ちなみに馬券成績の方はと言いますと、ちょこちょこ当ててややプラスといった具合です。
ワイドと複勝をメインに買っているんですが、安田記念ではガイアフォースを軸にしてワイドを当て、現地観戦した府中牝馬ステークスではセキトバイーストを軸にしてワイド万馬券を当てて大笑いしておりましたが、8/2の新潟5Rで再度ワイド万馬券を当てて大笑いしました。なお、その大当たりで運を使い果たしたのか、以降今週までまるっきり当たらない日々が続いております。
(先週の中京記念は2着と4着のワイドを買ってました、おのれサトノシャイニング
→※追伸:8/19のホッカイドウ競馬・フルールカップにてワイド21.4倍を当てました)
それではどうぞ。
5月の最終日曜日、東京都府中市の一角は異様な熱気に包まれていた。2つある最寄り駅の改札からは無数の人が吐き出され、その殆どが一つの意思を持った集合体であるかの如く、ただ一点を目指して歩みを進めていく。
やがて彼ら彼女らは、軒下が張り出したような形状の巨大な構造物と、青々と茂った芝、その内側に同居する乾燥して砂塵の舞い上がる砂とが楕円形上に配置された施設へとたどり着いた。
昭和の御代に目黒から移り住んできた、府中という街を象徴するものの一つとして知られるこの施設では、数々の死闘・激闘が繰り広げられ、その度に新しい歴史や伝説が生み出され、人々を興奮と感動の坩堝へと放り込んでいった。そしてこの日もまた、新しい歴史の一幕が生み出されようとしている。
東京優駿‐通称、日本ダービー。その火ぶたが切って落とされようとしていた。
皆が興奮と感動に酔いしれんとする一方で、この空間にはレース場全体に広がる熱気とは対照的な空気が広がっている。
当然であった。この部屋の実質的な主人は感情というファクターを、正確な現状認識を阻害するものに過ぎないものとしか認識していない。彼が『本職』の仕事をするにあたっては感情と現実の分離が必要不可欠なものであり、そして当の本人はそれを行うのに十分以上の才を有する男であった。
‐騒がしいところは、あまり好きじゃないんだよな。
東京レース場の出走者控室で、つまらなそうな顔をしながら小島隆史は独り言ちた。演劇場の楽屋をそのまま持ってきたような部屋の中には、彼以外に3人のウマ娘の姿がある。共にみな、この部屋の中に存在する唯一の異性を見つめていた。
「相変わらず、君は変わらないねぇ」両肘で頬杖を突きながら、興味深そうにタキオンが呟く。「レースに関わるもの全てが憧れとするレースの前だというのに」
「特定の価値観を押し付けられるのは大嫌いでね」抑揚のない声で小島は答えた。「たかが2400メートルのレースの勝ち負けごときで、何かが決まると信じたきゃ信じてりゃいいさ。尤も、俺は全く思わんが」
「おいおい」からかうようにタキオンは応じた。「私は今からそのレースに出るんだぞ。それも圧倒的な一番人気で」
そういうと、彼女は自分のスマートフォンの画面を小島に見せた。URAの公式サイトに掲載された出走表。そこにリアルタイムで表示されているオッズと人気順位は、タキオンが圧倒的な一番人気に支持されていることを如実に表していた。誰もが彼女の二冠達成を信じて疑っていない。
だがそれを見ても、小島は全く表情を変えなかった。興味など欠片もないとでも言うような目つきでタキオンに視線を向け、口を開く。
「支持してるやつらには悪いが、俺はお前が絶対勝てるなんて思っちゃいないさ。大体、あと3時間以上先の話だろうが」
「そんなふうに言うと思っていたよ」含み笑いを浮かべながらタキオンは応じた。「私は君の思想信条を理解して納得した上で契約しているんだ。求める役割を果たしてくれるのなら、そのあたりは気にしないさ」
「誉め言葉と受け取っておこう」腕時計を見ながら小島は返した。「それより、俺はこれからしばらく席を外すぞ。時間までには戻ってくるから心配するな」
「構わないが、何をしに行くんだい」
「招待客を迎えに行くのさ」
小島はそう言って控室から出ていく。3人のウマ娘がそこには残された。
「相変わらずね、小島さんは」
扉が完全に閉じた後、軽く呆れたようにアグネスフライトが呟く。それに合わせてもう一人‐マンハッタンカフェも口を開いた。その目にはどこか、思慕のようなものが浮かんでいる。
「それでいて優しさも持ち合わせている、とても不思議な人です。私は、あの人が担当になってくれて良かったと、今では思っています」
ローマ教皇に出会った敬虔な平信徒のような表情を見せる彼女。その様子を見たタキオンは悪戯を思いついたような表情を浮かべながら、混ぜ返すような声でからかって見せた。
「随分と意味深長なことを言うじゃないか、カフェ‐言っておくが、トレーナー君は森宮トレーナー以外の女性なぞ眼中にないということくらい、君も理解しているだろう」
「分かってますよ、そんなこと」拗ねたような声でカフェは応じる。「ただ、森宮さんが羨ましいな、と思っただけです」
「その割には、随分と情熱的な目をしているが」
「どうでもいいじゃないですか、そんなこと」
むすりとした表情を浮かべて視線を斜めに下げ、頬を軽く染めながらカフェは答えた。
「おやおや、拗ねられてしまったねぇ」
「その辺にしておきなさい、タキオン」諭すようにフライトが口を開いた。「あまり人のことをからかうものじゃないわ」
「そうだね、やめておくとしようか」
タキオンは姉の言葉を素直に聞き入れる。その表情にはどこか、愉快さが浮かんでいた。
丁度同じころ、東京レース場の正門は多くの人で賑わいを見せていた。外出用の小綺麗な普段着を身にまとった観客、応援しているウマ娘のグッズで身をかため、応援用の団扇やウイニングライブで振るサイリウムなどをかばんに詰めたレースファン、関係者が出走するのであろう、フォーマルな格好に身を包んだ父親と母親に小さな子供を連れた家族。
何れも姿かたちこそ違えど、特別な日を十分に楽しみ、味わいつくそうとする何人もの集団が無数に交錯している。
そのような一団の中でとある2組の夫婦が、不意の遭遇に驚きを隠せないまま言葉を交わしていた。
「進、進じゃないか」
最初に応えたのは、しわ一つないグレーのサマースーツを着込んだ男だった。外見は中年を通り越して老年に近いが背筋はしっかりと伸びており、年齢を感じさせない
「兄ちゃんこそ、何でこんな所にいるんだい」
進、と声を賭けられた男は答えた。彼は制帽を被り、白を基調に両肩には黒字に金の4本線と一つの桜という階級章のついた制服を身に付けていた。その恰好はレース場という場所の中でひときわ異彩を放っており、先ほどから何人もが彼の方に奇異と驚きの入り混じった視線を向けてきていた。
だが、当の本人とその傍らに立つ、柔らかさを湛えたような表情と細身だが程よい肉付きをした中年女性はそれを気にも留めていない。彼にとって、これに勝るフォーマルなスタイルは存在しないからだ。
「小島君から招待を受けてね」
声をかけた男‐藤堂守元空将はそう答えると、懐から一通の手紙を差し出して広げて見せる。招待状、と楷書体で文頭に書かれたそれには、ご招待しますのでダービーを特等席から観戦しませんか、そのあとお時間があれば食事でもという内容が記されていた。手紙の後半部分には華やかなデザインの印刷が施された、関係者席への特別入場券がセットでついている。差出人の名前は言うまでもない。
「奇遇だね」
一昔前なら親子でも通じるほどの年の差を持った兄に声をかけられた弟‐藤堂進一等海佐はにこやかな笑みを浮かべながら応じた。
「僕も彼から同じものを貰ったんだよ‐どうやら俺も兄ちゃんも、小島君に一杯担がれたみたいだな」
進もまた、同じ手紙を取り出して見せる。内容は同一の物であったが、文章の最後に追伸として、久しぶりに舞子ちゃんの顔をご覧になってはいかがですかと記されていた。
2人は顔を見合わせ、共に苦笑を浮かべる。そのすぐ傍では、お互いの妻が笑い合いながら他愛のない世間話に花を咲かせていた。生まれた国こそ違えど、まるで実の姉妹のような雰囲気がそこにはあった。
「まったく、あの男も中々味な真似をしてくれる」どこか面白がるように守は答えた。「真田君が彼のことを評価するのもむべなるかな、だよ」
そう話す2人の後ろに、1台のタクシーが停まる。そのワゴン型の車両の中からは車椅子に座った、袖の無い白のサマードレスに同色でワンポイントの装飾が施されたつばの広い帽子を身に付け、淡いアイボリーのパンプスを履いた鹿毛のウマ娘が降りてきた。その後ろでは、薄手のライトグレーのスーツの上下にワイシャツをネクタイ無しで着用した、好青年とでも言うべき若い男性が彼女の据わる車椅子を押している。
2人は運転手に礼を言うと少しの間、スマートフォンの画面と周囲とをかわるがわるにためすすがめつしていた。ここでいいのよね、そうみたいですね、そんなやり取りが聞こえてくる。
しばらくすると2人は動き出し、スタンドの方に視線を向けながら守と進らの傍に止まった。お互いに目が合う。2人が軽く頭を下げてきたのを見て、守と進も会釈を返す。2人の妻‐サーシャと雪子もそれに倣った。
やがて2人が何かに気が付いたような表情を浮かべる。守らもそれにつられて視線を向けると、人ごみの向こう、レース場のスタンドの方から装飾のついた水色の半袖ワイシャツに紺のスラックス、そして制帽を被った男が近づいてくるのが見えた。
その男は目の前までやってくると、進の前で立ち止まって背筋を伸ばし、見事な敬礼を彼に送って見せる。進もまた答礼で答え、右腕を下げると表情を緩め、口を開く。
「仕事中ではないのだからそんなことをする必要はないだろう、小島君」
「招待に応じて頂きありがとうございます、藤堂一佐」苦笑しながら小島は答えた。「その服を着ていらっしゃる以上、やらない訳にはいかなかったもので」
「もういいよ、腕を下したまえ。それと、この後は階級で呼ぶのはなしだ」
「了解しました、進さん」
小島は右腕を下した。続けて守に向かい合い、口を開く。
「お越しいただき誠にありがとうございます、守さん」
「なかなかやるな、小島君」部下の功績を讃える上官そのものの口調で守は応じた。「流石は、真田君が見込んだ男だ」
「誉め言葉、と受け取っておけばよいのでしょうか」
「気持ちは分からないでもないがね」含み笑いを浮かべながら守は答える。「人の好意は素直に受け取っておくべきだよ」
「とりあえずは、そうさせてもらいます」
義弟と妻の幼馴染がこちらを見ているのに気付いた小島は一度そこで話を打ち切り、2人に向き直る。
「挨拶が遅れてすまない篤君、それにマーキュリーさん」
「気にしないでください、義兄さん」分かっていますよ、とでも言いたげな表情で篤は答えた。「あなたがどういう人なのかは理解していますから」
「そうですよ、小島さん」マーキュリーもまた、恋人に倣って答える。「それくらいじゃなきゃ、有沙ちゃんの旦那様なんて務まらないわ」
「どうもありがとうございます」彼はそう言ってマーキュリーの方を向くと、彼女が兼業作家として執筆している小説のタイトルを告げた。「原作も漫画版も新刊、買わせてもらいましたよ」
「言ってくだされば、差し上げましたのに」
「微力ながら、貴女の懐に貢献しようと思ったまでですよ」ミステリアスな笑みを浮かべながら小島は応じた。「原作の方はシニア級‐じゃなかった、
「漫画版の方は
「それはそれは」苦笑いをしながら小島は返す。「この近くにも多摩川と立川、それに京王閣がありますが、そっちの方には今回」
「勿論行きます」断言するようにマーキュリーは答えた。「明日は仕事で多摩川の生配信に出るので、それ以外はプライベートで。しっかり有給も取ってきました」
「まったく、大したギャンブラーですね」どこか褒め称えるような声で小島は応じた。「そうじゃなきゃ、レース‐作品中だと確か『競馬』とか言いましたっけ。結果を予想してお金を賭けるなんてアイディア、思いつくはずもない」
「そうでしょうか」
急にシリアスな表情を浮かべ、声のトーンを落としたマーキュリーが答える。なにか機嫌を損ねるようなことを言っちゃったかな、そんなことを思う小島に向け、彼女は言葉を紡いでゆく。
「私でなくとも、誰かが思いついたと思いますよ。人生というのはギャンブルそのものなんですから。そうでもなければ、私はこのような形で再びこの場に来ることは無かったでしょう」
重苦しさすら感じられるその言葉を聞いた小島の脳裏を、様々なことが走馬灯のように駆け巡ってゆく。しばしの瞑目と沈黙ののち、小島は表情を引き締めると、改めてマーキュリーに向き直り、口を開く。
「正直、来てくださるとは思っていませんでした」静かな、陰鬱さすら感じさせるような声で小島は答えた。「貴女と有沙の人生を狂わせた元凶とも言うべき場所ですから、ここは」
マーキュリーはその時、目の前の男が自分と同じような表情を浮かべていることに気がつく。そんな彼に、この人も私と同じようなことを考えているのね、彼女はそう感じ取ったまま顔をわずかに俯かせると、まるで子供に童謡を読み聞かせるような声で口を開いた。
「・・・大欅の向こうを過ぎた時に足の骨が砕けた音は、今でもはっきりと覚えています。あの出来事が無ければ、何もかも今とは変わっていたかもしれません」
小島は何も言わなかった。まるで何かを訴えかけるようにすら聞こえるその言葉を、ただ静かに聞き続ける。
「もしあの時に戻れたら、と思ったことは何度もあります。それが決して叶うことの無い夢であることを分かっていても、なおさら戻りたくなって‐莫迦ですよね、私。過去のことを悔いても、何にもならないって言うのに」
言葉とは裏腹に、隠すことの出来ない悔恨を感じさせる声色。そこには、一度レースの世界に身を置いたものから決して消え失せることの無い、ウマ娘としての貪欲な本能がにじみ出ていた。
やはりこの人もウマ娘の端くれだな、小島は思った。皮肉なものだ。彼女がこんなことになったおかげで、俺は有沙と結婚できたというのだから。人生万事、とは言いたくはないが、色々と思う所はある。だからこそ、このウマ娘には言っておかねばならない。
「有沙は、貴女のファン第一号としての義務を果たせなかったことをいまだに後悔していますよ」どこか憂いすら感じさせる表情を浮かべながら、ゆっくりとした口調で小島は応じた。「あいつは貴女がこうなってしまった原因、その最後の引き金を自分が引いたことを誰よりも理解しています。私はそれを彼女から、何度も何度も泣きじゃくりながら聞かされました」
それを聞いたマーキュリーは何度か目を瞬かせる。視線を斜め下にやり、僅かに口元を歪めた。沈黙、そして憂いを帯びた表情。5秒にも満たない間の出来事だったが、何十倍もの時が経過したかのような感覚を共に覚える。
「有沙ちゃんも有沙ちゃんで、苦しんでいたんですね。私の前では、あんなに明るく振る舞っていたのに」
「弱い面というのは、誰しも人には見せたくないものですよ。それが親しい相手ともなれば、なおさらです」
努めて抑揚を抑えた口調で小島は返す。幼馴染が誰よりも愛する男の心中を察したのか何も言わないマーキュリーに向けて、彼は言葉を紡いでいった。
「だからこそ私は今回、貴女に招待状を送りました。一度2人で腹を割ってしっかりと話し合うのに、今回のダービーは良い機会だと思ったわけです。無論、随分と悩みましたよ。添え状にも不快に思ったのなら来ないでいいし、なんなら破り捨てても構わないと書きました。最悪、貴女と有沙から面罵されたり、物を投げつけられるくらいのことは覚悟しています」
言い終えると、小島は黙り込んだ。どこか笑みを浮かべているような作りの顔。その目には、はっきりとした意志が込められている。それを見て何かを感じ取ったマーキュリーは、自分に言い聞かせるように首を軽く左右に振ると、彼に視線を向け、答えた。
「そこまで覚悟をかためていらっしゃるのなら、言うことは何もありません。貴方という素晴らしい生涯の伴侶を得た、有沙ちゃんの幸福を祈るばかりです」
「好きな女のためなら、これくらいはして見せますよ」
軽く笑みを浮かべながら、芯の通った言葉で小島は返す。それを聞いて、マーキュリーは目を細めながら視線をスタンドに向けると、遠くを見るような目をしながら答えた。
「正直なことを言えば、招待に応じるかどうかしばらく悩みました」
辺りに集う人々を見つめながら、彼女は一度言葉を切る。しばらくして視線を小島にむけると、微笑みながらも強い意志のこもった目と言葉でマーキュリーは返した。
「あまり、この場所には近づきたくなかったので。でも、今回は来ることにしました‐小島さんと有沙ちゃんに、どうしても伝えなくちゃいけないことができましたから」
「そう、ですか」穏やかな表情を浮かべ、小島は答えた。「そのあたりは、またあとでゆっくりとお伺いすることにしましょう」
「そろそろいいかな、小島君」頃合いを見計らったように、進が声をかける。「良ければそちらのお2人を、俺と兄ちゃんに紹介してくれないか」
「これは失礼しました、進さん。ご紹介が遅れましたが、有沙の弟の篤君と‐」
「マーキュリー、と申します」微笑みながら、彼女は答えた。「有沙ちゃんとは幼馴染で、篤君とは結婚を前提にお付き合いしています」
「藤堂進です。こちらは妻の雪子、その隣にいるのが私の兄の守と‐」
「サーシャ、といいまス。マモルの妻、デス」
たどたどしさが残るもののはっきりとした発音の日本語で、サーシャはかがむようにしてマーキュリーに視線を合わせながら答える。守もまた、妻に続いて彼女に話しかけた。
「彼女はロシア人でしてね。私と結婚してこの国に来てから、もう30年以上になりますか。森宮君とは良い友人として、親しくさせてもらっています」
「それは良かったです‐よろしくお願いします、サーシャさん」
マーキュリーは笑みを浮かべ、右手を差し出す。サーシャはそれを両手で包むように握ると、優し気な表情を浮かべながら答えた。
「こちらこそヨロシクお願いシマス、マーキュリーサン」
「そういえば」何かを思い出したような声で守が小島に訪ねた。「真田君は来ていないのかい」
「呼んでませんけどね」
どうせあの人の事だから、と小島が続けようとしたとき、正門前にある車寄せに黒塗りの公用車が停まったのが見えた。嫌な予感を覚えた彼が顔を僅かにしかめるのを見た一同は、つられてその視線の先に目をやる。
運転手を務める三等海佐の手によって開かれた後扉からは、海将補の夏用制服を身に付けた中背小太りの醜男が降りてくるのが見えた。
近づいてきた真田に、小島と進は背筋を伸ばして敬礼する。真田は2人に答礼を返すと、どこか面白がるような口調と表情で小島に話しかけた。
「上官にそう嫌そうな顔をするもんじゃないぞ、小島君」
「招待した覚えがないのに押しかけてこられたらこうもなりますよ、真田海将補‐まあ、とっくに諦めてますが」
傍迷惑極まりない、とでも言いたげな表情を浮かべながら小島は答えた。隣に立つ進はその光景を見ながら苦笑している。
「それにしても」周りを見回しながら真田は答えた。「随分と賑やかな面々が揃っているようだが」
「小島君に呼ばれたんだよ、私も進も」応じたのは守だった。「そちらの2人も。まあ、皆揃ってこの男に一杯担がれたのだがね」
その言葉を聞いた真田は、どこか感心したような目で小島を見る。自分はただ、お2方に招待状を送っただけですよ、とぼけた様に小島は返した。やはり俺が見込んだ男だけのことはあるな、微笑しながら真田はそう返すと、車いすに乗ったウマ娘とそれを押すスーツ姿の青年に視線を向け、口を開く。
「これはこれは、森宮教授の息子さんじゃないか。どうだ、お父さんは元気にしておられるか」
旧知に出会ったような声で真田は述べた。それを聞いた篤も、わずかな驚きを浮かべながら返答する。
「お久しぶりです、真田海将補」
「その節はどうもありがとう。おかげで良い仕事ができたよ」
「好きでやっていることですから。お役に立てて何よりです」
2人の会話に小島が割り込んだのはその時だった。
「失礼‐知り合いなのか、篤君」
「ええまあ、ちょっとした」
どこか含んだような声で篤は答える。その口調に小島は何かを感じ取ったが、今はそれよりも優先すべきことがあると思い直すと、改めて口を開いた。
「まあ、そのあたりはおいおい聞かせてもらうとしよう」
彼は篤にそう語りかけると、この場に集う全員を軽く見まわすようにしながら、ひとまずは席までご案内しましょう、ついてきてくださいと述べ、ゆっくりと歩きだしていった。
「命令とはいえ休みの日に悪かったわね、美咲」
スタンドの7階、関係者専用席の後方にあるラウンジで有沙は口を開いた。視線の先には防大同期にして、今は一児の母でもある土井美咲の姿がある。お互いにそれぞれが所属する組織の夏用制服を着込んでいた。
「休日出勤扱いにしてもらったから、気にしてないわよ」
長女を抱っこしながら美咲は応じた。彼女の傍らには、妻と娘を見守る藤堂家の次男坊にしてJAXAの宇宙飛行士訓練生たる輝男の姿もある。彼はどこか、不安そうな表情を浮かべていた。
「それにしても輝男と舞子も連れてこいだなんて、一体あんたの亭主は何を考えてんの、有沙」
「そんなもの、あいつにしか分かるわけないじゃない」有沙は答えた。彼女もまた、自分の長男をその腕に抱えている。「まったく、我ながら訳の分からない男と結婚しちゃったものね」
「その割には、随分と仲が良いみたいじゃないの」悪戯めいた笑みを浮かべ、混ぜっ返すように美咲は応じた。「聞いたわよ、
「好きな男とやって何が悪いのよ」頬を軽く染めながら、拗ねた様に有沙は返す。「大体、あいつとはそれ以上のことを毎週3回はしてるわ、主に夜の寝床で」
それを聞いた美咲は目を丸くした。まったく、こいつは本当に1400年以上の歴史を誇る名家のお嬢様なのかしら。普段の立ち居振る舞いにはどこかそれを感じさせるようなところがあるけど、言葉遣いだけ見れば蛮族と大差ないわね。
彼女はそんなことを思いながら言葉を返す。やんちゃな男子生徒を窘める女教師のような、輝男が彼女のことを好きになった理由の一端を如実に表すような口調だった。
「公衆の面前なんだから、もう少し言い方を考えなさい。子供だっているのよ」
「考えてこれなんだから仕方ないでしょ」開き直ったように有沙は応じた。「あいつよりいい男なんて、この世にいるわけがないんだから」
「まったく、あんたって奴は」
美咲は呆れたような目と声で有沙を見る。そんな母親同士の言い争いをどこ吹く風とばかりに、隆俊と舞子はそれぞれ母親の腕に抱かれながら、ただお互いを見つめ合っていた。
入口から空自の夏用制服に身を包んだ男に率いられた一団が入ってきたのはその時だった。老年と中年と青年、更には異国人と車いすに乗ったウマ娘が入り混じった、この場の空気から浮き上がっているような雑多な集団を、皆が奇異の目で見つめる。この国における実質的な軍隊、その構成員であることを示す制服を着た人間が4人もその中にいるとなってはなおさらであった。
自衛官を一般社会からかけ離れた、様々な意味で特別な存在とみなすという旧軍の頃から存在する風潮は、第二次大戦終結から80年以上を経過した今になっても色濃くこの国に残っている。
もっとも本人たちにしてみればどうでもよいことであった。彼ら彼女らはただ一人の人間として、親しい者たちに会いに来た、そのような意識しかもっていない。自分たちが何を着込んでいるかということについては、脳の片隅に追いやるべき些末な問題に過ぎなかった。
集団の中に車椅子に乗ったウマ娘の姿を見つけた瞬間、有沙は驚愕の表情を浮かべた。相手もこちらの存在に気が付いたのか、どこか戸惑うような微笑みを見せながら手を振ってくる。
このようなことを誰が企んだのか、有沙はその優れた頭脳で即座に検討をつけると、心の中でその張本人‐自分にとっての唯一無二の男を罵った。
(やりやがったわね、
そんなことを思いながら傍らの同期にして友人の方に視線を向けると、彼女もまた自分と同じ表情を浮かべている。理由はすぐに分かった。義理の両親と叔父夫婦の姿が集団の中にあったためだった。驚きを隠せずにいる母親と苦笑する父親の姿をよそに、舞子は祖父母と大叔父夫妻に向けて、屈託のない笑みを浮かべながら手を振っている。
更に、制服を着ていなければちんちくりんの醜男にしか見えない上官と、その副官の姿を見て有沙は頭を抱えた。まったく、あの男はどこまで面倒を抱えれば気が済むのかしら。
そんな母親の姿を見た息子はその腕に抱かれたまま、怪訝そうな表情で彼女を見つめていた。当然であった。母親は頭を抱えながら、この上なく楽しそうな表情をしていたからである。
2人に気が付いた真田が近づいてきたのはその時だった。お互いに子供を左腕に抱えながら背筋を伸ばし、敬礼する。真田もまた答礼で応えた後、その様子を見てすぐに腕を下すように命じた。有沙と美咲は共に腕を下すと、改めて子供を両手で抱え、それぞれが親しくしている者たちの近くへ歩み寄る。
一歩一歩、歩みを進める有沙。どんなことを言おうか、そんなことを逡巡しているうちに視線が合う。
先に口火を切ったのは相手の方だった。
「久しぶり、有沙ちゃん」
有沙の眉が、自分でも無意識のうちに僅かに揺れる。湧き上がってくる感情をどうにか抑え込もうとしているときに現れる、彼女自身も自覚していない癖であった。
様々な物が入り混じった視線を幼馴染に向け、有沙は返す。
「そうね、マーちゃん」
幼馴染が努めて明るい表情で振る舞おうとしていることを感じ取ったマーキュリーは話題を変えた。可愛らしい幼子が自分に向けて微笑む姿に、表情と口調が柔らかさを帯びる。
「隆俊君も、元気そうで良かったわ」
「大変よ、本当に」軽い愚痴のような調子で有沙は答える。「戦争なんかより、遥かに難しいもの」
「姉ちゃんなら大丈夫だよ」からかうように篤が返した。「何しろあの義兄さんと結婚できたんだから、大抵のことは苦も無くやってのけるだろ」
「言ったわね、篤」
「ほらほら、喧嘩しないの」
笑みを浮かべながら窘めるマーキュリーに、姉弟は自然と表情が和らぐ。美咲の方を見ると、一等海佐と空将を目の前にした一等海尉ではなく、義理の娘と姪といった方が相応しい柔らかな表情と口調で、義理の両親と叔父夫婦との会話が弾んでいた。その光景を見たマーキュリーが羨むように告げる。
「いいわよね、ああいうのって」
「本当ね」有沙も応じた。「私もいつか、あんなふうになれるといいんだけれど」
「なるわよ、否が応でも」あっさりとした言葉でマーキュリーが返す。「だってこれからは、有沙ちゃんの事をお義姉さんって呼ばなきゃならなくなるもの」
その言葉を聞いた有沙は何度か目を瞬かせた。予期せぬ言葉を聞かされ、珍しく混乱している。弟の方を見ると気恥ずかしそうな、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべて頬を僅かに染めている。その態度で全てを察した有沙は、意を決して幼馴染に問いかけた。
「ええと、それはつまり‐」
「そういうことよ」微笑みながらマーキュリーは答えた。「私、篤君と結婚することにしたの」
その言葉を聞いた瞬間、熱い感情が自分の胸へとこみ上がってくるのを有沙は感じた。傍らの夫に隆俊を預けると、この上ない笑みを浮かべて上半身を曲げ、両手で幼馴染を抱きしめる。両眼の縁は僅かに輝いていた。
マーキュリーもまた有沙の背中に両腕を回しながら、おめでとう、おめでとう、と何度も繰り返す幼馴染の言葉を聞き続ける。その光景を横目で見ながら、小島は義弟に祝福の言葉をかけた。それを聞いた篤もまた、気恥ずかしそうに礼を述べる。幸福の一つの形が、そこには存在していた。
「そういえば、式はいつになるの?」
有沙が問いかける。マーキュリーは応じた。
「急で悪いんだけれど、来月の末なの。来てくれるかしら」
「もちろんよ」何を言うのよ、とばかりに有沙は返す。「あいつと隆俊ともども、万難を排して出席するわ‐それにしても、随分急に決めたものね」
「ええ」微笑みを浮かべ、自分の下腹部を愛おしむように撫でながらマーキュリーは続けた。「ちょっと、込み入った事情があるのよ」
「なるほどな」長男を抱っこしながら、悪戯めいた笑みを浮かべて小島は答えた。「つまりは順番を間違えたわけか」
「まあ、そんなところですよ」
気まずそうな表情を浮かべながら返す篤に、後か先かの違いに過ぎないんだからそんなもの気にするな、と小島は答え、続けた。
「それで、予定日はいつになるんだい」
「12月の25日前後に‐丁度、有馬記念の頃になると言われました」
「そうか」小島は何度か頷き、続けた。「君に一つだけ、教えておきたいことがある」
「何でしょうか」
「親になるうえでの心構え、というやつだよ」遠くを見るような目で小島は答え、続けた。
「親が子供に求めていいものは、母子共に無事で生まれてくること、大きな病気やケガをせず成人してくれること、そして何より、親より先に死なないこと、この3つだけだ。それ以外のことを子供に要求すると、大抵ろくなことにはならないから止めておけ。子供は親のアクセサリーじゃないんだからな」
「姉ちゃんと母さんから学んだんですか」篤は答えた。
「お義母さんはそうすることが、本気で娘のためになると考えていたからな。おかげであいつは立派な国家権力の走狗になり果てた、というわけさ。まあ、そのおかげで俺はあいつと結婚できたようなものだが」
「僕も彼女も、義兄さんと姉ちゃんのような夫婦になりたいと思っていますよ」
「それは嬉しいね。でも俺とあいつのとじゃ多分、参考にはならんぜ」
「どうしてですか」
怪訝そうな声で答える義弟に、出来の悪い生徒を諭す教師のような声で小島は返した。
「俺とあいつは、傷の舐め合いをしているようなものだからな。その過程で出来上がったのが今の関係だ。なろうと思ってなったわけじゃない。勿論、あいつのことは世界で一番大好きだがね」
彼はそう言って隆俊共々、スタンドからターフに向けて視線を落とした。その先にはスターティングゲートが置かれ、体操着を纏った幾人ものウマ娘たちがゲート入りを待っている。
東京第8レース、シニア級2勝クラスで行われるこのレース‐青嵐賞は、ダービー当日に同じ芝2400メートルのコースを先んじて使用するというその性質上、ダービーに向けて当日の馬場傾向を読むために最適のレースであった。
その様子を見た篤は、義理の兄が先ほどまでとは異なる空気を纏っているのに気が付く。視線も表情も先ほどまでのどこか優しげなそれではなく、彼の本職‐軍人としてのそれに変化していた。無論、本人はそれを自覚していない。
それを見た篤は、父親から聞かされた話を思い出す。隆史君はおそらく、鋭い爪を隠し持った鷹のような人間かもしれないよ。その点を十分に気を付けておくことだ。
分かってるよ、父さん。俺も今、それを自覚させられたところだ。彼はそのまま、義兄と同じようにターフを覗き込む。視線の先では、青嵐賞のゲート入りが始まるところであった。
立錐の余地もないほどの人が、パドックの周囲を埋め尽している。時刻は午後3時を回ったころであった。昼間と夕日の丁度中間、という角度で日差しが降り注ぐそこに勢ぞろいした人々は、皆その内側へ熱気と羨望、或いは憧れや信仰など様々な物が入り混じった視線を送っている。
その先では色とりどりの、煌びやかで個性的なデザインの勝負服に身を包んだ18人のウマ娘が、トレーナーと共に置かれた番号札のすぐそばに等間隔で並んでいる。皆それぞれ、普段のレースをはるかに上回るほどの気迫を放っていた。
皆、優先出走権と収得賞金の順に選び抜かれ、同世代の中で18人しか出走することの出来ないこのレース‐東京優駿への出走を許された者たちである。
そのパドックの中でも、ひときわ多くの視線を集める区画があった。5と書かれた札と共に、出走者の勝負服が描かれた立て看板の置かれたそこに立っていたのは、この場では異質な服装に‐航空自衛隊の夏用制服に身を包んだトレーナーと、無敗の皐月賞ウマ娘・アグネスタキオンの2名であった。
シンボリルドルフ以来となる、無敗の二冠への期待(と奇異の目)を寄せる無数の視線を意に介することなく、タブレット端末片手に作戦をタキオンに説明している。その目つきは完全に本職のそれへと切り替わっていた。勿論、当の本人に自覚はない。
その様子をパドックの、コースとを結ぶ地下通路と隣り合った場所に置かれた関係者用スペースから見ていた真田は、どこか満足げな笑みを浮かべていた。傍から見れば、悪だくみをする大魔王か山賊の親玉のようにしか見えないその表情に、不気味さと薄気味悪さを隠そうともしない視線が、パドックの内外から注がれる。
無論、彼の近くに集う者たちはそんなものを気にも留めていない。この男の性質を理解しているからこそであった。
そんな彼を見ていた守が口を開いた。
「楽しそうだな、真田君」
「ええ」宝の山を目にした盗賊のような表情で真田は答えた。「自分の目に狂いがなかった、ということをああもまざまざと見せつけられては、ね」
「私もそのように思っているよ」断言するように守は応じた。「あの男は生まれついての軍人だ。推測に過ぎないが、君をも凌ぐほどの才を有しているだろう」
「俺も同意するよ、兄ちゃん」進が答えた。「まあ、惜しむらくは‐」
「あの男がそれにまったくと言っていいほど無自覚なこと、だな。まあ、それが彼にとって幸運なのか不運なのかは別の話さ」
守がそう返した時、人の隙間を縫うようにして2人のウマ娘が関係者スペースへと入ってきた。共に淡い菫色の、トレセン学園の夏用制服を身につけている。耳飾りの位置はそれぞれ右と左。その姿に気づいた周囲の人々は軽い挨拶を送る。
2人もまたそれに答えながら最前列へと向かっていき‐真田の姿を見た瞬間、顔を引き攣らせた。真田もまた2人の存在に気付くと、魂の取引を持ちかける悪魔のような笑みを浮かべ、軽薄とも取れる口調で声をかける。
「これはこれは、会長と副会長じゃないか。元気そうで何よりだ」
「貴方が来られているとは知りませんでしたよ、真田海将補」
裏返る一歩手前の口調で真田に応じるルドルフ。エアグルーヴは無言のままであったが、苦虫を嚙み潰したような表情が全てを物語っていた。
「相手が予期しない方向から攻めるのは戦の基本でね。それに忠実たらんとしたまでさ」
飄々とした態度で答える真田。頭を右手で抱えながらルドルフは応じた。
「流石は小島トレーナーの上官だ、と申し上げておきましょう」
「誉め言葉と受け取っておこう」彼女の真意を理解した真田は返した。「それよりも、君たちはどうしてここにいるのかな」
「それは‐」
ルドルフが言葉を続けようとしたそのとき、幼女そのものといっていい声が響いた。浅い幅広の帽子に猫を乗せた理事長と、その秘書が小走りに駆けてくる。
「発見!ルドルフ、エアグルーヴ、スペースは確保できた‐」
そこまで言ったところで、理事長とたづなもまた顔を引き攣らせた。ルドルフの傍らにいる男が誰であるかに気が付いたからであった。それを見た真田は、大魔王のような笑みを浮かべて答える。
「おやおや、理事長に駿川嬢までいたとは。これは面白いことになりそうだ」
面倒なことの間違いでは、そう言おうとしたところでルドルフは言うのをやめた。この中年男に何を言っても返り討ちに遭うだけだということを察したからだった。
‐何やってんだか、あのおっさんたちは。
タキオンに指示を出しながら、関係者スペースの様子を窺っていた小島は思った。視線の先では真田と藤堂兄弟、土井とその夫に娘、更には自分の妻と息子、来月に義妹になることが確定している妻の幼馴染に義弟が、ルドルフとエアグルーヴ、更には理事長とその秘書と言葉を交わしている。4人とも先ほどまで引き攣っていた顔こそ元に戻っているものの、妙な緊張感を漂わせながら真田たちへと接している様子が見て取れた。
「・・君、トレーナー君」
その言葉に、彼は現実へと引き戻される。視線の先では、自分の担当ウマ娘が軽く拗ねたような態度でこちらを見つめていた。
「悪い、別なことに意識が向いてた」
「ボーっとしていては困るよ。それよりも作戦は、言われた通りで問題ないんだね」
「ああ」無表情に小島は答えた。「
それを聞いたタキオンは満足そうに頷く。彼女にこれ以上の言葉は不要であった。ダービーという特別な舞台であっても、2人の間に交わされる言葉は普段と何ら変わりない。傍から見れば余裕綽々、とでも言わんばかりの態度を浮かべる2人に、他の34名、そして周囲に集った客から羨望、嫉妬、闘志‐様々な意思が複雑に絡み合った視線が注がれる。
(関係ない)
俺は俺の好きなようにやるだけだ。第一、建前という名の嘘をついたところで、他人に好かれるという保証なんざどこにもない。だったら、嘘で塗り固めた仮面を被って演技するより、本音を言って嫌われる方がまだましだ。
小島がそう思ってあたりを見回したとき、馬場入りを告げる号令がパドックに響き渡る。途端に周囲の空気が一変した。出走者たちは全員顔を引き締め、その傍らに立つトレーナーたちも表情を硬くする。
「時が来たようだね」僅かに緊張感を湛えながらタキオンは答えた。「それじゃあ、行ってくるよ」
「おう、行ってこい」
小島はいつも通りのぶっきらぼうな口調で返事を返す。その言葉を聞いたタキオンは腕を振って歩き出そうとして‐何かを思い出したように振り返った。どうしたと尋ねる小島にタキオンは口を開いた。
「行く前に一つやってほしいことを思いついたんだが、いいかな」
「なんだ」
「簡単なことさ」名案を思い付いたような視線を向けながらタキオンは返す。「ホープフルの時に私とカフェにやったやつを、またやってくれないかい。あれを聞くと、より緊張感をもってレースに臨めそうなものでね」
その言葉を聞いた小島は、一瞬呆けたような表情を浮かべて彼女を見つめる。催促するような表情で自分のトレーナーを見つめる担当ウマ娘。その爛々とした表情を見た小島は呆れかえったような口調で言葉を返した。
「それを言うために俺を呼び止めたのか、お前」
「勿論さ」満面の笑みを浮かべ、当然とばかりにタキオンは応じた。「それ以外に何があるっていうんだい」
‐このマッドサイエンティストめ。まあいいさ。やってやろうじゃないか。担当ウマ娘をどこか呆れたような表情と目線で見つめながら、重い腰を上げるような口調で小島は応じた。
「分かった分かった、やってやるよ」
「そう来なくては」
担当ウマ娘の、期待を込めたまなざしが小島を見つめる。彼は2・3度首を軽く前後に振ると両手を腰に当て、背筋を伸ばした。
瞬間、空気が一変する。先ほどまでの軽妙さをどこかへ吹き飛ばしたような、獲物を目の前にした肉食獣のような目。瞬時にして雰囲気を変貌させた小島の様子に、2人の様子を見ていた出走者とそのトレーナー、加えてパドックの外側で見ていた観客たちは背筋に冷たいものが走るのを実感した。本能的な恐怖心とでも言うべきものが瞬く間に伝播していく。
その光景を見ていた真田は、関係者スペースで満足げな笑みを浮かべていた。自分の部下が期待通りの才能と能力を持っていることを、現在進行形で証明してみせていたからだった。
そんな彼にルドルフが話しかける。彼女もまた、顔が僅かに青ざめていた。
「楽しそうですね、真田海将補」
「当然じゃないか、生徒会長」歓喜にも似た口調で真田は返した。「あの男の本質を皆、ようやくのことで理解したのだからな」
その言葉を聞いたルドルフは、タキオンのデビュー戦の後のひと騒動を思い出す。あの時の背筋を凍らせるどころか、本能的な恐怖すら抱いたあの光景は、忘れようとしても忘れられるようなものではなかった。
推理を終えた探偵のような口調で、彼女は真田に答える。
「あなたが小島トレーナーをかばう理由が、ようやく理解できましたよ」
「そいつは何よりだ」何をかいわんや、という具合に真田は返す。「不幸にも俺たちがその本職を全うしなければならない事態が起きた場合、役に立つのはああいう男でね。それほどの能力を持った人間を、下らんことで失うわけにはいかないのさ」
「ですが、当の本人はおそらく‐」
「ああ、その通りだよ」
その言葉を聞いたルドルフは、再びパドック内部へと意識と視線を戻す。その先ではタキオンがどこか愉快そうな、それでいてわずかにおびえているような表情を浮かべていた。
まったく、これで本人は無自覚だというのだから恐ろしいな。タキオンは思った。慣れている私でさえ冷や汗ものなんだから。
そう思う彼女に、小島は悪魔ですら青ざめるような笑みを浮かべ、刑の執行を告げるような、怜悧そのものの口調で告げた。
「よろしい。それでは、タキオン」
‐戦争の、時間だ。
次回はダービー本番になります。
今回は、プロットを立てる→大まかにざっくり書く→後から肉付けをするという流れで書いてみたんですが、これがなかなかうまくいったので次回以降はこのやり方で行こうと思います。執筆速度も多少は上がると思うので、次回は1か月から1か月半くらいの間隔で投稿できるよう頑張ります。
どうぞ気長にお付き合いください。それではまた。