Hertz-Maschine @ Metropolis 作:深山瀬怜/浅谷てるる
体は問題なく動く。発作もあの一回以降は全く出ていなかった。それでも久しぶりの戦場の空気に呑まれてしまいそうだった。初陣のときとはまた違う緊張感に包まれる。それでも体が覚えている通りに準備をして、鉛華が仕立てた服に着替える。
今日の相手は號国軍だ。しかし王が出てくることはないのだろう。既に王がどういう存在なのかはわかっている。表に出てくるはずがない。ただ戦いをさせて、その中でできるだけたくさん殺し合ってくれることを望み、高みの見物をしているだけなのだから。
それを理解したからといって、琥珀は戦場に出るのを止めるつもりはなかった。自国民を殺さずに守ろうとする琥珀が王として許されているのは、その手で殺した他国民の数が膨大だからだ。Hertz-Maschineにとっては塔外の人間の命の全てが平等に無価値だ。大事なのは数。だから琥珀が手を汚せばそれだけ当座の間は守られるものがある。
それでもこの戦いが無為なものであるとわかってしまった衝撃からは抜け出しきれなかった。敵が何なのかははっきりしている。けれどそれはあまりに強大すぎて今の自分では太刀打ちできない。でも目の前の戦いにも集中しきれはしなかった。
玉髄から真実を知らされたときの天青もそうだったのだろうか。世界の残酷さを知ってしまったとき、自分の足元が崩れていくように感じたのだろうか。
頭の中の迷いを振り払うように、琥珀はブーツの紐をきつく結んだ。もう時間だ。迷っていても、否応なしに戦いの火蓋は切って落とされる。
飛び道具を多用する號国軍に対しては、下手に密集して突入するよりもそれぞれ距離をとって、個々の戦いに任せた方が上手くいく。兵の数は同じくらい。弓を使う天河や燐灰、橄欖にある程度数を削らせながら、相手の将を狙う機会を窺う。
「いい感じに減ってきた。最初の橄欖の攻撃が効いたね」
天河が言う。天河の矢は正確に相手を無力化していく。橄欖の攻撃はそれに対して、威力は大きいが時折何をしでかすか全くわからないので賭けのようなところはある。今日は一撃で数人を吹っ飛ばしていたので、調子が良かったのだろう。
「――あそこか」
敵の頭の居場所はわかった。あとは相手が対応できないくらいの速さで近付いて、その首を取れば終わる。道筋を描いてから琥珀は呼吸を整える。
「援護するよ」
「うん」
天河の言葉に短く答え、琥珀は強く一歩を踏み込んだ。まるで舞っているようだと言われるその動き。けれどそれは誰かに見せるためのものではなく、ただ敵を仕留めるためだけのものだ。戦場を駆け抜けて、空中で刀を抜きながらその首を狙う。
しかし地面に着く寸前で小さな鉄の矢が飛んできて、琥珀は咄嗟に狙いを変えてその矢を刀で斬り、軌道を変えた。着地には成功したが、そこは敵の目の前だ。男が構える刃が眼前に突きつけられる。残っていた兵たちがそれに気付いて琥珀が逃れられないように周りを取り囲んだ。けれどこの数ならまだ――琥珀が身構えた瞬間、背筋を氷でなぞられたような感覚に襲われた。
琥珀は自分自身の感情に戸惑う。戦場でそんなことを思ったことは今までなかった。自らの感情を打ち消そうとしても、どうしても先日の戦いの後のことが頭をよぎる。戦いの直後は確かに一番油断する瞬間だ。気がつかないうちに囲まれ、刺されていた。あのときの熱も痛みも同じ場所に立ってしまった今、思い出したくなくても鮮やかに蘇ってきてしまう。
(怖いのか、私は――)
それでもこの感情に負けてしまっては、最悪の結末しか待っていない。琥珀は刀を握り直し、呼吸を整えた。琥珀の状況を察した緑簾や翡翠がこちらに向かって来ているのが見える。琥珀はHertz-Maschineの端末に手を伸ばしかけて、途中でその手を止めた。この距離では、この前のようなことになったときに味方を巻き込んでしまう。――それが何よりも怖かった。
「どうした? 使わないのか?」
敵の挑発に耳を貸す必要などない。戦い方を決めるのは敵ではなく自分だ。けれど自分自身の内側からも琥珀を煽るような声がする。
(怖いのなら、私に全てを委ねてもいい)
ここは夢の中ではないはずなのに、夢の中の少女の白い手を思い出してしまう。幻の手が琥珀の右手に触れると同時に、赤く染まった景色が目に浮かぶ。その向こう側から聞こえてくるのは怨嗟の声。これまで殺してきた人間の声などほとんど覚えていないはずなのに、今になってそれが琥珀へ憎悪の感情を向ける。
内側からも外側からも、現実なのか幻なのかもわからない声が響く。琥珀は血が出るほど強く唇を噛み、低い声で呟いた。
「……どいつもこいつも五月蝿いんだよ」
敵の声も、自分自身から聞こえる声も、顔も覚えていない死人の声も、何もかもが耳障りだった。言葉では言い表せないほどの苛立ちが琥珀の中で燃えて、黒い何かが血管を巡って全身を満たしていく。
「あんたらに、私の――」
衝動に突き動かされるままに、琥珀は足を踏み出した。敵の刃が一斉に琥珀に向かう。けれどそれで自分が傷つくのも厭わず、琥珀は刀を振り下ろした。その相手の顔など見ていなかった。そこにいるのは自分自身のような気もした。
今更、恐怖なんて必要ない。心を殺してでも、勝つためには強くならなければならない。
「私の――何がわかるんだ!」
この想いの強さも、それが琥珀の全てであることも、本当にわかっている人なんて一人もいない。噎せ返るような血の匂いが満ちても、充足感のようなものは全く得られなかった。空虚な心の中に、戦闘終了を知らせる合図だけが響いていた。