Hertz-Maschine @ Metropolis 作:深山瀬怜/浅谷てるる
何が嘘で何が真実なのか。
目の前のことに立ち向かうために信じてきたことさえ揺らぐようなものを琥珀はこの目で見てしまった。
他の人が動かしたHertz-Maschineのプログラムを強制的に停止する方法は知っていた。それを戦場で使うのはルール違反だが、他の場所で使うのなら構わないのだと教えられた。登録されている人間の血液を利用して、動き出していたものを無理矢理停止させる。天青が使ったのはその方法だ。天青がそれを思いついたのは、あの蝶にはHertz-Maschineを介した攻撃しか通らないことを琥珀が教えたからだろう。けれどその二つの点を結ぶための何かを琥珀は知らない。何かが決定的に欠けているのだ。
最近桃簾が調べているということも気にかかる。王には隠された別の役目があるのかもしれない――それが何なのかは掴めないままだが、欠けているものを埋めるものはもしかしたらそれなのかもしれない。
「『誰の言葉で動いたのか』か……」
動いたのは自分の意志だ。けれどその根拠になったのは全て同じ人間の言葉だった。天青にあの言葉を投げかけられるまでそれに気付かなかった。琥珀に王の役目を教えたのも、戦争に駆り立てたのも、あの蝶についての情報を伝えたのも、全て一つの点に集まっていく。完全に信用していたわけではなかった。けれど玉髄が斃れ、周囲の人間に翻弄されるしかなかった琥珀に道を示したのもその人だった。けれどそれらが全て、嘘だったとしたら――。
琥珀は舌打ちをして立ち上がった。こんなところで考えていたところで疑念が膨らむだけで何の意味もない。気になるのなら直接ぶつける方が性に合っている。それで何かが壊れても、嘘の感情を浮かべ続けているよりはいい。
夜の闇に紛れる黒い外套を着て、琥珀はそっと部屋を出た。外出時には護衛をつけろと燐灰たちから散々言われていたが、一人の方が身軽だった。
*
誰にも見つからないような道を通り、琥珀は目的地を目指す。けれど狭い路地裏に入ったところで琥珀は足を止めた。いつもと何かが違う。静かすぎるのだ。暗闇の中でも動き続ける機械の音や、風が揺らしたゴミ袋の擦れる音くらいは聞こえる。けれどそれすらもないほどの沈黙。琥珀は周囲を警戒しながら刀に手をかける。
その瞬間に、何もない空間から煙のように黒い蝶が噴き出した。琥珀は唇を噛む。これが何かはわからない。けれど普通の攻撃は通じない。天青がやっていたように刃に血を塗り、琥珀を目指して飛んでくる蝶を斬り伏せる。しかし訪れた沈黙は一瞬だった。一旦消しても新しいものがどんどん湧き出してくるのだ。復活してくるものとは違う。倒されたそばから新しく生み出されている。
(誰かがけしかけてるのか……?)
けれど倒し方を知っている琥珀に対して同じ攻撃をしたところで琥珀を倒せはしない。けれど琥珀は戦いの中で同じような戦略を取ることもあった。相手の体力を削いでいくのが目的のときだ。
(大元を見つけないと駄目か)
安全な場所から蝶をけしかけている誰かを見つけなければならない。そうでなければ埒があかない。まだ長時間右手を使っていると手に力が入らなくなる。けれど得物を取り落としていては負けてしまう。琥珀は着ていた服を刀で裂き、即席で作った細長い布で右手と刀の柄を縛った。
(こんなところで足止めを食らってる時間はない……!)
確かめなければならない。自分の目で見たことだけが真実だ。琥珀は神経を研ぎ澄まして、蝶を発生させているはずの誰かの気配を探る。
しかし八度目のHertz-Maschineの発動の瞬間、病んだ肺に異変が起きた。体勢をどうにか整えながら咳き込むと、口を押さえた左手の掌に血が散る。こんなときに――歯噛みしながら、琥珀は目の前の敵を睨めつけた。
「お取り込み中のところ悪いのだけど」
この場所に似つかわしくないハイヒールの音を立てながら、髪の長い女が歩いてくる。逆光で見えなかったその顔が見えた瞬間に琥珀は目を瞠った。こんな夜更けにこんなところにいるような人間ではなかったからだ。
「〈
「あら、知ってもらえているなんて嬉しいわ。塔の外の知名度はそれほどでもないと思っていたから」
塔の歌姫として名前と顔だけは知っているだけだ。そして塔の外では「趣味」と称して闇オークションを潰して回る義賊であることも知られている。
「何の用かは知らないけど、邪魔しないで」
「それは無理よ。それにもう向こうも戦意喪失しちゃったみたいだし」
彼女ほどの知名度を持つ人間を巻き込むことを恐れたのだろうか。それとも他の理由か。確かに先程まで飛び回っていた蝶は忽然と姿を消していた。
「さて。邪魔者もいなくなってくれたことだし――私と一緒に来てもらうわよ」
「……何言ってるの」
「この前のオークションのときのお礼をしなきゃならないのよ。あなたのお兄さんと、あなたに」
「何の話かわからないけど、人を勝手に巻き込まないで」
琥珀は脅しのつもりで刀を〈砂漠の薔薇〉の首に突きつけるが、〈砂漠の薔薇〉は全く怯むことなく、むしろ真紅の唇に笑みを浮かべた。
「なるべく使いたくなかったのだけど」
〈砂漠の薔薇〉は溜息を吐いてから、ゆっくり息を吸う。夜の空気を震わせるような凛とした声が響いた。
「『動かないで』」
柔らかな声での命令。たったそれだけなのに、琥珀はそこから指一本すら動かせなくなる。それが塔の歌姫が持つ特殊な声の力だった。
「……っ、何のつもり」
「殴って気絶させるよりいいでしょう? だから暫く――『眠っていて』」
抵抗する術はなかった。抗えない声に体が先に従ってしまう。力の抜けた琥珀の体を支えながら、〈砂漠の薔薇〉は物陰に向かって声をかける。
「手伝ってくれないかしら、天青くん?」
「……もう少しやり方を考えろ」
「あら、私が思いつく限りこれが一番穏便だったのだけど」
眠っている琥珀の体を受け取り、天青は溜息を吐く。報酬の為に、琥珀が一人で行動する機会を狙っていた。そしてそれは思ったよりもずっと早く訪れた。不用心なことこの上ない。まだ怪我も治りきっていないというのに。天青は琥珀の刀と右手をきつく結び付けている布を解いた。
「……それにしても、あれをけしかけていたのは誰だったのかしら」
「さあな」
「でも使える人は限られているのよ。それぞれの国の王様と、それからあなただけ」
「普段あれだけ挑発してるんだ。狙われても仕方ないだろう」
「そう言いながら随分不機嫌そうに見えるけど?」
天青はそれには答えずに、〈砂漠の薔薇〉が呼んだ車の後部座席に琥珀を乗せる。塔の中にいられるのは少しの間だけ。おそらく一日もないだろう。けれどその短い時間でも、先延ばしくらいにはなる。そして〈砂漠の薔薇〉の方も琥珀に何か聞きたいことがあるらしかった。
「転がる石を止めることは、簡単にできることじゃないわ」
「何だ、急に」
「転がり落ちる運命を受け入れるなら、こんなに苦しまなくて済むんじゃないかしら。あなたたち二人とも」
「そういう運命なんだから甘んじて受け入れて死ねって言うのか」
琥珀が戦う動機は理解できる。望んでもないのに遺伝子をいじられ、失敗したからと投げ出されて、若くして死ぬ運命を背負わされるのはあまりにも理不尽だ。諦めてしまえば楽なのかもしれない。けれど諦めればかすかな希望さえついえてしまう。
「そこまでは言ってないわよ。でも――生きるために命を縮めてしまっているように見えるわ」
「……理解できないだろうな、上の人間には」
少なくとも自分がじきに死んでしまうと知りながら生きるのとは違う。持たざる者の感情は持つものには理解できないものだ。
「あなたが言うとそれは欺瞞ね。――だって王になれば、塔の中に住むことだってできるのに。あなたは望めばこちら側の人間になれる。血筋が違う琥珀ちゃんはわからないけどね」
「上の人間にも、他の王がやってることにも加担するつもりはない。だから国を出たんだ」
天青なりに運命に抗おうとした結果がそれだった。生まれながらに定められたものを捨てることでしか崩せない絶望があった。
――けれど、それだけでは足りなかったのだ。