「ただいま」
――ガチャリと、ドアが開く音がする。
私は身を起こして、部屋に入る『彼女』に挨拶を返した。
「おかえり……」
すると、パタパタと触手が嬉しそうに揺れる。
……最近、どうすれば彼女が喜ぶのか、わかってきた。
(なんだか、ペットみたいで複雑だけど……)
顔色……というより、触手の動きを伺いながら、
彼女が喜ぶようなリアクションをしていると、
首輪を着けられているのも相まって、犬にでもなったかのような気分になる。
(……みちるちゃんを、怒らせたくないし)
今でこそみちるちゃんは優しく接してくれるけれど、
あの『しつけ』は、どんなに懇願しても、やめてくれなかった。
――たぶん、彼女は一度やると決めたことは貫く。そんな性格なんだろう。
「ふふ……」
手袋を外したみちるちゃんに、優しく頭を撫でられる。
それはなんだか暖かくて、安心して、ほだされそうになってしまうけど……。
(……やっぱり私は『日常』に帰りたい)
朝起きて、家族でご飯を食べて、家を出たらハナと合流して、学校で授業を受けて、ユリアちゃん達とお昼を過ごして、時には寄り道して帰る。
そんな『日常』を当たり前に過ごしていたときは、
まさかその『日常』に焦がれる日が来るなんて思いもしてなかった。
(それに……こんな生活、やっぱり、無理があるよ)
――先日、ユリアちゃんに疑われたのだと言いながら、
触手を尖らせる彼女を、一か八かで抱き着いてなだめたのを思い出す。
(みちるちゃん、どんどん不安定になってる……)
この間、乱暴に首輪を引かれたときもそうだったけれど、
最近、彼女の触手が不穏な空気を纏うことが増えたように思う。
(……ユリアちゃんも、変に深入りしないか心配だし)
ユリアちゃんは、控えめな性格で真面目な子だけれど、
たまに勇敢というか、無謀な気の強さを発揮することがある。
……みちるちゃんは、ユリアちゃんがどうこう出来る相手じゃない。
下手に追い詰めてしまったら――取り返しの付かないことになるかもしれない。
(心配って言うなら、みちるちゃんだって……)
彼女は疲れた様子を一切見せることはないけれど、
モデルに学業、どっちもやっているだけで大変な筈なのに、
そこに私を隠して世話をすることも加われば、負担にならないわけがない。
(日常に戻るための言い訳は、もう考えてある)
――何かに追われていて、彼女に匿ってもらっていた……
ありきたりではあるけれど、そんな風に私自身が
主張すれば、彼女も罪に問われることはないだろう。
(……まあ、私がちょっと病院のお世話になるかもしれないけど)
それくらいの犠牲で済むなら、と思案していると、
みちるちゃんの手が目の前に伸びて来ていることに気が付く。
「みこちゃん……。今日もいい子にしていたかしら」
くすりと息を漏らしながら伸ばされた彼女の手を取って、
それを両手で抱きしめ、軽く頬擦りをする。
「うん……。してたよ」
彼女はスキンシップが好きみたいで、少し恥ずかしいけれど、
私からこうやって触れると、バタバタと忙しなく触手が動き、
彼女自身の声も少しだけ高揚したものになる。
「そう……。それはよかったわ」
空いている方の手が私の頬に伸ばされて、そっと撫でられるのを感じながら、
彼女の、触手に覆われて見えない恐らく顔であろう部分を見上げた。
「みちるちゃんは、今日は何してたの?」
こうやって、私から話しかけると、彼女の触手は上機嫌に揺れる。
……顔を直接見たことがないからなんとも言えないけれど、
慣れてくると案外、表情より触手の方がわかりやすいのかもしれない。
「いつも通り学校に行って……帰りに、撮影があったの」
そう言って、みちるちゃんはテーブルに置いた袋から、何かを取り出す。
「最近、わたしがよくプリンのお店に寄っていたからか、
相手が気を利かせてくれて……有名なお店のプリンを渡してくれたのよ」
壺に入った、少し高級そうなプリンを見せながら、
くすくすと彼女が楽しげに吐息を漏らす。
「冷蔵庫に入れておくから、食べたくなったら食べてね」
心の底から嬉しそうな声を出して、冷蔵庫に向かう彼女を見ていると、
触手の動きで心境を読み、計算して喜ばせるような行動をするなんて、
純粋な彼女を騙しているような気がして、チクリと胸が痛んだ。
(ううん……。これは、みちるちゃんのためでもある……)
――ここ最近、彼女が喜ぶ行動を意識して取っているのは、
怒らせないためのご機嫌取りでもあるけれど……一番は、油断を誘うため。
(…………)
ちらりと、いつも身体の下に隠しているチェーンの一部分を見る。
首輪とベッドを繋ぐチェーン。その一部分には、小さなヒビが入っていた。
コンロで熱して、氷で冷却して……それを繰り返すことにより、
チェーンをギリギリまで劣化させることに成功している。
後は、何か強い力を加えれば破壊することができると思う。
(準備は、少しずつだけど、整ってきた……)
薬棚に目を向ける。そこに入っているのは、よく眠れるお薬。
みちるちゃんに不眠を訴えて、持ってきて貰ったものだ。
(……チャンスは、一度だけ)
ちらりと、冷蔵庫の扉を閉める彼女に目を向ける。
……最近は、チェーンを鳴らしても振り向くことが少なくなった。
--------
――入浴後、彼女が自分の髪を手入れしている間に、
冷蔵庫からミルクを取り出し、コップに注いでレンジで温める。
「ねえ、ホットミルク、作ってみたんだ」
手入れを終えたのを見計らってミルクをテーブルに置き、声を掛けると、
しゅるりと、触手が私の手のひらに巻き付いて来た。
「……やけどはしていない? 言ってくれたら作ってあげるのに」
「私、ホットミルクも作れない子供じゃないよ……」
過保護なリアクションに苦笑しながらも、テーブルに座り、
対面に座るよう促すと、みちるちゃんは狙い通り、私の正面に座った。
「それに……みちるちゃん、最近疲れてそうだったから、
ちょっとでも、リラックス出来るかなって……」
そう言ってカップを差し出すと、彼女は無言でじっと座っていたが、
触手は上機嫌な猫の尾のようにゆらり、ゆらりと背後で揺れていた。
(……喜んでる)
これから自分がすることを思うと、罪悪感で押しつぶされそうになるけれど、
表情には出さないようにして、先にホットミルクに口をつけた。
砂糖を多めに入れた、甘めのミルクを飲み下し、息をつくと、
みちるちゃんもゆっくりとカップを持ち上げ、飲み始めた。
「……甘い」
カップを置いて、彼女は一言、そう呟く。
「あ……甘いのは、あんまり好みじゃなかった?」
「いいえ。みこちゃんが用意してくれたものなら、なんでもうれしい」
「よかった……。みちるちゃんが喜んでくれると、私もうれしいよ」
さり気なく、もっと飲み進めてくれるように誘導すると、
彼女は手元の――たっぷりの睡眠薬を砂糖で誤魔化したミルクを、口に含む。
「…………」
段々と、彼女の口数が少なくなってきた。
ご機嫌に揺れていた周囲の触手も、力なく垂れ下がっている。
(……効いてきた、のかな)
ふわ、と、欠伸を噛み殺したような吐息の漏れる音がする。
それを見計らって、残ったミルクを飲み干して立ち上がった。
「みちるちゃん、今日はもう寝よっか?」
「そうね……。少し、疲れているみたい」
一服盛られたなんて、疑ってもいない様子を見ると胸が痛むけれど、
彼女のためでもあるのだからと、ポーカーフェイスを維持して
みちるちゃんの隣に立ち、ベッドまで誘導する。
「後片付けはやっておくから、先に横になってなよ」
「……置いておいてくれたら……明日の朝、やるわ……」
「このくらい洗っておくし、ゆっくり休んで」
彼女は本当に限界が近いみたいで、普段は平坦な声色も
少しだけふわふわしたものになって、ゆっくりとベッドに歩いていく。
(……薬、普通に効くんだな)
大量の睡眠薬を盛ったのだから当たり前といえば当たり前なのだけれど、
頭部が触手の塊に覆われて『見える』その姿は異形としての
インパクトが強すぎて、時々、実体が人間であることを忘れそうになる。
「…………」
ホットミルクに使ったコップを洗って棚に入れ、
みちるちゃんが横になっているベッドに、そっと歩み寄る。
「……みちるちゃん?」
声を掛けて、隣に座る。
……すう、と規則正しい寝息が返ってきた。
(うん、ちゃんと眠ってる……)
よく砕いて、一箱全部入れたから、多少飲み残していたとしても
当分目覚めることはないだろうけど……確認のため、一応身体に触れる。
「ねえ、もう寝ちゃったの?」
それらしい言葉をかけて、身体を揺さぶってみる。
彼女は一切の反応を返すことなく、触手も周囲にぐったりと垂れて、
ちょっと心配になってしまうくらい、ピクりとも動かない。
(……飲み過ぎたら危ない薬、とかじゃないよね?)
呼吸は整っているから、たぶん大丈夫だろうと少し不安になりながらも
そうっとベッドから立ち上がり、テーブルに壊れかけのチェーンを置いた。
そして、固く重たい、抱えられるサイズの本棚を持ち上げ、
気合を入れて、ヒビの入ったチェーンに叩きつける――!
「――っ!」
大きな音を立てて、チェーンの一部が砕け散った。
即座にみちるちゃんの方を伺うも、先程と全く変わらない姿勢で、
僅かに胸を上下させて眠り続けている。
(よし……後は鍵だけ……!)
壁に掛けられている彼女の制服を漁り、玄関の鍵を入手する。
……廊下に続く扉を開ける前に、一度だけ、彼女の方を振り向いた。
(…………)
――監禁されて、拘束されて、首輪まで着けられて……。
ひどい扱いを受けたはずなのに、私を信じて睡眠薬を盛られ、
横たわる彼女を見ていると、胸が締め付けられる想いになる。
(……あまり考えないようにしよう)
胸の痛みから目を背けるように、彼女から顔を逸らして、
廊下の扉を開けて、玄関の鍵を開けた。
そっとドアを開けると、冷たい夜風が身体に吹き付ける。
……罪悪感、高揚感、不安と希望が入り混じった複雑な感情で、
靴が無いので、少し迷いながらも素足で外に踏み出す。
(外、真っ暗だな……)
夜闇の暗さに怯みそうになりながらも、当たりを見回す。
どうやらここは、山奥にある、古びたアパートのようだった。
街灯は一切無く、整備すらされていない道が
満月によってうっすらと照らされて見えるだけの光景は、正直怖いけれど……。
(とにかく、下りて行って、道路さえ見つけられれば……)
今はただ進むしかないと、当ても無く、山道を下りていく――
--------
(ヤバい、完全に遭難した……)
――それが愚策だと気づいたのは、体感1時間も歩いた頃だったか。
いつまでたっても明かり一つ見えず、周辺には同じような木々だけが見える。
《オォ……ォ……ナ……ユルザ……ナ》
他に見えるものと言えば、しばらくご無沙汰だった、
亡霊とも怪異とも取れる、見てはいけないヤバイ奴らだけ。
今も、首を吊った女性のようなナニかが木にぶら下がっているのを、
見ないフリをして、少し離れた木にもたれかかり、休んでいるところだ。
(みちるちゃんの靴、借りちゃえばよかったかな……)
彼女の靴を取るのは抵抗があってやらなかったけれど、
山道の石や枝で傷ついたのか、ズキズキと足が痛む。
(でも、今更そんなこと考えても、遅いよね……)
こうしていても仕方がないと立ち上がり、
山のあちこちに居るヤバい奴らをフルシカトしながら、
痛む足を引きずって、少しずつ、少しずつ前に進んでいく。
「はぁ……、はぁ……」
――喉が渇いた、身体が重い……。
ずっと部屋に籠るだけの生活は、予想以上に私の体力を落としていた。
――歩き始めてから、数十分? 数時間?
時間感覚がなくなってしまうほど、がむしゃらに山道を歩き続けるも、
状況は全く変わらないどころか、どんどん悪化していた。
(だめ……もう、動けない……)
大きな木を背に、その場に座り込む。
喉はもうカラカラで、汗でぐっしょりと濡れた服に、
冷たい夜風が吹きすさび、残り少ない体力を奪っていく。
そんな時だった。
――チカ、チカ。
少し離れた所に、明かりが見えた。
それがスマホを持った人間だと認識した瞬間、体力を振り絞って声を出す。
「すみません、助けて……っ……!」
絞り出された声に反応して、明かりの方向が変わり、
こちら側を照らしながら、ゆっくりと近づいて来る。
(助かった……)
そう、思ったのも束の間――
「……助けてほしいの?」
頭上から下りてきた、耳馴染みのある声に、バッと顔を上げる。
眼前に、ビタンと鞭打つように、触手が叩きつけられた。
ヒュ、と、声にならない空気が喉を抜ける。
「いつのまに、そんな悪い子になってしまったのかしら」
恐る恐る、顔を上げると、ゆらゆらと不穏に浮き上がる触手と、
全身黒い制服に身を包んだ彼女の――みちるちゃんの姿が、目に入った。
「ねえ……いつから……わたしを騙していたの……?」
――ビキビキと、尖った触手の一つが、喉元に突き立てられる。
(怖い、怖い、怖いッ……!!)
初めて触手に向けられた、明確な敵意。
恐怖で、視界が滲む。
「…………」
しかし、尖った触手はすぐに私の喉元から引くと、
近くに居た怪異を貫き、粉々にした。
「……いいえ。わたしが悪かったのよね。
わたしがきちんと『しつけ』できなかったから……」
ブツブツと、早口で独り言を呟く彼女から、一歩後ずさると、
その動きに反応して、全ての触手が回り込むように動いた。
「夜の山は怖かったでしょう……安全なおうちに、早く帰りましょう」
触手に背後を取られ、動けない私の元に、
一歩一歩、音を立てて、ゆっくりと彼女が歩み寄る。
「ああ、こんなに傷ついてしまって……
ごめんなさい、わたしがもっと早く気付けていれば……」
私の脚についた細かい傷を指先でなぞりながら、彼女は触手を巻きつけて来た。
「どう、して……ここが……」
絞り出すように、頭に浮かんでいた疑問を口に出す。
……すると、彼女の触手が伸びて来て、つう、と私の首輪をなぞった。
「……あなたに何かあったら、すぐにわかるようにしていたから」
彼女自身は正解を伝えなかったけれど、触手の動きで答えがわかる。
首輪……そこに、GPSか何かが埋め込まれていたみたい……。
「さあ、帰りましょう……」
彼女の腕が背中と膝下に差し込まれ、
その上から触手で包むようにして、横抱きに抱え上げられる。
「…………」
その腕に、強く力が込められて、
ギシ、と関節が軋み、締め付けられる痛みに顔をしかめた。
「みちるちゃ……痛い……よ……」
身じろぎして、主張するも、その力が弱まることはなく。
「……やっぱり、加減なんてしてはいけなかったのね」
今の彼女は、私の言葉なんて聞こえていないみたいで、
独り言を呟きながら、私の身体をミシミシと強く締め付ける。
「……ッ……!」
――どうしよう。失敗した、失敗した……!
息が詰まるほどに締め付けられながら、頭の中を後悔が占めた。
私を抱く彼女は、かつてない程に不安定になっている。
「全部わたしが悪いの……わたしが……みこちゃんを危険な目に遭わせた」
視界に黒い物が映ったかと思えば、みちるちゃんの触手が、
四方八方に鋭く尖り、骨格で出来た翼のように広げられる。
それは、触れる物全てを破壊するような、威圧感を纏っていて――
「ヒッ……」
息を呑む私の目の前で、張り巡らされた触手をかすめた怪異が、
振り抜かれた触手に貫かれ、塵となって風に舞う。
「もう二度と、こんなことが起こらないように……
もっとちゃんと『おしおき』して『しつけ』しないと……」
黒いオーラを纏いながら、ブツブツと呟いて歩く彼女の腕の中で、
私はただ、これから行われるであろう何かに、怯えることしか出来なかった――
焦がれたけれど、捕まってしまったみこちゃん。
彼女に待ち受ける物は――?
お読み頂きありがとうございました。
感想やブックマーク、本当に励みになります。ありがとうございます。