穴部瑠璃 〜海の畔の小領で〜【完結】 作:PureFighter00
夕飯時を過ぎた頃、江戸川少年が医者を連れて瑠璃の下にやってきた。医者と言っても田舎では「名乗れば医者」であり多少は医療を知っている程度の存在だ。瑠璃を診ても「風邪じゃな」程度で薬も出さない。温めて頭を冷やし、精のつく物を食わせろ程度の話しかしない。この様な状況であるから修験者達が加持祈祷を頼まれたりするという寸法だ。蘭学医が活躍したり漢方医が活躍できるのは江戸を始めとする大都市ぐらいのものである。それ故に病死者というのは存外に多い。風邪でも人は死ぬ。
その光景を見ていた江戸川少年の頬は赤い。瑠璃の一大事に気が張って発熱などに耐えていたのだろうが、一気に身体に気怠さが出て来たのかもしれない。
修験者は力一杯手を合わせて手を打つ。破裂音の後に真言が続く。
「オン コロコロ センダリマトウギソワカ!」
合掌したまま修験者が少年を凝視すると、何かに耐えかねた様に少年から這い出す黒い霧の様なものが見えた。
「えっ?」弁天が息を呑む。御仏の光で照らすと鬼は可視化されるのだ。この状態だと人間にも見えやすくなる。
「元は、人か……」思いの外優しく修験者が手を差し伸べて黒い霧を掴む。
「恐れるな。御仏の慈悲は広大無辺じゃ……羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶……」
一瞬小さく縮こまり黒さを増した「何か」が真言呪を唱えると段々霧散して薄れて行く……
「あれが鬼じゃ。病魔になっとったな」
「なんか少年、ぐったりしてるが平気か?」
「疲れとるんじゃろ。憑かれてた故」
「降魔調伏? つかれてたからつかれた?」
「色即是空 空即是色。受想行識亦復如是ってな。鬼も人も無い。魔も何もない。五蘊皆空じゃ。故に御仏は万物を救い賜う……とりあえず寝かせてやれ。病魔は取り除いたが病気は暫く残る。今は人事を尽くすべし……弁天、任せたぞ」
「ど……どこに行くんだ修験者?」
「山へ。山には全てがある」
カルロスは妙な感を得た。髑髏本尊が発するアナテマの瘴気が薄れつつある? 彼は教えられた秘法に従い、人形金剛杵を右手に構えて十七清浄句を唱える。
妙適淸淨句是菩薩位
慾箭淸淨句是菩薩位
觸淸淨句是菩薩位
愛縛淸淨句是菩薩位
…………
……
それは
修験者は初めて百鬼夜行なる物を見た。モヤモヤとした空間の歪みが風に乗せられ町に向かう。一つづつ消滅させるのも手間だななどと思いつつ、岬に程近い大岩の上で結跏趺坐して経文を唱える。
「
理趣経だ。真言宗系に属する修験者が良く唱える経文であり、悟りの道筋を説いた経である。真言宗系であるが為に修験者は他の阿蘇山修験者(天台宗系が多い)と離れて修行する羽目になっているのだが……彼は正式に法脈を継ぐ当山派だ。
奇しくも共に理趣経を誦じているのだが、当然正式に学び内容も知悉している修験者の経の方が功徳強度は高い。釈尊の教えを載せた言霊が御仏の力を顕現させて……たちまちの内に鬼達は霧散し始め、風は病を呼ぶものではなく病魔を退散させる御仏の風に変わった。明らかに邪法を用いた何者かが居る……鋭く闇を睨んだ修験者は、走り寄る四人の大男の姿を認めた。身の丈5尺7寸の修験者はこの地でも大柄な方であるが、彼らは皆6尺近い体躯に見事な筋肉を付けている。弁天なら鬼と呼んだだろう。しかしマントを羽織り金髪碧眼の彼らは修験者から見れば「相撲取りか人足崩れ」でしかない。
「ヒラメ、か」
マント姿がそう見えたのではなく、神通により来世の姿が見えてしまっただけの話。彼らの来世は海の底に住むヒラメであった。今夜死ぬ運命では無いらしい。
「ヒラメ予定」達が湾曲した奇妙な形の剣を抜く。殺意は本物で修験者を切り殺すつもりの様だ。それでは無間地獄行き確定になってしまうので、彼らの為にも「殺されてしまう訳には行かない」 割と慈悲深い所もある修験者であった。まぁ殺すなら熊の群れでもけしかけるしか無いのであるが。
とりあえず切り掛かってきた右手の大男をむんずと掴んで砂地に叩きつけた。修験者には命の火が見える……その蝋燭が尽きれば人は死ぬ。今の叩きつけで奴の命は2割ほど消えた。左手側から切り込んで来たヒラメ予定を今度は丁寧に
「
天狗達と磨いた体術だ。奴らはこれを木の葉隠れや葉隠の技と呼ぶ。掌底が
対する南蛮人達も決して弱者ではない。来世がヒラメと確定する程度には悪事を働き、人を殺傷した経験がある。彼らの生国では
まぁまぁ6割程度で良かろうと修験者は適当に加減して歩ける程度に痛め付ける。不意を突いて切り掛かったつもりの男が
お話にならない。これでは根子岳の月輪熊の方がまだ手強い。殺さぬ様に手加減し続けねばならぬので余計に疲れた。上手く当たれば月輪熊や鹿でも一撃で倒す(殺しはしない)修験者のゲンコツは、簡単に人を殺めてしまうのだ。呆れてヒラメ予定を見下すと、彼らは脚を引きずり退散した。
あっさりカルロス配下の西洋人を見逃した修験者であるが、姿を消した頃初めて「あれが伴天連とやらなのでは?」と気付いた。彼は美男美女を拐かす奴らが伴天連だと思い込んでいたので、単なる顔色が悪いゴロツキ程度に考えていた。そうかアレを捕まえれば良かったのか……米が一歩遠退いてしまった。不覚。
夜の岬の木々の中を修験者が歩く。夜目が効くのかその足取りには迷いが無い。
「全く……健磐龍命の庭先で鬼道とは……ここか」
そこには小さな社があった。かなり古びていて手入れをされた様子はない。とりあえずブチブチと社の周りの草を抜き、周囲を物理的に清めて社に正対する。
「此の神床に仰ぎ奉る 掛けまくも畏き 天照大御神 産土大神等の大前を拝み奉りて 恐み恐みも
大神等の廣き厚き御恵みを 辱み奉り 高き尊き神教のまにまに 直き正しき眞心もちて 誠の道に違ふことなく 負ひ持つ業に勵ましめ給ひ家門高く 身健に 世のため人のために盡さしめ給へと恐み恐みも
修験者が祝詞を奏上すると、辺りの雰囲気が張り詰め、凛とした空気が立ち込める。眠っていた神格が目覚めたのだ。暫くすると阿蘇山から噴煙が立ち上る。産土様を通じて九州全体の守護に封じられた健磐龍命が怪異を察知し……めっちゃくちゃ怒り出したのだ。この状態になると神々の怒りが鎮まるまで邪法は使えない。神域内で粗相をされてカンカンになってる神々の前で何かしでかそうものならかなり厳しめの神罰が下る……仏と違い、神々は割と怒りっぽい。
「さて、産土様、山神様。誠に申し訳ございませぬが、恵みをひとひら頂きとう存じます」
修験者がどれくらい強いかというと、川原正敏氏に見つかったら修羅の刻で当代の陸奥と戦わされてしまう程度です。