女は答えた。「会長がここまで高く評価するウマ娘を、私は見たことがありません‐本人の性格と貴方の存在、という最大の不安定要素を除けば、ですが」
「だろうな」頬杖を突き、足を組みながら小島は答えた。「あのマッドサイエンティストがどうかは知らんが、少なくとも俺はレースにおける栄光よりも、本人のその後人生の方が遥かに価値のあるものだと考えている。無論、君たちがどう考えるかは好きにすればいいが、ともかく俺はそういう人間だ」
先ほどまで以上に真剣そのものの目つきをしたルドルフが口を開いたのは、その時だった。
「貴方のお考えは十分に承知しております、小島トレーナー。ですが、私は見てみたいのです。私と同じ偉業を、私と同じように達成するものが出現するのを‐そして願わくば、そのものとレースで競い合うことを、私はしてみたいのです。この世界における、『皇帝』として」
真剣そのものの表情で小島を見据える彼女。トレセン学園の生徒会長としてではない、一人の競走ウマ娘として、唯一抜きんでて並ぶもの無しを体現してなお、さらに高みを目指したいという感情と熱意が、そこには籠っていた。
‐こいつらのこういうところは理解できんな。ルドルフの言葉を聞き、その表情を見つめながら小島は思った。レースのどこがこいつらをそんなに熱くさせるのやら。まあいいさ、こいつらも俺たちのことを完全には理解できているわけじゃないようだから、お互い様か。
そのような、目の前のウマ娘とは対照的な感情を抱いた彼は、その内心を体現したような表情を浮かべ、同様の口調で返事を返した。
「君の熱意は承った、ルドルフ。だがあまり期待はしないでくれ」
「それは、どういう」
「決まっているじゃないか」
小島は答えた。
「この世に絶対確実なことなんて、存在しないんだからな」
運命とは残酷なものである。何者かによって降られた賽子の出目が、本人の意思などお構いなしにありとあらゆる物を奪い去ってゆく。
そしてこの日、千葉県船橋市の一角で、多くの者たちに運命という物の現実が突き付けられていた。
中山レース場、その芝コースの上で、体操服にえんじ色のゼッケンを身に着けたマンハッタンカフェは、何かを見上げるように呆然と立ち尽くしていた。その視線の先では、現実が彼女に無慈悲な運命を突き付けている。
着順が表示される掲示板の、上から4番目に点滅する自分の番号。重賞での4着。それだけを見れば、決して悪いものではない。
このレース‐弥生賞が、1か月後に行われる皐月賞のトライアル・レースであり、3着までに同競走への優先出走権が与えられるということを除けば、という話であったが。
自分の担当トレーナーと交わした約束が脳裏に浮かぶ。
この結果が何を意味しているのかを、彼女は理性の部分で痛いほど理解していた。だが、感情の部分がそれを受け入れることを強く拒否している。カフェが浮かべる虚ろな表情は、その双方がせめぎあった結果として出力されたものだった。
彼女はコースに視線を戻す。その先では上位入線した3人が晴れやかに、満足げな表情を浮かべていた。特に3着の子はぎりぎり数十センチ‐アタマ差でどうにかしのぎ切ったというだけあって、胸をなでおろすような表情を浮かべている。
数十センチ。そのわずかな差が運命を分けた。彼女にとっては良い方向に、そしてカフェにとっては言うまでもない。
そのようなカフェの視線と虚ろな表情に気が付いた3人が、どこか気まずそうな表情を浮かべる。辺りを見渡すと、彼女以外にも悔しさを隠しきることのできない者たちが、様々な態度を取っていた。
コースの上で膝をつくもの。彼女同様立ち尽くすもの。悔しさをあらわにするもの。重い足取りでどうにかコースを後にしようとするもの‐そんなレースの現実を、幸運にも皐月賞への優先出走権を勝ち取った3人はまざまざと見せつけられていた。
そんな3人とは別に、カフェにとってはもう一つ、自分の感情が受け入れを拒む現実があった。スタート直後に、体がまるで走ることを拒否しているかのように体調が悪化したのだ。端的に言えば、糸の切れたマリオネットのようになってしまったのである。
自分の意図の埒外で起こった体の不調。その結果、自分の思ったような走りをすることができず、最終直線ではまるで鉛を全身に括り付けているようにしか走ることが出来ないという有様であった。
それでも9割がた意地と精神力と根性だけで全身を駆動させ、どうにかアタマ差の4着に滑り込んで見せたのは、彼女が生まれながらにして持つ高い能力の片鱗を証明するものであったが、カフェにとっては何の慰めにもならなかった。
よりによって、というタイミングで起こった体調の急激な悪化。それが指し示すものは一つしかない。彼女は自分の体についての現実を、残酷な形で突き付けられたのであった。
(・・・・これから、どうしましょうか)
カフェは精神的にも肉体的にも疲弊しきった体を、引きずるようにして検量室へ戻る。虚ろな目と重苦しい足取りで戻ってきた彼女に、小島は何も言わなかった。いつも通り、両肩に階級章のついた濃紺の制服に身を包んだ彼は、カフェに向かってただ一言、お疲れ様と述べただけだった。
その態度に、彼女は意表を突かれた。担当トレーナーの性格から考えて、だから言っただろう、そんな皮肉じみた言葉の一つくらいはぶつけられるだろうと思っていたからだ。
「・・・何も、言わないんですか」か細い声でカフェは問いかけた。「貴方と、タキオンさんのほうが正しかったのに」
「自分の顔を見てみろよ」小島は答えた。「そんな状態でいる奴に、何を言っても気休めにすらならないことくらい分かるさ」
カフェは何も言わなかった。自分が今どのような精神状態にあるのか、外でもない自分自身がよく理解していたからだ。
彼は続けた。
「ともかくこの後、ライブが終わったらさっさと寮に帰って飯食って風呂入って、さっさと寝ちまえ。気分が落ち込んでるときには、それが一番だ」
これはトレーナーとしての指示だ、寮長には俺から言っておく。彼はそう付け加えた。
「・・・そういえば、約束のことは」
「もちろん守ってもらう」厳しさよりも、優しさの方を多く含んだ声で小島は答えた。「だが、今のお前さんに必要なのは休息だ。そんな時にあれこれ言っても、逆効果にしかならないだろ。そっちのほうは落ち着いたときに、また改めて話しあうことにするさ」
「・・・過去の経験からの、アドバイスですか」
「まあな。何度もしてきたから、自然と対処法を身に着けちまったのさ」
小島は様々なものを含んだ声でそう答えると、タオルと缶コーヒーをカフェに放った。彼女はそれらを慌てて受け止める。差し入れだ、好きに使え、コーヒーは検査の後で飲めよ、少し休んだらライブの準備にかかるぞ。それだけ言うと、抱えていたタブレット端末に何かを打ち込み始める。
(本当、優しい人)
タオルの柔らかな感触と缶コーヒーの温かさを味わいながら、カフェは思った。視線の先には、作業に没頭する担当トレーナーの姿がある。
彼が先ほどまで見せた、つらい現実に打ちのめされた自分を思いやる態度。それはおそらく、本人が生まれながらにして持っていた性質で‐私たちと同じウマ娘に夢を破られ、性格が人格破綻同然に歪んでしまっても、そこの部分だけはどうにか保持し続けたのだろう。
そしてそれは、並々ならぬ精神力がなくては成し遂げられないことであるし、なにより今回、自分は彼のそのような部分に救われたといっても過言ではない。そのことがとても嬉しい。
(森宮さんがあの人を好きになった理由が、少しだけ分かったような気がします)
彼女は担当トレーナーの妻を羨んだ。そして同時に彼女の幸福を祈る気持ちと‐わずかばかりの嫉妬心を抱いた。
「そういえば」
控室に戻り、ウイニングライブの準備をしながらカフェは小島に問いかけた。ライブ用の衣装に着替えている最中なので、控室の中に仕切られたカーテン越しに言葉を交わしている。
「リーニュ・ドロワットで、森宮さんとペアダンスをするそうですね」
「話が早いな」
「本人が私に話してくれました」
まったくあいつは。小島は呆れながらカフェに応じた。
「あまりやりたくなかったんだがな、まったく。惚れておいてなんだが、本当にろくでもない女だ」
「その割には、嬉しそうに聞こえますよ」
「そうか?」
「声が少々、上ずっていますから。がさつに答えているようでも、小島さんは森宮さんのことが大好きなんだって、よく分かります」
「当たり前だろ」何をかいわんや、といった風に小島は答えた。「あいつより魅力的な女なんて、いるわけがないんだから」
「森宮さんが羨ましいですね」
「ああ、最高の女房だ」
そしてちょっぴり妬ましい、とまでカフェは言うことができなかった。あの2人の前では、そのような感情を抱くことにすら罪悪感を覚えるからだった。
「そういえばお前さんも参加するそうだが‐どうするんだ」
「何がですか」
「ペアを選ぶ必要があるんだろう」
小島は答えた。リーニュ・ドロワットに参加するものはペアダンスのパートナー、いわゆる『デート』と呼ばれる相手を選ぶ必要がある。友人や寮のルームメイト、時にはライバルを相手に指名するのが一般的だが、カフェにそのような相手がいるとは思えなかったからだ。
不思議がる小島に、カフェはまるで秘め事の告白でもするような声で答える。
「・・・タキオンさんに、誘われました」
「OKしたのか」
「他に、適当な相手がいなかったので」
「同情するよ」苦笑しながら小島は答えた。「怪しげな薬を飲まされないよう、気を付けておけ」
「大丈夫です」すべて理解している、とでも言いたげにカフェは応じた。「いざとなったら、本人に飲ませますから」
「お前もたいがいだな、カフェ」
「それくらいできないと、タキオンさんとは付き合っていけないので」
「それもそうか」小島は答えた。「さ、そろそろ時間だ。準備は終わったか」
返答代わりに、カフェが小島の前に姿を現す。ライブ用の衣装を着こんだその姿からは、先ほどまでの憔悴は消え失せていた。
それを見た小島は彼女を一瞥すると、何も言わずに踵を返す。カフェは何も言わない。彼がこういう時、無駄な話をしないということを理解しているからだった。
「行くぞ」
「はい」
背中越しにそれだけ言葉を交わすと、2人はそのまま歩き出す。その道中、カフェは小島の背中に視線をやり、この人が担当で本当によかった、ただそのことだけを考え続けていた。
次回はリーニュ・ドロワット回になります。そして、次々回より本格的にクラシックに突入していきますので、どうぞお楽しみに。
転職活動(あと馬券予想)で忙しいですが、それでも少しずつ執筆していきますので、どうぞ気長にお待ちいただけますと幸いです。
さて、オールカマーと神戸新聞杯の予想にかかりますか・・・・