我ながらついていない。この二十数年の人生でそう思ったことが何度あっただろうか。
一年に最低一度あったとして、少なくとも歳の数だけか。節分の豆でもあるまいに。
「っ、頭・・・痛ぇ・・・」
側頭部で響く鈍い痛みが起床を妨げる。久しぶりに取れたオフの日。ゆっくり読書でも嗜もうとしていたのに、頭痛で起き上がることすらままならないなんて不運この上ない。
私自身の不摂生が祟ったのだと言われれば、ぐうの音も出ないが。
「・・・頭痛薬、買ってあったっけ」
全身の気怠さで動かない体に鞭を打ち、薬を入れてある棚へ向かうが、踏み出す一歩が重すぎる。いつもの万年床からほんの数歩なのに、果てしなく遠い気がした。
「ぐっ・・・あ゛ぁ・・・しん、どいなぁ、これ」
口から洩れる声はB級ホラーのゾンビのような呻き声。自覚できるくらい酷い体調だ。風邪ではないと思うが、念のため体温も計っておくべきだろうか。
そんなこんなでようやく薬類を入れてある小棚まで辿りついた、その時。
『――トレーナー君。居るかい?』
コン、コン、コン、と規則正しいリズムのノック。叩かれた扉の向こうから届いた、凛とした女性の――いや、少女の心配そうな声に振り返る。私が専属で担当しているウマ娘、シンボリルドルフの声だ。
今日はエアグルーヴと協力して生徒会の業務もトレーニングも予定にない、完全なオフにしてあった筈。なのに、どうしたのだろうか?
「ル、ドルフ? ぁあ、ちょっと待ってて。いま出るよ」
頭に響く鈍痛を堪えながら、扉の方へ向かう。
だが、今の私の状態は自分で思っていた以上に悪かったらしい。
「っ・・・うぁ――」
部屋の扉に向かって一歩踏み出そうとした瞬間、急に足の力が抜けてしまう。まるで床が抜けたような一瞬の浮遊感に見舞われた直後、顔と体中に何か硬い物がぶつかる衝撃に襲われ、遅れて痛みがやってきた。
弱った頭が突然の事態にショートして、状況の理解も体を動かすこともままならない。
――何が起こった? 目の前に床が広がってる。もしや自分は倒れたのか? 一体、何故?
『っ! すまない、入るぞトレーナー君!』
焦ったようなルドルフの声が聞こえたかと思うと、ガチャリと鍵が開けられた。そういえば、緊急時のために彼女に部屋の合鍵を渡していたのだったか。
などと、呑気に考えている間にルドルフが部屋へ駆けこんできた。
「! トレーナー君!」
呆然と床に倒れ伏した私を見つけると、彼女は血相を変えて私に駆け寄る。
私の顔を見るなりルドルフの顔がサアッ、と青ざめ、ようやく私も深刻な事態なのだろうな、と他人事のように自覚した。
「る、ルドルフ」
「っ・・・ひとまず起き上がろう。立てるかい?」
「あ、ああ。よ・・・ととっ・・・」
両手で思い切り床を押して体を起こし、覚束ないながらも何とか立ち上がろうとするが、足はふら付き、壁に手をつかないと立っていられない。
今にも壁にもたれかかりそうな私の様子をルドルフは真剣な表情で見つめ、何も言わずにその華奢な、しかし頼もしい肩を貸してくれた。
「・・・しばらくベッドで横になろう。良いね?」
「ぁ・・・」
脱力した成人男性の体を少女が軽々と起こし上げる。つくづくウマ娘の力は見目にそぐわない。
私は苦痛と安堵で言葉が出てこず、ただ首を縦に振ることしか出来なかった。
ルドルフにベッドに寝かされ、彼女に薬棚の場所を伝えて薬と体温計を持ってきて貰うよう頼んだ後。しばらく寝ながら天井を眺めていると、お盆に頼んだ一式と水の入ったコップを乗せたルドルフが戻って来た。
「――体温計と頭痛薬、念のために解熱剤も。この通り持ってきたよ、トレーナー君」
「ありがとう、ルドルフ。たすかるよ」
「礼には及ばない。私達はトレーナーとその担当ウマ娘。相互扶助は当然だよ」
そうルドルフは言うが、トレーナーとウマ娘の関係は言い換えれば指導者と学生。大人と子供だ。
いくらルドルフが頼れるウマ娘とはいえ、子供に助けられるというのは少し肩身が狭くなる心地になる。
ちっぽけなプライドだと分かっているが、それでもだ。
「薬も飲んだし、後は大丈夫だよ。ルドルフは折角のオフなんだし、もう帰って――」
「トレーナー君」
ルドルフに呼ばれ言葉を遮られた瞬間、私の虫の報せとでも言うべき直感が警鐘を鳴らした。
――これ以上喋るのは、マズイ。
ベッドに横たわり、彼女を安心させようと笑顔を作る私を見る彼女の顔は、悲しそうで――明らかに怒気を隠せずにいた。後ろに絞られた彼女のウマ耳が雄弁に、彼女の不機嫌を物語っていた。
「床に倒れていた君を見つけた時、私がどんな思いだったか・・・もう少し考えてみるといい」
そう言われて、ようやく気が付いた。ルドルフのアメジスト色の瞳が潤んでいる事に。
「あ・・・」
「私達は一心同体。支え合い助け合って、これからも二人で邁進するのだと・・・そう思っていたのは、私だけだったのか?」
「それとも、私はそこまで頼りないか?」と、微かに震えながら口にしたルドルフ。
今にも泣き出しそうな彼女の辛そうな表情を前にして、私はようやく自分の無神経さが理解できた。
曲がりなりにも自分のパートナーが、目の前で倒れていたのだ。心配するに決まっている。私が彼女の立場でも同じだ。
それなのに心配しないで、などと。暗に「貴方に助けられたくない」と言っているも同然だ。そんな言葉を、信頼する相棒に言われて傷つかない者は居ない。・・・なんと浅はかだったのだ。
「・・・ごめん。ルドルフがどんなに怖い思いをしたか、何も考えていなかった」
「・・・」
ルドルフの頭を撫でようと、私は布団の中から手を伸ばす。寝ているので当然届かないのだが、ルドルフも私がどうしたいか分かってくれたのか、優しく私の手を取って自分の頬へ添えてくれた。
「本当に――これじゃあ、君のトレーナーとして落第だ」
「・・・ああ、そうだとも。今日はそこでしっかり反省し、次から韋弦之佩を帯びるといい」
「ははは・・・」
ようは『自分の性格を一度改めろ』と。なんとも手厳しいことだ。
だが確かに、私もまだトレーナーとして経験浅い若手の身。そんな新人が担当に対して「心配するな」と言うのも驕りが過ぎるというものだ。ルドルフの言う通り、ここらで身の振り方を見つめ直すべきなのだろう。
「そういえば、ルドルフはなんでここに? 来てくれたのは助かったけど・・・もしかして緊急事態とか――!」
「それはまさに君自身の事だ。いやなに、休みを貰えたのは良いものの、やる事が見当たらず暇を持て余してしまってね」
そう言うとルドルフはバツが悪そうに苦笑した。
「生徒会に顔をだしてもエアグルーヴに気を回させてしまうし、テイオーも遊びに出かけているようだったのでね。ならば、と君のところへ押しかけさせてもらおうと考えたんだ」
「ならばって・・・大の男の部屋に女子高生が気軽に上がるのはどうかと思うよ、世間体として」
「ここは学園のトレーナー寮で、君は私のパートナーだ。生徒や他のトレーナーに配慮はすれど、世の目を憚る必要は無い。第一、他者に知られたとして何か問題があるかい?」
「あるでしょ、そりゃあ。性質の悪いマスコミに知れたらとんだスキャンダルだ」
無敗の三冠ウマ娘、皇帝が担当トレーナーの自室に入り浸っているなどと学園で噂がたてば、耳聡いマスコミなら必ず嗅ぎつけるだろう。時代を問わず人間は、下世話なゴシップに色めきたつものだ。清廉高潔な人物であるほどそういった話題を好む無粋者に狙われやすい。
ルドルフだって、その例に漏れないのだ。
「そんな下らない事で君の努力にケチをつけられたくないよ、俺は」
今の私の声は普段に比べれば、いや、比べるまでもなく弱っているだろう。それでも、努めて真剣にルドルフに語り掛けた。
するとルドルフは鳩が豆鉄砲を食ったような顔でパチパチとまばたきし、少ししてフッと小さく噴き出した。
笑わせるつもりではなかったのに、彼女に揶揄われているような気になってムッとなる。
「ルドルフ」
「いや、すまない。揶揄ってる訳ではないよ。本当だ」
「ただ・・・」そう一拍間を置いて、噛みしめるように言葉を紡いだ。
「私と君は存外、同気相求の仲だったのかもしれないなと思っただけだよ」
「・・・似たもの同士ってこと? 俺とルドルフが?」
「ああ」
首肯する彼女の言うがまま、私とルドルフの類似点を考え出す。
顔立ち――並の男と容姿端麗なウマ娘という前提からしてありえない。
髪色――私の父方の祖母が鹿毛のウマ娘だったが、私の髪は遊び気の無い黒色だ。
性格――周囲からは真面目な奴だと言われていたが、ルドルフと比べれば月とスッポンだろう。似ているところなんてどこにも無いが・・・。
「――ところでトレーナー君。食欲はあるかい?」
「あ、そういえば・・・」
ルドルフに言われて、まだ朝食にありつけていないのを思い出す。
目が覚めるなり頭痛に魘されていたのですっかり忘れていた。
「さっきの様子では朝食もまだなんだろう? 折角押しかけたのだし、私がなにか作ろう」
「それは─―あ、いや、うん。じゃあ、お願いしようかな」
反射的に口から断りの言葉が出てきそうだったが、ギリギリで抑え込むことができた。
さっきの今で反省したことを繰り返しては、いよいよルドルフも本気で怒りかねない。
「食欲は・・・どうだろう。あるにはあるけど、多くは食べられそうにない、かな」
「ふむ。であれば卵粥にしよう。栄養も豊富で消化も良い」
「それなら食べられそう。棚の中にパックご飯があるから、それ使って」
私がそう言うと、彼女は鷹揚に頷いてみせた。
「承知した。では、キッチンを借りるよ」
「すぐ出来上がるから、少し待っていてくれ」と言って椅子から立ち上がり、狭い台所へと向かって行くルドルフ。
尻尾を揺らすその後ろ姿を見て――ルドルフには失礼だが――ありしの日の祖母をふと思い出した。
風邪を引いたとき祖母が作ってくれた卵うどんは、ちょっと薄味だったけれど、体が芯まで温まった。私はあれが、好物と言える程ではなかったが、とても好きだった。
「・・・今度、作ってみるか」
その時はルドルフにも食べてもらおうか。布団の中で一人、そう決めたのだった。
トレーナーがベッドで思い出に耽っている間、ルドルフはキッチンの冷蔵庫の中を物色していた。お湯を沸かしつつ電子レンジでパックご飯を温めている間に卵を探そうと開けたのだが、中にあったのは6個入りパックの卵と魚肉ソーセージ、それと大量のエナジーゼリーと野菜ジュース。とてもアスリートを指導する者の冷蔵庫とは思えない有様だった。
「多忙続きだったのは知っていたが、これは・・・」
URAファイナルズへの出場権を手に入れてからと言うもの、ひっきりなしに来る取材の対応やトレーニングメニューの調整などで中々休む暇が無いとこぼしていたが、よもや食生活が悪化する程だったとは。さっきのパックご飯も賞味期限が一週間を切っていたし、最後にちゃんとした食事をとったのもかなり前なのだろう。
「ふむ・・・。これはしばらく様子を見に来る必要がありそうだ」
また今回のように倒れられて肝が冷える思いをするのは勘弁したい。
そう思った瞬間、床に倒れていたトレーナーの顔を思い出す。
「っ・・・」
ぶり返した恐怖に思わず自分で肩を抱く。
力なくこちらを見上げながらいまいち焦点の合わない目に、お世辞にも健康そうに見えない土気色の顔。正直、今にも死んでしまうんじゃないか、そんな恐れすら覚えた。
トレーナーの過労癖は今に始まった事ではない。ルドルフのデビュー戦以来、新人トレーナーとは思えない仕事量をこなしていた。初めて担当したウマ娘がすぐにデビュー戦を勝利するという、大変に異例な成績があったのも勿論だが、一番の原因はマスコミの存在だろう。
圧倒的な実力を誇る注目のウマ娘、シンボリルドルフのトレーナーとなったのが、何の実績も持たない新人トレーナー。マスコミが槍玉にあげるには十分な話題性だった。
ルドルフと共に世間の注目の的となったトレーナーはしかし、ルドルフのような賞讃を浴びる事はなかった。代わりに受けたのは、心無い言葉の数々。
『ウマ娘の才能に勝たせてもらっているに過ぎない』『あのトレーナーが居なくともルドルフなら勝てている』『実績のあるトレーナーならもっとあの才能を引き出せていた筈』。
そんな第三者の僻みに、流石のルドルフも我慢ならなくなりそうだったが、当のトレーナー本人が「君が俺の担当ウマ娘として勝ちを重ねているのは事実なんだから」と、受け流していた。
だが、ルドルフは知っている。あんな言葉を聞かされた晩のトレーナーはいつも、何かを振り払うかのように深夜まで仕事をしている事を。気にしていないと笑う顔の下では、決して小さくない心の傷を負っていたのだ。
それらの積み重ねの結果があの体調だ。ルドルフはそう確信していた。なにせ自分にも身に覚えのある事なのだから、分からない筈が無い。
「(もっと私が傍で見ていれば・・・いや。これ以上悔やんでも仕方ないな)」
もしトレーナーが倒れたとマスコミが嗅ぎつければ、またしても彼へのバッシングを煽るような記事が書かれる事になるだろう。トレーナーと懇意している乙名史という記者は信頼できるが、彼女を通じて他のメディアに公表を控えるよう呼びかけても通用はするまい。皇帝の勝利以上に彼の失脚を望む声が大きい限り。
ならば、トレーナーのためにルドルフがすべき事はただ一つ。
「(――鎧袖一触。彼と鍛えたこの足で、悉くを捻じ伏せる)」
来たる第一回URAファイナル。その頂点に君臨することで、彼に対する悪評を全て覆してみせる。
世界が彼を認めないと言うならば、己もその世界とやらを否定してやる。
自分達が歩んできたこの三年の道程を、これ以上何も知らない連中に穢されてなるものか。
「まずは、予選――」
グツグツと煮え始めた鍋の音も、とっくに止まっている電子レンジにも気を向けず、ルドルフは拳を握りしめ、目指す場所へ狙いを定める。
険しい目で佇み闘気を漏らす彼女の姿は、まるで獅子のようであった――。
これの続きを書く事は投稿当時には決めていたのですが、
その後半年も新作を投稿できずにいました。
だってエルデンリング楽しかったからっ......!