「金太郎………!?」
特に猛吹雪などが来るわけでもなく、無事に夕方頃に林間学校の場所に辿り着いた金太郎。
クラスに合流しようとした所で、兄と鉢合わせた。
「お前、どうやってここに………」
「バイク」
「バイクぅ!?」
「親父が無理やり来させたんだよ、あー、だりぃ」
長距離ドライブで凝り固まった身体をほぐすように肩を回す。
楽しくない訳ではなかったが、あまりに長いと疲労もかなりのものなのだと、金太郎は痛感した。
「一年はあっちか………休みてえけど、しゃあねえ」
「あ、おい………!」
二年の風太郎のいる施設の反対側へ歩く金太郎。
風太郎は声をかけはしたが、何を言えば良いのかわからなかった。
「………んだよ」
ちらりと、風太郎の腕を見る。妹のらいはが編んだのであろう、ミサンガが姿を見せていた。
「………いや。まあ、なんだ。楽しめよ」
「………俺がいることで、楽しめる奴がいればな」
昨晩はどうでもいいなどと嘯いていた風太郎に、どの口が、という言葉が出かかるが押し込んで答える。
兄へは反抗心ばかり見せていたが、少しは自制出来るようになっているようだった。
そして、クラスと合流して歓迎される自分が全く想像できないことに、来なければ良かったかもしれないと少し憂鬱になり始めていた。
◆
「二乃、野菜切るの速っ!」
「流石、家事やってるだけあるね~」
「これくらい楽勝よ」
軽やかに人参が刻まれていく。
林間学校一日目、夕食のカレーライス作りが行われていた。
二乃は、その中でも普段から料理慣れしていることも相まって、リーダーシップを発揮し、男子に飯盒炊さんを、女子にはカレールーを作るよう指揮していた。
(始まったわね)
特別楽しみにしていた訳ではなかったが、それでもこうしてイベントごとに参加するのはそれなりにワクワクする。
それに、クラスは違うが、姉妹五人で同じイベントを過ごせることが、二乃は嬉しかった。
(あれ、上杉じゃない)
別のクラスの風太郎が、炊事場から離れていくのが目に入った。
「あいつ、サボるつもり………?」
勉強ばかりで、学校行事に興味を示していないだろう風太郎なら、あり得ることだと思った。
「皆がちゃんと料理してるってのに………良いご身分ね」
二乃が苛立ちを感じていると、風太郎が誰かと会話しているのが見えた。
「………えっ」
そこには、逆立てた金髪をした、風太郎と同年代の少年がいた。
「あれ………もしかして、上杉の弟………!?」
友人がいないと聞く風太郎が、やたらと積極的に話している。
その状況と、風太郎の生徒手帳に挟まった写真の少年の姿と似ていることから、風太郎の弟であると確信した。
「あっ………」
呆気にとられて見ていると、金髪の少年は一年生の炊事場へと向かって歩き始めていた。
「ま、待って!私───!」
包丁を置いて、金髪の少年を追いかけようとする。
しかし。
「二乃ー!男子がご飯焦がしたー!」
「二乃!男子と女子が喧嘩始めちゃった!ちょっと来て!」
「えっ?わ、私………」
クラスの女子たちが一斉に二乃を囲み、追えなくなってしまった。
「あっ………」
クラスメイトに囲まれて時間をとられた隙に、視界から、もう金髪の少年の姿は消えていた。
「んだよ!飯盒炊さんなんてやったことねーんよ!」
怒り任せに叫ぶ男子の声が聞こえてきた。
ご飯を焦がした男子が、逆ギレしているらしかった。
「誰だってこうなるに決まってんだろ!大体、男子に任せたそっちが───」
「───じゃあ、私たちだけでやってみるから、そっちは黙ってて?」
二乃が、ニッコリと満面の笑みを浮かべながら男子に迫る。
その姿は、誰がどう見ても相当にキレていた。
「………お、おう………わかり、ました………」
「に、二乃、怒ってるぅ~………」
二乃の苛立ちは、男子だけでなく女子たちにも伝わるほどだった。
(………弟君、林間学校にいるんだ)
そんな中でも、二乃の頭の中は風太郎の弟でいっぱいになっていた。
林間学校にいる、ということは、同じ学校のはずだった。
(もしかしたら、会えるかも………!)
そう思うと、焦げたカレーライスのことなど、どうでもよくなっていた。
◆
「上杉君、野菜切るの凄い手慣れてるね~!」
「上杉、料理出来たんだな、すげー!」
「うわっ、このカレーうまっ!」
「私たち料理出来ないから困ってたんだー、ありがとう、上杉君っ」
「………」
クラスに合流した金太郎は、最初こそ恐れられている雰囲気だった。
だがカレーライス作りが始まると、アルバイトや普段の夕食作りで慣れた手付きを活かし、テキパキとカレーを作っていった。
料理が出来ないという同じ班のクラスメイト達の分まで働き、出来上がったカレーライスは好評だった。
あまり話したことないようなクラスメイトから、その手際を褒められ、作ったものを褒められ、働きぶりを褒められた金太郎は、困惑していた。
「あ、後片付けは私たちだけでやっとくよ」
「料理ほとんどやってもらったからなぁ、上杉は休んでてくれよ」
「えっ?あ、ああ、どうも………」
同じ班のクラスメイトが後片付けを始めるのを、金太郎は座って見ていた。
煙たがられることはあっても、気遣われることには慣れていなかった。
(壁作ってたのは俺だけだったのかね)
高校に入学してから、不良然とした風貌で誰からも近寄られず、金太郎自身もクラスメイトに近寄ろうとしなかった。
しかし、それは結局、自分が壁を作っていただけで、案外、話しかければなんでもないように仲良くできるのかもしれないと思った。
「ま、今更仲良しこよしする気もないけど」
家族に追い立てられるように、強行して林間学校に来てはいるが、金太郎のスタンスは変わっていない。
余暇の時間は金を稼ぐために使う。
そのために、友人を作って現を抜かさないようにしてきた。
それを、入学から半年以上経った今更、崩す気はなかった。
金太郎が兄と同じく、友人の作り方を知らないことも、大きな理由の一つではあったが。
「二年の先輩が主催して肝試しやってるんだって!」
「え~行ってみようかなぁ」
「やだ、怖いよ~」
日が完全に落ちて、暗くなった頃合い。
炊事の後片付けを終えた生徒の話し声が耳に入る。
「肝試し、ね」
近場には森林が生い茂っており、確かに暗がりで肝試しをするにはぴったりなシチュエーションだった。
(くだらね………)
普段から祭りごとに参加しない金太郎には、縁が遠いことのように思えた。
「な、なあ、良かったら、肝試し、一緒に行かないか………?」
「えっ?」
男子生徒が、女子生徒を誘っているのが目に入った。
緊張した面持ちの男子生徒を見て、女子生徒が頬を赤く染める。
「う、うん、いいよ」
「ほ、本当か………!?」
男子生徒がガッツポーズをとる。
並んで森林に入っていく二人の姿を見て、ふいに今朝の父の言葉を思い出す。
───そのくだらなさで、人生が変わることもある───
「………」
金太郎は、自分が大体のことを”くだらない”と遠ざけていることに気付いた。
そんな自分を、つまらない人間だな、と思った。
「参加、してみるのもいいか」
立ち上がって、炊事場から森林に向かって歩き始めた。
◆
「うううう………やっぱり参加するんじゃありませんでした………」
「ちょっと、離れなさいよ」
暗い森の中、五月が同行者の二乃に抱き付きながら呟く。
「この森は”出る”らしいのです………森に入ったきり行方知れずになった人がいるのだとか………」
「そんなのデマに決まってるじゃない」
ため息をつく。
二乃は、林間学校はもっと楽しいものだと思っていたが、現状楽しいと思うよりも面倒ごとの方が多かった。
(弟君、探しに行きたいのにな………)
夕食作りの時に見かけた風太郎の弟、らしき人物。
好みのタイプどんぴしゃである彼を探しに、一年生のコテージに行きたがっていたが、様々な要因が重なって実行できずにいた。
ギィィィ
「!」
森に聞こえるはずのない金切り音に、五月と二乃が息を吞む。
そこにバサッ!とピエロのお面を付けた人物がブラァンと現れた。
「わああああ!もう嫌ですぅぅぅぅ!」
「ちょ、五月!待ちなさい!」
走って森の奥へ逃げていく五月を、二乃が追いかける。
「………五月の奴、本当にこういうの苦手だったのか………」
お面をずらして呟くのは、ピエロに扮した風太郎であった。
「あちゃー………やりすぎちゃいましたね………」
包帯を付け、ミイラのような仮装をした四葉が隣にやってくる。
風太郎の後におどかす予定だったが、出番が来る前に逃げて行ってしまった。
「あれ、あいつら、どっちに行った?」
五月たちが走って行った先は、通常の歩道ルートではなく、崖があって危険な森の奥であった。
「あっちへ行ったのはやばいぞ………下手したら足滑らせて崖から落ちかねない」
「た、大変です、探しに行かないと………!」
四葉が慌てる。二人の姿は、もう見えないぐらい森の奥に走り去っていた。
「仕方ねえ、肝試しは一旦中断だ、五月と二乃を探しに………」
「げっ………」
そこへ、思わぬ人物が現れた。
「金太郎………?なんでこんな所に」
「肝試しやってるって言うから来ただけだ。テメーがいるなんて知ってたら来なかった」
そっぽを向きながら答える金太郎に、風太郎は思うところがあった。
「………お前、こういうの参加するんだな」
「気まぐれだよ。悪ぃかよ」
眉間に皺を寄せながら風太郎に目を向ける。
ふと、違和感を覚えた。
(こいつ………もしかして………)
風太郎の顔色が優れないことに気が付く。
少し息が上がっているような感じに、今朝まで看ていた妹のらいはの様子が重なる。
(………ま、いいか)
兄の体調が悪くなっているであろうことを見抜いたが、本人が何も言わないのなら黙っていようと決める。
あれだけ林間学校のしおりに付せんを挟んで楽しみにしていたのだから、熱があっても無理をしたくなるのだろう。
それに、兄にお節介を焼く気にはなれなかった。
「あの~、もしかして、上杉さんの弟さんですか?」
四葉が二人の間に顔を差し込む。
「そうだ、あ、いや、そうですが、そちらは………」
ため口で話しそうになるが、風太郎と一緒にいることから上級生の二年であると思い、敬語に直した。
「あー、家庭教師の生徒の四葉だ」
「中野四葉です、よろしくお願いしますっ」
「あ、どうも、いつも愚兄が世話になってます」
頭を下げる金太郎に、風太郎が眉をひそめる。
「お前、この前といい、愚兄ってなんだよ………大体、こいつの姉妹の方がよっぽど手を焼いて………」
そこで、風太郎がはっと息を呑んだ。
「そうだ、そんなことよりあいつらを探しに行かないと」
「はっ!そうでした!」
「金太郎。悪いが協力してくれ。こっちの、危険な森に入っていった奴らがいるんだ」
風太郎の素直な頼みに、金太郎は少し面食らう。
「………まあ、探すぐらいなら。どんな人なんだよ」
「こいつを見てくれ」
風太郎が四葉を指差す。
「こいつと同じ顔の奴が二人だ」
「雑っ!」
的確だが、あまりにも雑な表現に四葉が声を上げるが、金太郎は別のところが気になった。
「えっ、三つ子なんですか………?」
「いや、五つ子だ」
「五つ子っ!?」
驚く金太郎に、風太郎はまだ言ってなかったっけか?と呆ける。
「まあ、そんな訳だから、頼むぞ」
「えっ?あ、ああ、わかったよ………」
あまり頼み事をしない兄の真っ直ぐな頼みに、金太郎はどこか居心地の悪さを感じていた。
◆
「五月ー!どこ行ったのよー!」
スマートフォンのライトをかざしながら、二乃が森の中を進む。
「暗いわね………本当にこっちで合ってんのかしら………」
明かりをつけなければ足元が見えないほどの暗がりの中、一向に見つからない五月にため息が漏れる。
「えっ」
スマートフォンのライトが途切れる。
充電が切れてしまったようだった。
「嘘っ、もう!?昨日充電するの忘れてたかも………」
画面に明かりが灯らなくなったスマートフォンを見つめ、二乃の気分は落ち込んでいた。
「なんなのよ………せっかくの林間学校なのに、班の男子は言うこと聞かないし、弟君とは会えないし、しまいにはこんな所で一人に………」
ふと、ザアアアアという森のざわめきが聞こえる。
スマートフォンから森に目を向けると、暗闇の森に恐怖心が煽られる。
───ザッ───
「いやっ………!」
森の奥から聞こえる物音に、たまらず走り出す二乃。
「きゃっ………!?」
しかし、足が木の枝にひっかかり、転んでしまった。
「………痛っ………」
木の枝がひっかかり、足から血が出ていた。
「………最悪………」
どうして、自分がこんな目に。
二乃の目の端には、涙さえ浮かんでいた。
「───大丈夫ですか?」
声をかけられる。
聞いたことのある声に似た声音の主に、二乃が目を向ける。
そこには、逆立てた金髪の、会いたくて恋焦がれていた男子生徒がいた。
「嘘………キミ………写真の………」
「?」
呟いた二乃の声がよく聞き取れず、金太郎は近寄る。
「やっぱり………あの写真の顔だ」
「写真?」
近付いた少年の顔がよく見えるようになり、二乃は会いたがっていた人物であると確信した。
二乃に近付いた少年が、彼女の足の怪我を見る。
「あー、ちょっと失礼しますよ」
ポケットからハンカチを取り出し、二乃の足に当てる。そして、自分の上着をさっと脱ぐと、その上から抑えるようにぎゅっと結んだ。
「あっ………」
「応急処置なんで。戻ったらちゃんと手当てしてもらってください」
二乃があまりにスマートな対応に唖然としていると、少年が手を差し伸べる。
「助けに来ました。立てますか?」
「───っ!!」
その一言で、二乃が写真の少年に抱いていた仄かな憧れの気持ちが、明確に恋に変わったのを実感した。
◆
(なんか、よそよそしいっつーか………)
手を引いて立ち上がらせた彼女は、頬を赤らめながら俯いてしまった。
(流石に図々しすぎたかね………)
なんだか様子のおかしい彼女に、金太郎は自身の行動が良くなかったかと思案する。
いきなり手当てをしたのは、図々しかったか。
あるいは、見知らぬ男子生徒のハンカチや衣服を自分の素肌に当てられるのは、女性には失礼だったか。
(謝るべきか………?)
兄の家庭教師の生徒、つまり雇い主だ。そんな相手に失礼を働き、兄に迷惑をかけるなど言語道断だ。
これ以上兄に借りを作る訳にはいかない。
「あの、なんか勝手なことしてすんませ───」
「キミの名前教えて!」
「───え?」
謝ろうとした金太郎を、二乃の言葉が遮った。
「あ、ごめんね!何か言った………?」
「………あ、いや。勝手に手当てして、なんか気分を害されてしまったなら、謝ろうかと………」
「そんなことない!」
「───っ」
二乃が前のめりになり、金太郎が少し後ずさる。
「気分を害するなんて、そんなこと全然ない!ありがとう!痛かったから助かったわ!」
「そ、そうっすか。なら良かったっすけど」
急に声を大きくして金太郎の言葉を否定する彼女の姿に、ペースを乱されるのを感じる。
「あのね、私、前にキミの写真を見たことがあって、かっこいいなーって思ってたんだ」
「写真………?」
自分の写真など、どこで見たのだろうか。
金太郎は、自分が写真に写るのを嫌がり、ここ数年は写真を撮った覚えがないことから、不審に思う。
「俺の写真なんてどこで………」
「そ、それでね!キミの名前、教えてほしいなぁって………」
そう言われ、金太郎はまだ彼女の名前を知らないことに気付いた。
(あいつ………探しに行かせるなら、名前ぐらい教えろよ………)
心の中で兄に悪態をつきながら、金太郎は答えた。
「上杉金太郎です。あー、いつも兄が世話になってます」
「キンタロー君っていうんだ」
告げられた名前を、噛み締めるように呟く。
「私、中野二乃。助けてくれて、ありがとう」
二乃の表情は、どこか嬉しそうだった。
「それにしても、まさかあいつの弟、金太郎君が探しに来てくれるなんて思わなかったわ」
「いえ、まあ………」
(そのあいつに言われたんだけどな………)
金太郎は、自分と同じように兄のことを”あいつ”と呼ぶことから、二乃はあまり兄のことを好いていないのかと邪推した。
「じゃあ、戻りましょうか。ここは正規の道じゃないんで、危ないっすよ」
「あ、待って」
元来た道を引き返そうとする金太郎に、二乃が静止をかけた。
「妹と逸れちゃったの、危ない場所なら余計心配だわ、一緒に探してくれないかな………」
「あー………」
(二人、いるって言ってたな………)
捜索を依頼された手前、二乃を一人にもできず、金太郎は頷くことしかできなかった。
「………」
「………」
並んで歩く二人の間に、沈黙が流れる。
暗い森の中、より静けさが目立っていた。
それも。
「───っ!」
目が合うと、途端に目を逸らされる。
そんな二乃に、やりにくさを感じていた。
(あいつが嫌われてるから、その弟もって感じか………?)
どうも、二乃は兄を良く思っていない様子。
その兄弟にも、良くない感情を抱いているからか。
金太郎がそう思案していると。
───あ───
「えっ───」
女の声のような音が森の中に反響する。
「ねえ、何か声みたいなの聞こえない………?」
夜の森の暗闇が、見つめているような感覚に陥る。
すると。
───あ あ あ───
今度は、明確に聞こえた。間違いなく、女の呻くような声だった。
───この森は”出る”らしいのです………森に入ったきり行方知れずになった人がいるのだとか───
五月の言葉を思い出し、二乃は恐怖で固まる。
そんな彼女の前に、金太郎がさっと庇うように立った。
「大丈夫。何か来ても俺がいるんで」
自分を庇ってくれた金太郎に、二乃は胸の高鳴りを抑えられなかった。
(かっこいい………)
男らしく、頼もしい背中にますます恋心を刺激される。
(わ、私も、キンタロー君に良い所見せないと───)
颯爽と駆け付け、足の怪我の手当てをし、守ってくれようとする、まるで王子様のように見える金太郎の姿に、二乃は好かれるために、何かしなければと使命感に駆られる。
(そうだわ。キンタロー君は、私より年下なんだから………!)
下級生である金太郎より、自分がしっかりしなければと二乃は想起する。
「───こっち!この道の方が楽そうだわ!コテージに早く戻れるかも………!」
「えっ?ちょっ」
突然、二乃が走り出した。
唐突な行動に、金太郎が遅れて着いて行く。
「ほら、森もすぐ抜ける!」
走って行った先に、木々がなくなり、開けた道が広がっている、かのように思えた。
「あ───」
どうやら、走った先が崖際だったようで、二乃の足は空を踏み、バランスを崩す。
(うそ───)
崖から落ちる。
二乃は、目の前に広がる、高い位置からの景色に、呆気にとられたまま何も考えられずにいた。
「っ!」
「───っ!?」
グイッと体が反転する。
金太郎が崖から飛び出すように二乃の手を掴み、力の限り崖際に向かって放り投げていた。
「あ───」
金太郎の体が、吸い込まれるように崖下へと落ちていく。
その姿を、二乃は見ていることしか出来なかった。
◆
「ぐっ───」
バサバサッと木の枝に体がぶつかり、身体中に切り傷が刻まれていく。
───ガタッ!!───
「がっ───」
地面に激突する。
木の枝で衝撃が薄れたとはいえ、かなりの激痛が走る。
激痛と衝撃で、上手く呼吸ができない。
(───死ぬ………───)
落下の衝撃から、死が思い浮かぶ。
痛みに悶えてしまい、上手く考えが纏まらない。
(………まあ、誰かを助けられたんなら………)
そんな中でも、頭によぎったのは、誰かを助けられたのなら、まだ自分に価値があったんじゃないか、ということだった。
ふと、直前に二乃と交わした会話を思い出す。
彼女は自分の写真を見たという。
会ったこともない風太郎の生徒の二乃が、金髪に染めてから撮った覚えのない自分の、”金髪の少年”の写真というなら、それは多分、自分ではなく昔の兄の写真を見たのではないか。
(それを、俺に言われてもな………)
つまり、勘違いで知られていた、と思われていた。
痛みに苦しみながら、少し苦笑いが漏れた。
(写真、か………)
写真。
それは、金太郎にとって、特別な意味が込められたものだった。
(死ぬなら、もうちょっと、写真撮っとけば良かったかな………)
金太郎の脳裏に、走馬灯のように過去の思い出が流れ始めた。
◆◇◆
「おかあさん、わらってー!」
パシャリ、とシャッターが切られる。
業務用の一眼レフカメラは、幼児である金太郎にはいささか大仰なものだった。
「あ、金太郎!お前また俺のカメラ使いやがったな!」
「まあまあ、あなた。金太郎は、私の写真を撮ってくれてたの」
「へへへ、みておとうさん、おかあさんのしゃしん!」
それは、手元が覚束ない幼児が撮ったため、ブレてぼやけた写真だった。
「しゃあねえなあ………」
「わっ!」
父、勇也が、金太郎の脇に手を入れ、抱き上げる。
自分の仕事道具を危うく使われたことは叱りたかったが、自分の仕事に興味を持つ息子に、気を良くしたのは事実だった。
「撮り方教えてやるから、ちゃんと覚えろよ?」
「うん!」
「あらあら。じゃあ、金太郎、私の写真、たくさん撮ってくれる?」
「───うん!!いっぱいとる───!!」
写真の撮り方を教えてもらった金太郎は、その日から写真をたくさん撮るようになった。
◇
「ひっ………うぐっ………」
「おかあさん………うわぁん………」
「………っ」
母が事故で亡くなった。
あまりに突然の死に、金太郎も、まだ小さいらいはも、ただ泣くことしかできなかった。
そんな弟たちを見て、涙を抑えようとする風太郎も、嗚咽を堪え切れていなかった。
「お前ら」
そんな子供たちに、勇也が語りかける。
「これを見てくれ」
そこには、一冊のアルバムが広げられていた。
「金太郎が撮ってくれた、母さんの写真だ。たっくさんある。これを見れば、いつでも母さんを思い出せるぞ」
そう言って、父が金太郎の頭を撫でる。
「ありがとう、金太郎。お前のおかげで俺たちは母さんを覚えてられる」
「………っ!」
金太郎が再び泣き叫ぶ。
母を亡くした悲しみと、写真を撮って良かったという気持ちが溢れて、その日は一日中泣いた。
この日、金太郎にとって、”写真を撮る”ということが、特別なことになった。
◇
そんな金太郎が、写真を撮ることをやめたのは、兄に成績で負けるようになってからだった。
「………お前、また喧嘩したんだってな」
家に帰ると、父が眉をひそめて待っていた。
「………」
常に100点を取るようになり、勉強でトップをとるようになった兄への劣等感から、金太郎はこれまで励んでいた勉強を一切捨てて、毎晩喧嘩を繰り返すようになっていた。
当然、その原因となった兄と、引いては家族と接する態度は、冷たいものとなっていた。
「あれだけ勉強ばかりしていたお前が、それをきっぱりやめたのは、風太郎が原因なんだろ?」
「………ッ!」
金太郎が、父の胸倉を掴んだ。
「………それ以上言ったら殺すぞ」
「俺は、お前のことは立派な息子だと思ってる」
勇也が、金太郎の手を掴む。
「勉強が出来るのは誇れることだったが、別にそれがなくなったからって誇れなくなる訳じゃない。お前が勉強が出来なくたって俺は構わないんだ」
「………だからなんだよ?」
勇也が、自分の胸倉を掴む金太郎の手を、ほぐすように離させる。
「お前には、もうひとつ誇れるものがあったろ」
「………ねえよ」
「写真だ」
「っ………!」
息を呑んだ金太郎に、勇也は続ける。
「お前、母さんの写真、たくさん撮ってくれてたろ?だから俺たちは母さんをいつでも思い出せる。それは、胸を張って誇れることだろ」
「………それ以上言うな」
「別に何が出来なくたってお前は立派な息子だ。でもな、お前には写真を撮るって才能があることを、忘れないでほしい」
「言うなっつてんだろうが!!」
いてもたってもいられず、金太郎が玄関から飛び出す。
「金太郎!」
「俺には、もう母さんに向けられる顔なんざねえんだよ………!」
金太郎が走る。
その姿は、兄に勉強で負けたことにショックを受けて、思わず走り出した時と同じだった。
(………そうだ、俺には、もう………)
鏡に映る自分の姿を見る。
逆立てた金髪に、顔中が傷や痣だらけ。
以前とはまるで変わってしまった自分の、どこを誇って見せられるというのか。
勉強で兄に負けた劣等感から、喧嘩に走るようになり、そんな自分自身に絶望した金太郎は、母との綺麗な思い出である”写真”から、逃げるようになった。
自分と亡くなった母を繋ぐ、唯一の綺麗な思い出を、自分が汚してしまわないために。
◆◇◆
(………母さんに、会えるかな………)
意識が薄れていく。
久しぶりに会えたとしたら、母は今の自分を見てなんと言うだろうか。
(写真、いっぱい撮れなくて、ごめん………)
あれから、喧嘩に、バイトに、何かから逃げるように写真を遠ざけてきた。
だが、ここで尽きる命だったなら、もう少し、母との思い出を大切に育てれば良かった。
金太郎は、少し、これまでの自分の人生を後悔した。
「───い、おーいっ!金太郎っ!」
ふと、息を切らし、顔を高熱に火照らせながら走ってくる兄の姿が目に映る。
(───なんだよ。最後までお前が持ってくのかよ)
最後の瞬間まで、兄の幻覚を見るとは。
走馬灯の最後にまで見てしまうほど、自分の心に大きく兄という存在が影響しているらしかった。
(まあ、いいけど───)
いっつも、自分の先をいき、鼻持ちならない態度の兄。
しかし、同時に、不器用だが優しかった。
そんな兄のことを激しく嫌いながらも、心の底から嫌いになりきれていなかった。
(もしかして、好きだったのかなぁ)
普段ならば、絶対に思わないようなことを思いながら、金太郎は意識を手放した。