私は、静かな所が好きだ。
私は、平穏が好きだ。
私は、毎日がただ平和に過ぎれば良いと思っている。
それは、感情が無くなってからも変わらない私の矜持だ。
「貴様……汚したな。 私の平穏を汚したな……」
ユラリ
私はゆっくりと、酷くゆっくりと土足で家へ上がる。 足元に転がるかつて父親だったものの顔を踏まないように慎重に上がる。
私には、感情がない。
それは、前世の私の願いである。
生きるのに疲れ果て、壊れてしまった男の願いである。
とある、偶然からその願いは叶い、今の私になった。
ミシリ
床を、強烈な力で踏みつける。
……では、今の私は本当に感情が無いのだろうか?
本当に、私の矜持に触れられたから、その原因を排除しようとしているだけなのだろうか?
『な……んだ、お前? 仲間じゃなかったのか……?』
化物が、父親の腕を食べながら話しかけてくる。
『な、何だお前! 一体何だ!?』
化物が、父親の腕を離し、触手を刃へと変える。
『グアアアアアア』
化物が、私に刃を仕掛けてくる。
(遅い、遅いなぁ、ああなんて遅い。 ……遅すぎるなあ、もっと早く帰って来ればなあ)
いつでも、殺せる。 きっとそんな慢心があったのだろう。
私はただ無表情に、ボンヤリとそれが届くのを待っていた。
故に、また遅れてしまったのだろう。
ガチャリ
「危ない、香織!」
ズバッ!
……。
誰かに、包まれている気がした。
「大丈夫だった? 香織?」
誰かに、撫でられてる気がした。
「お……母……さ……ん?」
ズバズバッ!
「うっ!」
「お母さん!!」
どうやら、私は母親に抱きしめられていたようだ。恐らく、それは前世の私には無い初めての経験だった為、気づかなかったのだろう。
だから、気づくのが遅れてしまったのだろう。
だから、目の前の母親も守れなかったのだろう。
私の中には、ほんの微かに少女の記憶がある。
大部分を占めているのは、かつて男だった時の記憶であるが…恐らくそれは、思いの強さからなのだろう。
「な……に…泣いてるの? …フフッ…久しぶり…に見たわあなたの……そ……んな顔……」
「お母……さん……」
母親が、覚束ない指取りで私の頬をなぞった。
どうやら、私は泣いているらしい
ああ、そうか……これは少女の涙か…
報われない男へ手を伸ばした優しい少女の涙か……。
……そうか、まだ残っていたのか私にも感情が……。
『まだ生きてるのか……人間。』
ヒュンッ…… ドスッ!
化物から伸びた刃は、母親もろとも私の胸を貫いた。
「お母さん!!!」
しかし、それはきっと抱きしめられていたからだろう。 私は致命傷を免れた。
ドサッ
私の頬からゆっくりと手を放しながら、母親が崩れ落ちていった。
ボタボタ……
私の右胸から、止めどなく血が流れる。
しかし私は、ゆっくりと立ち上がり、化物へと近づいていく。
「ああ、そうか私は怒っていたのか……」
私は、先程よりも強く床を踏みしめ、瞬間的に化物へと肉薄した。
そして、私は大きく回転しながら、脚を振り上げる。
「私に、感情を思い出させた罪は重いぞ、寄生生物。」
ドガン!!!
私が放った蹴りは化物を壁へとめり込ませ、そこで私は気を失った。
__
ピンポーン
「井上さーん、いますかー? 井上さーん?」
その時、回覧板を持ってきた隣近所の女性は、運が悪かったのだろう。
ガチャッ
「なんだ、いるんじゃない。井上さー……キャアアアアア」
そして、その悲鳴で気を取り戻した寄生生物は運が良かったのだろう。 唯一その場で、健康な身体であった女性に乗り移る事にしたのだ。
ズバッ ……シュルリ。 ……ドクン。
『ハァー……ハァー……早く、移動しなくては、見つかれば面倒な事になる』
恐らく自身を攻撃した彼女も死んでいるとみなしての行動だろう。
どうやら、成功したらしいその身体でその場を後にするのだった。
寄生生物が去ったその場には、端から見れば無残にも5つの遺体が遺されていた。
それは酷く凄惨な現場で、しばらくの間、世間を騒がすのだった。
__
ー事件後1週間。
「それじゃあ、君はやはり犯人の顔を見てないと……。」
「……すみません。」
「い、いやそんな責めてる訳じゃないんだっ」
「も、もう良いじゃ無いですかっ行きますよ警部!」
あの日から、1週間程経った。 世間では、「またも、連続
私はというと、事件の唯一の生き残りという事で始めの頃は疑われもしたが、この容姿が幸いしたのもあってか……
「唯一生き残った、薄幸の美少女か……」
私は、目線こそ隠されているものの、病院のベッドの上で週刊誌に載った自身の記事を見て辟易としていた。
あれ以来、全く動かなかった私の表情筋も、以前のこの身体の持ち主ぐらいには動くようになり、それも相まってか警察や周囲の人間からの同情は高まるばかりだった。
「全く、嬉しく無いがな……。」
感情というものが要らなかった男が感情に救われているのだから笑える話である。
あの日、自身の内側にあった感情を思い出した。
前世の私が封じ、寄生生物によって閉じ込められていた少女の感情を思い出した。
私は、病室の窓を見つめる。
優しい母親だった。
こんな私になっても一生懸命向き合おうとしてくれ、最後には私を庇ってまでくれた優しい母親だった。
優しい父親だった。
突き放してるように見えたが、あれは敢えて一歩引いて見てくれていたのだろう。 きっとそれが彼なりの優しさだったのだろう。
優しい両親だった。
「私の日常を、"平穏"を犯した罪は重いぞ、寄生生物ども」
窓に写った自分をみれば、薄く笑っていて、それはそれは獰猛な笑みを浮かべていた。