Hertz-Maschine @ Metropolis 作:深山瀬怜/浅谷てるる
体が動かない。けれど見たことのない景色が広がっていたから、これは夢なのだと気付くのは容易だった。夜の暗闇。夜空に浮かぶ月は削り取られたような形になっている。この現象は月蝕というのだったか。塔の外の世界ではそれは再現されていないものだ。
血の匂いがする。それがどこからするものなのかを辿る前に琥珀の視界に黒い影が覆いかぶさり、次の瞬間には血の匂いがさらに濃くなった。口を開こうとすればそれを塞がれる。柔らかな感触。抵抗しようとすれば顎を押さえられ、息継ぎのためにわずかに開いた唇の隙間から舌が入り込んでくる。最悪の感覚だ。他人に自分の体をいいようにされて、蝕まれているような。
「ん……っ、」
抵抗したいのに、体は全く自由にならなかった。酸欠で頭が眩んできたところで、ようやく解放される。荒い呼吸を紡ぐ琥珀を、同じ顔をした少女が微笑みながら見下ろしていた。
「……何がしたいの」
棘のある琥珀の言葉にも、少女は笑みを崩さない。
「あなたに思い出してほしいの。本当のあなた自身を」
「思い出すも何も、私は私だけど」
「あなたは忘れてるんだよ。そのこと自体を忘れてしまっているだけ」
そういって再び唇を塞がれる。この行為に何の意味があるのだろうか。抵抗できないままに、白い手が身体をなぞるように滑り落ちていく。
「やめ……っ、離せ……!」
少女が何をしようとしているのか察知した琥珀は必死の抵抗を試みる。しかし、体は思うように動かせず、少女の手が素肌に触れる。
「こんなことして……何が目的なの?」
「目的? 強いて言うなら、あなたの奥底にあるものを見てみたい……ってところかな」
奥底にあるものなんてない。自嘲的に琥珀は思った。これと言ったものが自分にはなかった。得意なこともそれほどなければ、やりたいと強く思うこともあまりない。その中で唯一、守りたいと思える存在だけはできた。そんな人間の奥底に何があるというのか。
「あなたはまだあなた自身に気が付いてないだけ」
白く冷たい手が琥珀の衣服を乱していく。触れられる度に肌が粟立ち、嫌悪感に襲われる。他人に不躾に触れられて、自分の領域に土足で踏み入られたような不快感。しかしそれに微かに甘い痺れが混じっているのも事実だった。
「……やめ……っ」
睨んでみても少女が怯む気配はない。けれどこのままいいようにされるのも御免だ。再び少女が唇を合わせてきた瞬間、琥珀はその舌を強く噛んだ。その痛みで緩んだ拘束から素早く抜け出して、刀を鞘から抜く。
「本当に強情なんだから。でも、あなたは私から決して逃れられない」
笑みを浮かべる少女を、琥珀は袈裟懸けに斬りつける。しかし少女の姿はその瞬間に煙のように消えてしまった。逃げたのだろうか。いつでも攻撃できるようにしながら周囲を見回していると、突然全身を貫くような痛みに襲われた。地面に倒れる琥珀の目に、自分を見下ろす少女の笑みが焼き付いていった。
*
気が付けば琥珀は病院のベッドに横になっていた。視線を左手首に落とすと、そこには螺旋状に巻き付いたHertz-Maschineの端末がある。あれは紛れもなく現実の出来事だったのだと、その冷たい銀色が琥珀に指し示していた。
夢の残滓がまだ残っている。時折見る自分と同じ顔の少女が出てくる夢は何なのだろうか。あのまま抵抗できなかったらどうなっていたのだろうか。琥珀は溜息を吐いた。
夢は所詮夢だ。それより今は。琥珀は琥珀が目覚めたことに気付くことなく窓の外を見ている天青に声をかけた。
「……ありがとう」
琥珀は小さな声で呟く。天青はゆっくりと振り返って琥珀の顔を見た。
「あのまま放置されたらどうしようかと思った」
「人間としてさすがにそれはないと思うが」
沈黙が流れる。話さなければならないことは沢山あるはずなのに、言葉が出てこなかった。
「お前が抜け出したあと、全員めちゃくちゃ探してたらしいからな。あとで謝っといた方がいいんじゃないか?」
「……うん」
琥珀は病院をこっそり抜け出してHertz-Maschineのところまで行ったのだ。誰にも言わずに行ったので、本当にみんな探していたのだろう。琥珀は静かに左手を持ち上げる。逃れられない運命を示すような銀色が光った。
「……Hertz-Maschineがある限り私たちが助からないなら、あれを壊すしかない」
何よりも腹が立っていた。適合しなかったからいらない命だなんて、そんな理不尽が罷り通っていいはずない。
「――たとえ、差し違えてでも」
琥珀の声に、天青は思わず息を呑んだ。その言葉に嘘はない。自分の命よりも大切だと、琥珀は本気で言っているのだ。
自分の命など安いものだ。大切なものを天秤にかけたとき、琥珀の天秤はいつも同じ方が下に沈んだ。しかし天青は真っ直ぐに琥珀を見て言う。
「俺は、お前にも死んでほしくはない」
「……何もないんだよ」
持ち上げられていた左手と、言葉が同時に落ちる。琥珀はそのまま静かに話し始めた。
「私には『これがやりたい』とかそういうのが全然なくて……でもみんなを助けたいっていうのは、初めて思ったやりたいことだった……だから、これは私の全てなんだよ。これがなくなったら……きっと死んでるのと変わらない」
だからこそ、自分の命が対価になりうるのだ。そのときだけは安い命が価値を持つ。けれど――世界はそれを許さない。それなら世界の方を壊すしかないのだ。
「だから――私の邪魔をしないで」
真っ直ぐに、射抜くような目で琥珀は言う。天青はその目を見つめ返して応えた。
「……Hertz-Maschineを壊すという目的については、俺も同じだ。でも、このままそれを続けるのには反対だ」
「止めても無駄だよ」
「琥珀……」
「そもそもあんたが霜国王なら、私たちは敵だよ。それに……っ!」
言い募ろうとした琥珀が急に咳き込む。口を押さえた琥珀の手に鮮やかな赤色が散った。
「琥珀……!」
琥珀は咳き込みながらも、隣の棚の中からピルケースを取り出し、その中の薬を一錠飲んだ。塔に行ってからは初めての発作だ。けれど薬を飲んでしばらくすれば症状は落ち着く。そう思って数秒間目を閉じるが、呼吸は一向に楽にならなかった。それどころか胸に痛みが広がっていく。何かに蝕まれていくような、嫌な感じがした。