‐жертва-   作:姊園 理違

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2.少女

□1978年

 

 今日もまた、便器に嗚咽物を吐き散らす。

 今週はこれで二日連続。吐いた後は喉がヒリヒリするし、舌に胃液の味が残るから気分が悪い。

 それと一緒にテストで読み取らせられた思考色(しこうしょく)も一緒に吐き出せないかと試みたが、上手くいくはずもなく、頭の中に残り続けていく。

 トイレを出て、廊下に立てかけられていた時計を確認すると、額に付いていた汗を拭うと胸をなでおろす。

 『今日も狂わずにいられた』と自分に言い聞かせて、今日も生きている。

 

 ハバロフスク研究基地で行われている検査や実験は、まるで脳手術を麻酔なしで受けている様で堪えられなかった。

 突然倒れたり、発狂した人をここ数ヶ月で2回も見かけている。

 同じくらいに来た2人も、あれ以降見かけていない。

 家に帰れたのか、他の病院に移ったのか、それとも──。

「あ」

 突然、頭がグラついて足が(すく)んでしまうが、壁に手をつき、転ばずに済んだ。

 こういう貧血に似た症状が、ここに来てから何度か起きている。

 吐くのも、週に1、2回。

 最初に話を聞いた時から薄々感じてたけど、ここには人権というものはないのかと感じる程の醜悪さ。

 何がオルタネイティヴ3よ、気持ちの悪い変態が考えるB級映画物みたいな内容じゃない。

 

 夕食の時間。食事を受け取ると、端っこの席に座った。

 自分と一緒に検査を受けている、要は同じ地獄に来てしまった人達。

 色を見ると、黒や赤や緑や黄等の様々な原色が混沌としていて、少しでも見ていると気狂いを起こしそうになる。

 そんな人たちと交流したくないし、何しろ色を見てたらこっちまで変になってしまいそうなので、いつもこうやって距離を取っている。

 過去に読まされた気持ちの悪い色が、食事中にフラッシュバックすることも稀にあり、毎回残してしまう。

 食事すらまともに取れないなんて経験が無かったから、本当に辛い。

 しかし、今日の夕食は少しだけ良い気分だ。

 ここに来る前に受け取っていた手紙を取り出す。手紙の送り主はアルジェイ。

 あれから私たちは手紙でやり取りをしていて、手紙を送り合ってはお互いの近況報告をしている。これが私の二週間に一度の楽しみ。

 私の能力については、手紙の中には絶対に書かないと約束を交わしているからそこは大丈夫。

 本を読む以外の娯楽が存在しない研究所での楽しみは、彼からの手紙を読む事だけである。

 銃の組み換えが難しいというのが今回の内容だった。この前は基礎体力を身に着ける事は大変だと書いていた。

 こんな日記のような内容だが、これでも私の心を満たすには十分だった。

 ──そんな幸せに浸っていると、割り込んでくるかの様に前の席に誰かがトレーを置いてきた。

 その音に反応し、手紙から前の席に座った人物に視線を移す。

 目の前に座っていた女性はバツが悪そうに、こちらの顔色を伺っていた。

「一緒に食べて良い……? アナスタシアちゃん」

「……どうぞ」

「ありがとう、アナスタシアちゃん……えへっ、えへへ」

 私に図々しく話しかけてくるこの変な人は、食事になるといつもやって来る。

 それはここ数日の事ではなく、私がハバロフスク基地に来た時からだった。

 年上のポーランド系らしいが、おどおどとしていて笑い方がちょっと変。

 しかし、他のESP発現体と違ってまだ意思疎通が取れている方なので、ここじゃまともな部類なのだ。

 実際、幼少期から研究所で生活をしているらしく、私が施設内で唯一言葉を交わす人間だった。

 女性はフォークが上手く野菜に刺さらず苦戦していると、テーブルに置いていたままだった手紙に目を付ける。

「それ、仲の良いっていう男の子からの手紙なんだ。好きなんでしょ?」

「別に……ただの友達ですよ」

「でも男の子と手紙って羨ましいかも。良いなぁ。私、恋とかしたことないからぁ」

「だから、友達だって」

 そう言うと「えへへ、そ、そっかそっか」と笑いながら誤魔化した。

 そして、野菜を刺すことにまだ苦戦している。

 茶化しているような笑顔に少しだけ苛立つと、女性の顔から笑顔が徐々に消えて俯いてしまった。

 彼女はここの研究所の中でトップクラスのESP発現体であり、私よりも思考を読み取るのが早く、何しろすごく敏感だったのだ。

 頼りなさすぎて年上というイメージには程遠く、むしろ幼い少女という印象だが、決して悪い人って訳ではなさそう。

 フォークで刺すのを諦め、スプーンに変えて野菜を掬って食べようとするもボロボロと膝の上に落としている。

「もう、何やってるんですか」

 紙ナプキンを差し出すといつものぎこちない笑顔で「ありがとう」と言い、膝の上の野菜を拾って拭き取った。

 優しい人なのにとても脆く崩れやすそうで、今にもいなくなってしまいそう。

 

 ……それにしても、手を重ねている時間が少々長い気がするが。

「…………あっ、ごめん」

 勢いよく手を放すと彼女の両手が食器に当たり、床に転がり落ちる。

「何やってるんですか! また!」

 慌てながら片付ける女性を見て、溜息を溢しながらも手伝う。

 しかし、私たち以外のESPは全く無関心。

 だから怖いのよ、ここの人たちは。

 

 片づけを終え、彼女は必要以上に何度も「ありがとう」と言う。

「……大袈裟ですね、まぁ……ちょっとは落ち着けたので。別にこんなことお互い様です」

「そ、そう? だったら良かった~……えへへっ」

 彼女のこの笑顔も、時と場合によっては癒しになるものだ。

「……他の人の笑顔で落ち着いたの、久しぶりかも」

「えへへっ、お前の笑顔は人を幸せにするって、兄さんもよく言ってたんだ」

「兄さん? ……あぁ、兄がいたんですね」

 彼女は、まるで子供の様に大きく首を縦に振って見せた。

「兄さんは良い人よ、厳しくて物静かな人だけど。いつも一人でいた私に話しかけてくれるの」

 お兄さんはソ連軍人であり、彼女曰く軍ではかなり凄い人らしい。

 頭の中を読んでみると、筋肉質で目つきは鋭く、冷血そうなイメージ。

 お兄さんには悪いけど、目を合わせただけで体が束縛されたように動かなくなってしまいそう。

 だけど、そのお兄さんがいるから人の気持ちに寄り添えられる人に育ったのだろう。

 アルジェイの上司が、その『兄さん』だったら良いのに。

 

 午前。静かな廊下を一人で歩いていた。

 この白い廊下には、施設内では珍しく窓がついている。

 蒼穹が広がり、雲一つなくやんわりと太陽が照らしていた。

 しかしこの永久に広がる青空を前にしても、私の心の雨雲は晴れることがない。

 検査を続けていけばいくほど倦怠感に襲われ、仕舞いには思考がまとまらなくなってしまう。

 特に『リーディング適正テスト』とかいうやつ。

 薬を飲まされ、数時間後にはすぐこんな有様。

 歩いては止まってを、何度も繰り返してしまう、ダルさと気持ち悪さが同時に押し寄せて来る地獄。

 就寝時に時折、私じゃない別の思考()が溢れてきたりもする。

 それも一人ではなく、数十、数百とその数が増えていき、大量の色によって自分の色が塗り潰されて最後には消えていくような途方もない悪夢。

 ここから逃げ出そうとした人もいるらしいけど、すぐに捕まって何処かに連れて行かれた。

 まるで刑務所じゃない、ESP発現体ってだけで……。

 歩くのも怠くなってしまい、空いていた窓の前で立ち止まると鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 昔ニュースで見たけど、BETAによってもう鳥すら生息していない国があるらしい。

 あんなに興味が薄かった自然や動物に対しても、こうしてみたら今更ながら大切なものなのだとノスタルジーを感じてしまった。

 

 すると、鳥の鳴き声と共に歌声が聞こえてきた。

 外にある小さな花壇近くで数人幼い少女たちが鼻歌を歌いながら、保母のようなエプロン姿の女性の後を着いて行っている。

 こんな研究施設に小さい子供……?

 それにしても、誰一人として楽しそうに歌っているようには見えない。

 その姿を見ていると何かが引っ掛かり、フワフワとしていた意識が衝撃と共に目覚める。

 手に力がこもり、そして息を飲む。

 あれが……きっとそうなんだ。

 直感だが、それは確信のあるものだった。

 

 陽を浴びて光輝く少女たちの髪の毛はグレーダイヤモンドのように美々(びび)しく、その頭部には藍色の何か機械的な装飾品を付けている。

 肌は白く、人のようには見えない。

 まるで妖精みたいな子たち……。

 そうか、あの子たちが“オルタネイティヴ3”の……。

 

「アナスタシアちゃん!」

 大きな声がお構いなしに響き渡る。

 振り向くと、いつもの彼女がパタパタとこちらに走ってきた。

「アナスタシアちゃん、アナスタシアちゃんだ!」

「そんなに言わなくても、私は私ですよ」

 目の前までやって来ると、膝を手で抱え深呼吸を繰り返した。

「そんなに急いで、何か用事でもあったんですか?」

「……ううん! ただ、いるって思ったから……!」

「あ、あぁ、そうですか……じゃあどうしたんですか?」

 荒れていた息を整えるように呼吸を繰り返し、やっと落ち着いたところで「んー、ただ施設内を散歩してただけ」と微笑んだ。

 散歩? この施設内を?

「何もすることがないからそこら辺を」

 この研究所は私たちが侵入してはいけない部屋や通路が多くて、散歩をするにも気を遣う。

「……でも、うん。そうだね、半分好奇心かも」

「好奇心?」

 気まずそうに彼女は頷く。

「アナスタシアちゃんになら言っても良いかな。あんまり他の人に話せないから」

「人に話せない?」

「私ね……人の考えてることを見るのが好きなの」

 彼女の言っていることは、理解しがたい事だった。

「何が好きとか、今日のご飯は何だろうなとか、嫌いな事とか苦手なものとかを見るのが好きなんだ」

 淡々と語られていく好尚に、私はこわばってしまった。

 能力が身に付いた時、私も相手の気持ちを分かってしまう事を面白いと感じていた。

 だけど、その能力とそれを持ってはしゃいでいた自分のせいであんな事になってしまった。

「特にね……その、家族の事とか……見るのが好きなの」

 彼女の話に多少恐れながらも興味が湧いてしまい、「なんでまた」と問いかける。

「親や兄弟に抱いている気持ちってね、他とは違う不思議な色や光り方をしているの」

 きっと彼女は、誰よりも貪欲に関心があるのだろう。

 人の抱いている負までも意識読解(リーディング)はしたくない。

 それを記憶から消せない限り、頭の中にずっと誰かのものを抱え込んだまま生きていく事になってしまう。

 両親とお兄さんとの時間が短かった彼女は、家族というものに少し飢えているのかもしれない。

 彼女は自主的に読みとり、更にはそれを好んでいる。

 言い方を変えれば、悪趣味なのかもしれない。

「やっぱり、悪趣味……だよね」

 まずい、読まれていた。

「あぁ、いや……でも問題はあまりないと思いますよ。それを利用して誰かに酷い事したりしたらダメですけど、人ってアレじゃないですか。スキャンダルとかそういうの好きじゃないですか。だから別に変じゃないと思いますよ」

 少々慌てながらもフォローしたが、はたしてフォローになっているのか。

「うん……うん、ありがとう、アナスタシアちゃん」

「別にお礼なんて……」

 彼女はふらっと何かに引き寄せられるように窓の景色に目をやる。

 ただ黙ったまま、不安定そうに行進する銀髪の少女たちを眺めていた。

「──人工ESP発現体」

 その声は小さく、(くすぐ)るようにして私の耳へ届いた。

「……私もそろそろ、接種するんだ」

「もうそんなに近いんですか?」

女性は小さく頷くと、ぎこちない笑顔で此方の様子を伺った。

「先生がね、私のESPのレベルなら第6世代もいけるかもしれないって……」

 第6世代(シェスチナ)。──人工ESP発現体の中でも完成形と言われている存在だが、生まれてくる確率は極めて微少だと聞いている。

「……凄いじゃないですか」

 こんな時、どんな言葉をかけてあげれば良いのか私にはわからなかった。

 ESP発現体の誰もが聞かされた生産工程(・・・・)

 この言葉で合っている。出産ではなく、生産。

 研究員の発言からして対BETAの生物兵器に哀れみも同情も不要という考えの元、とてもじゃないが、少なくとも人間の扱いは受けていないと察した。

 そして、私たちはそれを作りだすただの母体にすぎない。

「……あの子たちは夢を見たことあるのかな」

「夢?」

 外の人工ESP発現体をジッと見つめ、彼女はコクリと頷く。

「私たちは夢を見るでしょう? 小さな赤ちゃんもね、夢を見てびっくりして起きる事があるんだって。──人工子宮の中でも夢って見るのかな」

 と、私の方へと視線を戻す。

「わかりませんよ、人工ESPの子たちにでも聞けばいいじゃないんですか」

 質問の意図が理解できず、答えることを放棄した。

 まぁ、無許可で私たちから人工ESP発現体へ接触しに行くのは禁止されているけど。

「そうだね、そうしようかな」

 いやいやいや、ダメでしょそれは。

「冗談だよ、冗談。ダメなのくらいわかってるよ、えへへっ」

 私の色を読み揶揄うと、彼女は表情を緩めた。

「私の子……きっと可愛いわ」

 嬉しそうに呟くと、彼女は人工ESP発現体たちを再び目で追いかけた。

「母親みたいな事を言いますね」

「だって、ある意味母親じゃない。私たち」

 その言葉を聞き、私の思考は凍り付く。

 自分と顔がそっくりな人工ESP発現体なんて、例え少女の見た目をしていようとも手を挙げてしまうだろう。

「ダメよ、子供に暴力しちゃ」

 間接的に母になることを強制されることに対する嫌悪感を、彼女は覗き見ていた。

「別に……何考えても私の勝手じゃないですか」

「そうだけど、でも痛いことはダメだと思う。アナスタシアちゃんの人工ESP発現体もきっと可愛い子よ、アナスタシアちゃんみたいに美人さんで」

「そういうのがいやだって言ってるの!」

 彼女の言葉を切り裂くように、廊下に嫌悪が鳴り渡る。

 幸い、その場にいたのは二人だけ。

 彼女は目を丸くすると黙り込んでしまい、すぐさま頭を下げてきた。

「ごめん、ごめんね、アナスタシアちゃん。私、何も考えないで」

 そんな彼女の姿を見ると冷静になっていき、怒りがおさまっていく。

「……こっちこそ、いきなり怒鳴ってすみません」

 これが彼女の普通。私よりも小さい頃からESP能力を持っていて、人の色を読む事を当然かのように思い、生きている。

 何時(いつ)かの昼食、不安的中率が高いと話していた事があった。

 それは人が嫌に思っている事や不安に思っている事、つまりはネガティブな感情。

 彼女はそれが誰よりも敏感に読めてしまう体質だった。

 だから私のアルジェイに感じてる不安も、見知らぬものの母になる事を気持ち悪がったのも、すぐに分かったのだ。

 彼女は顔をゆっくりと上げる。

 その双眼は、今も私の考えを読み取ろうとしているのだろう。

 そうしないと何もわからないから。

「……アナスタシアちゃんの考えも正しいと思う、普通に考えたら、気持ち悪い……かもしれない」

 それから「でもね、でも」とまるで拘りを親に語るときの子供の様に、おどおどとしながらも話し続ける。

「私の子が世界を救うって考えたら、なんかすごいなって。壮大だなって思うの」

「世界?」

「私たちの子がBETAを何とかしてくれるかもしれない、そしたら皆幸せに暮らせる。そう思わない?」

 言われてみたらそうだが、ファンタジーでイマイチ現実味に欠けるものだった。

「確かにそうかもしれませんけど」

「そう思ったら怖くないよ。今までやったことも無駄じゃないって思えてくるの。この苦しい毎日も」

 吐瀉物を撒き散らす毎日が苦しくない?

 この人は頭の中はなんでこんなに楽観的なのであろう。

「そういう考え…………まぁ良いんじゃ、ないですか」

 されど、死ぬかもしれないと考えて生きていくよりは多少マシだ。と納得すると、彼女はつたなくも微笑を浮かべた。

 彼女の笑顔は人を落ち着かせる効果があるのであろうか。お兄さんが言っていた事もあながち間違いではない。

 すると彼女は突然、大声で笑い出す。

「…………何か変なこと言いました?」

「いや……可愛くて変な笑顔を見せるんだなって」

「は、はぁ?」

 いやいや、あなたにだけは絶対に言われたくない。

 ──でも私、今笑ったんだ。まだ笑えたんだ。そう認識すると、自分がまだ感情を保てていると安心した。

「笑顔が変とか言われたくないです」

「そんな~……あっ、そろそろ昼食の時間」

「えっ、もうそんなですか?」

「うん、行こっ」

 私たちは白い廊下を駆けた。

 この日、私たちはちゃんとした友達になれたような気がする。

 そして、少しだけ憧れた。

 彼女みたいに優しく、一人の人間でも支えられるような人間に。

 

 ※

 

 「手を握って欲しい」と言われ、そっと握りしめていた。

 彼女の手に震えはなく、ただただ掌の冷や汗が伝わるばかり。

 この人でも、こういう所では緊張とかするんだ。

 

 待合室。検査着姿の彼女に「一緒に来て」とお願いされ、付き添いとして訪れた。

 今日は、彼女の卵子を採取する日。

 待合室には、今にでも抜け出したくなるような暗くて重い空気が漂っている。

 当の彼女はというと……。

「私ね、この前、ツインテールの女の子と仲良くなっちゃった。全然話してくれなかったけど」

 いつもと変わらなかった。

 あんなに顔を青ざめていたのに、直前となるといつもの調子である。

 なんか、心配して損した。

「皆、不安そうにしてるね」

 彼女が耳元でひっそりと話しかけてくる。

 それを聞き周りの色を確認すると、確かに怯えている様子を感じていた。

「皆、やっぱり怖いんだ」

 彼女の顔色が少しだけ曇っていった。

 誰よりもその不安を察知できるからこそ、人の心配をしてしまうのだろう。

 ここは彼女だけでも、少しは気分を戻させなくては。

「あの、もしもその……自分の、人工ESP発現体に名前を付けるとしたらどうします?」

 場違いでもあるような、素っ頓狂な話を投げかけると彼女は驚いた様な表情をした。

「え、えぇ~名前?」

「なんか面白い名前とか付けそうじゃないですか」

「名前……うーん、名前」

 口を抑え考えるふりをしながら唸っていると、小さく喋り出した。

「イルカァ……かなぁ」

「イルカ?」

 イルカって海に生息している哺乳類にそんなのがいたけど、そんな生き物の名前を付けたいだなんて相変わらず変わっている。

「うん、イルカ」

「……なんでイルカなんですか?」

「イルカって皆に愛されるし、可愛いから」

 なんとまた。

 私は口元を緩ませ、笑みを溢しまう。

「ふふっ、それはそれは……えぇ、確かに可愛いですね」

「でしょ、でしょ!」

 私と彼女は口を押え、笑うのを堪えた。

「でも、なんかこう……ただのイルカじゃなくて、珍しいイルカの名前とか良いなぁって」

「じゃあ、私がイルカの名前を何か調べてきましょうか?」

「本当に?」

 彼女は大きく見開くと、瞳の奥を輝かせた。

「何か、考えてきますね」

「わー! ありがとう! えへへ」

 彼女は呼び出されると、待合室を後にした。

 その時の色は先程よりも安定していて、何より私が付ける名前に期待を膨らませていた。

 こうなったら良い名前を調べてこなければ。

 

 彼女の採取日から3ヵ月が経過した。

 あれから検査や実験で、具合が悪くなることは少なくなった。

 彼女の教えてくれた楽観的考えが役立ったのかもしれない。

 

 ──しかし、今度はそんな彼女の様子がおかしい。

 何かに怯える仕草を取り始め、前より何度も食器を落とすようになった。

 どう見ても冷静ではない。

 色を読んでも何かが壊れそうになっているのがわかる。

 今度は私が支えてあげなくてはと、彼女の食事やトイレ。様々な所へ付き添ったが、今日は朝から見かけず検査も欠席していた。

 最悪な事態を考えながら廊下を歩いていると、窓から人工ESP発現体たちが歩いているのが見えた。

 あの子たちは、いったい何を考えて生きているのだろう。

「……あ、アナスタシアちゃん」

 声の方向へ見返ると、そこには彼女がいた。

 その声にはいつもの元気は無かった。

 歩くときも片足を引きずるように歩き、まるで死ぬ間際の人間。

 かつての彼女はいなかった。

 こちらの方にズルズルと引きずりながら近づいて来る彼女のところへ駆け寄ると、彼女は窓際で立ち止まる。

 彼女はじっと外にいる人工ESP発現体たちを見ていた。

 静かに物懐かしさに(ふけ)るみたいで、今までの生気が無くなったかのようだった。

 そしてポツリと。

「人工受精……成功したんだって」

 あっけなく私に教えてくれた。

 そういう情報はこちらには口外されないはずなのに、何故その事を知ってるんだろう。と不思議に思ったが、今は調子を合わせる事だけを考えた。

「……そうですか」

「兄さんがね、今度面会に来てくれるの」

「面会?」

「うん、軍の仕事で忙しいのに来てくれるんだって」

 ソ連軍で軍人として務めている彼女のお兄さん。

 BETAとの戦争で大変だというのに、本当に妹思いな良い人だ。

 だけど、ここでの面会は禁止のはずなのに、どうしてなんだろう。

「お兄ちゃんと直接会うのは、これで……え、え~~~っと、4回目くらいかな……」

 兄と会えるというのに、どこか憂鬱さが残る。

 何かに怯え、何かに苦しむ色が漂う。

「ね、ねぇ。アナス、タシアちゃ、ちゃん」

「……なんですか?」

 彼女は、途切れ途切れに何かを伝えようとしていた。

 そして口にした言葉。

 

「私ね、私──そろそろ、し……死ぬかも」

 

 耳を澄まさないと聞こえないほどに弱々しい声だったが、最後の言葉だけがハッキリと聞こえてきた。

「は、あぁ……は……?」

 歯をカタカタ合わせながら、彼女は何とか言葉を繋げようと繰り出す。

「私ね、私、頭変なの、変、絶対変なんだ、もうダメなんだ、こんなの無理、笑顔でいれば生きられると思ったけど、もう無理、無理なんだ、薬もね、効かないの」

 脚がズレ落ち、彼女の体が私の腕に凭れかかる。

 ──彼女の色を直接触れ、そして見てしまった。

 悲惨で目を背けたくなる程に壊かけていた。

 今まで我慢していたものが今にでも倒れそうな状況で、分かりやすく限界を迎えている。

 あの日を境に、何かが彼女を完全におかしくさせてしまったんだ。

「病室に行きましょう! ね?」

「……うぅ……うぅぅぅぅ」

 悶えながら唸り声をあげ、幼児のように蹲った。

 彼女を抱え病室へ運ぼうとしたが歩行がままならず、ドミノ倒しのように体が壁に押し付けられる。

 じんわり熱を産む痛みにこらえながら、ぐったりとした彼女を起こし上げようとする。

「大丈夫! 今誰か呼ぶから!」

 脱力しきった体はびくともせず、彼女の鼻からは血が垂れ始めた。

 急いでハンカチを取り出し抑えるが、どんどん流れ出ている。

「……アナスタシア、ちゃん」

 鼻声で彼女は声を振り絞る。

「私の子、代わりに会ってあげて……名前、決まった?」

 突然、砕けそうになっていく自身の心身の事よりも、人工ESP発現体についてを語り出す。

「決めたけど……だけど、今はそんな」

「…………良い名前。でも声で聞きたい、発音が欲しいの」

「だから、今は!」

「お願い……」

 彼女は既にリーディングで名前を知ったようだが、それでも声で聞きたい。

 それが彼女の願いだった。

 耳元で小さく優しく、そして言い聞かせるように一度だけ囁く。

 その時の色は白以外ほとんど見えず、一点だけ暖かそうな光が小さく輝いていた。

「兄さんにもその名前……教えてあげてね」

 

 私たちを偶然見つけた職員が救護班を呼んだ。

 怖かった。大切な友達を失うかもしれない。

 すぐに救護班が駆け付けたが、私はその時何もできなかった。

 腰が抜けてしまい、立つこともままならずただ黙って運ばれる彼女を見つめていた。

 

 数週間後、荷物を病室に持ってきてほしいと研究所の人に頼まれ、彼女の部屋を訪れた。

 部屋の中には私物らしい物はほとんど無く、あるとすればベッドに置いてある熊のぬいぐるみくらい。

 引き出しを確認すると大量の手紙があり、それは全てお兄さんからの物だった。

 少し考え、いけない事だとわかりながらも差出先と名前を近くにあった紙に書きこむと、服の中に隠した。

 

 荷物整理が終わり、自室に戻ると彼女のお兄さんに送る為、手紙を書いた。

 『彼女の友人です』から始まり、そして私が考えた名前を添える。

 私に出来るのはこれくらい。

 あの日から、友達(彼女)とは一度も会っていない。

 アルジェイ、貴方にもそんな経験あるかしら?

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