「焼肉定食、焼肉抜きで」
「ライス大盛りひとつ」
学食のカウンターで、奇妙な注文が同時に発された。
黒髪の少年───上杉風太郎と、髪を逆立てた金髪の少年が同時にカウンターに立っている。
タイミングが被ってしまったようだった。
「………」
「………」
金髪の少年が、苛立ちを隠す事なく風太郎を睨み付ける。
そのガンの飛ばし方は、コントに出てくる荒くれ者のようにキマっていた。
後ろに並ぼうとした男子生徒がひぃっ、と声を上げながら立ち去って行く。
「………先頼めよ」
信じられないぐらいに睨まれながらも、怯む事なく注文を譲る風太郎の表情には、呆れが含まれていた。
大きな舌打ちを打ちながら、金髪の少年がカウンターで大きく白米がよそおわれた茶碗を受け取る。
そのまま立ち去って行った金髪の少年を見ながら、風太郎はため息をついた。
(馬鹿な奴め。焼肉定食の焼き肉皿抜きなら、200円で味噌汁とお新香が付いてくるってのに)
自分の注文を受け取った風太郎は、金髪の少年とは逆方向のテーブルへと向かった。
(何が焼肉定食焼肉抜きだ、アホめ)
席に着いた金髪の少年は、ポケットからのりたまの小袋を取り出し、大盛りの白米にふりかける。
(ライスは200円で大盛りが食えるってのに)
焼肉抜きの定食に、味噌汁やお新香がつくことを知らない少年は、風太郎の注文を馬鹿馬鹿しく感じていた。
昼食時なのに気分が悪い。
顔を合わせたくない人物と鉢合ったことで、ただでさえ味気のない200円の白米が尚のこと味がなく感じる。
白米だけの食事ですぐに終わるはずなのに、飲み込むのに時間がかかるのを感じていた。
「───転校生なんだって」
「へえ、五つ子ねえ、凄い人がいるもんだ」
近くの席の生徒の話し声が聞こえる。
五つ子の転校生がいるらしい。
(珍しいが、どうでもいいな………)
どうせ自分とは関わりのないことだろう。
そう高を括り、残りの白米をかき込んだ。
───プルルル───
食事を終えたタイミングで、ポケットの携帯電話が震える。
画面を見れば、「らいは」と表示されていた。
「もしも……」
「金太郎お兄ちゃん!!お父さんから聞いた!?」
大きな少女の声に、思わず携帯を耳から離す。
「なんだよ、何も聞いてないから落ち着いてくれ」
「あはは、それさっき風太郎お兄ちゃんからも言われたー!」
らいはからの言葉に、心にモヤモヤがかかるのを感じる。
だが、大事な妹にそんなことを悟られる訳にもいかず、金髪の少年───上杉金太郎は、続きを促した。
「うちの借金なくなるかもしれないんだよ!」
「は?」
唐突な言葉に、思わず口調が荒くなる。
「借金がなくなるって、そんな訳ないだろ。返済までまだ大分かかるはずだし……」
上杉家にある借金は、向こう数年、下手をすれば十数年は完済までかかるはずの額だ。
それが、いきなり返済の目処が立つはずがなかった。
「まさか、親父が内臓を……!?」
「あははー、違うよ、お父さんが内臓を売った訳じゃないから」
だとすれば、弁護士に相談でもしたのか。あるいは、父の仕事に何か変調があったのか。
しかし、金太郎の予想は覆される。
「お父さんがね、良いバイト見つけたんだって。お金持ちのお家で家庭教師を探してて、相場の5倍のお給料をもらえるんだって」
「バイトって………」
たかだかバイトで借金が返済できるのなら、自分たちは苦労していないだろう。
金太郎は、夜中まで詰め込まれた自分のバイトのシフトを思い浮かべながら、苦笑した。
「そこのお家の人、成績悪くて困ってるらしいから、風太郎お兄ちゃんならきっとやってくれるよね!」
「っ………」
そこで出された風太郎という名前に、苦虫を噛むような表情を浮かべる。
金太郎は、バイトを掛け持ちしている自分は、頼りにされていないことを実感せざるを得なかった。
そして、風太郎───兄が期待されているのだということも。
「これで、お腹いっぱい食べられるようになるね!」
だが、そんな屈折した感情は、純真に喜ぶ妹の声を前に、かき消すしかなかった。
◆
家の明かりが消え、街灯だけが灯る暗い住宅路の中、バイト帰りの金太郎は、古いアパートの前で鍵を手にしようとポケットに手を入れる。
そこで、ふと部屋に小さな明かりが点いている事に気がつく。
(まだ誰か起きてんのか…?)
もう日付が変わっているような、夜中の時間だ。
妹は当然として、父だって眠っているだろう。
だとすれば、明かりの原因は想像できた。
ガチャリ、とドアを開けば予想通り、兄が机に向かってペンを走らせていた。
「………帰ったのか」
「悪いかよ」
妹達を起こさないよう、荷物をなるべく静かに置く。
机に置かれたスタンドライトの小さな明かりだけが、部屋を照らしている。
風太郎が夜中まで机に齧り付くのは珍しいことではなかったが、それでも、金太郎が帰る時間には眠っていることが多い。
金太郎がバイト帰りに風太郎と言葉を交わすのは珍しい事だった。
「悪いなんて言ってないだろ。俺はこの問題を作るのに忙しいから、寝るなら先寝ろよ」
「別にテメーに言われるまでもなく寝るっつーの」
ぶっきらぼうに返事を返しながら風呂場へ向かう。
なるべく音を立てないようにしながら、ふと兄の言葉が気になった。
(問題を作るってなんだ………?)
問題を解くならまだしも、作るなんて教師みたいなことを………とそこで、らいはとの会話を思い出した。
(ああ、家庭教師の話って、マジだったのか………)
浮足だった妹が大袈裟な話をしている可能性を疑っていたが、家庭教師を請け負う事自体は事実らしい。
「相場の5倍、ね」
相場の5倍の給料という、らいはの言葉が事実かどうかは疑わしいが、家庭教師はそれなりに実入りの良い仕事だ。
万年火の車の家計が少しでも楽になるなら良いことのはずだ。
もっとも、金持ちの家の家庭教師に捻くれ者の兄が馴染めるとは思えなかった。
これまで風太郎が始めては続かなかったバイトの数々を思い返す。
その度に、バイトが長続きしている自分が兄に呆れていた。
ただでさえ人と馴染めない兄が、何歳かは知らないものの、生徒に勉強を教えられる仕事が続くとは思えなかった。
それも、金持ちの家で。
「ま、知らねえけど」
兄のことなど考えたくもない。
そんなことより、疲れた体に少しでも睡眠を与えて、早朝の新聞配達に備えたかった。
結局、金太郎が眠る時間まで机に向かったままの風太郎は、早朝に金太郎が短い睡眠から目を覚ます頃に、机に突っ伏したまま意識を落としていた。
◆
「この公式は………この問題も………くくく、これは三玖に………」
(っるっせーな………)
聞こえるように大きめの舌打ちを鳴らすが、ぶつぶつと独り言を言いながら問題集を手にする風太郎には、聞こえていない様子だった。
今日は日曜日。
新聞配達と昼のバイトを終えて、一旦帰ってきた金太郎は、夜のバイトに出掛ける前に家族の夕食の準備をしていた。
普段は妹のらいはが夕食を作ってくれるが、まだ小学生の妹に背負わせてしまっている負担を減らすため、金太郎が夕食を支度する日もある。
今日はバイトの空き時間ができたため、何品か作ろうとしていたのだが。
「………って、何やってんだ俺ー!立派な家庭教師か!!」
「っるせーなぶっ飛ばすぞ」
兄の大きな叫び声に、金太郎は苛つきを隠さなかった。
兄が休日に朝から晩まで自習に励むのは珍しくないが、ここまで集中が途切れているのはあまり見なかった。
「あ………すまん、家庭教師の生徒のことで、気を取られてな………」
「そうかよ、俺が知るか」
冷たく返した金太郎に、風太郎はなんとも言えない表情を浮かべた。
おか上げにしたほうれん草を三等分にしながら、冷蔵庫からごぼうを取り出す金太郎。
「………今日もバイト先で飯食うのか」
そんな三頭分された食材を見ながら、風太郎が訊ねる。
「食費が浮くからな。夜遅くまでかかるし。知ってんだろーが、今更」
慣れた手つきでごぼうを切りながら、金太郎が突き返す。
バイト先の賄いで夕食を済ませることがほとんどの金太郎は、普段から妹に自分の分の夕食は作らなくて良いと言いつけてあった。
「寂しがってたぞ、らいは」
包丁の音が止まる。
が、すぐに小気味良く包丁とまな板が音を立てた。
「………」
「………」
トントンという音だけが部屋を伝い、言葉は交わされなかった。
金太郎は、返事をする気にならなかった。
そこへ、ピンポーン、とチャイムが響く。
「………誰だ」
「借金取りか………?」
上杉家に来客が来ることは少ない。
家庭の事情で、その数少ない来客は好ましくないものになる。
「下がってろ、俺が」
「あ、おい金太郎………!」
そんな都合の悪い来客ならば、風貌がヤンキーである自分の方が良い、とドアに手をかける。
「金ならありませんが………?」
ところが、いかつい男を想像し、低い声を唸るように出しながら開けたドアの先には、見慣れない赤い長髪の少女がいた。
「………」
「………あの、どちら様で?」
金太郎を見て固まったのか、少女は声を震わせる。
「え、ええと……上杉風太郎君のお家はこちらで合っております、でしょうか……」
震える声が、次第に消え入りそうなほどか細くなっていく。
「は?」
「ひぃっ、す、すみません人違いでした………!」
「あ、五月か」
「う、上杉君!いるんじゃないですか!」
金太郎の後ろから顔を覗かせた風太郎は、少女──五月と目を合わせる。
「ドアを閉めろ、金太郎」
「なんでですか───!?」
叫ぶ五月。
ドアを思い切り全開にする金太郎。
「どうぞ、お入りください」
「なんでだ、金太郎───!?」
ドアの前で騒いでいると、そこへもう一人やって来た。
「ただいまーって、あっ!五月さん!」
妹のらいはであった。
「知り合いか?らいは」
「うん、風太郎お兄ちゃんの生徒さんだよ」
「生徒って………」
金太郎は五月に目を向ける。
どう見ても同年代の五月に、金太郎は面食らった。
(中坊とか小学生の子供じゃなかったのかよ……)
てっきり金持ちの子供を相手にしているものと思い込んでいた金太郎にとっては、驚くべきことだった。
「………あの、中に入れてもらえますか?渡したい物があるので……」
◆
「父から預かった上杉君のお給料です」
給与、と記載された茶封筒がちゃぶ台に置かれる。
「すごーい、頑張ったね」
「と言っても、二回しか行ってないし、期待しない方が………」
はしゃぐように笑うらいはを横目に、風太郎が茶封筒を手に取って中身を確認する。
すると。
「一日五千円を五人分。計二回で五万円だそうです」
「なっ………」
茶封筒を持つ手を震わせる風太郎を見て、思わず声を漏らしたのは金太郎だった。
たった二回行っただけで五万円。
それだけの金額を稼ぐために、金太郎がどれだけの時間を割いているかは、考えたくなかった。
「受け取れねぇ」
「はぁ!?」
だが、震える手を抑え、毅然とした態度で茶封筒を突き返す兄に、金太郎は思わず声を上げる。
「お前は黙ってろ。確かに、俺はお前たちの家に二回行った。だが俺はお前たち五人に何もしてねぇ」
「っ………」
口を挟むつもりはなかったが、叱責を受けて反抗の声を上げそうになるのをぐっと堪える。
(五人………生徒って五人もいんのか…)
口ぶりから察するに、風太郎の受け持つ生徒は五人いるらしい。
お金持ちの家の五人。随分な兄弟か姉妹だと思うのと同時に、それほどの人数を受け持ち、給料を貰うほどの仕事をしていたことに、面食らっていた。
そして、恐らくそのことについて、お金を受け取らないほどに責任感を抱いているのだろうということも。
「何もしていないということはないと思いますよ」
柔らかい表情を浮かべる五月の姿を、その場の全員が見ていた。
「あなたの存在は、五人の何かを変え始めてます」
それは、つまり風太郎の存在が、誰かにとって重要な役割を抱いていることに他ならない言葉であった。
「そんな訳で、とにかく返金は受け付けま───」
「バイトの時間だ」
「せん───えっ?」
思わぬところで言葉を遮られた五月が呆気に取られる。
「えっ、もうそんな時間?」
「ああ、悪いけど晩飯の支度、後頼むわ」
時計を見るらいはの頭をポンとひと撫でし、鞄を持って立ち上がる。
「ば、バイトをなさってるんですね」
「あー……ウチの愚兄が、迷惑かけると思うっすけど、これからもよろしくお願いします」
「へ?え、ええ、まあ……」
「おい、愚兄ってなんだよ」
立ち上がった金太郎にびくりと肩を震わせた五月。
そんな彼女に頭を軽く下げておく。
金持ちに媚を売っておくことは、悪いことではないだろう。
そう思いながら、金太郎はそそくさと家を出た。
「ふぅ………それにしても驚きました。上杉君、弟がいたんですね」
「ああ、この前ウチでカレー食ってた時にはいなかったっけか」
金太郎が去ったことで落ち着いたらしい五月がため息をつく。
先日、タクシーで風太郎を送り届けた時に上杉家に上がった時は弟がいるなんてひと言も知らされていなかった。
それも、金髪の髪を逆立てる、ヤンキー風の出立ちであったため、五月は少しばかり怯えていた。
「まあ、悪い奴じゃねーよ。あんな見た目してるけど」
「っそ、そんな、悪い人だなんて思ってませんよ」
「あはは、確かに金太郎お兄ちゃんはどう見てもヤンキーだからね」
慌てる五月に、らいはが笑いながら答える。
「でも、金太郎お兄ちゃんはウチの家計を支えるために、朝から晩までバイトしてるんだ。晩御飯、ウチで食べないぐらい夜遅くまで」
「だから、先日はいなかったんですね………」
「先日ってか、毎日だけどな」
らいはが、少しだけ寂しそうな表情を見せるが、すぐに元の明るさを見せる。
「毎日夜遅くまでって……勉強は、大丈夫なんですか?」
「そう!そこなんだよ!」
身を乗り出して五月に返答する風太郎に、五月は「えぇっ!?」と気圧された。
「あいつは家計を支えようとしてるのかもしれんが、成績がすこぶる悪い!俺が教えようとしても死ぬほどガンを飛ばされて寄せ付けもしない!!」
「は、はぁ」
困惑する五月を見て少し我に帰り、ちゃぶ台に乗り出した体を元に戻した。
「………まあ、お前らよりはマシだが」
「嘘でしょ!?」
夜中まで働いているヤンキー風の少年が、自分達より成績がマシだという。
にわかには信じがたいが、風太郎の目は嘘を言っていなかった。
「あいつは一年だが、俺が書き込みに書き込んだ教科書を使い回しているからな。教科書を読むだけで赤点ぐらいは回避出来るんだよ」
「そ、そうなんですか………」
(お前らは読んでるだけじゃ無理かもしれんがな………)
言葉にはしなかったが、風太郎は五月達、五つ子の先行きの怪しさに、頭を抱えていた。
◆
(あいつがもっと成果を上げて、本当に借金が解決したら………)
そんなことばかり考えてしまい、今日はいつもより仕事に身が入らず、ぼーっと帰り道を歩いていた。
たかがバイトを始めたぐらいで、しかもどうせ長続きしないとたかを括って信用していなかったが、どうも彼女、五月達の家庭教師は本当に借金の返済に近付きそうなものらしかった。
金太郎にとって、自分が家族に貢献できる唯一の方法が、アルバイトで家計を支えることだった。
風太郎は、悔しいが金太郎では逆立ちしても敵わないほど成績が良い。
将来的に、兄と自分のどちらが給料の良い職に就けるかなど、火を見るより明らかだ。
だから、今全力で金を稼ぐために金太郎は睡眠時間を削り、家族との夕食を食べる時間を捨ててまでアルバイトに勤しんでいる。
そんな、自分の唯一のアイデンティティが、兄の家庭教師によって崩れ落ちそうになっていた。
(単純に、週一でも十万………)
一回の仕事の給料が二万五千円なら、週一の勤めだったとしてもそれぐらいの金額になる。
それは、金太郎が一月休みなく働き続けてようやく叶う金額だった。
───あなたの存在は、五人の何かを変え始めてます───
「クソっ……」
そして極め付けは、五月のあの言葉だ。
兄は、どうも五人もの人間に影響を与えているらしかった。
これまで友人など出来ず、勉強しか取り柄のなかった兄が、それ以外で人に良い影響を与える。
それは、金太郎にとって苦虫を噛み潰すような事実だった。
「………あいつが、人に何かを、か……」
夜道を歩きながら、心のモヤモヤと共に、いつもその元凶だった兄について考える。
「………そういや、あいつのこと兄貴って呼んだのいつだったっけか………」
そして、これほどまでに兄を毛嫌いしているのも、いつからだったか。
ふと、金太郎の脳裏に古い記憶が浮かび上がった。
◆◇◆
「お兄ちゃん、待ってよぅ………」
「早く来いよ、金太郎!置いてくぞ!」
逆立てた金髪に、イヤーカフを付けた少年、風太郎が走っていく。
黒髪の朴訥とした気弱そうな少年、金太郎は着いて行けずに涙を浮かべていた。
「お前、いっつも勉強ばっかしてるからそんなへっぴり腰なんだよ!」
「そんなこと言われたって………あっ………!」
急いだせいで、足がほつれて転んでしまった。
「うぅ………うっ………ひくっ………」
思い切りぶつけた痛みに、涙が溢れる。
「よっ」
「うぇっ………!?」
いつの間にか金太郎の元へ戻って来た風太郎が、弟をおぶった。
「ったく、お前はほんっと鈍臭いなぁ」
「うぅ、酷いよ、お兄ちゃん………」
言葉ではそう言いながらも、風太郎は絶対に弟を落とさないよう、しっかりと背負った手に力を込めていた。
◇
「風太郎、お前またテストで100点取ったのか!」
「別に、大したことじゃねーよ」
修学旅行から帰って来た兄は、突然変わった。
人が変わったように、勉強を馬鹿にしていたのが嘘のように勉強に力を入れ始めた。
そして、その成績の上がり方は、たったの一年程度で金太郎のこれまでの努力を覆すほどのものだった。
「おっ、金太郎は89点か」
中学生に上がり、これまで以上に勉強に集中したはずだった。
それまでも、金太郎は勉強以外には目もくれず、勉強だけに集中したはずだった。
「ま、89点でも凄いぞ、俺よりな!」
快活な父の声は、耳を通り抜けていった。
やんちゃで、勉強をしなかった兄が100点を取り続け、散々勉強を頑張って来たはずの自分は勝てなかった。
その事実が金太郎の心に大きな影を落としたのは、紛れもないことだった。
「………なあ、金太郎、勉強教えてやろうか?」
「っ───!」
答案用紙をぎゅっと掴んで、家を飛び出して走る。
「あっ、おい金太郎!」
父の静止の声を振り抜き、思いっきり走り続けて、どこかもわからない場所に辿り着いた。
「くぅ………うぅ………」
答案用紙を握り潰す。
涙が溢れる。
これほど情けないことはなかった。
自分がやんちゃな兄に勝てると過信していたことで追い抜かれることも、それについて上から目線で優しくされたことも。
実際に、風太郎に上から目線で言ったつもりはなかったのかもしれないが、今の金太郎には受け止められるだけの余裕などなかった。
───金太郎は良い点とって偉いわね───
「………お母さん………僕………お兄ちゃんに………あいつに………」
亡くなった母が、よく褒めてくれた。
だから金太郎はひたすらに勉強に取り組んだ。
だが、それすらも兄に奪われるなら、もう自分には何が残っているのかわからなくなっていた。
思えば、兄にはいつも先を越されてばかりだった。
小さい頃は、引っ込み思案な金太郎は引っ張られてばかり。
かけっこをした時や、ドッジボールに無理やり参加させられた時も、兄は必ず金太郎より活躍したし、そんな姿を母がよく褒めていた。
そんな兄が取り組まない勉強にしか自分が母に褒めてもらえることはないと、全力で取り組んだ。
なのに、兄は勉強でさえも金太郎を上回っていった。
だったら、自分が兄に───あいつに、勝てるものは何かあるのだろうか。
答えはひとつ。
何もなかった。
亡き母と、唯一自分が持っていた繋がりの思い出さえ、奪われるのなら、自分には何もない。
そうやって、金太郎は打ちひしがれた。
「───お前、一年坊か?」
ふいに、声を掛けられる。
学校で悪名が高い、不良生徒だった。
「お前、なに泣いてんだよ」
「お前さ、財布持ってない?俺ら今金なくてさ」
「貸してくれよー金」
嘲るように笑う不良生徒達に、声を上げることも出来ず、すくみ上がることしか出来ない。
「貸してくれよ───なぁっ!」
「っ───!?」
腹を殴られる。
声すら出せず、地面に倒れ込んだ。
「何コイツ、財布持ってないじゃん……」
「はぁ、つっかえねー」
「じゃあ、せめておもちゃになってくれ、よっ!」
「がっ………!?」
腹を蹴られる。
次は腕。次は足。次は───。
ボロ雑巾のように袋叩きにされていく金太郎の目には、もう何も映っていなかった。
◇
「がっ………」
殴られた男が倒れる。
金髪を逆立てた少年、金太郎が冷ますように拳を振る。
「な、舐めんなよ──!」
倒れた男の仲間の不良生徒が金太郎に殴りかかるも、さらりと受け流され、そのまま頭を掴んで顔を壁に激突させる。
衝撃と痛みで、不良生徒は倒れた。
「い、意味わかんねぇ……お、お前、なんなんだよ!」
「テメーで考えろ」
そう言うと、一瞬で不良生徒のそばに近寄り、腹に膝蹴りを叩き込んだ。
「ぐぇっ………!?」
瞬く間に三人の不良生徒が倒された。
「ぎぃっ───!」
苦しげに伸びている不良生徒達を、通りがかりざまに踏み潰しながら、しかし目線は一切そちらに向けずに、金太郎はその場を去った。
心を叩き折られ、大きな傷を負った金太郎は、気が付けば喧嘩に明け暮れるようになっていた。
兄に勉強の才能があったように、金太郎には腕っ節の才能があったようで、最初はボロボロのまま帰ることしか出来なかった金太郎は、いつしか不良生徒を一方的に倒せるほど喧嘩に強くなっていた。
家に帰りもせず、ただ目についた不良を殴る日々。
目的も意義もなく、ただ空虚な心を埋めるために人を殴っていた。
◇
「大変、申し訳ございませんでした!」
父の勇也が地面に着くかというほどに頭を下げる。
父に頭を抑えられた金太郎も、連れられて頭を下げる形になっていた。
殴った相手が市議会議員の息子だったらしく、示談金を用意しなければ警察に通報して少年院行きにすると脅されたらしい。
借金に苦しむ家計のどこから用意してきたのか、多額の示談金を手元に置いた父は、ひたすら謝り続けていた。
その姿を見つめながら、自分の行動が家族の借金を増やしたのだと理解した。
「すまなかった。お前のこと、理解してやれなくて」
帰り道。そんな金太郎を責めるでもなく、悔しげに顔を歪めて謝る父に、もうやめてくれ、と心が引き裂けそうな感覚に陥った。
自分勝手に人を殴り回ったせいで家族に大きな迷惑をかけた自分を、責めてほしかった。
むしろ、殴ってくれた方がどれほど楽だったか。
「さ、帰ろう。らいはの体調が悪くなって、戻らなくてな。今日は風太郎が看病してくれてるんだ」
聞けば、金太郎が帰らずに出歩きだした時から、らいはの崩れた体調が戻っていないという。
それだけの心労を小さい妹にかけてしまったことが、更に金太郎の心を抉る。
同時に、この程度のことも想像出来なかったのかということも。
「らいはも、お前のことが心配なんだ。もちろん風太郎も、俺もな。だから、安心して帰って良いんだ、金太郎」
優しく語りかけてくれる父の言葉に、金太郎は何も言えなかった。
何を話す権利があるのだろうか。
これほどまでに家族に大きな傷を残した自分に。
そして、家族に迷惑をかけてしまったことが、金太郎の心に大きな影を残した。
この日から、上杉金太郎はこう思うようになった。
”少しでも、家族に貢献するために何が出来るのだろうか”
と。
◆◇◆
いつもの帰り道、いつもは無い出店の屋台が並び立ち、街灯だけが照らしている。
今日は夏祭りがあったようで、その痕跡が町中の至る所に散見される。
妹が行きたがったであろうな、と暗がりに佇む出店の看板を見つめながら思う。
休日で一日中机に齧り付きたがるであろう兄が、妹を連れて行ってくれたりしていないだろうか。
或いは、上杉家を訪れていた五月と一緒に祭りに参加していたのだろうか。
家庭教師の兄とは距離がありそうだったが、何故だか妹のらいはとは仲が良さそうだった。
そんなことを考えながら、家に着く。
相変わらず、部屋に明かりが点いている。
(またあいつか………)
まだ起きているのだろう兄の姿を思い浮かべてうんざりしながら、鍵を開けて部屋へ入る。
「すーっ………」
しかし、想像とは違って、風太郎は机に手と頭を置いて眠っていた。
「んだよ、寝んなら布団に入れよな………」
ふと目を向けると、出店でよく見る綿菓子の袋が置いてあった。
どうやら、夏祭りには行ったらしい。
「祭りに行って、帰ってからも勉強、ね」
そして、疲れて眠ってしまったのだろう。
ご苦労なことだ。
ちらりと、机に広げられたプリント用紙を見ると、どうも家庭教師用の問題を作っている最中らしかった。
そんな姿を見て、自分が勉強に打ち込んでいた頃を思い出す。
確かに、あの時の自分は熱心だったと思うが、それは、果たして兄のように長い時間をつぎ込み、全てを捨てるほど死ぬ気だっただろうか。
「やめだ、やめ」
かぶりを振って、浮かんだ考えを打ち消す。
どうも、昔のことを思い出して、感傷的になっているらしかった。
「………兄貴、か」
眠りこける兄の姿を見て、いつからか”あいつ”としか呼ばなくなってしまった兄への呼称が漏れ出る。
思い返せば、兄はいつだって自分に辛く当たったことはなかった。
やんちゃでガキ大将のようだった時は、確かに口調は荒く、無理やり外に連れ出されて迷惑はしていたが、擦りむいた時はおぶられていた。
理由は知らないが、勉強に全力を注ぎ始めた時も、自分に勉強を教えようとしてくれていた。
きっと、自分の勉強で必死だったのに、だ。
結局、金太郎が兄、風太郎を毛嫌いしているのは、金太郎の問題なのだ。
「………今じゃ、立派な稼ぎ頭、ね………」
高校生になり、アルバイトを始めるも、どれも長続きせずにすぐに解雇されてきた兄が、今や上杉家の希望になりつつある。
父親の見つけてきたきな臭いアルバイトではあったが、大金が貰えるのなら、それに越したことはないのだ。
「まあ、せいぜいクビにならないように、な」
机の上のスタンドライトを消す。
毛布を掛けてやる気にはなれず、今の金太郎には、これが精一杯の優しさだった。