トレセン学園分遣隊活動記録   作:山屋な司令官(改)

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 大変長らくお待たせいたしました。第25話です。
 今回4か月も間隔があいた理由は、私自身がかなり洒落にならないレベルの事態に陥ってしまったためです。
 前話を投稿した後、私生活で様々なことが立て続けに起こり、夜寝つきが悪い(布団に入っても2時間くらい目が覚めっぱなし)、食事をしても味はするが美味しいと感じられないなど、身体的な不調を訴えるレベルで精神的に追い込まれる状態になりまして、大まかなアウトラインこそ完成していたものの、本文の執筆に取り掛かることができない状況に追い込まれておりました。
 幸いにもどうにか休息を挟んだことで回復することができ、ちまちまと執筆を行えるようになったため、少しずつ書き溜めて完成させたのが本話になります。何卒お付き合いいただけますと幸いです。


第25話 それぞれが見据えるもの

‐こんなもの、別に欲しくもなんともないんだが。

 

 執務スペースの脇に置かれたスチールロッカーの、透明な引き戸越しに見える物体を眺めながら、レースに関わるもの全てが聞いたら苛立ちどころか怒りを覚えそうなことを小島は思った。

 視線の先には、真新しい皐月賞の優勝レイとトロフィーが置かれている。レースに関わるもの全てが欲してやまないクラシック競走のタイトル、その一つ目を獲得した彼であったが、その表情はどこか冷めきっている。

 ふん、と吐き捨てるように呟きながら小島は思った。そういえばあの女は、クラシック競走のタイトルは一個も持ってなかったな。

 

(第一)

 

 ウマ娘によって将来の夢を奪い去られ、ウマ娘のことを誰よりも憎んでいる自分が、今年のクラシック競走の主役ともいえるウマ娘の担当トレーナーをしていること自体、何かの皮肉と言わざるを得ない。

 そして当の彼女‐アグネスタキオンは更なる大舞台、レースに関わるもの全てが勝利を欲してやまないレースへ‐東京優駿へと駒を進める。これまでの実績とその実力から、抜きんでた一番人気に支持されることは現時点で確実視されていた。

 

 これもまた歴史の皮肉か、そう思ったところで背中から声を掛けられる。声の主は、入口から覗き込むように彼を見つめていたタキオンだった。

「そろそろいいかな、トレーナー君」

「悪い悪い、今行く」

 彼女の後を追いかけるようにして小島は執務室を後にする。それぞれのスペースでパソコンと睨み合いながら仕事を続ける同僚と部下たちの脇を通って会議室に入ると、その正面には大きなモニターが壁面に半ば埋め込むような形で置かれ、中央の長机の両脇には布張りのゲーミングチェアが等間隔で並べられていた。そこには先に入っていたタキオンと、その隣に座るもう一人のウマ娘の姿があった。

 普段は別のチームに所属する彼女であったが、小島が担当トレーナーと話をつけ、アドバイザーとして話を聞くためにこの場に座っている。彼女はタキオンがこれから望むG1レースの勝者であり、付け加えるのならば小島もタキオンも彼女と面識を持っていた。彼女が今この場にいるのは、そのことの影響が最も大きな比重を占めている。

 

 ダービー。250年ほど前にイギリスの貴族によるコイントスによって決められた名前のレースは今や、世界各国でクラシック競走を代表するレースの代名詞として用いられている。これから話す東京優駿‐日本ダービーもまた、そのうちの一つであった。

 

 椅子に腰かけ、テーブルを挟んで2人と向かい合う形になった小島が口を開く。

「それじゃ始めるぞ」

「こちらも準備は出来ているよ‐まさか、姉さんまで呼ばれているとは思わなかったが」

 隣に座る姉を見ながらタキオンは答えた。その言葉を予想していた、とばかりに小島は返す。

「経験者の意見は、大いに参考になるからな‐ダービー優勝経験というのは、めったに聞けるものじゃない」

「そういうことよ、タキオン」悪戯めかしてフライトは答える。「聞き入れるかどうかはともかく、他人のアドバイスは耳に入れておくべきだわ」

「まあそんな所だ」小島が混ぜっ返す。

「でもまあ、元気そうでよかったよ、姉さん」案じるようにタキオンは返した。「最近塞ぎ込んでいると聞いたからね、正直なところ心配していたんだ」

「確かにそうだったわ」明るい声でフライトは応じる。「でも、小島さんに言われて大部吹っ切れちゃったから、今は大丈夫」

 その言葉を聞いたタキオンは、担当トレーナーのことをちらりと見る。彼の何かを含んだような表情に何かを察すると、そのまま口を開いた。

「それで、君はどのような戦法で行こうと考えているんだい」

「基本的には、これまで通りのやり方で考えてる」

 それを聞いたタキオンとフライトは、目を二三度(しばた)かせた。

 当然である。小回りコースで最終直線が短い中山と、大回りで最終直線の長い府中‐東京レース場とでは求められる能力と適性がかなり異なり、前者で好走して後者で凡走、或いはその逆ということも珍しくない。

 つまるところ、機動力とスピードの持続力が求められるコースで上手く行った方法が、最終直線での瞬発力‐上り3ハロン最速を求められるコースでも同じように通用するのか、ということが2人の抱いた共通の疑問点であった。

「お前さんたちの言いたいことは分かる」小島は答えた。「だが安心しろ、と言っておこう」

「どういうことかな」タキオンは訪ねる。

「ダービーは意外と先行有利なレースだからだ」

 小島は言い切った。それにはいくつかの理由がある。

 まず最初にダービーは東京レース場の芝コース、そのコース替わり初週に行われるため、柵がそれまでよりも内側へ置かれることになる。これによりコース内側の痛みがカバーされるのはもちろんの事、柵が外側に張り出すことによりコーナーの角度が緩くなることで、先行勢が速度を維持したまま最終直線へと侵入することを可能にしていた。

 更に近年は造園技術の進歩に伴い馬場の高速化が著しくなったこと、加えて初夏の日差しをたっぷりと浴びた芝が青々と茂るようになったことで、近年のダービー週の東京芝コースはスピードを維持しやすい馬場状態にあることが多い。そのためスピードに乗った先行勢が止まらないまま、後方からの差し追い込み勢の追撃を振り切ってゴールするということが近年のダービーでは珍しくない。

 事実、近年のダービーでは最終コーナーを5番手以内で通過した者がかなりの割合で上位入線しており、この中には上位人気のみならず2桁人気の人気薄勢も含まれていることから、近年のダービーは瞬発力が求められないわけではないが、それ以上に道中の位置取りとスピードの持続力が物を言うレースへと変化を遂げている。

 最終直線の長いコース故、差し追い込み勢に分があると思われがちであるが、ダービーにおいてはそれが当てはまらない。第一コーナーで先頭から10番手以内を取らねば勝つことは出来ないという古のダービーポジションが、コース形態と造園技術の進歩に伴って形を変えて復活することになったのだ。

「でもたしか姉さんが勝った時は‐」隣に座る姉を見ながらタキオンは答える。

「そうね、最終コーナー11番手からの追い込み勝ちだったわ」懐かしむような声でフライトは応じた。「最後はシャカールとのデッドヒートになって、最後の最後に7センチだけ私が前に出てたけど‐」

「捲ったとはいえ4角4番手の奴が3着に残してたな、確か」

 割り込むように小島が呟いた。彼は予め、フライトの勝ったダービーの映像や公式記録を調べておいていたのである。金があるなら働かないと公言して憚らず、トレーナーとしての仕事も幹部自衛官としてのそれも好きではない小島ではあったが、何かをするために必要なことには手を抜かない性分であった。

「ええ。だから確実に行くなら、最終コーナーで前目のポジションを確保しておいた方がいいわ」

 フライトが答える。小島も軽く頷いて同意を示すと、タキオンに向けて口を開いた。

「そういうことだ。だから少なくとも、基本的な戦法を変える必要はないと俺は考えている」

「分かったよ」得心したような声でタキオンは答えた。「一先ずは、君の言うとおりにやってみようじゃないか」

「理解が早くて助かるよ」小島は満足げに応じた。「流石はマッドサイエンティスト、と言った所だな」

「相変わらずだねぇ、君は‐それで、ダービーに向けてのトレーニングはどうするつもりなんだい」

「それについては考えてある」何かを含んだような声で小島は答えた。「何しろ俺には、優秀な参謀長がついてるからな」

 

 午後のトレーニング時間になり、下手なレース場並みの大きさを誇るトレセン学園のグラウンドは大勢のウマ娘、そして人間で賑わいを見せていた。

 春のG1シーズンが到来したこの時期、5月初頭の鮮やかな日差しの下で青々と茂る芝とは対照的に、ウマ娘たちは様々な気色を見せている。

 クラシック級でこの時期に未勝利戦を勝ち上がれていないものは切羽詰まったような雰囲気を纏い、どうにか1勝できているものはどこか胸をなでおろしたようなものを、条件戦クラスのクラシック級とシニア級の者たちはどこか気楽そうな空気を醸し出しながら、それぞれトレーニングに臨んでいた。

 その中には未勝利組と同じような‐あるいはそれ以上に張り詰めた空気の中でトレーニングを行う者たちの姿があった。彼女たちは皆、どこか別格とも言うべきものを周囲に向けて発散している。それもそのはずであった。この学園の中でもごく限られた者しかいないオープンクラス、その中からさらに選び抜かれた者しか出走を許されないG1レースへの出走を控える者たちであるからだ。

 

 ジャングルポケットもそのうちの一人であった。皐月賞で3着に敗れた彼女は、ダービーでその雪辱を晴らすべく、一心不乱にトレーニングへ打ち込んでいる。今はトレーニングを終え、スタンドで小休止を取っている最中であった。

「熱心じゃの、ポッケ」

「たりめーだろ、ナベさん」

 ボトルに入ったスポーツドリンクを飲みながら彼女は答えた。

「タキオンの奴に勝つんだったら、これくらいのことはやらねえとな‐それで、タイムの方はどうなんだよ」

「皐月賞の前よりも速くなっておるぞ」手元のタブレット端末を確認しながらタナベは応じた。「この分ならもう少し、練習の強度を上げてもよさそうじゃな‐行けそうか?」

「勿論だ」強い意志のこもった目でジャングルポケットは答えた。「ダービーで、あいつに負けるわけにはいかねえ」

「分かったぞ‐と、噂をすればじゃ」

 そう言ってタナベが指さした先には、ターフの上を疾駆するタキオンの姿があった。その周囲には4人のウマ娘が‐彼女と同じチームに所属する者たちがその周囲を取り囲み、彼女を柵沿いにしっかりと閉じ込めている。

 その様子を見たジャングルポケットは思った。多分練習の一環なんだろうが‐タキオンの野郎、いったい何をしていやがるんだ?

 

‐控えめに言っても、良い状況ではないねぇ。

 

 芝の上を疾駆しながらタキオンは思った。彼女の目の前には小柄な黒鹿毛のウマ娘‐ライスシャワーが、自分の進路を阻むようにして走り続けている。右斜め前には栗毛の王女様(ファインモーション)が、右斜め後ろにはコーヒー好きの腐れ縁(マンハッタンカフェ)がそれぞれ蓋をするように、そして真後ろには自分と瓜二つの風貌をした実の姉(アグネスフライト)が、プレッシャーをかけるように追いすがってくる。

 そして左横には埒があった。このことが意味しているのはただ一つ‐タキオンは完全に包囲され、二進も三進もいかない状況に追い込まれているということであった。

 実戦であれば不利なことこの上ない状況であったが、この練習の目的はむしろそこにあった。あえて不利な状況を作り出しそれにどうやって対処するか、という説明を事前に担当トレーナーから‐小島から受けていた。具体的な方法についてはタキオンに全て委ねられている。

 そして彼は他の参加者全員に対して、本来のレースと同じようにやれ、レースにおける規則に反しない範囲であれば何をやってもよいとまで話している。

 

 小島隆史という男のトレーニング方法はどこか異質だった。基礎的なものを除けば、一般的な動作の反復演習は無いわけではないが他に比べて少なく、むしろこのような実際のレースを想定したような状況で行うトレーニングの方が多い。

 そのことが気になって一度本人に聞いてみたことがある。帰ってきた答えは「訓練のための訓練なんて何の意味もないからな」という意味深長な一言のみだった。

 その時は言葉の意味が分からず、何を言っているんだい君はという言葉が口から飛び出しかけたくらいであるが、練習を続けるうちにその本意が理解できるようになってきた。彼は反復演習の繰り返しでパターン認識が得意なだけのゾンビを作り出すのではなく、常に状況が変化し続けるシチュエーションを作り出し、それに対して自分で考え対処できる人間を作り出そうとしていたのだ。

 

 考えてみればそうである。レースでも戦争でも状況は常に変化し、混沌とし続ける。そんな状況でパターン認識が得意なだけの者は事態に対処できない。どちらも勝つことを至上命題としている以上、基礎を覚えこませるための反復演習が無意味とは言わないものの、状況が常に変化し続けるシチュエーションに対処させるトレーニングの方がより役に立つ。考えてみれば理にかなっていることだった。

 さらにこのやり方は、常にメニューが変化し続けるためマンネリ化を避けられるという副次的な効果もあった。おかげで自分でも驚くほど前向きにトレーニングへ取り組むことが出来ている。彼女が練習とはいえ、意図的に不利な状況に追い込まれている背景にはそのような理由が存在していた。

 更に驚いたのが、トレーニングメニュー自体は小島が作成しているわけではない、ということであった。彼が大まかな方針(今回であればダービーの勝利)を、副隊長でもあり私生活では細君である人物に伝え、彼女はそれを更に他の分遣隊メンバーに、具体的には土井美咲と広瀬彩香へ伝達して話し合いを重ねて詳細なプランを練り上げ、それを小島に見せて裁可を得る、という流れで作成していると聞いたときは、流石に丸投げにもほどがあるんじゃないかと思ったと同時に、指揮官とはなんと気楽な商売なんだろうと思ったほどだった。

 

 無理もない。この学園では一般的に、トレーナーが一人でトレーニングメニューを組み上げるのが基本であったからだ。

 しかし後から考えてみて理由が分かった。彼は、自分たちの本業のやり方を持ち込んだに過ぎないのだ。軍隊が作戦を立案するには、まず指揮官が目的と方針を参謀に伝え、参謀はそれを基に指揮官の意図を実現させるプランを練り上げ、指揮官はそれを見て最終的な決断を下すという一連の流れを、小島はトレーニングメニューの立案に応用している。

 ずるい、と言われてしまえばそれまでだが、トレーニングメニューの立て方は各トレーナーの裁量に一任されている以上、自分たちの本業を応用することは彼ら(比率的には彼女ら、と言った方がいいが)の思考回路からしてなんらおかしなことではない。

 更には、その決断によって生じた結果に対する責任は全て指揮官が負う。それは時と場合によっては、指揮官自身の生命すら賭ける代物になることを考えると、指揮官が気楽な商売だなどとは言えない。

 では参謀はどうなるのかといえば、命令に従って指揮官の意図を実現させるための道具として動いただけであるから、命令権こそないものの責任を負うことはない。彼と知り合うようになってから、戦争や軍事について書かれた本を読み漁って付けた付け焼刃の知識でも、それくらいのことは理解できた。

 つまるところ分遣隊は戦争をしているのであり‐自分もまた、その渦中にいる一人なのだ。

 だが、タキオンは思った。トレーナー君はどこか、その状況を楽しんでいるようにすら見える。本人は無自覚なのであろうが、それがかえって不気味さすら感じさせられた。大学を出て、そこ以外に働き口が無かったから仕方なく選んだ選択肢とはいえ、無意識のうちにどこか仕事に満足感すら覚えている節すらある。

 ひょっとしたら、彼女は思った。トレーナー君には本当に、軍人としての天賦の才が備わっているのかもしれない。それが本当であれば、デビュー戦の後に起こった一連の騒動の時に感じたことは間違っていなかったことになる。

 

 そこまで考えたところで、タキオンは現実に引き戻された。走り続ける彼女の周囲を他の4人のウマ娘が、蟻のはい出る隙間もないように取り囲んでいる。

 とはいえ、タキオンも諦めていたわけではない。走りながら頭脳をフル回転させ、この状況から抜け出す方法を探り続けている。集団の現在地は丁度、向こう正面から第三コーナーへさしかかろうという位置だった。

 彼女は走りながら眼球だけを動かし、視線を四方八方へ向けて状況打開の手がかりを探し続ける。そして正面に視線を向けた時、直線時点では埒沿いピッタリに走り続けていたライスシャワーと埒との間に、僅かな隙間が出来ているのが見えた。

 恐らく遠心力によってできたと思われるそれを見た瞬間、タキオンの中で何かが繋がる。要は物理の問題じゃないか、彼女はそう合点し、脳内で瞬時に脱出プランを練り上げた。

 仕掛けるタイミングは最終コーナー。ゴールに向けて皆が加速を始め、スピードに乗ったままコーナーへ侵入する際に生ずる遠心力によって出来る隙間を利用し、包囲網を突破する腹積もりだった。

 

 集団が最終コーナーに差し掛かり、皆がゴールを意識してペースを上げてゆく。ラストスパートをかけるために速度を上げた、前方の小柄な黒鹿毛が遠心力で外側へ膨らんでいくのをタキオンは見逃さなかった。一人がようやく通れる程にまで隙間が広がった瞬間、脚に力を籠めてそこを目がけ一気に加速し、一瞬にしてライスシャワーと埒との間を駆け抜けてゆく。追い抜く瞬間、彼女の驚く顔が見えた。

 包囲網が破られたことに気が付いた4人は慌てて加速を掛けるが、タキオンはそれを尻目に更なる加速をかけ、後続を一気に突き放してゆく。

 悪くない気分だ、彼女は思った。同時に自身の中で、困難な実験が上手く行った時のような爽快感‐というよりは衝動‐が湧き上がってくるのを感じる。皐月賞の後から強く感じるようになったそれに突き動かされながら、タキオンは一気にゴールまで駆け抜けていった。

 

 なかなかやるな。その光景をスタンドから見ていた迷彩服姿の小島は思った。周囲は騒めきと驚きに包まれている。ダービーも彼女で決まりだ、ひょっとしたら3冠も、というような声がいくつも聞こえてくる。中には担当トレーナーである彼に視線を向けながら、よりによってなんであんな奴なんかに、とでも言わんばかりの表情を浮かべる者もいた。

「流石ですね、タキオンは」

 そんな視線をどこ吹く風とばかりに無視していた小島に、隣に立つ瘦身の中年男性が声をかけてくる。彼はアグネスフライトのトレーナーであり、それ以外にもメジロラモーヌやニシノフラワー、ダイイチルビーなど、ティアラ路線で目覚ましい活躍を見せる者を多く担当していることで有名な人物であった。

「こちらこそ無理を言ってお付き合いしていただき、感謝しています」

 小島も返した。彼にフライトを借りることと、合同練習を申し込んだことへの感謝を述べる。

「いえいえ、彼女にとっても良い気分転換になるでしょうから」フライトのトレーナーは答えた。「最近のフライトはレースで思ったような結果が出せなくて、気分が落ち込みがちでして‐小島さんが声をかけてくれたことには、感謝しているんですよ」

 彼の言葉通り、アグネスフライトはダービーを勝って以降、パッとしないレースぶりが続いている。神戸新聞杯では2着、菊花賞は1番人気に支持されながら5着、ジャパンカップでは13着という結果に終わった。その後年明けの京都記念で2着に入るも、続くG1・大阪杯では3番人気10着と、期待されたほどの結果を残すことが出来ていない。

 そこに来て、クラシック路線で目覚ましい活躍を見せている妹の姿を見た、周囲からの期待という名のプレッシャーが重くのしかかって、彼女は精神的に不安定な状態になっていた。そんな状態の彼女に、小島は気分転換がてらどうだと合同練習の誘いを持ち掛けたのである。

「彼女に言ってやっただけですよ」コースに視線をやりながら小島は答えた。「勝手に応援しておいて、期待通りにならないとああだこうだと喚き散らして一方的に失望するろくでなし共(レースファン)の言うことなんて、ゴミ箱に放り込んじまえってね」

「それは随分と、まあ」苦笑いしながらフライトのトレーナーは答えた。「でもお陰で、彼女は吹っ切れたようです。その点についてはありがたいと思っていますよ」

 そういって彼はフライトに視線を向ける。練習とはいえ妹にかなりの差を付けられてゴールすることになったが、その表情はすがすがしく、どこか吹っ切れたようになっている。他の3人の様子もまた似たようなものであった。

「不器用なだけですよ。尤も、そのおかげでここに来たようなものですが」自分を嘲るように、軽い調子で小島は答えた。「人生というのは、本当に何がどう転ぶかわからない」

「あなたと森宮さんを見ていると、嫌でもそう感じさせられますよ。失礼を承知で言いますが、あんなに美人で頭の良い人があなたの妻だなんてとても思えません」

「それに関しては、幸運と偶然の産物に過ぎないということをよく理解しています」

 自分の左手の薬指に嵌めているものを見せるようにしながら小島は答えた。

「ですがそれでも、彼女が私の唯一無二かつ最愛の女性であることに変わりはありません。私にとっては、それだけで十分なのですから」

「そういうだろうと思っていました」

 タキオンと彼女以外の4人がゴールを過ぎ、呼吸を整える様子を見ながらフライトのトレーナーは答えた。

「フライトからも、お2人の仲の良さについて聞いているものでしてね。いやはや、夫婦とはかくありたいものですよ」

「お褒め頂き恐縮ですわ、河知さん」

 その声を聴いたフライトのトレーナーこと河知は、軽く驚いたような表情で声のした方を振り返る。そこには悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべる有沙がいた。迷彩服に部隊章が書かれたベースボールキャップという小島と同じいで立ちをしている。

「できることならタキオンちゃんだけじゃなく、ライスちゃんとファインのことにも目を向けて頂きたいものですけど」

「確かもう少しでデビューでしたね、あの2人は」

 河知が返した。

「夏の新潟か北海道あたりで行こうと思ってます」トレーナーとして、というよりは年の離れた妹を見守る姉のような声と視線で有沙は答える。「その後どうなるかは神のみぞ知る、といったところでしょうか」

「始めのうちは、それくらいの心構えでいいと思いますよ。デビュー前から期待されていた娘が未勝利で終わったり、逆に全く期待されてなかったような娘がG1を何勝もしてしまう様な世界なのですから、あまり深く入れ込みすぎるとよくありません」

 河知が何気なく放ったその言葉を聞いた有沙は、どこかはっとしたような表情を浮かべる。深い意味があって口にしたものではないであろうと分かっていても、彼女の脳裏に十数年前の記憶を蘇らせるには十分すぎるものであったからだ。

 自分に大きな心の傷を残した幼馴染の一件。勝利し続けている間は周囲から一方的に期待され、大けがをして競争能力喪失となったとたんに手のひら返しに遭い、精神を病んでマンションの屋上から飛び降り、命は助かったものの二度と自分の足で歩くことが叶わなくなった彼女。

 希望に満ち溢れた目の前の光景と、防大へ行くことを告げた時に見た、幼馴染の絶望に染め上げられたような顔とをいつの間にか比較していることに有沙は気づく。嫌な物ね、彼女はそう思いながら言葉を返した。

「まあ、そういうものですよね」

 どこか遠くを見るように、物憂げな表情で有沙はターフを見つめる。その表情は幹部自衛官やトレーナーと言うより、高級ホテルの最上階にあるレストランで一人ワインを傾ける大女優と言った方が相応しかった。

 

 そのとき3人の視界を、白というよりは灰色に近い色の髪と尻尾をもつウマ娘が駆け抜けていく。瞬く間に目の前を通り過ぎていく彼女。クロフネだ、周囲からそんな声が聞こえてきた。

 ホープフルステークスで3着であった彼女は毎日杯を勝利した後、適性を鑑みて皐月賞を回避し、今週末‐5月の一週目の日曜日に行われるクラシック級限定のマイルG1‐NHKマイルカップへ出走することになっている。更にはその後、ダービーへの出走も予定されていた。

 なぜそのような、一般的に言われるクラシック路線のルートとは異なる変則的なローテーションを組んだのかについては、陣営の方針が関係している。

 クロフネのトレーナーはレース専門誌の記者からトレーナーに転身したという経歴の持ち主で、実家がレーシングクラブを経営しており、マイルと2400メートルの双方をこなせるウマ娘こそがレースの世界において最強であるという持論の持ち主であった。

 そんな人間にとって、クロフネは自身の理論を証明するのにぴったりの存在であり、彼女もまた同じような考えの持ち主であったことが2人を結び付け、このような路線を歩ませることとなった。

 ある意味では異端視されそうな考えを持つ2人であったが、クラシック競走が持つ本来の目的を鑑みた場合、何らおかしいことは無かった。

 近代レース発祥の地である英国では、クラシック競走の一冠目である2000ギニーはマイルで、ダービーステークスは2400m、そして三冠の最終関門であるセントレジャーステークスは2931mで行われており、他国のクラシック競走もまた、多少の違いこそあれど概ねこのような流れで構成されている。

 本来、クラシック競走とは競走ウマ娘としての成長期であるクラシック期において、マイルでも中距離でも長距離でもオールマイティーに強いウマ娘を選別することを目的として組まれたレース体系であり、その観点でいうのなら、クロフネとそのトレーナーの考えは理に適っているものであった。

 尤もこれは、2000ギニーに相当するレースをマイルではなく2000mで行う日本の方法がある意味では異端とも取れるやり方であった。

 これは元々、軍用ウマ娘の育成を目的として始まった日本のレースにおいては軍用に耐えうるスタミナを育てることが重視されており、早い時期から長い距離を走らせることで持久力を付ける、という観点から2000ギニーに相当するレースを長い距離で‐初期はコース形状の都合上1850mで、その後数回の変更を経て現在の2000mで‐行うことになったという背景がある。

 

「大丈夫なのかしら、あの子」不安げに呟く有沙。「この時期に中2週っていうのは、負担が大きいと思うんだけど」

 その言葉を聞いた小島は軽い驚きを見せる。心配して見せたことにではなく、中2週というレース用語が有沙の口から平然と飛びだしてきたことに対してであった。彼は思った。全く、俺たちもだいぶこの世界に感化され始めちまってるな。

(とはいうものの)

 彼女の言う通り、NHKマイルカップとダービーとのレース間隔は3週間‐レース用語で言えば中2週。間隔をあけてレースに臨むのが主流となっている近年においては、決して楽なローテーションとは言い難い。更に言うならば、成長期に過度な負荷を身体に与えた場合、その後の一生に大きな悪影響を及ぼす危険すらある。だが‐

「本人が納得してるなら、別にいいんじゃねえか」小島は答えた。「そのあたりの事に、俺たちが口出しすべきじゃない。どのレースにどう出るかは、それぞれの陣営が決めることだ」

「そう、そうよね」はっとしたように有沙は返す。「彼女は彼女であって、マーちゃんとは違うもの」

 

 練習を終えたタキオンが話しかけてきたのはその時だった。

「ご歓談中申し訳ないのだがね、森宮トレーナー」

「何かしら、タキオンちゃん」

 振り向きながら有沙は答える。相変わらずの美貌だねぇ、そんなことを思いながらタキオンは続けた。

「いやなに、君の旦那様を少々お借りしたいのだが」

「構わないわよ‐隆史」

「聞こえてる」ぶっきらぼうにも聞こえる口調で小島は応じた。「どうした、タキオン」

「いやなに、今の練習に対する君の評価を聞きたくてね」

「珍しいな、お前さんがそんなことを聞いてくるなんて」

 山海の珍味を目の当たりにしたような口調で小島は答える。その目もいささか丸みを帯びていた。

「色々と思う所があるのさ」

 どこか熱を帯びたような目でタキオンは返す。その、トレーナーとして担当するようになって以来始めて見せる表情に引っ掛かりを覚えながらも、表向きはいつも通りの、素っ気なさすら感じられる口調で小島は返した。

「悪くないな。この分なら絶対に勝てるとは言わないが、ダービーでもいい勝負が出来ると思うぜ」

 ダービー、という言葉を聞いた瞬間、タキオンの身体がわずかに揺れたのを彼は見逃さなかった。こいつどこか変だぞ、小島は思う。

「成程ねぇ。ところで」

 コースを見つめながらタキオンは答える。視線の先には、トレーニングを続けるクロフネの姿があった。

「君から見て、クロフネ君はどのように映ったんだい」

「気になるのか」

「ちょっとした興味さ」

 どこか相手を意識するような口調に、好敵手に戦場で相まみえたような目つきで腕組みをする彼女。その普段からどこか飄々とした、研究第一のマッドサイエンティストらしからぬ態度を見た小島の中で、予感は確信に変わった。捕虜を尋問するような口調でタキオンに問いかける。

「おい、タキオン」

「なんだい」

「何か気になってることがあるなら、正直に言え。正確な情報を掴まんことには、こっちとしても対処の仕様がない」

 その、内心を見透かされたような言葉を聞いた彼女は言葉に詰まった。言うべきか言わざるべきか、内心で逡巡を繰り返す。しばしの沈黙の後、深いため息と共に、左手で頭を押さえながらタキオンは口を開いた。

「正直に言わせてもらうよ。皐月賞からこっち、レースで他の娘に負けたくないという気持ちが自分の中で強くなっていることを自覚している」

 それを聞いた小島は、どこか興味深げにタキオンを見つめる。彼女は続けた。

「レースなんて所詮、研究という自分の目的を達成するための手段に過ぎないと思っていた。ところがどうだ、走っているうちにいつの間にか、レースに負けたくないという気持ちの方が強くなってきた。もちろん、研究第一であることに変わりはない。だがそれと同じくらい、レースでの勝利を意識するようになって‐それ故に、対戦するだろう相手のことをより知りたいと欲するようになっているんだ」

 その言葉を聞いた小島は何も言わなかった。相変わらずの無表情っぷりに、タキオンは安堵感を覚える。浅すぎず深すぎないこの程度の距離感が、お互いにとって丁度良いものであることを理解しているからであった。

 しばらくして小島が口を開く。どこか哲学的な、意味深長さのある声色であった。

「結局のところ、お前さんも本能には逆らえなかったということか」

「どうやら、そのようだね」

「まあいい、やることはこれまでと変わらんさ」

 何かを決意したような、戦場に臨む指揮官のような表情で小島は返した。

「お前さんが求める物を実現するためのプランを俺が考えて、有沙がそれを具体化してお前さんが実行する。それだけだ。俺はお前さんがレースで勝とうが負けようが知ったこっちゃないが、仕事だからな。もらってる金の分はきっちりやるよ。それでいいだろ」

「構わないよ」了承した、とでも言いたげにタキオンは頷く。「きみのスタンスの変更まで、求めるつもりはないさ」

「それはありがたい‐話がまとまった所で一つ、提案がある。今度の日曜、予定は空いてるか」

「なんだい」怪訝な表情を浮かべてタキオンは応じた。

「決まってるだろ」にんまりとした笑みを浮かべながら、デートにでも誘うような口調で小島は返した。「敵情偵察だ」

 

 東京レース場のスタンドは、詰めかけた観客が発する歓声に沸き立っていた。皆こぞって、青々と茂った芝の一点に視線を送っている。そこには19世紀の海軍士官のようなデザインの勝負服に身を纏った芦毛のウマ娘が、勝利の栄光を一身に浴び続けていた。

 近年の気候の影響か、初夏のような陽気に見舞われていたそこは、それすらも生ぬるく感じさせるような熱気にいつの間にか支配されている。

 この日行われたメインレース‐クラシック期限定のマイルG1、NHKマイルカップ。そのレースを彼女‐クロフネは、序盤は後方から進めて最終コーナー手前から集団の中でポジションを上げると、最終直線で10番手から一気に足を伸ばし、逃げ粘るウマ娘を交わして先頭に立ったところがゴール板だった。

 上がり3ハロンは34秒3。2着とは2分の1身ほどの差でしかなかったが、先頭で逃げた者(13番人気)そのすぐ後ろでレースを運んだ者(12番人気)がそれぞれ2着と3着に粘る前有利な展開であったことを考えると、着差以上に強い内容と言えよう。

 見事1番人気に応えて見せたクロフネに、詰めかけた観客からは惜しみない拍手と称賛の声が絶え間なく浴びせられている。そんな彼女をスタンドから、熱狂とは対極的な視線で見つめる6個の目があった。

 

「さてどう見るんだい、トレーナー君」

 実験の様子を見守るような目でタキオンは小島に問いかける。学園の夏季用制服を着用している彼女は、担当トレーナーに連れられて観戦にやってきていたのだった。

「なかなかのものだな。本当なら逃げた奴がそのまま勝ってもおかしくないところを差し切って勝つのは、人並み以上の能力を持ってなきゃ出来んことだ」

 手すりにもたれかかりながら小島は答えた。その目つきはいつの間にか、本人にとっても無意識のうちに、本職としてのそれに切り替わっている。

「私は彼女に勝てると思うかい」

 いつも通り飄々としているものの、僅かに怖れのようなものを含んだ表情を浮かべながらどこか哀願するように、抑揚のない声でタキオンは問いかける。

「絶対、とは言えんな」

 戦場を俯瞰するような態度でクロフネを見つめながら小島は返した。冷静極まりないその口調に、タキオンは若干の不安を覚える。

 そんな彼女をよそに小島は続けた。

「どれだけやったところで不確実要素を完全に排除することが出来ないのは、世の中のありとあらゆる物事に共通する鉄則だ。俺たちはそれを嫌になるほど叩き込まれている。だが‐」

 そこまで答えたところで、再び歓声が沸く。見ると、クロフネが天に向かって高々と拳を突き上げていた。眼前の光景に視線を向けながらも、聞こえてくるもの全てに関心がないと言った態度のまま、小島は話を続ける。

「普通にやればいい勝負が出来るんじゃないか、というのが俺の見立てだ」

 それを聞いたタキオンは、一瞬だけ希望に満ち溢れたような表情を浮かべたが、すぐに普段通りの無表情を取り戻すと、学説の不備を発見したような学者のような口調で応じた。

「理由を聞かせてもらってもいいかな」

「簡単な事さ」試験問題を全て解き終えたような口調で小島は答えた。「脚質だよ」

「脚質?」反芻するようにタキオンは返した。

 

 一般的にレースにおいて、脚質は大まかに4種類に分けられる。スタートからゴールまでを先頭で進める逃げ、前の方で進める先行、中段からやや後方に構える差し、最後方に構え最終直線での末脚に全てを賭ける追い込み‐これらは全て、ウマ娘それぞれが持つ特性を見極めたうえで決定される。

 それぞれの脚質の有利不利については、コース形状やレースのペースといった様々な要因が複合的に絡み合うため一概に言うことは出来ないが、一般的なレースの傾向として逃げ先行有利という原則が存在している。

 これは差しや追い込みといった後方に構える脚質の場合、最後の仕掛けどころで前が壁になるなどの不利を受けて、思った通りのレースが出来ずに敗れるリスクが存在することによるものであった。

 その中でいえばタキオンは先行脚質に、今回のクロフネは追い込み寄りの差しにそれぞれ分類される。そんな当たり前のことをどうして聞いてくるんだ、とばかりに怪訝な表情を浮かべるタキオンに、小島もまた同じような表情を浮かべて続けた。

「忘れたのか?お前さん、ホープフルでも皐月でも先行して速い上がりを出せてたじゃねえか」

「自覚はなかったけれどね。後で記録を見て初めて知ったよ。で、それと今の話に何の繋がりがあるんだい」

「お前、いつもの頭の回転はどうした」呆れかえったように答える小島。「考えてみろ、同じ上がりを繰り出せるなら前と後ろ、どっちにいた方が有利だ?」

 そこまで聞いて、タキオンはようやく担当トレーナーの話を理解したらしい。ぽんと手を叩くと、得心したように口を開いた。

「成程。そういうことなら、安心材料が一つ増えたよ」

「ようやく分かったみたいだな‐本当に大丈夫なのか、おい」

「すまないね、トレーナー君。どうやら今日の私は、ちょっとどうかしているようだ」

 頭を抱え、軽く憂いを帯びた表情でタキオンは返す。

「こうしてレースを見ているだけで、走り出したい、レースに勝ちたいという衝動が湧き上がってきている。以前なら考えられなかったことだ」

「考えなんて、根本的な部分以外はころころ変わるものさ」学生を指導する大学教員のような声で小島は答えた。「一々気にする必要はない」

 

「そんなことよりも」今まで黙っていた有沙が口を開いたのはその時だった。「私まで連れてきた理由を聞かせてもらえるかしら?」

「第三者の視点で見ることで、何か見えてくるものがあるんじゃないかと思ってな。ほら言うだろ、岡目八目って」

 小島は答えた。その軽い言葉とは裏腹に、夫としてではなく、分遣隊の隊長としての態度と口調であった。

「まあ確かに、隆俊を入れたら目は8個になるけど」

 大歓声の中でも平然としている息子を抱っこしながら、有沙は目の前の男が何を自分に求めているのか(参謀長としての意見)を彼が浮かべる態度と口調から読み取ると、生まれながらに持つ能力を駆使して見事その要求に応えて見せた。

「レースを見た感じじゃ、今のところ私もあんたたちと同じことしか言えないわよ」

「別にいいよ、それで」無関心なふうに小島は返した。「何事も常に成功を収める訳じゃないからな。俺にだってそれくらいは分かる」

「まったく、呆れた父親だこと」

 ねえ隆俊、有沙は微笑みながらわざとらしい猫なで声で息子に話しかける。母親の腕に抱かれた愛くるしい幼子は言われたことの意味を理解せぬまま、無理やり言葉に直せばあーやうーとでも表現できる声をあげ、笑みを浮かべた。

 2人とも相変わらずだねぇ、水色の半袖ワイシャツに紺のスラックスという、航空自衛隊の夏用制服を着込んだ夫妻の様子を見ながらタキオンがそんなことを思っていると、不意に見上げられるような視線を感じた。彼女は素早くその方向へ首を回す。網膜に映し出されたのは、大勢の観客からの視線と称賛を浴びせられながらもこちらをしっかりと見据えるクロフネの姿であった。

 その、明らかにこちらの存在を意識している態度を見て取ったタキオンはふん、と軽く喉を鳴らすと腕を組みながら不敵な笑みを浮かべ、臣下を睥睨する皇帝のような態度でクロフネのそれに答えてみせる。観客がタキオンたちの存在に気が付いたのはその時であった。

 

 やっぱりいたのね、タキオン。

 

 スタンドの一点をじっと見つめながらクロフネは思った。視線の先では、どこか不敵な笑みを浮かべた皐月賞の勝者が同じくこちらを見つめている。その傍には、明らかに場違いな、あちこちに装飾が施された薄い水色の半袖ワイシャツに身を包んだ一組の男女の姿もあった。

 それにつられた観客が自分の視線の先を見つめると、そこに存在するものを見てざわつき始めた。タキオンだ、そんな声がスタンドのあちこちから聞こえてくる。観客の視線に気づいた彼女は、浮かべる笑みをいつも通りのミステリアスな物へと変え、軽く手を振って見せた。歓声が上がる。傍らに立つ担当トレーナーと、その妻子と思しき人物は一歩控えた位置で、観客の態度に冷めたような表情を浮かべていた。

 瞬く間にこの会場の主役の座をクロフネから奪い取ってしまったタキオン。だが、当のクロフネ自身はそれを全く意に介していない。

 

 確かにこのレースの勝者はクロフネであったが、彼女は今回の勝利を自分の考えを証明するための通過点としてしか認識していない。本番は3週間後‐クロフネはそう認識していたため、観客の態度に何ら不快感を覚えてはおらず、むしろその態度に内心では喜びさえ感じている。

 彼女は仁王立ちしながらライバルを鋭い視線ではっきりと見つめ、軽く舌なめずりをすると、獲物を目の前にした肉食獣のような表情を浮かべ、心の中で宣戦の布告を発した。

 

 せいぜい目立っていることね、タキオン。3週間後を楽しみにしていらっしゃい。あなたと戦えることが、本当に楽しみでならないわ。

 

 ‐あなたをその座から、引きずり降ろしてあげる。

 

 




 次回はいよいよダービーですが、何分書きたいことが多すぎるため、当日の事前の様子とレース本番で、それぞれ前後編に分けて投稿する形になります。
 大まかなアウトラインについては本話の投稿と並行して鋭意作成しており、できるだけ早く投稿できるようにしたいと思っておりますので、どうかご容赦ください。それでは。
 
 (オークスの本命がいまだに定まらぬ筆者より)
 
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