大サトー節を上手く再現するのにはいつも苦労してます。
今回も執筆の参考にするため「皇国の守護者」文庫版を1巻から9巻まで全部読んだん
ですが・・・ほんと天才だよあの人。何であんな文章書けるんだ・・・
それではどうぞ。
暖かく柔らかな日差しが降り注いでいた。人工物の間に植えられ、太陽の光を受け取った芝が鮮やかな緑に輝く。そこへ熱い視線を送る幾万もの人の群れ。それが今‐202Ⅹ年4月第3週の日曜日の午後3時30分ごろ、千葉県船橋市の一角で展開されている光景を端的に言い表した言葉であった。
(発走までは、あと少しか)
第4コーナーとスタンド前の直線が合流してすぐのところに置かれたゲートを裏から見ながら、アグネスタキオンは思った。周囲には自分と同じように、鮮やかな色と個性的なデザインに彩られた服を着込んだウマ娘たち17名が、それぞれの方法で体をほぐし、緊張を紛らわせている。皆、今日この日に合わせて結果を出すべく鍛錬を積んできた者たちだった。
競走ウマ娘にとって、これから始まるレースは重要な意味を持っている。一生に一度‐しかも選び抜かれた18名にしか出走が叶わないと定められたレースの第一関門が、2000メートル先のただ一つの栄光を奪い合わんとする彼女たちを呑み込もうとしていた。
発走までは既に10分を切っている。先ほどから同じレースに出走する者たちがちらちらと、自分を気にする素振りを見せたり視線を送ったりしていた。スタンドの群衆の視線もまた、自分に集中しているのをタキオンは自覚する。
当然であった。彼女は今回の出走メンバーの中で唯一、G1レースにおける勝利経験を有していたからだ。他のメンバーもまた、重賞での勝利歴や好走歴を持つなど一定以上のレベルを有してはいるものの、タキオンの実績に比べればどうしても霞んで見えてしまう。レースに関わる者たちにとり、G1勝利というのはそれだけの重みを持つものであった。彼女がこの皐月賞で抜きんでた1番人気に支持されたのも当然と言えよう。
もちろん不安材料が全くない、というわけではない。その唯一にして最大の要因が担当トレーナーである。本業は航空自衛隊の幹部自衛官という余所者で、それだけでもイレギュラー以外の何物でもないのに、あまつさえレースに興味も関心もなく、歯に衣着せぬ発言でこれまでに何度も物議を醸しだしている男。そんな今までのレースについての予想が全く当てにならないような人物をなぜタキオンが担当に選んだのか、皆不思議で仕方がなかった。
尤も、そんなことはこれからレースに臨む彼女にとってどうでもよいことであった。タキオンはただ、これから自らがなすべきことにのみ意識を向けている。ふと前方に視線を向けると、ゲートの周辺でヘルメットとベストを身に付けたスタッフたちがスタート前の動作確認を行っていた。時折金属音や開閉音が聞こえてくるのが分かる。その光景を見たタキオンには、フレームをむき出しにした人工物があたかも確固たる意識を持っているように感じられた。
何度経験しても慣れないものだね、そんなことを彼女が思っていると、不意に声が聞こえてきた。
「おい、タキオン」
荒っぽい声と共に、ジャングルポケットがまるで道場破りでもするかのような雰囲気を醸し出しながら、自分の元に近づいてくる。
「どうしたんだい、ポッケ君」
緊張感の欠片もない、飄々とした声でタキオンは答えた。その言葉に反応する素振りすら見せず、ジャングルポケットはタキオンを真正面から睨みつけ、怒気のこもった声を上げる。
「今日こそは絶対勝たせてもらうからな。覚悟しとけよ」
「君なりの宣戦布告、というわけかい」
飄々とした声でタキオンは応じた。
「ああ、去年の俺とは違ぇ」
獲物を狙うピューマのような目つき。全身から闘志を漲らせているのがよくわかる。アドレナリンが大量に分泌されているのが見て取れるのだけれど、どうも視野狭窄に陥っているようにも見えるねぇ、その様子を見たタキオンは思った。
(そういえば)
彼女は以前、トレーニングの際に担当トレーナーから聞かされた言葉を思い出す。確か、勝ちたいという意識との向き合い方について言われた言葉だ。その言葉を投げかけてみよう。
タキオンはそう思い、口を開いた。
「闘志があるのは良いが、強すぎるとかえって冷静さを欠いて逆効果になることがあるから気をつけたまえ、ポッケ君」
それを聞いたジャングルポケットはわずかに苛つきを覚えた。タキオンの発言を強者の余裕からくるものと受け取ったからだった。目を細め、語気を強めながら彼女は応じる。
「お前のトレーナーに聞いたのか」
「そんなところさ」タキオンは答えた。「トレーナー君はああ見えて、かなりの切れ者だからね。中々ためになるアドバイスを私にもカフェにもくれるよ」
「変人じゃねえのか、そいつ」呆れたような声でジャングルポケットは応じる。「お前みたいなやつと気が合うなんて、どうかしてるぜ」
「否定はできないねぇ」苦笑交じりにタキオンは返した。「ベクトルが違うだけで、私と同類じゃないかとは常々思っているが‐それを肯定できるだけのエビデンスがまだない、というのが正直なところさ」
「変わり者同士で、ウマが合ってるみてぇだな」
「マイナス同士を掛け合わせればプラスになるからね‐と、発走まで時間がない。そろそろ戻り給え」
「言われなくてもそうさせてもらうぜ‐負けねえからな」
ジャングルポケットはそう言い残し、タキオンから離れていく。別の方向から溌溂とした声が聞こえてきたのはそのタイミングだった。
「タキオンちゃん」
元気さと無垢さを感じさせる顔立ちに、淡い桃色を基調としたセパレートタイプの勝負服。学園のクラスメイトであり、G3・チャーチルダウンズカップを勝利してここへコマを進めてきたウマ娘。名前は確か‐
「どうしたんだい、ダンツ君」
ダンツフレームであった。今日のレースでは、タキオンとジャングルポケットに次いで、3番人気に支持されている。
「私も負けないよ」目を蘭々と輝かせながらダンツフレームは答えた。「今日のために一杯練習してきたんだから、絶対勝って見せる」
先ほどまでのジャングルポケットとは異なる、純粋な楽しさすら感じられるような声。タキオンは思わず顔をほころばせた。同時にその目の奥から、ライバル意識のようなものが‐勝ちたいと強く願う心が覗いているのをタキオンは感じ取る。
勝負の時に楽しめるような者こそ、このような場で真の実力を発揮できるものだという、担当トレーナーからまた別のトレーニングの際にかけられた言葉を思い出す。彼女が自分とジャングルポケットに次ぐ3番人気に支持されていることを思い出したタキオンはどのように返すべきかを迷い‐適当にお茶を濁すことにした。
「お手柔らかに頼むよ」
その言葉を聞いたダンツフレームは満足げに首を縦に振り、じゃあねと言って戻ってゆく。
ふう、ようやく落ち着けるな。タキオンはそのまま、最終確認を済ませることにした。パドックで言われたことを思い出してゆく。ええと、確かトレーナー君からの指示は‐
「基本的には、ホープフルと同じようにやれと言っておいた」
スタンドのトレーナー専用席で小島は答えた。その視線の先では何万もの観衆が、今かとばかりにスタートを待っていた。さらにその奥には芝コース上に置かれたゲート、そしてスタートを待つウマ娘たちの姿が見えている。
「基本的には?」
反駁するような声が傍らから響いた。小島隆史にとっての参謀長にして唯一無二の女‐有沙であった。彼女もまた、視線をコースへと向けている。
「今日のコースコンディションを見て指示を追加しといた‐ラチ沿いがかなり荒れてるから、最終直線でコースの半分より外に進路を取れるようにしとけ、ってな」
「昨日も今日も芝レースで内側を通った娘、殆ど伸びてなかったものね‐全く、ウマ娘のことが嫌いなくせに、いつの間にか一端のトレーナーになりおおせちゃって。まあ、私もレースの世界もあの学園も大嫌いだけれど」
「もらってる金の分は仕事をするだけだ」抑揚のない声で小島は返した。「やる以上は最善を尽くすさ」
「その割には」つまらなそうな表情でレース新聞を指さしながら有沙は答えた。「自信のなさそうなコメントがここに載ってるわね」
紙面には夫のインタビュー記事が掲載されていた。そこに描かれた彼のコメントは、強気とは程遠いものであった。内容を要約すると以下のようになる。
「タキオンの状態に問題は無いが、100%勝てるとは思っていない」
今年のクラシックの主役に祭り上げられ、一部では三冠確実とさえ持て囃されているウマ娘を担当しているにしては、あまりにも素気なさすぎる内容であった。レース前に開かれた記者会見においても彼は同じようなことを淡々と述べるにとどめており、寄せられる質問にもまた、機械的な回答をよこすのみであった。会見に同席していたタキオンが、トレーナー君はこういう人間だ、と補足を加えたほどである。
「もう少し気の利いたコメントくらいしたらよかったんじゃない?まあ、あんたにそれを求めるのは不可能だってことくらい分かってるけど」
「俺たちの本職で叩き込まれる事と同じだ」戦場を見るような目で小島は答えた。「この世のありとあらゆることに、絶対なんて物は存在しないからな」
「それもそうね」指揮官に意見具申する参謀長のような声で有沙は返す。「見方によっては、ここも戦場の一つってところかしら」
「違うな」小島は再び答えた。「人生なんて戦場そのものさ。どこに身を置くか、ただそれだけの違いだ」
「随分と哲学的な物言いじゃな」
年季の深さを実感させられるような声が聞こえてきたのはその時だった。
声がした方向に小島は視線をやる。そこには色付きのワイシャツにネクタイを締め、その上からジャケットを羽織った長白髪にサングラス姿の小太りの中年男性が立っていた。
どこかで見たことあるな、誰だっけ。彼は記憶をたどる。確かホープフルの時、ジャングルポケットの隣に‐
そこまで考えたところで、張本人が口を開いた。
「タナベじゃ。ジャングルポケットのトレーナーをしておる」
そうだったそうだった、彼は思い出し、口を開く。
「小島です。一応、アグネスタキオンの担当をしています」
「なんじゃ、その一応というのは」
怪訝そうな声でタナベは答えた。
「皆さんからすれば余所者ですから、自分たちは」何かを含んだ声で小島は返す。「それにしても、この中で私のことがよく分かりましたね」
「着ている服を見れば、一目瞭然じゃよ」
タナベは答えた。小島も有沙もいつも通り、濃紺の航空自衛隊の制服を着ている。この空間では目立つことこの上ない服装であったが、2人とも気にする素振りはない。これが2人にとっての正装であったし、何より自分たちが本来どのような組織に属する者であるかを隠すつもりなど無かった。
「ところで、そちらの女性は誰じゃね」
有沙の姿を見たタナベは小島に問いかける。彼女がタナベに向かって軽く一礼するのを見た小島は答えた。
「妻です」
その言葉を聞いた瞬間、タナベがまるで詐欺の被害者を見るような表情を浮かべるのがサングラス越しにもわかった。初対面の人間に自分と妻との関係を説明すると、大抵こうなることを小島は何度も経験している。
苦笑いを見せた小島を見たタナベは自分が何をしたのかをすぐに理解し、礼を失する振る舞いを見せたことを詫びた。いやすまん、申し訳ない、そう言って頭を下げるタナベに小島は慣れていますのでお気になさらずと気遣うように答える。根本的な部分で彼が持っている優しさを、無意識のうちに発揮して見せたのだった。
「とすると、その子は」
タナベは小島に抱えられ、彼の制服を両手でしっかりと掴みながら、丸く澄んだ目でこちらをじっと見つめる幼子を見て呟く。小島は答えた。
「長男です。隆俊といいます」
「分かってはいるが、俄には信じ難い光景じゃな」
「現実は我々の想像力など、簡単に超えていきますからね。まあ、だからこそ面白いのですが‐そういえば、何の御用で」
「自分の目で確かめたいと思っての」若殿を諫める老臣のような声でタナベは答えた。「今年のクラシック最有力ウマ娘のトレーナーにして、レースに何の興味もないと公言して憚らない人間のことを、な」
「私は嘘をつけない人間でしてね」静かな反論、といった口ぶりで小島は応じた。「何であんな奴が、と思われているのも知ってますけれど、自分はただ仕事をするだけなので」
「仕事をするだけ、か」ため息をつくようにタナベは返す。「そちらの方は意外なほど熱心なようじゃな。先ほどもギリギリまで、コースのコンディションを観察しておったようだが」
「戦場と同じですよ」すまし声で小島は答えた。「最新の情報を入手しなければ、作戦を立てることが出来ませんから‐しかし、大丈夫なんですかね、おたくのジャングルポケット」
「何がじゃ」
「いえ、今日のコンディションと彼女の走りを見ていると、最内枠というのは決して良い条件ではないように思えるんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、タナベは目を見開いた。どういうことかねと問いかけた彼に、小島は淡々と語って見せる。
「彼女、走るときのトビが‐歩幅が大きいでしょう。東京や京都、阪神の外回りと言った大きなコースならともかく、このようなコースに向いた走りではないと思います。その上最内枠ときた。今日のように内側が荒れた馬場で、スタートを失敗したら包まれて伸びない内で集団の中に押し込められる。そんなことになってしまえば、歩幅の大きな彼女では上手く足を使えず、思うように走れない。どんなに高い能力を持っていても十分に発揮できなければ、存在しないのと同じです。かてて加えて直線の短い中山では不利な追い込み脚質‐ジャングルポケットにとってあまりにも不利な条件が揃いすぎている」
抑揚のない声で出された言葉を聞いたタナベは、自分の耳を疑った。目の前の男が口にした内容はまるでベテラントレーナーと見紛うほどの、自分の担当に対する冷静かつ的確な分析であったからだ。
勿論彼もそれらの点を考慮していない訳ではない。今小島が述べたことは全て、このレースにおける懸念点として担当に‐ジャングルポケットに言い聞かせてあったし、それらに対する対策も織り込んだレースプランも彼女に指示してある。
だが当事者ならともかく、部外者がここまで的確に言い当てて見せたことに、タナベは不気味さを感じていた。目の前の男が自分の担当についてどこまで調べ上げているのか‐それを考えただけで気味が悪くなってくる。そして何より、彼はトレーナーになって僅か1年ほどしか経っていないのだ。なのに、まるで何十年もの経験を積んだベテラントレーナーのような発言をして見せた。何故そんなことが出来るのか。それを確かめるべく、再びタナベは問いかけた。
「ならば、君ならどうするんじゃ」
「スタートしたら、腹を括って最後方まで下げます」トレーナーではなく、『本職』に戻った目と声で小島は返した。「3コーナーあたりから距離ロスを覚悟で大外から捲って、直線では先頭を捉えられる位置にまでつけさせて‐あとは運です」
小島の言葉を聞いたタナベは驚愕の目で彼を見る。当然であった。彼が話した内容は全て、自分がレース前に担当に指示したことと寸分違わず一致していたからだった。そしてこちらの脳内を覗き込んだかのように、自分の担当の弱点とそれに基づいたレースプランを語って見せたことは、目の前の男が外見からは想像もつかぬほど優れた頭脳を有していることの証左でもあった。
無言で小島を見つめるタナベ。彼の視線を感じ取った小島は身を案ずるような表情を浮かべ、口を開いた。
「どうしましたか」
「すまん、少しばかり考え事をしておった」タナベは答えた。「それよりも、そろそろレースが始まるぞ」
その言葉に、小島は自分の腕時計を見る。針は3時40分を指していた。
「ああ、そのようですね。ありがとうございます」
「良い話が出来て満足しておるよ」
それを最後に2人は会話を終え、共にコースへと視線をやる。視線の先では、スターターがゆっくりと台へ向かっていくのが見えた。
(末恐ろしい男じゃ、彼は)
タナベは思った。小島隆史という男がこちらの想像よりも遥かに高い能力を持っていることを、彼は認めざるを得なかった。何より最も恐ろしかったのは、当の本人が全くと言っていいほど自分の持っている能力に無自覚で、ただ淡々と自分の仕事をこなしているだけとしか認識していないことであった。競争相手として競う際に‐そして『敵』に回した場合に、これ以上ないほど厄介極まりない人種である。
(気を付けろ、ポッケ。我々が相手にしているのは、こちらの想像をはるかに超えた化け物かもしれん。舐めてかかれば‐痛い目を見るのは我々の方になるぞ)
彼はそんなことを考えながら、コースをじっと見つめる。スターターの乗った台がせり上がってゆくのが見えたと同時に、ウィナーズサークルでは指揮者がタクトを振り上げた。一呼吸おいて台上で旗が振られ、陸上自衛隊・東部方面音楽隊によるファンファーレが中山に鳴り響く。今年のクラシック競走、その火ぶたが切って落とされた。
「早くなければ戦えない、強くなければ超えられない、そしてこの大歓声に応えなければ勝つ資格はない、ヒロインの条件を満たすウマ娘は果たして」
実況の声と共に、18名が続々とゲートへ収まっていく。皆、緊張の面持ちを浮かべていた。その中でタキオンだけが唯一、いつも通りのミステリアスな表情を浮かべたまま、ゆったりと中へ入って行く。見るものが見れば王者の風格、とでも言うような雰囲気を醸し出す彼女の一挙手一投足に視線が集中していた。4枠7番。これと言って特筆するほどの有利も不利もない枠順。
そして、全員がゲートインを終えた。
「伝説の始まりを一瞬たりとも見逃すな‐第ⅩⅩ回皐月賞、ゲートが開きました!」
金属音と共に、18人のウマ娘が一斉に飛び出す。大歓声に包まれるスタンド。
最内枠から飛び出した1人のウマ娘がバランスを崩したのはその時だった。歓声に混ざって聞こえてくるいくつかの悲鳴。静から動への最初の一歩という、最も不安定な段階でのアクシデントであったが、彼女はあわや転倒寸前という所でどうにか立て直すと、既に先行した者たちによって形作られた前方の集団、その後ろから追走する形でレースを進めていく。
‐畜生!
ジャングルポケットは内心で毒づいた。スタートの瞬間に躓いてバランスを崩し、転倒寸前のところからどうにか立て直したはいいものの、スムーズとは言い難いスタートになってしまったことで頭と体が混乱している。
落ち着け、落ち着け、彼女は自分にそう言い聞かせた。最初は後方からレースを進めることは作戦通りじゃねえか、その通りにやるだけだ。
その時、視線の端に何かが映った。ちらりと顔を向けると、そこにはスタンドの最前列で自分に向けて声を張り上げる3人のウマ娘の姿。
ルー・シマ・メイ。何れも自分がトレセン学園に入る前‐フリースタイル・レース時代から自分のことを慕ってくれて、学園に一緒に入学してからも同じように接してくれている者たち。彼女たちの姿に、心の中で何かが湧き上がってくるのをジャングルポケットは感じた。
そうだ、あいつらに無様な姿を見せる訳にはいかねえ。それに何よりあいつの‐タキオンの奴にだけは、絶対に負けるつもりはねえ!
彼女は闘志をたぎらせながら、先頭集団を見つめる。その視線の先には長い白衣が風にたなびく姿が、土煙の舞う集団の中にはっきりと映っていた。
18人がややばらけた一団となり、スタンド前を駆け抜けていく。その中でタキオンは先行集団、先頭から五番手のあたりでレースを進めていた。
悪くはない、スタンドから歓声が沸く中、レースの様子を見ながら小島は思った。彼女以外の有力どころ‐
スタンドから皆が固唾を呑んで見守る中、集団は向こう正面へと侵入していく。逃げているウマ娘が早めのペースで飛ばしているからなのか、隊列が先程までよりやや縦長となる中でも、タキオンは相変わらず4・5番手あたりを確保している。ざわつきと沈黙が同居するスタンド。トレーナー席もその例に漏れず、不気味なまでの静けさに支配されながら、トレーナー達がレースの様子を見守っている。
祈るような目で見つめるもの、不安を隠し切れない表情を浮かべるもの、レースの分析に集中することで意識をそれ以外の物から切り離そうとするの、皆それぞれの方法で自身の心の折り合いをつけていた。
当の小島はといえば、いつも通りの冷めた目でレースを見つめている。この野郎余裕ぶりやがって、その様子を見たほかのトレーナーは思った。当然である。小島はレースの勝ち負けには何の興味も持っていない。生まれ持った才能とレースに対する無関心ぶりを無意識のうちに発揮し、目の前の光景と感情とを完全に切り離している。冷徹極まりない軍人としての目で、彼は皐月賞を観戦していた。
トレーナー君はまあいつも通り、そんなふうにやっているんだろうね。
スタンドから見て向こう正面のあたりで、風圧を顔面に感じながらタキオンは思った。彼女は軽く後方に目をやる。7人ほどを間に挟んで、スタート前に話しかけてきた2人‐ジャングルポケットとダンツフレームが並走する形でレースを進めていた。共に真剣そのものの表情を顔面に浮かべ、はっきりとこちらを見据えている。その4つの目からは、勝利に対する渇望がこれでもかとばかりにあふれ出していた。
タキオンは思った。2人とも能力は高い。だが勝ちたいという意志が強すぎるあまり、やや冷静さを欠いているように思える。さて、こちらはどう行動するべきか。彼女は走りながら思考を巡らせ、少しの間を置いて結論を導き出す。
(このままいくべきだね)
彼女はそう判断した。思った通りのポジションは取れたし、ペースこそやや早いが、想定の範囲内に収まっている。レースに大きな影響を及ぼすようなトラブルもなく、自分の足にも体にも異常が起こっていない状況で事前のプランを変更する必要はない。予定通り、第3コーナーあたりからコースの半分より外側に進路を取り、最終直線に入るあたりで先頭に立てるように進出して‐後はそのまま押し切る。
これでいい。自分の足をもってすれば訳の無いことだ。そうすればレースにも、あの2人にも勝てる。ポッケ君にもダンツ君にも負けるつもりはないし、負けたくない。
そこまで考えたところで、タキオンはふと気づいた。
待てよ、どうして私はそのような感情を抱いたんだ?まるでホープフルのとき、カフェに抱いたものと同じような感覚じゃないか。何でそんなものが湧き上がってきたのか、皆目見当もつかない。レースが終わった後で、少しばかり考えてみよう。
不思議な感覚を覚えながらも、タキオンは先頭から5番手あたりで残り800メートルのハロン棒を通過する。同時に彼女は、僅かに進路を外に振った。担当トレーナーの指示通り、最終直線で少しでも芝の良い所を通るためである。 後ろを振り返るとジャングルポケットにダンツフレーム、そして後続勢が間隔を詰めてきていた。レースが後半に入ったところで、先行勢を交わすべく動き出したのだった。それを感じ取った先行勢も後続を振り切るべく速度を上げ、全体の流れが一気に早くなる。
仕掛けどころだ、タキオンはそう判断した。脚に力を籠め、芝をこれまでよりも強く蹴り上げる。視界が流れ、顔面をたたく風圧が更に激しさを増す。自分が一気に加速していくのが分かった。視覚情報と足元から伝わってくる感覚を総合するに、芝の荒れていない部分、コースの半ばより外側を走れていると彼女は判断する。
悪くないねぇ、タキオンは思った。このままいけば、最終直線に入るころには先頭に立つことが出来そうだった。
第3コーナーに近づくにつれ、集団の長さが少しずつ短くなって行く。後方に待機していた者たちが、最終直線に入るまでに少しでも良いポジションを取るべく動き出したのだった。最終直線が310メートルと短い中山では、差し追込勢が直線でのごぼう抜きを決めるのが困難であるが故に発生する現象であったが、この皐月賞においてもまた例外ではなかった。
それに合わせてジャングルポケットもダンツフレームも集団の外側から進出を開始し、徐々にポジションを上げて行く。このあたりから観客がざわつきはじめた。スタンドのボルテージが徐々に高まっていく。3コーナーと4コーナーの中間に差し掛かったあたりで、集団はほぼひとかたまりとなった。
逃げ先行勢が後方から迫る差し追込勢から逃れるべく、最後の力を振り絞って必死に足を動かし振り切りにかかった。差し追込勢も負けじと足を動かし、先行勢を呑み込むべく襲い掛かる。必死の形相を浮かべる17人。余裕の表情(外からはそう見えた)を見せるタキオン。一気に上がるペース。スタンドから沸く歓声。
それらが混ざり合い一種の
‐いける!
最終直線、ジャングルポケットは思った。自分から見て右斜め前、手を伸ばせば届きそうなところで白衣がたなびいている。彼女の末脚を活かせば、タキオンを差し切ることは十分に可能な位置取りであった。
このまま、差し切ってやる!今日こそはタキオン、てめえに‐
勝負を決めるべくスパートをかけたその時‐タキオンが一瞬、不敵な笑みを浮かべるのが見えた。なんだ、そう思った瞬間‐彼女が更に伸びた。詰めたはずの差が再び開いていく。負けじと更に脚へ力を籠め、更なるスパートをかけようとした瞬間‐内側から何者かが一気に伸びてきた。視界に映る桃色の服が自分と並び、瞬時に追い抜いていく。
誰であるかはすぐに分かった。ダンツフレームだった。彼女もまた必死の形相でこれでもかとばかりに足を動かし、自分を、そしてタキオンを追い抜こうとしている。3人は高低差2メートルの坂を一気に駆け上がる。ゴール板まではもう200メートルを切っていた。スタンドから響き渡る大歓声。
畜生、もう少しだってのにこんなところで!クソったれ、タキオンの野郎にもダンツにも‐
「負けて、たまるかあァァァ!」
ジャングルポケットは絶叫する。同時にあらん限りの力を脚に込め、最後の力を振り絞ってさらに加速していく。しかし、目の前にたなびく白衣との差が縮まることはなかった。
スタンドのボルテージは既に最高潮を迎えていた。トレーナー席においても例外ではない。ほとんどの人間が立ち上がり、自分が担当するウマ娘に向かって声を張り上げている。そんな中でも小島はいたって平静であった。大声の大合唱にさらされながらも平然としている長男を抱っこしながらコースに視線をやり、レースの様子を見つめていた。
最終直線に入った直後、満を持して抜け出し先頭に立ったタキオンに、コーナーでポジションを押し上げ、直線の入り口で彼女の斜め後ろに着けたジャングルポケットが外から並ぼうとした‐瞬間、タキオンは再度加速して間隔を広げていく。その内側から桃色の勝負服のウマ娘‐ダンツフレームがジャングルポケットを追い抜き、タキオンに迫ろうとする。1馬身ほどの差。しかしそれが縮まることはなかった。タキオンは後方を気にすることなく悠々と後続を引き離し、ゴールに向かって走り続ける。一層激しくなる歓声。
ジャングルポケットとダンツフレームの後方からもウマ娘たちが迫りつつあるものの、彼女たちが間に合わないことはもはや誰の目にも明らかであった。それを象徴するかのように、実況中継もほぼ3人にしか触れていない。
「アグネス先頭、アグネス先頭、さあそしてジャングル、更には14番ダンツフレームも来ている、ダンツフレームも来ている、しかしアグネス、アグネス、大丈夫~!」
1着でゴールしたタキオンに続いて、彼女の1馬身後にダンツフレームが入線し、彼女とほぼ差のない3着でジャングルポケットが入線する。123フィニッシュ。ひときわ大きな歓声がスタンドから湧き上がる。だが小島はいつも通り、わずかに口元を緩ませただけであった。感動や興奮、喜びと言ったものはそこには無い。
実況が続ける。
「中山2千メートル、まずは道を繋ぎました!アグネスタキオン、
その声が収まったタイミングで周囲がざわつき、視線が小島に集中する。皆、複雑な表情を浮かべていた。
無理もない。G1レースの中で最も格が高く、レースに関わるもの全てが目標とするクラシック競走。その第一関門のタイトルが、担当ウマ娘が最有力視されていたとはいえ、余所者の手にあっさりと渡ってしまったという現実を、皆受け入れることが出来ないのであった。
そんな中、タナベが勝者の元へと歩み寄る。それに気づいた本人もまた、立ち上がってしっかりと彼のことを見据えた。
タナベは口を開いた。
「一先ずはおめでとう、と言わせてもらおうか」
「ありがとうございます」小島は表情を変えないまま答えた。「これで、私の懐がまた温かくなりました」
「開口一番それかね」
「私が労働に従事する理由は、それしかありませんので」
「正直者だの」タナベは答えた。「だが、それは君の美点でもあるな。明け透けなことを平然と言って見せることに思う所がないではないが、少なくとも嘘をつかないという一点においては、君のことを信用できる」
「不器用なだけですよ。まあ、私の上官はそういう所を高く評価してくれているようなのですが」
「ホープフルの時に見た、真田さんとか言ったか‐あの人もあの人で、相当な曲者のようじゃの」
「好意的に見ているわけではありませんが」愚痴を言うように小島は答えた。「少なくとも今まで接してきた上官の中で、自分のことを最もよく理解してくれる人間だとは感じています」
「馬が合うのかもしれんな、君たちは」未開の部族と接するような声でタナベは返した。「さしずめ、マイナス同士を掛け合わせればプラスになるようなもの、と言った所か」
「まあ、そんなものですよ」
そう小島が答えた時、ズボンのポケットに入れておいた業務用のスマートフォンが小刻みに振動する。航空宇宙産業においては三菱を上回り、世界的にも有数の規模を持つ重工業メーカー・北崎重工の情報通信・ソフトウエア開発部門‐北崎システム&テクノロジーズ社が製造、販売を担っている市販品の軍用版を自衛隊に納入したものだった。
彼はタナベとの会話を中座し、画面を見る。そこには不細工極まりない上官の名前が発信者として映し出されていた。
なんだよおっさん。内心でそう思いながら彼はタナベに断りを入れ、受信ボタンをタップし耳に当てる。低い声が聞こえてきた。
「家のテレビで見ていたよ。よくやった、小島君」
「お褒めの言葉と受け取っておきましょう」
「相変わらずだな、君は‐まあいい。それで、次はダービーか」
「タキオンに何もなければそうなります」
「期待している、とは言わないでおこう。外野の声など気にせず、君の好きなようにやりたまえ」
「了解しました。それと、ありがとうございます」
「唐突に何だ、君」
思ってもいなかった女から愛を告げられたような声で真田は返した。それに対して、どこか笑いを含んだような口調で小島は告げる。
「いやなに、貴方の部下であることを初めて心から感謝したくなったのですよ、真田海将補。おかげでどうやら、これからも面白いことが出来そうです」
「お世辞かね」
「自分がそんなことを言える人間ではないと、真田海将補ご自身がよく理解されておられる筈では」
「そうだったな。君はそのような人間ではない」過ちを素直に認めながら真田は答えた。「第一、そのようなことが出来るような人間ならトレセン学園なんぞに送り込んではおらんし‐なにより、俺は君のそのようなところを評価しているのだからな」
「お褒めに預かり、恐悦至極であります」
鉄の棒を呑み込んだように背筋を伸ばしながら、わざとらしい言葉で小島は返した。
視線の先では有沙が噴き出すのが見え、電話口からも含み笑いが聞こえてきた。タナベをちらりと見ると、小島の急変に呆気にとられている。こやつは何をやっておるんじゃ、とでも言いたげな様子であった。
「急に口調を変えるな」真田は答えた。「まあいい、今日の分の特別手当は明日には振り込んでおこう」
「そいつはありがたいですね」欲望に忠実な口調で小島は応じた。「自分にとって、懐が温まることに勝るモチベーションの向上はありませんから」
「その調子でこれからも頼むぞ。与えられた仕事をこなしてくれる限り、文句は言わん」
「承知致しました」
小島がそう答えると、僅かな間を置いて電話は切れた。
「今話していたのが、君の上官かね」タナベが問いかけてくる。
「ええ」小島は答えた。「中々、面白い人ですよ」
「そのようじゃな」タナベは返した。そして、それ以上何も言わなかった。
小島はそのまま、コースに目をやる。レースを終えた者たちが三々五々引き上げてくるのが見えた。それに合わせて、周囲のトレーナーたちもまた担当を出迎えるべく動き出している。タナベもまた、周囲と同じ行動をとっていた。
‐さて、俺も行くか。小島はそう思い、口を開いた。
「有沙」
「何よ」
「タキオンの奴迎えに行ってくるから、悪いけどその間、隆俊を預かってほしいんだが」
「無理ね」
即答する有沙。なんでだよ、そう返す夫に彼女は視線と指で自分の子供を指し示す。妻の動作を見て下を向いた小島が見たのは、自分を見つめながら両手でしっかりと制服にしがみつく息子の姿であった。彼は思った。なるほど、たしかにこりゃあ無理だ。
「分かった」納得した彼は答えた。「じゃあ、抱っこひもを貸してくれ。ついでに一緒に来てくれ」
「構わないけど、どうするつもり」
「戦場だからな、ここは」意見を求める指揮官のような声で小島は答えた。「想定外の事態には、臨機応変に対処するもんだろ」
「これはまた、随分と可愛らしいお出迎えだねぇ」
ウイニングランを終えて検量室前へと戻ってきたタキオンを出迎えたのは、担当トレーナーとその妻、そして抱っこひもで担当トレーナーにしっかりと括り付けられた幼子の姿だった。
「泣く子と地頭には勝てぬ、ということさ」苦笑交じりに小島は答えた。「とりあえず、よくやった」
「おめでとう、タキオンちゃん」
「悪いね、森宮トレーナー」
そこまで言ったところで、担当トレーナーの長男が丸い目でこちらを見つめていることに気が付く。タキオンが彼の頭を撫でようとおもむろに手を伸ばしたところ、隆俊は白衣の袖をしっかりと掴み、口にくわえてしゃぶり始めた。
「こらこらやめたまえ、隆俊君」
困ったような、それでいてどこか喜んでいるような笑みを浮かべるタキオン。その様子を見た2人は思わず顔をほころばせる。この子は将来大物になりそうだねぇ、病気や怪我無く健やかに育ってくれればそれでいいさ、私もそれ以上のことは望まないわ、そんなやり取りが夫婦とタキオンの間で交わされた。
そんな4人の元へ、1人のウマ娘が近づいてくる。それに気づいた小島はタキオンに、親指で後ろを指し示しながら答えた。
「おい、お前の姉ちゃんが来てるぞ」
「フライト姉さんが?」
つられるように視線を向けたタキオンに見えたのは、人の合間を縫うようにして小走りで駆けてくる姉‐アグネスフライトの姿だった。彼女は駆け寄るなり、喜びを爆発させる。
「おめでとう、タキオン」妹の手を掴み、上下に振り回しながらフライトは答えた。「
「まさか来ているとは思わなかったよ、姉さん」気恥ずかしそうにタキオンは返す。「レースの前に顔を見せに来てもよかったじゃないか」
「貴女を驚かせたかったのよ」
茶目っ気混じりにフライトは述べると小島に視線を向け、答えた。
「小島さんも色々と思うところはあると思いますが、先ずはおめでとうございます」
「俺にとってはこれといった価値を感じられない代物だが、祝いの言葉には礼節をもって返さなくちゃな。ありがとよ、フライト」
「次はダービー、ですね」
「何もなけりゃな」小島は答えた。「あんな、たかが2千4百メートルぽっちのレースの勝ち負けだけで、ウマ娘としての価値が決まると思ってる連中の気が知れないぜ。大体、あんなものは興行上の理由で人工的に作り出されたものに過ぎないのに」
そこまで言ったとき、彼はフライトが微妙な表情を浮かべていることに気が付く。当然であった。彼女はダービーの勝利者であるのだ。
「すまん」小島はフライトに謝った。「君の前ですべき話じゃなかったな」
「いえ、いいんです」彼女は応じた。「小島さんのことは、タキオンから全部聞いていますから」
「だそうだ。お前さんは随分といい姉貴を持ったな、タキオン」
「君のお姉さんも、似たようなものじゃないかい」
「どうして姉貴の事を‐ああ、ホープフルの後で何か話してたな」
「フライト姉さんとカフェに、あとは君の甥っ子を交えてね」タキオンは答えた。「中々良いお姉さんだったよ。話を聞いた限りでは、姉という物の理想像を体現しているように思えた」
「俺も、姉貴には感謝してるよ」手品の種を見抜いたような口調で小島は答えた。「女性という物の現実を、これでもかとばかりに見せてくれた。お陰で女性に幻想を抱かずに済んだし、有沙と上手くやれてるのもその影響が大きい」
それを聞いたタキオンは、担当トレーナーとその妻を交互に見返す。そして、有沙の顔をまじまじと見つめた後、遠慮会釈のない言葉で小島に問いかけた。
「今の話を聞いて思ったが‐君、シスコンだろう」
「よく分かったな」
目を見開きながら、感心したように小島は答えた。
「森宮トレーナーを見ていれば‐そしてこれまでの君の話を聞いていれば分かるさ」
学術発表でもするかのような声でタキオンは返し、そして続けた。
「君は、女性に『お姉ちゃん』としての役割を求めている。存分に甘えられる、自分だけのお姉ちゃん。それを森宮トレーナーは十分に持っている。おそらく君は中学生の頃の経験から、人に甘えることが出来なかったからこそ、その反動として彼女をあれ程までに愛せるのだろう、違うかい?」
彼女の言葉は嫌になるほど的を射ていた。小島は思った。過酷な現実によって歪んでしまった中で、自分の内心に残ってしまった幼児的な部分。何人たりとも信用できないが故に、他人に弱みをさらけ出すことが出来なかった。だから全て自分の中に抱え込んできた。それが負担になるとわかっていても。
有沙に対しても、最初からできたわけではない。彼女が自分の心をゆっくりと解きほぐしてくれたからこそできたようなものだ。そのおかげで俺は心の底からあいつを愛せるようになったし、家では姉に甘える弟そのものの態度であいつに甘えている。そこまで理解できるとはまったく、いやになるほど切れる頭の持ち主だな、このいかれ科学者め。まあいい、少しばかりやり返してやろう。
苦笑しながら小島は口を開いた。
「驚いたな。
「君たちの様子を観察していれば、一定以上の知性の持ち主なら私ならずとも十分に導き出せる結論だよ」
タキオンは答えた。マッドサイエンティストと担当から呼ばれる事に関しては、最早諦めがついているようだった。
そんな彼女に小島は笑みを浮かべ、悪戯を成功させた子供のような口調で返した。
「いい分析だな‐しかし、一つだけ間違いがある」
「どういうことだい」
「有沙もまた、俺に甘えたくて仕方がないという点を見落としていることさ」
それを聞いたタキオンは笑った。この男には到底敵わないということを、十分に理解させられたからだった。
背後では有沙とフライトが談笑している。ある種の幸福、そう形容してよいものがこの空間には存在していた。
その一方で、幸福とは対極にある者たちもいる。このレースでタキオンに敗れ去った者たちが、その典型例と言えよう。
ジャングルポケットもその一人であった。彼女は歯を食いしばり、両手を爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめながら、検量室の前、人間の背丈ほどの高さの擁壁で区切られた場所に戻ってきた。悔しさに体を震わせながら、3と書かれた場所に入る。隣の2と書かれた場所には、自分と同じような表情を浮かべるダンツフレームが入って行く。その更に隣‐1と書かれた場所に誰が入っているのかは、目を向けずとも十分に分かっていた。
待っていたのは担当トレーナーだった。悔しさがにじみ出ていることを隠そうともしない表情で戻ってきたジャングルポケットに、タナベは声をかける。
「お疲れさまじゃ、ポッケ」励ますような口調で彼は言った。「色々思うことはあると思うが、これも勝負じゃ。気を落とすでない」
「わかってるよ、ナベさん」据わった目でジャングルポケットは答えた。「明日から、またトレーニングだ。次こそは‐ダービーでは、必ずあいつに勝ってやる」
「それは許可できんな」
首を横に振るタナベ。
「何でだよ!」
自分でも内心驚くほどの大きさを持った声。周囲の者たちが振り向く。それでも彼女は気に止めることはなかった。
「お前さんの体のことを考えてじゃ」諭すように、ゆっくりとタナベは答えた。「レースで全力を出したことで、お前さんの体は自分で感じている以上に消耗し、ダメージを負っておる。そんな状況でトレーニングなぞしてみろ、大けがをしてダービーに出走できなくなってしまうぞ。それでもよいのか」
ジャングルポケットは彼の言葉に言葉を詰まらせる。数十年という単位でトレーナーをしているだけあって、その言葉には年季を感じさせる重みがあった。
タナベは続けた。
「超回復という言葉を知っておるだろう。筋肉は酷使された後、その傷を治す過程でより強くなるんじゃ。ダービーで勝ちたければ、しっかりと体を休めて回復させるのが先決じゃぞ。トレーニングを始めるのは、そのあとでも決して遅くはない」
「でも」彼女はなおも食い下がる。最大のライバルに負けた、という事実は彼女から冷静さを失わせるには十分すぎるものだった。
「お前さんの気持ちはよく分かる。じゃがな、無理をして大怪我をしてしまえば、元も子もないぞ」
「じゃあ、いつから始めりゃいいんだよ」
ジャングルポケットは反論をあきらめ、投げやりになったような口調で語気を荒げた。タナベは諭すように話しかける。
「どんなに早くとも、再来週からじゃの。それまではしっかり休んで、ダービーに向けての英気を養っておくことじゃ」
「分かったよ、畜生」
彼女の言葉を聞いたタナベは静かに首を縦に振ると、その場から離れた。
歯を食いしばり、悔しさをあらわにしながらジャングルポケットは右隣、ダンツフレームを超えた先に視線をやる。その先では皐月賞の勝者が、自分の子供を抱っこしているらしい担当トレーナーと言葉を交わしていた。そしてそのすぐ傍には、学園の制服を着た勝者と瓜二つと言っていいウマ娘、更には航空自衛隊の制服を着こんだ、美しいとしか言い表しようのない顔立ちの人間の女性がいた。
見ていやがれ、タキオン。ジャングルポケットはその光景を見ながら、内心で不完全燃焼に終わった闘志を再度滾らせる。歯を食いしばり、両手を握りしめ、自分に言い聞かせるように強い決意を込めた。
‐ダービーで勝つのは、この俺だ。
史実のダンツフレームが勝利したレースの名前は「アーリントンカップ」でしたが、今作品では2026年時点で用いられている「チャーチルダウンズカップ」としました。
本話以降も、登場するレースの名前は基本的に現時点で使用されているものを使っていきますので、その旨ご了承ください。
次回は皐月賞後の動向、そしてダービーに向けてのあれこれについての話になります。今回と同じような間隔で投稿できるよう執筆してまいりますので、どうぞお待ちいただけますと
幸いです。
それでは。
PS.根岸ステークスとシルクロードステークス、馬券的な意味で楽しみだなあ・・・
(なお、去年はどっちも外した模様)