小島隆史は水着姿の女性があまり好きではない。彼が好きなのはスーツなどの露出の少ないスタイリッシュな姿をした、年上感があって知的な女性だからだ。
いや、露出の少ない水着ならまだいい。布よりも肌の面積の方が多い、実用性よりも性的な魅力をアピールすることを重視して作られたような水着に至ってはデザイナーの感性を疑うレベルで好きではなかった。この辺りは彼が、デザインの美しさよりも実用性と機能美を重視する実用主義の徒であるからかもしれない。
そしてこの場所には、そのようなデザインの水着を着ているものはいない。何故ならここはトレーニングのための場であって、江の島や沖縄ではないからだ。
この日の午前中の授業が終わり、昼食を終えて午後からのトレーニングの場所として小島がトレーナーとして担当しているウマ娘-アグネスタキオンとマンハッタンカフェに指定したのは学園内にあるプールだった。そのため2人は必要なものを持ち、水着に着替えてこの場に集合したのである。
「さて、今日は何をするのかな」
「ここを指定された時点で、おおよその予測はつきますが」
プールサイドで小島を前に2人は答えた。ウマ娘用の、上半身から太ももの一部までを覆う紺色の水泳着を身に付けている。手首にはいつも通り、腕時計型の端末を巻き付けていた。過酷な環境下での使用を前提に設計されたそれには高い防水性も備わっているため、一定深度までの水中でも十分に動作するようになっている。
「ここに来てる時点で分かってると思うが-今日やるのは水泳だ。心肺機能の向上と、脚部への負担を軽減しつつ足回りを強化することを目的としている」
小島は答えた。彼は迷彩服の両手首と両足首の部分をまくり上げ、その下にはカーキ色の無地のシャツと、外見からは分からないものの水着を着ている。トレーニングに必要なものや私物は、持参した迷彩柄のビニールバッグに入れていた。
「どのように泳げばいいんだい」
「そこは2人に任せる。平泳ぎでもクロールでも、好きなやり方で泳げ。但し、早く泳ぐ必要はない。ゆっくりとしたペースで長い時間泳ぎ続けることを目標にしてくれ」
「それだけでいいんですか」カフェが応じた。
「心肺機能の向上が目的だからな」小島は答えた。「それ以外のことは重視しなくていい。足回りの強化の方はサブだと思ってくれ」
「分かりました」
「他に質問はないか」
「私からは特にないねぇ」
タキオンが答えた。続けてカフェも同様に答える。
「私もこれと言って特には」
「なら早速、準備運動といこう」
小島はそう言うと2人の前で体を動かし始め、それを見た2人も彼を見習って体を動かし始めた。
5分ほどかけて準備運動を終えると、2人は早速プールに入って泳ぎ始める。小島はタブレット端末を見ながら2人の体の動きをモニターしつつ、下手な水泳競技場並みの施設が整っている空間を見渡した。一面がガラス張りの窓で覆われた壁面からは太陽光線が降り注ぎ、それが水面に反射して絶妙なコントラストを醸し出している。
贅沢だな、小島は思った。たかがウマ娘のためだけにこんな施設を揃えるとは、あの理事長、金と行動力だけはあるようじゃないか。まあ、それをどうこう言ったところでどうなるわけでもないが。
プール内に目をやる。タキオンとカフェ以外にも複数のウマ娘が泳いでいるのが見えた。ふと視界の端に帽子とアロハシャツを着こみ、サングラスをかけた極道の親玉じみた中年男-六平が水着を着てビート板を抱えた、白とグレーが入り混じったような色の髪の毛-芦毛と言うらしい-の、全体的にぼんやりとしたような風貌のウマ娘を連れてこちらに来ているのが見えた。
小島は頭だけをそちらへ向け、軽く下げる。向こうも気がついたようで、右手を挙げて彼に答えた。隣にいるウマ娘に二言三言トレーニングの指示を出して分かれると、杖を突きながら彼の隣へと歩み寄り、口を開いた。
「調子はどうだい」
「ぼちぼちと言ったところでしょうか」
何気なしに小島は答えた。プールでは先ほど六平と分かれた芦毛のウマ娘が、ビート板を使いながら泳いでいる姿が見える。
「それよりも、随分色々とやったらしいな。他の連中が噂してたぞ」
「目的を達成するために、必要な手段を講じたまでですよ」
何が問題なのか全く分からない、とでも言いたげに彼は答える。その様子を見た六平は忠告するように口を開いた。
「ここのやりかたに慣れるまでは、仲良くやった方がいいんじゃねえのか」
「和して同ぜずが私のモットーですので」小島は官僚的に答えた。「そのおかげで、あの2人とトレーナー契約を結ぶことが出来たのですから」
「その辺りが信じられねえんだよ」六平は答えた。「大方の連中は、お前さんたちみたいな素人同然のトレーナーと契約しようなんて酔狂なウマ娘がいるわけが無いと思っていたんだ。だが、蓋を開けてみれば1日で全員がウマ娘と契約を結んじまったじゃねえか。特にお前さんが2人同時に契約を結んだと聞かされた時には、俺でさえ耳を疑ったほどだ」
「あの2人のことですか」泳ぎ続けるタキオンとカフェを見ながら彼は答えた。「特別なことをした覚えはないんですけれどね」
「俺は長いことこの稼業をやってるが」弟子を導く師匠のように六平は口を開いた。「その経験から言わせてもらうと、あの2人はかなりの素質の持ち主だ」
「確かに悪くはなさそうですね。走らせてみてデータを取った感じ、それなりのものは持っているようなので」
小島は何気ない一言を呟くように口を開いた。
「そんなものじゃ済まねえよ」これだから素人は、とでも言いたげに六平は答えた。「あの2人は端的に言ってG1クラスのものを持ってる。癖が強いから御せる奴がいなかっただけで、能力そのものは随分と高い」
「狂気と天才は何とやら、と言いますからね」
内心は感心しながらも、平素と変わらぬ態度で小島は答えた。
「幽霊じみたものの存在を感じるわ、妙な薬を飲まされそうにはなるわで大変でしたよ」
その言葉を聞いた六平は何かを含んだように軽く笑うと、やがて口を開いた。
「まあいい-だからこそ、俺は興味を持ったのさ」
「興味、ですか」
呟くように小島は応じた。六平は伝承を語る古老のような口調で話しを続ける。
「癖は強いが高い能力を持ったウマ娘が、お前さんたちのような部外者に育てられたらどうなるのか-それを見てみたくなってな」
「特に高い目標は設定していませんよ」
抑揚のない声で小島は答えた。
「レースに勝たせたくないと言えば嘘になりますが、怪我なく無事に現役生活を終えてくれればそれで構いません」
「欲の無い奴だな」
「たとえG1レースに勝ったところで、その後の人生を全て棒に振ってしまっては意味がありませんから。故に俺は勝利に拘りません。たとえG1でも出走したらその後の人生を棒に振りかねないと判断したら遠慮なく止めます」
「この学園に来てる連中が聞いたら卒倒しそうなことを平気で言うな、お前さん」
「舌を二枚も三枚も使い分けられない、不器用な人間なもので」嘲るように小島は答えた。「まあだからこそ、俺はここに来ることになったわけですが」
「そうかい」
サングラス越しの視線をプールに向けながら六平は短く応じた。
「ああそれと、今言ったことはチームメンバー全員と最初に会ったときに話して納得してもらってますから、今更聞かれたところで何の問題もありませんよ」
「お前さん、出世できねえだろ」
呆れたように六平は答えた。
「もう諦めてます。第一俺が自衛隊に入ったのは、それ以外に仕事が決まらなかっただけで、出世したさや高尚な理想あってのことじゃありません。一応入隊の宣誓をした覚えはありますが」
「なんて言ったんだ」
「僕、幸せになりますとかなんとか。詳しい内容は言い終えた後で直ぐに脳味噌の外に投げ捨てました」
その言葉を聞いた六平は、今度こそ本心から軽く笑うとそのまま口を開いた。
「面白い奴だな、お前さん」
「ユーモアを解せざる者幹部自衛官足る資格なし、という訳です」
小島もまた、笑みを浮かべながら答えた。だがこの時、プールで起こった変化に2人が気がつくことは無かった。
-きっかけは些細なことだった。ビート板を胸の上で抱えながら背泳ぎをしていたそのウマ娘の腕から突然ビート板が滑り落ちた。決して泳ぎが得意ではない彼女は慌てて取り戻そうとするも、その行為は逆に事態を悪化させた。もがいているうちに顔全体が水中に沈んでしまい、口から大量の水が体内に入り込む。その結果彼女は浮力を失い、そのままプールの底へと仰向けのまま沈んでいった。
「トレーナー君」
唐突な声で小島は現実に引き戻される。声の主はタキオンであった。
「何だタキオン」
「君に言われたメニューを終わらせたのでね、次の指示を乞いに来たのさ」
ふと彼女の横を見ると、カフェの姿もあった。どうやらタキオンと同じことを言いたいらしい。その様子を見た小島は口を開く。
「じゃあ、少しの間休憩といこう。その後はまた今回と同じことをしてくれ」
「分かったよ」
2人が休憩を始めたことを確認した小島は端末上で2人の体の状態を確認する。運動後特有の状態にあるものの、異常は認められなかった。野太い声が彼の耳朶を打ったのはその時である。
「おいオグリ、さっさと上がってこい」
「どうかしましたか、六平さん」
「あそこを見てくれ」
彼はプールの一点-コースのちょうど半分のあたりを顎で示す。白っぽいものが沈んでいるのが見えた。
「全くオグリの奴、いつまで潜ってやがる」
それを見た小島は六平の言葉に違和感を覚えた。不意に、医者から言われた言葉-子供が溺れるときは静かに沈むように溺れる-が耳をよぎる。思考よりも先に呟くように言葉を紡いでいた。
「いやあれは・・・溺れている-」
「何だと」
叫ぶように六平が答える。次の瞬間、小島の思考回路は自動的に、才能9割訓練1割で彼の体に染みついたものに切り替わっていた。
声を聞いて何かあったのか、と思いながら小島に近寄ってきたタキオンとカフェは、彼の目を見て態度が先ほどまでとは真逆のものに変化していることに気がついた。そんな2人に気づいた小島はまるで命令でも下すような声で矢継ぎ早に話しかける。
「カフェ、お前はプールサイドに行ってAEDを取ってこい。タキオン、お前は俺のバッグからファーストエイドキットとバスタオルを持ってきてくれ」
「何かあったのかい」
急激な態度の変化に戸惑いを隠せない表情でタキオンが答えた。カフェもまた同じような表情をしている。そんな2人に彼は真顔で答えた。
「プールで溺れてるやつがいる。話はあとだ、俺に言われたとおりに行動しろ」
「小島さんはどうするんですか」
「決まってるだろ」両腕を回しながら小島は答えた。「それよりもさっさと必要なものを持ってこい」
有無を言わさぬ彼の声を聞いた2人は、弾き飛ばされたように行動を始めた。それを確認した小島は迷彩服姿のまま、水泳選手のようなフォームでプールへ飛び込む。そのまま水中を見渡すと、プールの底にあお向けで沈んでいるウマ娘の姿が見えた。
-やはり溺れている。それを確認した小島は自分の両手両足を巧みに動かし、彼女めがけて水中を泳いでいく。数十秒ほどで彼女の傍にたどり着いた彼は一度水面まで浮上して息を整えると再び水中へと潜り、あお向けになっている彼女を背中に抱えると元きた方向へと引き返す。
プールサイドではタキオンとカフェがそれぞれ小島から指示されたものを持って待機していた。その傍には六平もいる。騒ぎを聞きつけたらしい他のウマ娘たちが十数名不安そうにこちらを見つめているが、視界がぼやけていて、それぞれの細かい表情までは上手く判別できない。
小島がウマ娘-オグリキャップを背負ってプールサイドに泳ぎ着くと、六平とカフェが手を伸ばして彼に背負われたオグリを引っ張り上げる。その脇でタキオンはまるで実験道具でも整えるかのような素早さでこの後の『作業』に必要な道具を整えていた。
彼は素早くプールから上がり、オグリをあお向けに寝かせて状況を確認する。頬をたたいても反応が無い。六平が心配そうにこちらを見てくる。
-正直抵抗があるが、この状況で背に腹は代えられない。そう意を決した小島が彼女の胸に手を置き、両手を重ねて胸骨圧迫を開始しようと体重をかけた時、彼女が口から水を吐き出した。続けて目を開き、あお向けのままあたりを見渡すとゆっくりと体を起こす。その様子を見た六平は腕を伸ばし、オグリの両肩を熊手のようにしっかりとつかむ。それに驚いたかのように彼女は口を開いた。
「ろっぺいさん、私はどうしたんだ-確か、プールで泳いでいて、ビート板を落として、その後」
「溺れたんだよ、お前は」
小島の方を見ながら、六平は悪餓鬼を叱る親父のように答えた。
「この男が助けてくれなきゃ、今頃死んでたぞお前」
「そうなのか」
彼女はそう言うと頭のてっぺんからつま先まで、文字通り濡れ鼠になっている小島を見て口を開いた。
「ありがとう。感謝する」
「例はいらん」素っ気なく小島は答えた。「それよりも念のため医務室に行った方がいい-六平さん、頼めますか」
「言われなくてもそのつもりだ-それにしてもお前さん、こいつが溺れてるってよく分かったな」
「子供が溺れるときは漫画みたいに足をばたつかせるんじゃなく、静かに沈むように溺れるってのを、カミさんが子供産んだ病院の父親学級で言われたのを思い出しまして」
「こいつは驚いた」六平は未知の大陸を発見したように口を開いた。「お前さん、結婚してたのか。しかも子供がいるとは、世の中分からんもんだな」
「よく言われますよ」小島は慣れたように答えた。「それよりも、彼女を医務室に連れていかなくていいんですか」
「そうだったな」
六平はそう言って、オグリをゆっくりと立ちあがらせる。ふらつきなどの異常が無いことを確かめた彼はオグリの背中に手を置いて支えながら共に歩き出した。
「聞いたぞ、トレーナー君」
医務室に向かう六平とオグリキャップを見送った後、タキオンがいたずらっ子のような表情で話しかけてくる。
「君が結婚していて、子供までいるとはね。全く、世の中と言うのは驚きに満ちている」
「それよりもタキオン」
小島は焦点を合わせるように目を細めながら口を開いた。
「なんだい」
「俺のバッグを持ってきてくれ。使うものがある」
それを聞いた彼女は小島の言葉と態度にどこか不可思議さを感じながらも、彼の言うとおりにした。
小島はタキオンが持ってきた自身のビニールバッグから眼鏡ケースを取り出して開き、薄く横に長い形状のレンズをした、黒いプラスチックフレームからなる眼鏡をかけた。
「これでよしと」
それを見たタキオンとカフェは先ほどまでとは異なり、どこか知性を感じさせるような見た目に変化した目の前の男に、いささかの驚きを覚えていた。
「どうした、2人とも」
「いえ」カフェが答えた。「小島さんは視力があまりよくないのですか」
「中学の時の怪我が原因でね」何かを思ったように小島は答えた。「普段はコンタクトレンズを使ってるんだが、飛び込んだ時にどこかに流されちまった。こういう時に備えていつも眼鏡を持ち歩いてたのが功を奏したよ」
それを聞いた2人は小島に目をやる。濡れてまとまった髪の隙間から、額の上部、生え際のあたりに長さ1センチほどの傷が見えた。それを見たタキオンが論文を査定する大学教授のように口を開く。
「それは、君の額にある傷と関係があるのかい」
「ああ」死んだ子供の歳を数える親のように彼は答えた。「このおかげで俺は夢を諦めなくちゃならなくなったのさ」
そう答える小島の目から、次第に光が失われていく。何かまずいことを聞いたかな、彼女は思った。一方のカフェは、彼と初めて会った時の会話やその際に見た彼の反応から何かわけありなのではないかと言うのを感じ取っていたため、額の傷に驚きこそしたものの、それ以外に特段感情が揺らぐことは無かった。
「詳しい訳を聞いてもいいかな」
「悪いが言えない」余命宣告を受けた患者のように小島は答えた。「何しろ、その時のことは今なおトラウマとして残っていてな。おいそれと他人には話せん」
まあ、カミさんには全部話してあるがね。彼はそう、半分惚気が入ったように言って話を終わらせた。
「でもいつかは話してほしいものだね」契約の履行を求めるようにタキオンは口を開いた。「何しろ君は、私たちに嘘はつかないと最初のミーティングで言ったじゃないか」
「いずれ時が来たら話すよ」小島は答えた。「それよりもさっさと次のメニューにかかれ、2人とも」
「やれやれ、ウマ娘使いの荒い奴だな君は」
タキオンはそうぼやくと、カフェと共に次のメニューをこなしにかかった。
「はい、一度休憩にしましょう」
分屯基地のミーティングスペースに母性的な声が広がる。それを聞いた小柄なウマ娘-ライスシャワーは、テキストを机の上に置いた。それを見た森宮有沙は再度ライスに話しかける。
「お菓子と飲み物は何がいい?」
「え、えっと、温かいココアとビスケット」
それを聞いた有沙は立ち上がり、ドリンクコーナーへと向かった。少ししてライスが頼んだものと自分が飲み食いする分を合わせて持ってくる。ライスの分を彼女に手渡し、自分の分もまた机の上に置くと、それを優雅な手つきで自分の口へと運んでいった。
ライスシャワーは現在、彼女のウィークポイントである精神を強化するトレーニング-より詳しく言えば、メンタルの回復力を身に付けるために、自分の中にある認知の歪みを知り、それを一度受け入れた上で改善していくために必要なトレーニングを行っていた。
その性質上、どうしても座学がメインとなるため、分屯基地のミーティング兼休憩スペースを使ってトレーニングに取り組んでいる。そして現在は、この日のトレーニングがひと段落ついたため、休憩を取ることにしたのだ。
有沙は自分の飲み物を飲みながら、座ったまま楽な姿勢で自身のスマートフォンを操作していた。飲み物のお代わりをしようと立ち上がったライスの視野に、偶然にもその画面が移りこむ。そこには、赤ん坊を抱っこしながら微笑む担当トレーナーの姿があった。
「どうしたの、ライスちゃん」
視線に気がついた彼女がライスに目をやる。一瞬びくつきながらも彼女は答えた。
「お姉さま」
ライスは有沙のことを『お姉さま』と呼んでいる。適性を確認した後の始めてのトレーニングでライスが『お姉さまみたい』と有沙に呟いたことが切っ掛けだった。有沙の方もそう呼ばれることに特段抵抗を感じなかったためそのままにしている。
「そ、その写真」
「これがどうかした?」
「その赤ちゃん、だあれ?」
「ああ、この子ね」有沙は答えた。「私の長男よ。隆俊、って言うの」
ライスはその言葉に軽く驚きを見せると、画面をまじまじと見ながら有沙に話しかける。
「お姉さまは、お母さまだったの」
「そうよ」母親としての声で有沙は答えた。顔には軽く笑みが浮かんでいる。
「この子のお父さまは誰なの?」
「ライスちゃんもよく知ってる人よ」
謎かけをするような口調で有沙は答える。それを聞いたライスは顎に手を当てて考え込んだ。少しの間をおいて口を開く。
「ひょっとして-小島さん?」
「正解」
「本当なの?」
「本当よ」
有沙はそう言って自分のスマートフォンを操作し、ライスに画面を見せる。そこにはお宮参りで、息子を抱っこして笑う小島の姿が映っていた。傍らには有沙の姿もある。それを見たライスはまじまじと答えた。
「本当に、お姉さまと小島さんの赤ちゃんなんだね」
「そりゃそうよ」有沙は答えた。「何しろお義母さん-あいつの母親なんて、隆俊を見た途端にお腹を抱えて笑い出したくらいよ。生まれたばかりの頃の隆史と瓜二つだって言ってね。その頃のあいつの写真を見せてもらったけど、本当に隆俊そっくりだったわ」
「そうなんだ」
有沙の話を聞いたライスはそう言って少しの間黙ると、やがて意を決したように答える。
「ね、ねえ」
「なあに?」保育士のように有沙は答えた。
「今日、今やってることが終わったら、お姉さまの赤ちゃん、抱っこさせてもらっても、いい?」
「ええ、いいわよ」
「本当?」
「もちろん」
それを聞いたライスは顔をほころばせながら口を開いた。
「ありがとう、お姉さま」
「どういたしまして。それじゃあ、続きを終わらせちゃいましょうか」
「うん」
それから1時間半ほどかけて、2人はこの日のトレーニングメニュー(座学だけではあるが)を終わらせた。時計を見ると午後4時30分を指している。今日のメニューが全て終わっていることを確認すると、有沙は帰り支度を始めることにした。荷物をまとめ、カバンを手にすると、いつの間にかライスシャワーが分屯基地の片隅に折りたたんで置いて置いたベビーカーを持ってきていた。それを見た有沙は彼女に話しかける。
「ありがとう、ライスちゃん」
「どういたしまして」
「それにしても、私が使ってるベビーカーがよく分かったわね」
「ハンドルのところに」ライスは答えた。「小島、って書いてあったから」
「そうだったの、嬉しいわ」有沙もまた答える。「それじゃあ、行きましょうか」
忘れ物が無いかを確認すると、有沙とライスは分屯基地を離れる。5分ほど歩いて、学園の職員用託児所の前へとたどり着く。ここで待っててね、有沙はライスにそう言い残すと
中に入っていった。そこでしばらく待っていると、やがて有沙が自分の息子を抱っこしながらライスの前に出てきた。有沙はしゃがみこんで視線をライスに合わせる。
「初めまして、ライスちゃん」息子の頬を指でつつきながら有沙は答えた。「隆俊よ」
母親に隆俊、と呼ばれた赤ん坊もまた視線をライスに向けた。丸い顔に、常に笑みを浮かべているような表情を見せている。それを見た彼女もまた、微笑みながら口を開いた。
「わあ、かわいい」
生まれて半年ほどになる赤ん坊を見たライスは、花が咲き誇ったような表情を浮かべている。その様子を見た有沙は、母親としてこれ以上ないほどの笑みを浮かべながら答えた。
「それじゃあ約束通り、抱っこさせてあげるわ-気を付けてね」
そう言うと有沙は隆俊をライスに預ける。彼女はまるで壊れ物でも扱うように有沙(と小島)の長男を受け取った。彼の体重は既に10キログラムを超えているが、ウマ娘にとって見ればペットボトルを持ち上げる程度にしか感じられない。
「よしよし、隆俊くん、初めまして。ライスだよ」
ライスはそう言って、隆俊を抱っこしている腕を左右に僅かに揺らす。彼は喜び、笑いながらあー、とかうー、と言った言葉にならないような声で感情を表現する。そのうちライスの耳についている、小さな帽子と青い薔薇の耳飾りに興味を示したのか、手を伸ばして掴もうとした。
「あっ、それはだめだよ」やや戸惑ったように彼女は答えた。「これはライスのだから」
それを聞いた隆俊はうー、と不満を述べるように訴える。しばらくして今度は別のものに興味が移ったらしく、彼は腕を伸ばすとライスの胸のあたりをぽんぽんと叩いた。途端に不可思議なものでも見たような表情になる。
「ど、どうしたのかな」
再び戸惑うライス。そのような我が子の表情を見た有沙は思った。あらあら、ひょっとして隆俊ったら-
そこまで思ったとき、彼女の耳に複数人の足音が聞こえてきた。それは次第に大きくなっている。こちらに近づいているらしい。
「それで、君の子供と言うのはどこにいるんだ」
廊下を歩きながらタキオンが小島に問いかけた。プールでの一連の騒動の後、この日の練習メニューをすべて終えたところで彼の子供に興味を持ったタキオンが見てみたいと言い出し-カフェもまた珍しく彼女の言葉に同調した。
それを聞いた小島はそんなに気になるなら見せてやるからさっさと着替えろと答えて男女別になっている更衣室へ向かい、その出口で2人(小島は予備の迷彩服に着替えた)が制服に着替え終えたのを確認すると、帰り支度を整えてそのまま3人で託児所へ向かったのだった。
「もうすぐだ、そう慌てるな」
小島は眼鏡をかけたまま諭すように返答した。やがて廊下の向こうに託児所が見えてくる。その目の前には2人の人影があった。1人は人間の女性、もう1人は小柄なウマ娘であるようだ。ウマ娘の方は何かを抱っこしているように見える。近づくにつれ、細部が分かるようになってきた。
「あれ、森宮さんとライスさんですよね」カフェが答えた。
「そのようだね」タキオンが続けて口を開いた。「ライス君の方はどうやら子供を抱っこしているようだが、ひょっとして-」
「そうだよ、俺の長男だ」
それを聞いた瞬間、2人の脳裏にある一つの(信じがたい)考えが浮かんできた。次の瞬間、双方が同時に互いの顔を見合わせ、目だけで意思の疎通を済ませると、両名を代表してタキオンが答える。
「なあ、一応聞いておくんだが-ひょっとして、君の奥方と言うのは森宮トレーナーのことかい」
「それ以外に誰がいるってんだよ」
何をかいわんやとでも言うふうに小島は答えた。
「私はさっき、人生と言うのは驚きに満ちていると言ったが」タキオンはよみがえった恐竜を目にしたような口調で答えた。「事実は小説よりも奇なりと言う言葉の意味がよく分かる出来事だねぇ。なあカフェ」
「正直、今回ばかりは私もタキオンさんと同意見です」カフェは答えた。
「あのな、これでも夫婦仲は良いんだぞ」慣れている、とでも言いたげに小島は答えた。
そんな与太話に3人が興じていると、向こうもこっちに気がついたらしく視線を合わせてきた。ライスシャワーに抱っこされた隆俊までもがこちらに目を向けてくる。
最初に口を開いたのは有沙だった。近づいてくる、眼鏡をかけた自分の亭主に向けて言葉を放つ。
「聞いたわよ。あんた、随分といい男になったそうじゃない」
「おかげでコンタクトレンズがどこか行っちまったよ-誰から聞いたんだそんなこと」
「遠藤准空尉に六平さんが電話かけてきてね。代わりにお礼を言っといてくれって言われたわ」
「なんであの人に-ってお前は今日ほぼオフィスにいたんだっけ」
「そういうこと。ちなみに遠藤准空尉も」
有沙は答えた。
「んで、なんであんたは自分の担当ウマ娘引き連れてここにいるの」
それを聞いた小島は、自分の長男を抱っこするライスを一瞥すると、全てを理解したかのように答えた。
「お前さんのライスシャワーと同じ理由だ」
「そういうことだよ」タキオンが続けるように答える。「私にもぜひ、君たちの子供を抱っこさせてくれたまえ」
「あの、私もいいですか」カフェもまた同じように答えた。
それを聞いた有沙と小島は少しの間顔を見合わせ、2言3言言葉を交わす。それを終えると小島が口を開いた。
「構わんが-特にタキオン」
尋問でもするかのような口調で彼は話した。
「なんだい」
「隆俊を使って妙な実験をしたら本気で怒るぞ」
「それくらいは弁えているよ」言わせるな、とでも言いたげにタキオンは答えた。「本当、信用の無い奴だな君は」
「初対面の時にお前さんがやらかした所業を考えれば文句言えないだろうが、このマッドサイエンティストめ」
「その呼び方にもいい加減慣れたよ-それよりも、そろそろ君の子供を抱っこさせてもらってもいいかな」
餌をねだるひな鳥のようにタキオンは応じた。その様子を見ていた有沙はライスに話しかける。
「ライスちゃん、そろそろ隆俊の抱っこを変わってもらってもいいかしら」
「い、いいよ」ライスは答えた。「ありがとう、お姉さま」
「どういたしまして」
有沙はそう言ってライスから自分の長男を受け取ると、彼を抱きかかえたままタキオンに近づく。促すように話しかけた。
「はいどうぞ、タキオンちゃん」
「それでは、ありがたく抱っこさせてもらうことにしよう」
タキオンはそう言って、自分の腕に隆俊を抱きかかえる。赤ん坊特有の、重さと温もりと柔らかさを感じているといつの間にか、普段の彼女からは想像もできないほど慈愛に満ちた表情を知らずのうちに浮かべていた。それを見た小島が茶化すように口を開く。
「お前、そんな表情出来たんだな」
「何が言いたいんだい」
隆俊を抱っこしたまま、顔だけをこちらに向けてタキオンは答えた。普段の表情に戻って居る。
「マッドサイエンティストが人間性を取り戻したのを見れば、誰だって同じように言うだろうさ」
「失礼な。私はウマ娘だぞ」
そこまで言ったとき、タキオンは胸を何かに押されているような感覚を覚えた。気になって視線をやると、目の前の男の長男が自分の胸に触れて笑顔を見せていた。タキオンは再び微笑みながら彼に言葉をかける。
「おやおや、どうしたのかな隆俊君。私の胸に何かついているのかい」
その光景を見ながらそりゃついてるだろうよ、と小島はこの場にいる、タキオン以外の2人のウマ娘を見て思った。口には出さない。セクシャルハラスメントで訴えられることを彼は望んでいなかった。その様子を見た有沙もまた何かを察したらしく、軽く苦笑いしている。
そのような2人の内心を知らないように、おずおずとカフェがタキオンに話しかける。彼女は赤ん坊を抱っこするタキオンを見て、どこか羨望のまなざしを浮かべていた。
「タキオンさん」
「何だいカフェ」
「そろそろ、私に代わってもらってもいいですか」
「いいとも。ほら隆俊君、今度はこのお姉ちゃんに抱っこしてもらいたまえ」
その言葉にカフェは腕を伸ばし、タキオンから隆俊を受け取り抱っこする。隆俊はカフェの腕に収まると同時に、彼女の長い黒髪に手を伸ばしていじり始めた。しばらくしてカフェの髪の毛を利用した、彼なりの前衛芸術の製作に成功したらしく、特有の笑みを浮かべながら足をばたつかせ、現在用いることの出来る精一杯の言語表現で喜びを露わにしている。
「あっ、だ、駄目ですよ」
困惑を浮かべながらもカフェは、まるで自分が本当の母親にでもなったかのような様子で、腕の中にいる小さくて可愛らしい生物を愛でている。そのうちに隆俊はカフェの胸を自分の小さな両手で押すとこの日2度目の、不可思議なものを目にしたような、何とも言えない表情を浮かべた。
「ど、どうしたんでしょうか」
戸惑うカフェの様子を見ていた小島は、先ほどまで抱いていた仮説が次第に確信へと変化していることを自覚する。そしてそれは瞬く間に心の中で言語化されていく。
-隆俊の奴、胸の大きさで女性を判別してやがるな。まあ、母親が立派なものを持っているから当然か。
小島は思った。事実、3人の中ではっきりとした高低差を描く上半身を有しているのはタキオンだけであり-それ以外の2人はまあ、そういうことであった。見るからに幼児体形なライスはともかく、それなりに成長しているカフェについては、正直もう期待できそうにはない。
-尤もタキオンの上半身を中山の最終直線とすれば、有沙のそれはエプソムのタッテナムコーナーに等しいのだが。
小島は2人を比較しながらそんなことを思った。その様子を見ていた有沙が、彼の内心を見抜いたような口調で小島に話しかける。
「ねえ、隆史」
「何だ」
「思ってても、口にしちゃだめよ」忠告するように有沙は答えた。
「分かってるよ」
軽くあしらうように小島は返す。目の前では、タキオンがカフェに抱っこされた隆俊の頬を指でつついていた。彼も負けじと、自分の小さな手でタキオンの指を力強く握りしめる。おお強いねえ、隆俊の握力を味わった彼女は楽しそうに答えた。
小島はふと自分の腕時計を見る。洒落た外舷とは裏腹に、過酷な環境下での使用に耐えるほどのスペックを持ったそれは、既に1700-5時を回っていることを視覚的に彼に伝えた。それを見た彼は決意し、カフェに向けて口を開く。
「ちょっといいかな」
「なんでしょうか」
「そろそろ帰りたいんで、抱っこを終えてもらってもいいか」
「もうそんな時間ですか」
「夕飯の買い物とか、隆俊の寝かせ付けを考えるとそろそろ」
夫の、そして父親としての態度で彼は答えた。それを聞いたカフェは小島に近づき、隆俊を彼に手渡す。カフェから隆俊を受け取った小島は息子をそのままベビーカーに乗せ、そこに彼の体を固定する。そのまま忘れ物が無いかを確認すると肩掛け鞄を持ち上げ、3人にじゃあなと告げると、ベビーカーを押す有沙と並んで校門の方へと歩き始めた。
3人は隆俊に向けて手を振ると、既に幹部自衛官でもトレーナーでもなく、我が子を慈しむ父親と母親の顔になった小島と有沙が帰宅する様子を見ながら言葉を交わし始めた。
「いやはや、面白いものが見れたねえ」とタキオン。
「本当ですね」とカフェ。
「隆俊くん、かわいかったね」とライス。
それぞれが3者3様の感想を呟く。視線の先には楽しそうに雑談をしながら遠ざかって行く2人(+赤ん坊1人)の姿があった。それを見ながらタキオンが呟く。
「それにしてもあの様子を見ていると、迷彩服を着ていること以外は世間一般の人間と何ら変わり無いね」
「と言うよりそのものだと思いますよ」カフェが答えた。「あの人たちと私たちは、耳と尻尾があること以外、何の違いもないのですから」
「最初はちょっと怖かったけど」ライスもまた口を開く。「ちゃんとお話ししてみたら優しかったし、ライスたちのこと、よく考えてくれてるし」
そのようなライスの言葉を聞いた時、タキオンはふと、自分の心の中で引っかかっている物があることに気がついた。
-プールサイドで見た傷。初対面の時に感じた、相反するものを内包しているような感覚とその際に聞いた、何かを含んだような彼の言葉。今まで皆に見せた態度。どういうことなのか。
研究者としての性か、彼女は自然のうちに頭の中で思考をまとめ始めていた。しばらくして一つの考えが思い浮かぶ。無意識のうちに言葉が口から出ていた。
「しかし、気になることはある」
「気になること?」
怪訝そうに答えるカフェ。それを聞いたタキオンは自分が言葉を発していたことにようやく気がつき、詫びるように答えた。
「済まない。いやなに、あの2人を見ていて思ったことがあってね」
「思ったことですか」
「決して私たちにとって愉快なことでは無いと思うが-それでも聞くかい、カフェにライス君」
判決を読み上げる裁判官のような、抑揚のない口調でタキオンは応じた。それを聞いた2人はどこか躊躇するような素振りを見せるも、やがて意を決したような表情を浮かべ、口を開く。
「構いません」先に答えたのはカフェだった。「自分のトレーナーについて知るべきことは知っておきたいので」
「ラ、ライスも」
ライスもまた、普段の着弱さをどこかに置き忘れたかのような態度で口を開く。彼女は話を続けた。
「お姉さまや小島さんのこと、もっと知りたい」
それを聞いたタキオンは我が意を得たり、とでも言いたげな表情を浮かべ、口を開いた。
「いいだろう、それでは聞かせてあげようじゃないか」
「もったいぶるのはいいですから、さっさと話してください」
睨みつけるようにカフェは答えた。
「分かったよ」
タキオンはどこかつまらなさを覚えたように応じる。そのまま彼女は話を続けた。
「あの2人-特に
それを聞いたカフェは思い当たる節がある、とでも言いたそうな表情を浮かべ、ライスは
どういうこと、とタキオンに尋ねた。
「言動と態度から私なりに推測しただけさ」タキオンは応じた。「残念だが、現段階でははっきりとした根拠は示せないよ」
「そう言えば」カフェは選抜レースの時のことを思い出して答えた。「話を聞いてみた感じ、小島さんは何か複雑なものを抱えているようには思っていました。私が『お友だち』のことを話した時には暴力を振るわれたり、自分の持ち物を壊されて捨てられたこともある、とも言っていましたし」
それを聞いて、タキオンとライスは表情を軽く曇らせた。しばらくして、それぞれ思い思いに口を開く。
「それは穏当な話じゃないねぇ」
タキオンが答え、
「小島さん、そんなことされて大丈夫だったのかな」
ライスもまた答える。
「大丈夫じゃなかったと思いますよ」
そして、カフェが何かを知るような言葉で締めくくった。
「タキオンさんもプールで聞いたでしょう-中学時代の怪我が元で視力が悪くなって、小島さんは夢を諦めなくちゃならなくなった、と」
「そういえば、そんなことを言っていたね。彼の額に傷があるのは私も見たよ」
「私が思うに、その怪我と言うのは暴力を振るわれたときに負ったものではないでしょうか-そしてもう一つ、タキオンさんの話を聞いていて思ったのですが」
「何だい」
「その暴力を振るったのは、ウマ娘ではないのでしょうか」
その言葉を聞いた途端、ライスは驚いたような表情を見せた。一方タキオンは表情を変えずにカフェの方を向き続けながら、平然と口を開いた。
「興味深いな。話を聞かせてくれ、カフェ」
「分かりました-タキオンさんの推測が当たっていて、小島さんが私たちに好意を抱いていないと仮定した場合、その大本となった原因があるはずです」
喫茶店でコーヒーを飲むような、ゆったりとした態度でカフェは答えた。タキオンもまた、表情を変えずに応じる。
「続けたまえ」
「あなたの話を聞きながらそれについて少し考えてみたのですが、もし額の傷がウマ娘に暴力を振るわれた結果ついたものだとしたらどうでしょう」
タキオンは何も答えず、顎の下に手をやりながら興味深げにうなずいた。カフェは話を続ける。
「その際に怪我を負い、それが原因で視力を悪くして夢を諦めなくてはならなくなったとしたら、私たちウマ娘に好意的な感情を抱けなくなるのは当然でしょうし、結果としてタキオンさんの話と辻褄が合うことになります-尤もあなたの話と同じように、推測に過ぎませんが」
「なるほど、確かに納得の行く話だ-じゃあ、それを踏まえて君に聞こう」
タキオンはそう言って詰問するかのようにカフェを見据えると、彼女を尋問するような態度を取り、氷を吐き出すように冷たい口調で答えた。
「もし彼が私や君の予想通り、私たちに好意ではない感情を抱いていたとしたら、カフェはどうするつもりだい」
「別に気にしませんよ」断言するようにカフェは答えた。「たとえそうだとしても、今までの態度や言動からして、あの人は私たちに危害を加えたり損害を与えるようなことはしないと思います。むしろ私たちを思いやるようなことさえ話していましたし、その辺りはきっちりと分けられる人だと私は思っています」
それにあの人は、私の大切なもの-『お友だち』を否定せずに受け入れてくれましたし。そう言ってカフェは言葉を切った。
「それでいい」それを聞いたタキオンは答えた。「彼がどのような感情を私たちに抱いていようと、あの男は私たちのトレーナーだ。それ以上でもそれ以下でもない」
まあ、マッドサイエンティスト呼ばわりされるのには正直思うところがあるがね。タキオンもまたそう言って話を終わらせた。
今まで黙っていたライスが口を開いたのはその時である。
「あ、あのう」
「どうしたんだい、ライス君」
「どうしましたか、ライスさん」
2人ともライスの方を見る。彼女はどこか怯えているような態度で答えた。
「今の話を聞いていて、あの2人は、心の中はとっても優しい人じゃないかなって、そう思ったの」
「どうしてですか」
ゆっくりとした態度でカフェは応じる。それに対してライスもまた、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「だって、隆俊くんと帰るとき、2人とも本当に優しそうなお父さんとお母さんだったから」
それを聞き、カフェもタキオンも先ほどの様子を思い返す。確かに、自分たちと別れて帰宅する際のあの2人の態度は、我が子を慈しむ父親と母親そのものであった。そこから少しの間を置いて、何かを思いついたような態度でタキオンが口を開く。
「確かに、あの2人にあのような側面があることを知れたのはある種、収穫だったのかもしれないな」
「どういう意味でしょう」
カフェが答えた。
「第一印象だけで他人や物事を判断してはいけない-そのことを今回、図らずも理解させられたよ」
「とはいえ、皆がそのような傾向を持っていることは否定できません」同意するように再びカフェは答えた。「それを自覚した上で、第一印象に惑わされないようにするのが良いと思います」
「私たちは常に、自省的であらねばならないということか」
「ええ-そういうことですから、ライスさんも気を付けて下さいね」
カフェは優しく教え諭すように、傍らで2人の話を聞いていたライスに話しかけた。彼女もまた、首を縦に振りながら答える。
「分かった。ライスも、人のことを見た目だけで決めつけないようにするね」
「よろしくお願いします」
「さて、私は実験の続きに取り掛かることにしよう」タキオンは思い出したように答えた。「カフェもライス君も、私のことは気にせず寮に帰りたまえ」
「言われなくてもそのつもりですよ」カフェは答えた。「タキオンさん、一応言っておきますが、小島さんから言われたこと-」
「栄養バランスのとれた食事と入浴に最低8時間の睡眠だろう、分かっているよ。前みたいに徹夜やミキサーにかけた流動食で済ませるようなことはしないさ」
「あとでデジタルさんやフジキセキさんに確認してもいいですね」
「勿論さ」
それじゃあ、と彼女は言い残して実験室-旧理科準備室へと向かっていった。
結論から言えばタキオン、そしてカフェの推測は正しかった。だが、それを彼女たちが知るのはもう少し先の事となる。
そしてその切っ掛けとなる出来事が、小島と森宮がもたらした、この学園のみならずマスコミをも巻き込んだ騒動であることまでは、この時の彼女たちに知る術はなかった。
ちなみに赤ん坊を抱っこするシーンは去年生まれた甥っ子が遊びに来た時、私が実際に抱っこしてみたことを参考にしました。赤ちゃんってかわいいですね。
どうにか今回、1か月に1話という目標はクリアできたので、次回もまたそれくらいで投稿出来るように執筆していきます。