ONE DAY   作:柴猫侍

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Ⅰ.始まりと終わり

 

 

 

「ホントに出てくつもりなの?」

 

 若い女は、そう制した。

 艶めいた橙髪が目を惹く彼女の前には、背嚢一つを抱えた黒髪碧眼の青年が立っていた。見方によっては緑色にも見える彼の双眸だが、やや俯きがちで居る為か、瞳には影が掛かっている。

 

 一方、女の方は船に乗っていた。

 今ここで青年が引き返さなければ、二度と戻って来られない───それを分かっているからこそ必死になっていたのだった。

 

 しかし、

 

「心にもねェこと言うなよ」

「心にもないだなんて、そんな!」

「オレが戻って嬉しい奴なんて、一人も居やしねェだろ」

「そんなことない! 私だけじゃない……他の皆だって!」

「そうだとしても、オレに戻るつもりはねェ」

 

 突き放すように青年は言い放つ。

 明確な拒絶の意。それにたじたじと狼狽える女であったが、不意に歩み寄ってきた同じ年頃の青年が、彼女の肩に手を置いて制した。

 

「もうやめろ、コアラ」

「でも! サボ君だって、出てって欲しくないでしょ!?」

「おれにその気があったって、ここで止めていい理由にはならねえ。それを決めていいのは……あいつだけなんだからな」

 

 『サボ』と呼ばれた青年は、『コアラ』と呼んだ女の心中を慮るように優しい声音で諭した。

 

 その一部始終を眺めていた青年は、はぁ、と溜め息を吐くや、足早にその場から立ち去っていこうとする。

 

「ルナ!」

「オレは行く。邪魔するつもりならお前だって容赦はしねェ」

「待ってよ! 一つだけ……一つだけ聞かせてほしいことがあるの!」

「あぁ?」

 

 今にも消え入りそうな声で呼び止めるコアラに、青年───ルナは振り返る。

 

───見る者全てを恐怖させる、地の底から睨み上げる視線を向け。

 

 それを一身に受けても尚、コアラは声を絞り出した。

 

「私達は……貴方の居場所にはなれなかった?」

「……」

「教えて! ルナの気持ちが知りたいよ! 私達が貴方に何もできなかったのかって……それだけでもっ!」

「───オレに」

 

 コアラの声を遮るルナ。

 ハッと息と共に言葉を呑み込んだコアラが目撃したものは───再び背を向ける、青年の姿だった。

 

「……居場所なんてなかった」

「……ルナ……」

革命軍(ここ)に……天竜人の子供の居場所なんてな」

 

 紡ぐ声音は先ほどの眼光とは裏腹に、実に穏やかだった。

 怒りも、憎しみも、悲しみも。その他諸々の感情をも感じさせない平坦な口調だからこそ、コアラは両手で口を押え、その目尻に大粒の涙を浮かべ始めた。

 やがて嗚咽を上げ始める彼女を下がらせ、居た堪れない面持ちだったサボが欄干から身を乗り出す。

 

「……気が変わったらいつでも戻ってこい。またいつか会おうぜ」

「『また』なんてねェよ」

「それならドラゴンかくま……他の皆に伝えておくことは」

「ねェ」

 

 食い気味に答えるルナに『……そうか』と一抹の寂寥感を隠せないサボは、被っていた帽子で目元を覆い隠した。

 

「……男の船出を邪魔する理由はねえ。お前が決めたんなら好きに生きりゃいい」

「……フンッ」

「達者でなッ!!」

 

 颯爽と立ち去る青年へ、サボはあらんばかりの声で別れを告げる。

 やがて彼らが乗っていた船は、帆一杯に吹き付ける海風を浴びて、どこかへと出航していった。

 

 あれだけ騒がしかった海岸も、今や潮風ばかりが奏でられている。

 爽やかな風と音。だが、一人町の方へと歩んでいく青年の面持ちは、晴れやかとは程遠いものだ。

 

 暗く影を落とした瞳に光はなく、舗装されていない地面を踏みつめる足には、どことなく苛立たしさが垣間見えるようだった。

 

「……好きに生きりゃいい、か」

 

 ふと、足を止めた彼は笑う。

 

「そんなの……考えたことなかったな」

 

───地を這うように生きてきた。

 

───これまで、抗ってばかりで。

 

───どう生きたいかなんて、考える暇もなかった。

 

「……」

 

 彼の足取りは覚束なく。

 その姿はまるで、寄る辺を失った子供に近かった。

 

 

 

 ***

 

 

 

───ローグタウン。

 

 “海賊王”が生まれ、そして、処刑された通称『始まりと終わりの町』。

 偉大なる航路(グランドライン)の入口であるリヴァース・マウンテンも近く、偉大なる航路に向かう海賊が多く寄港する場所としても知られている。

 

 以前は駐留していた海軍本部大佐『白猟のスモーカー』の手によって、立ち寄る海賊全て捕らえられていたが、それも昔の話となった。

 今や有名になった新進気鋭の海賊『麦わらのルフィ』とその一味の逃走を許してからというもの、彼を追ってスモーカーが去り、代わりとして新たな海軍将校が送られてきたはいいものの立ち寄る海賊全てを検挙するには至っていない。

 

 海軍の目を搔い潜る海賊は、“海賊王”が遺したとされる宝“ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)”を夢見て、この町で最後の準備を整えていた。

 ロマンを追い求める海賊共の中には夢の第一歩を前に浮足立ち、海軍が駐留しているにも関わらず町で景気よく酒盛りしようとする輩も居る。

 

 海賊が闊歩する“大海賊時代”だ。

 客として酒場に海賊が来たとして、酒場側も『金を落としてくれるなら』と面倒事を避けて黙認する場合がほとんどである。

 

 しかし、やはり時には絡んでくる輩も居るもので───。

 

「ちょっと~、放してくださいよぉ~」

「いいじゃねぇかよ~! ちょっとお酌ぐらいでいいから、なぁ!?」

「ごめんなさい! ここはそういうお店じゃないので……楽しくお酒飲みましょ? ね?」

 

 町の一角に構える酒場。

 普段は仕事終わりに一杯引っかけようと町民が立ち寄る憩いの場であったが、今日ばかりはいつもと違った空気が流れていた。

 その理由は至って単純。酔っぱらった巨漢が一人、ウエイトレスの手を掴み上げていたからだ。

 

 何とかやり過ごそうとするウエイトレスは、素人目から見ても見目麗しい乙女だった。

 ウェーブ掛かったボブヘアーは金糸のような煌めきを放ち、鮮やかな橙色の瞳は夕日のような輝きを宿している。

 その浮世離れした魔性の美貌を前にすれば、ついつい見惚れて手を出そうとする輩が一人や二人居てもおかしくはない。

 

 辛うじて笑みを崩していないウエイトレスであるが、それが必死に作り上げた苦笑であることは明らかであった。

 その様相を傍目で眺めていた常連は皆、顔を蒼褪めさせながらも、巨漢の視線が自分らの方を向いた途端、巻き込まれまいと即座にそっぽを向いた。

 

 これがただの酔っ払いであれば、客の一人や二人、巨漢の横暴を止めに入っただろう。

 しかし、誰もそうできなかったのは、相手がただの酔っ払いではない悪党だったからに他ならない。

 

「も、申し訳ございませんお客様ぁ~……」

「あ?」

「うちの店員が嫌がっておりますので、そういうことはご遠慮頂けたらとぉ~」

「あぁ~? 聞こえね~な~」

「で、ですから……乱暴は何卒ご容赦を───ぎゃあ!?」

 

「店長!?」

 

 途中、意を決して助けに入った酒場の店長であったが、巨漢の丸太の如き腕で殴り飛ばされた。

 

「う、うぅ……」

「人聞きが悪いぜ、店長さんよぉ~。これの! どこが! 乱暴だってェ!?」

「だ、誰か海軍を……ぐッ!?」

 

 堪らず周囲に通報を求める店長であったが、それが巨漢の横暴の火に油を注ぐことになった。

 倒れる店長の背中を踏みつける巨漢。

 彼の背後では仲間と思しき男達が酒瓶を手に、下品な笑い声を上げている。

 

「おいおいおい、折角のお客様を海軍に引き渡すなんてある訳ねえよなァ~?」

「いいぞ、船長! もっとやっちゃってください!」

「おい、そこぉ~! 船長って言っちゃあ駄目なとこだろうが!」

「あ、そうでやした! ギャハハ!」

「俺達ぁ善良な客だぜ! そうだよなァ、てめえら!!?」

 

『オオォッ!!!』

 

───海賊

 

 今では珍しくもない、海の無法者。

 自由に。気ままに。そして、時には残酷に。

 己が野望の為に海を渡り歩く彼らに、市井の民の常識等通用しない。それ故に大海賊時代が到来して以降、各地で起こる海賊による被害は爆発的に増えていた。

 立ち寄った島の住民が家財と金銭を奪われ、挙句の果てに殺される悲劇も、大して珍しい話ではなくなっていた。

 

「ッ……いい加減にして!」

 

 誰も逆らえなくなる雰囲気の中、乾いた音が響き渡る。

 

「……あ?」

「何も悪くない人達に乱暴する人……客なんかじゃない。出てって、今すぐ」

 

 自分の手を掴み上げていた巨漢にビンタをかましたウエイトレス。

 突然の出来事に海賊のみならず、他の客も唖然とする中、彼女は凛然とした佇まいのまま侮蔑するような眼差しを海賊共に注ぐ。

 

 冷や水を掛けられたように静まり返る海賊。

 その間、頬を叩かれた巨漢は確かめるような所作で頬を撫で、

 

「このアマァ!」

「きゃ!?」

「教育のなってねえ店員だな! 客に手を出すなんざ、それこそ乱暴だぜ!」

「だから、貴方達は客なんかじゃ……!」

「一千万ベリーだ! 慰謝料として払ってもらうぜ!」

 

 己に手を出したウエイトレスの首根っこを掴み、巨漢が叫ぶ。

 踏みつけられる店長は提示された金額に『そんなバカな話が……!』と唖然するが、払えないことは吹っかけた側も百も承知。

 

「払えねえならこの店員を預かってくぜ。なーに、ちょっとばかし()()してやるだけだ……なァ、てめえら!!?」

「いいですね、船長!」

「体に教え込んでやりましょうよ!」

「そういう訳だ、店長。ちょっくら借りてく……いつ返すかは未定だがな!!」

 

 ギャハハ、とそこでもう一つ笑い声を上げた海賊が、続々と出口へと向かう。

 一方、船長と呼ばれた巨漢の肩に担がれるウエイトレスは、自分の身よりも踏みつけられていた店長を心配するように手を伸ばした。

 

「店長!」

「ノ、ノアちゃん!」

 

「おっと。海軍を呼ぼうだなんて馬鹿な真似は止しとけ~? そうなったら、いよいよ女一人じゃ済まなく……」

 

 

 

「オイ、誰だてめえは!?」

 

 

 

「……ん?」

 

 店長に釘を刺していた巨漢が、不意に船員の怒声を耳にし、声の方へと顔を向けた。

 船員の視線を集めていたのは、客が出入りする扉。正確には、その奥に佇んでいた青年だった。

 

 やや俯いて店の外に立っていた痩せぎすな青年は、一拍置いて店の扉に手を掛ける。

 キィ、と扉が軋んだ音を立てて開かれれば、一番近くに陣取っていた船員が行く手を阻むように前へ出た。

 

「待て、あんちゃん。今から俺達ぁお楽しみってとこなんだよ。怪我したくねえならさっさとそこ退きな」

「……」

「おい……聞いてんのか、このガぽげぁ!!!!?」

 

 一瞬の出来事だった。

 船員が腰に下げたピストルの柄に手を掛けた瞬間、愉快な悲鳴と共に彼の姿が消えたのだ。

 どこへ? ───と誰もが疑問に思うより早く、カウンター側からけたたましい轟音が鳴り響く。

 

 一斉に視線を集めたその先には、壁に上半身が突き刺さり、脱力したようにぶら下がる男の下半身がブラブラと揺れていた。抜け出そうとする様子はなく、激突した衝撃で気を失っていることは明白。

 

「んなッ……!?」

「……おい」

「ひっ!? ななな、何者だてめえは!!?」

 

 下手人と思しき青年への警戒を露わにする海賊。

 対する青年は、ゆっくりと海賊を睨みつけるように見渡し、鋭い犬歯を見せつけながら口を開いた。

 

「オレは飯食いに来たんだ。そこ退け、邪魔だ」

「じゃ、邪魔だぁ~~~!?」

「そんな安い脅しで……船長!!」

 

 血気盛んな船員が頭目に問いかければ、その巨漢は大きく頷いた。

 

「……やれ、野郎ども!! その調子づいた馬鹿を魚の餌にしてやれ!!」

『オォ!!!』

 

 怒号にも似た声を上げ、船員は各々の武器を取り出し、青年へ一斉に襲い掛かる。

 

「っ、危ない! 逃げて!」

 

 多勢に無勢。

 複数人居る海賊を相手取るには危険すぎると、連れ去られる寸前のウエイトレスが叫んだ。

 

 

 

───が、それも杞憂に終わる。

 

 

 

「ぐげっ!?」

「おがっ!?」

「ぎゃっ!?」

「づべぇ!?」

「待って、殴らないぎゃあ!?」

 

 降っては積もる海賊の体。

 白目を剥いて微動だにしない彼らが返り討ちにされたことは明らかであるが、人々の目はそれよりも青年の方を向いていた。

 

 剣を振り下ろされるよりも前に懐に飛び込み、手首を掴んで攻撃を封じれば、無防備な腹部へ強烈な膝蹴りを叩き込む。

 そうして動けなくなった海賊を盾に銃撃を牽制する彼は、力が抜けて手放された海賊の剣を掴み取り、自分を狙う海賊の一人に投擲した。

 

「ヒッ!?」

 

 と、頭を抱えてしゃがみ込む海賊の一人。

 するや、目にも止まらぬ速さで目の前に立っていた青年の踵落としが後頭部に突き刺さり、そのまま海賊の頭が床の板を割って突き刺さる。

 ビクンッ! と痙攣するのも一度限り。

 そのまま動かなくなった海賊の体は、力なく床に転がるのだった。

 

「なんだ、こいつ!?」

「ば、馬鹿強ェじゃねえか……!」

 

 次々にやられる仲間を前に、海賊の攻勢がみるみるうちに衰えていく。

 最初の威勢はほとんどなく、悪魔のような青年の戦いぶりを前に臆するばかり。逃げ腰になる者が大半であった。

 

───パァン!!

 

 そんな海賊を一喝するような銃声が響く。

 白い煙を上げる床の穴。ちょうど青年の足の近くに穿たれた弾痕は、この海賊団の船長が放った一発であった。

 

「どいつもこいつも……なんだァ、その体たらくは!!!」

 

 たった一人に返り討ちにされる事態が余程癇に障ったのか、憤怒の形相を浮かべる船長が、肩に担いでいたウエイトレスを放り投げながら歩み出した。

 

「きゃ! いたた……」

 

 ろくに受け身も取れなかった彼女は床に尻を強打し、痛そうな声を上げる。

 だがしかし、店の中央に陣取って睨み合う青年と巨漢の光景が目に入り、即座に口を噤んだ。誰も割って入れない剣呑な空気。仮に横やりを入れようものなら、命を懸ける必要すら感じられるほどの緊張感がそこにはあった。

 

「……てめえ、随分腕が立つな。賞金稼ぎ(バウンティハンター)か何かか?」

「……」

「無口な野郎だぜ。だがよ、その腕を見込んで一つ提案だ。……俺達と組むってのはどうだ?」

「……あ?」

「俺達ぁ野暮用で東の海に出戻って来ていてな。偉大なる航路を航海していた時期もある」

 

 獰猛な笑みを湛え、巨漢は続ける。

 

「この世は“力”だ! 力さえありゃ何でも手に入る! 酒も! 金も!! 女も!!!」

「───」

「今はそういう時代だ! 強ェ奴は何やっても許される! 『弱肉強食』……いい言葉だと思わねえか?」

「……そいつは同感だな」

「だろう?」

 

 手応えあり、と巨漢の顔が邪悪に歪む。

 

「どうだ? てめえの腕なら偉大なる航路でものし上がっていける。俺も偉大なる航路で航海を続け、気が付きゃ海軍につけられた懸賞金も八千万ベリーを超えていた……そんな俺の目に狂いはねェ!」

「本当か?」

「そうだとも! それと……そうだ。ただで組むってのが嫌なら、そこの女をくれてやる」

 

「えっ、私!?」

 

 突如、自分が交渉の材料にされたウエイトレスが驚きの声を上げた。

 当然の反応であるが、それを口にした巨漢も、彼女が既に私物であると言わんばかりに態度を崩さない。

 

「悪い話じゃねえだろ? 女の味を知りゃ、きっとてめえも気が変わるさ。物は試し───」

「……おい」

「……あぁ?」

 

 空気が、一変した。

 

「いつまでも前に立つんじゃねえ。邪魔だ」

「……ほぉ……」

 

 淡々と言い放つ青年に、巨漢の額に青筋が浮かんだ。

 

「そりゃあつまり───」

 

 巨漢が取り出したのは、一丁のピストル。

 青年の脳天目掛けて掲げられた銃口からは、眩い閃光が輝こうとしていた。

 

 

 

「『死にてえ』って意味だよなァ!!!?」

 

 

 

 瞬くマズルフラッシュ。

 遅れて鼓膜を揺るがす銃声が、その場に居た全員の身を強張らせた。

 

 誰もが青年の頭が撃ち抜かれる光景を幻視する。あの至近距離だ。会話で気を引かせていたこともあり、あの不意打ちを避けるのは至難の業だろう。

 凄惨な光景を目にせぬよう、瞼を閉じる大衆。

 

 そんな中、ただ一人───攫われそうになっていた彼女だけは、しっかりとその目を見開いていた。

 

「───あ……」

 

 確かに銃声は響いていた。

 ただし、放たれた弾丸がめり込んでいたのは青年の脳天などではない、

 

「かっ……ぱっ……!!?」

 

 手首を握られる巨漢。

 青年のものとは一回りも二回りも違うサイズ感を誇りながら、握られる手首は鬱血したように変色し、握られていた銃も明後日の方角を向いていた。

 一方で青年はもう片方の手で、巨漢の喉元を握りしめている。

 気道を押し潰され、息をすることもままならない巨漢。パクパクと喘ぐ口は必死に酸素を求めているが、傍目以上の握力がそれを許さない。

 

すると青年は、巨漢の耳元にそっと口を近寄せて囁く。

 

「てめェの懸賞金……八千万ベリーだったか?」

「っ……っ……!!?」

「海軍の手配書はDEAD OR ALIVE(生死を問わず)……要するに、てめェの命を八千万ベリーで買い取ってくれるってこった」

「っ……っ───」

(やっす)い人生だったな。え?」

 

 

「───待って!!!」

 

 

 劈くようなウエイトレスの制止する声に、青年はパッと手を放す。

ようやく解放された巨漢だが、窒息死寸前まで首を圧迫されていた為か、気を失ったまま床に転がり落ちた。

 

 最早、勝敗は決した。

 

 たった一人に敗北を喫した海賊団はあからさまに狼狽し、周囲から向けられる鋭い視線に耐え切れなくなった。

 

「「「す、すみませんでしたぁ~!!!」」」

 

 尻尾を巻いて逃げ去る海賊。

 気絶した仲間を担ぎ、散乱した道具も拾わなければ、店内に海賊は一人たりとも居なくなった。

 

 これで一安心───かと思いきや、

 

「……あ?」

 

 今度は、海賊を一蹴した青年へと視線が注がれる。

 ()()()()までの戦いぶりだった。それ故に、この場に居た客のほとんどが青年に対して少なからず恐怖を抱いていた。

 

 暴力を制すには、それ以上の暴力が必要だ。

 しかしながら、より強い暴力が残ってしまった時、誰がそれを制御すればいいのだろうか?

 

 確実に、今、酒場に居る人間の中で最も強いのはあの青年だ。

 もしも彼が海賊以上に横暴で、凶暴で、理不尽に他人を虐げる暴君のような人間だとしたら、自分達はどうなるのだろう───そのような考えが脳裏に過ったからこそ、客の顔はガチガチと強張ってしまっていた。

 

「……チッ」

 

 青年の舌打ちが響く。

 ビクリ、と客の一人が肩を跳ねさせたのも厭わず、彼が向かっていったのは店の外。店内の居た堪れない空気を感じ取ったのか、自らの意思で出ていこうとしたのだった。

 

「ちょっとちょっと! そこの人!」

「あ?」

 

 それを止めたのは、ウエイトレスの女だった。

 大慌てで後を追った彼女は、あと一歩で店外へ出るところだった青年の裾を掴み、何とか引き留めようとする。

 

「待ってよ! どこ行く気!?」

「どこでもいいだろ」

「どこでもって……酒場に来たんだから、ご飯食べに来たんじゃなかったの?」

「違くはねェが、別に他の店でも食えるだろ」

「だったらうちで食べてってよ! サービスしてあげるから!」

 

 爛々とした瞳で訴えるウエイトレスに、思わず青年も『はぁ?』と声を漏らす。

 もしかしなくとも店内の空気に逆らう申し出。しかし、それを口にしたウエイトレスの行動は早く、満面の笑みを浮かべながら、ズリズリと青年をカウンター席の方まで引きずっていくではないか。

 

「ほらほら! こっちの席に来て!」

「おい、無理くり引っ張るな。オレは別の店で……」

「まあまあまあまあ! ヘイ、店長! 酒場の看板娘を救ったヒーローに一杯奢っちゃってください!」

 

「ノアちゃんがそう言うなら……かしこまりましたー!」

 

「かしこまるな」

 

 キレ気味にツッコむも、時すでに遅し。

 景気よく新しいボトルを開けた店長は、片手間に取り出した綺麗なグラスになみなみと注ぐ。

 

 その間、ウエイトレスはどこからともなく持ってきたメニュー表を青年の前に広げて見せる。

 

「はい、これメニュー表! 何食べたい? お肉? お魚? それともお野菜系? 果物なんかも揃えてるけど、どうかな?」

「……なんでもいい」

「かしこまりましたー!」

 

 ウエイトレス───もとい、『ノア』と呼ばれていた女性は、満面の笑みを青年へと浮かべて見せるや厨房の方を向くのも束の間、何かを思い出したかのように踵を返して来る。

 

「っとと! その前に、ちょっと耳貸して」

「あ?」

「ふふっ! ……───」

 

 

 

───チュッ。

 

 

 

 微かに響く、弾むような音。

 それは徐に青年の頬に顔を寄せた女性から発せられたものであることは、誰の目から見ても明らか。ただし、その瞬間に限って引き寄せられたように流れ落ちた髪が、真実を覆い隠していた。

 

 これに反応したのは青年───ではなく、一部始終を目の当たりにしていた男性客らだ。

 

「ノ……ノアちゃんぅー!!?」

「おい! ひょっとして、もしかしてだけど……」

「今、そいつのほっぺにチューをしたんじゃ……!」

 

「んー……ひ・み・つ♪」

 

「んああああ! そりゃねえよォー!」

「俺達のノアちゃんが……嘘だ!」

「こんなことならビビッてねえで漢見せてりゃ良かったー!」

「おいおいおい、たかがほっぺにチューぐらいで何泣いてやがんだ! ぶわははは!」

「そういうオメーも泣いてるだろうが!」

「えっ……あ、ホントだ。どうして俺は涙を……?」

 

 酒場の空気は一転し、看板娘への愛が深すぎる男共が泣き叫ぶ阿鼻叫喚の渦へと変わっていた。

 既に海賊を蹴散らした青年への恐怖はなく、むしろ女性のご褒美に与った事実に対する羨望や嫉妬が集まる。

 

 それを確認した女性。

青年からしか覗けない彼女の顔。そこには小悪魔のような笑みが浮かんでいた。

 

「おやおや~? みんな、そんなに私のチューが欲しい~?」

「「「「「欲しい~!!!!」」」」」

「それなら……ん~、チュッ♡」

「「「「「おおお~!!!?」」」」」

 

 客全員に向けた投げキッス。しかもウインク込みと来れば、看板娘の美貌と愛嬌に撃ち抜かれた客の数人が、目にハートを浮かべて昇天した後、仰向けに倒れ込んでいった。

 

「ノアちゃ~ん!! 愛してるぜ~!!」

「俺達の天使!! いや、女神だ!!」

「結婚してくれ~!!」

 

「ごめんなさ~い! 結婚はできないけど、たくさんサービスしてあげるから、今日はいっぱい飲んでってね~!」

 

「「「「「うおおおお!!!!!」」」」」

 

「今夜は飲み明かすぞー!」

 

「「「「「うおおおお!!!!」」」」」

 

「ってな訳で店長! みんなに生一丁~!」

「はいはい、ただいま~!」

 

 看板娘の音頭に乗っかった客全員に向け、次々とビールが振る舞われていく。

 無論、タダではない。当然のようにお代は発生している訳だが、気持ち良く酒を煽っていく客にわざわざ指摘するような無粋な輩は居ない。

 

 ただ一人を除いては。

 

「……やかましい」

 

 ちびちびと酒を仰いでいた青年がぼそりと呟いた。

 あからさまな不機嫌を露わにしつつ、さっさとこの場から離れようと席を立ちかけたが、熱狂の渦から抜け出してきた女性が耳打ちしてくる。

 

「ごめんねっ! この店、盛り上がるといっつもこんな感じだから!」

 

 扇動した本人が何を、と呆れた視線を向ける青年。

 しかし、当の本人はと言えば屈託のない笑みを浮かべるばかりで、どちらかと言えば嫌厭的な空気を滲ませる彼を邪険に扱うような素振りは欠片も見せない。

 それどころか、客だけではなく自分の分まで注いだビールを片手に隣に座り込む始末だ。

 

「ねえ、ちょっといいかな」

「あ?」

「教えて、名前! まだ聞いてなかったからさ」

「……なんで教えなきゃなんねえんだ」

「えっ? 自己紹介に理由を求められるとなると難しいなぁ……」

 

 う~ん、と頭を抱えてみせた女性であったが、すぐさま閃いたようにパッと笑顔を咲かせる。

 

「だって、楽しいでしょ!」

「は?」

「自己紹介したら知った仲になれる。そうやって知り合った人たち皆一緒にご飯を食べたりお喋りしたら楽しくならない?」

「……別に」

「だったら今日は楽しませてあげるから! 私の名前はノア! 貴方の名前は?!」

 

 そう言ってノアは青年に詰め寄ってくる。

 今にも鼻先が触れ合いそうな距離。そんな至近距離で爛々と輝く瞳で見つめられた青年は、どう足掻いても彼女から逃げられないと悟り、観念したように口を開いた。

 

「……ルーナ」

「ルーナ? そう! お月様みたいで綺麗な名前だね! それじゃあ……『ルナ』なんてのはどう?」

「あぁ!? 何でお前が……じゃなねェ、急に何言って───」

「何って、ニックネームだよニックネーム! 『ルーナ』だから『ルナ』。別におかしくもないでしょ?」

 

 こてん、とノアは首を傾げた。

 確かに珍しくもない愛称だ。しかしながら、他人を愛称で呼ぶことは相応に親しくなってからというのが暗黙の了解であり、

 

「初対面の癖に馴れ馴れしい! なんだ、てめェは……!?」

 

「それじゃあ皆さん! 海賊をやっつけたルナの活躍を讃えて~……かんぱ~い!!!」

「「「「「かんぱ~い!!!!!」」」」」

 

「っ……」

 

 一発怒鳴ろうとまで思い至った青年───もとい、ルナであるが、自分が蚊帳の外であることを悟る。面倒に巻き込まれないならそれに越したことはない、と。

 

そう考えたところで───。

 

「楽しんでってね♪ ルナ」

 

 時折視界に映り込んでくるノアは、今宵の宴が終わるまで延々と笑顔をチラつかせていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 翌日。

 その日も青空がどこまでも続く、爽やかな日和であった。

 

「おはよう! 今日もいい天気だね!」

 

 片や太陽のような笑顔を浮かべるノアに対し、これ以上なくそれはそれは面倒臭そうに鬱屈とした面持ちを湛えていたルナが居た。

 

 場所は酒場のまさに目の前。

 今日も今日とて始まった住民の生活が、活発になる頃合いであることも相まってか、そこそこに人通りも多い。

 

 そんな中、昨日と変わらぬ装いのルナは兎も角、ノアはウエイトレスとも違う服装に身を包んでいた。

空に浮かぶ雲を思わせる純白のワンピース。簡素な装いではあるものの、ノア自身の容姿の美しさもあってかこれ以上なく素材を生かしたファッションであるとも言える。行き交う住民も時折鼻の下を伸ばしてノアの方を一瞥する始末だ。

 

 だが、このような美女を目の前にしても鼻の下を伸ばすどころか、ルナは眉間に皺を寄せるばかりである。

 

「……なんでお前がここに居る」

「え? だって昨日は夜遅くなったから、酒場の部屋貸して泊まらせてあげたでしょ?」

「オレが訊きてェのはそっちじゃねえ」

 

 知りたいのは自分の居場所を知っている理由ではないのだが、それは横に置いておく。

 

「まさか付いてくる気じゃねェだろうな……?」

「フッフッフー! ところでそこのお兄さん、ローグタウンは初めて?」

「オイ、質問に答えろ」

「そんな貴方にご朗報! なんとなんとっ、今日だけに限って酒場の看板娘が“海賊王”が生まれた町を案内する観光ツアーを開催! 料金タダ! 定員は1名限り! 早い者勝ちだよー! 寄った寄ったー!」

「帰れ」

 

 この温度差である。

 

 既に地の底に着きそうなルナのテンションであるが、めげることを知らないらしいノアはやれやれと首を振りながら元の調子へと戻る。

 

「もうちょっとノってくれてもいいのに~」

「付き合う義理はねェ」

「まぁ、いっか。それはともかく、ルナって旅行客か何か? 見かけない顔だけど」

「……別に何でもいいだろ」

「たまたま立ち寄った感じ? うんうん、そういうのも旅の醍醐味だよねっ!」

 

 雑にあしらうルナに対し、ノアの明るく溌剌とした話は終わる気配を見せない。

 

「実は私も旅行客なの! 色んな島と町を巡っててね。この酒場は日雇いで働かせてもらってる場所! ここでお金稼いで買い物に行ったり、次の島に行く路銀稼いでるの」

「聞いてねェよ……」

「それでね、昨日はルナのおかげで大繁盛! 店長ったらいつもより多めにお給料くれてね! だから今日は奮発する予定なの! 美味しいもの食べたり、服とか色々見たりするんだー」

「じゃあな」

「待って待って! もうちょっと話聞いて!」

 

 さっさと立ち去ろうとしたところで、ノアが裾を掴んで引き留める。

 『なんだよ……』と辟易とした顔を向けられるが、一向に彼女の表情が曇る気配は見られない。

 

「だから、今日はお礼させてほしいな!」

「礼?」

「うん。たくさん繁盛したから、そのお礼! ルナがこの町に長居するかどうか知らないけど、どこに何があるかぐらい知っといた方が便利でしょ? だから、町のこと案内してあげようと思って」

「余計なお世話だ。長居するつもりはねェ」

「じゃあ、思い出作り! たくさんお金貰った分、ルナに色々奢ってあげるから! ねっ!?」

 

 『ほら、行こっ!』と返答を待たず手を引いていくノア。

 その余りにも強引な押しにルナは戦慄した。せめてものと足を踏ん張ってはみるものの、華奢な見た目からは想像もつかない怪力を発揮するノアに、ズリズリと靴底が擦り減っていく感触を覚えたところで抵抗をやめる。

 

(なんだ、この女?)

 

 強引にも程がある。

 遠慮という言葉を知らない振る舞いをする女と共に町へ繰り出した(正確には繰り出された)ルナは、げんなりと目を細めながら、ノアに付いていくことに決めた。

 

(どうせやることなんて何もねェしな)

 

 彼は根無し草だ。いいや、()()()()()()()()という方が正しいか。

 ノアの『たまたま立ち寄った』との言は、案外的を射ている。行く当てもない旅、その道中として最初に立ち寄った場所がローグタウンだった。

 

 誰とつるむでもない。

 独りで静かに生きていく───その思って辿り着いた矢先での()()だ。

 

「見て見て! エレファントホンマグロの竜田揚げだって! おいしそぉ~!」

「おうよ! ここらじゃあまり出回らねえ魚だ。この機を逃したらいつ食えるかわからねえぞ!」

「じゃあください!」

「毎度!」

 

 

「案内は?」

 

 

 鮮魚店で売られていた竜田揚げに目を輝かせるノアへ、ルナがついツッコむ。

 おかしい、案内されるつもりだった(それも本意ではない)のに、いつの間にか彼女の買い食いに付き合わされている。

 

「だっておいしそうなんだもん……!」

「……」

「あっ、そっか! ルナも食べたいんだ!」

「違ェ」

「それならそうと言ってくれればいいのに♪」

 

 竜田揚げを一つ取り上げたノアは、『はい、あーん』と言いながら傍らに立つ青年の口へと放り込んだ。

 余りにも自然な流れに頬張るルナに続き、ノア自身も竜田揚げを口にしては、モグモグと動かす頬の中から小気味いい咀嚼音を響かせて唸る。

 

「う~ん! 衣はカリカリだし、中も脂がジューシーでおいし~!」

「湯がいた木の欠片食ってるみてェだ」

「うわぁ……絶妙に美味しくなさそうな例え……」

 

 しかしながら、ルナの口には合わなかったようだ。

 辛辣ともまた違う料理に感想に唖然とするノアは、彼が食べないのならと残った竜田揚げをものの一分で胃袋に収めてみせる。

 

「おいしかった~! じゃあ、次のおいしいグルメを探しに行こ~!」

「まだ続けんのか?」

「あったり前よぅ! 絶対ルナが好きな食べ物見つけてあげるからね!」

「……正気か……」

「大丈夫! 残したものは私が全部食べてあげるから!」

 

 ポンッ! と腹を叩いて鳴らすノア。細身に見えて健啖家なのだと彼女は舌なめずりしながら語る。

 

「さっ! じゃんじゃん食べるよ~!」

 

 拳を空に付き上げながら通りを進むノア。

 未だ彼女に手を引かれるルナは、大きなため息を吐きながら彼女の食べ歩きに付き合わされる。

 

「フランクフルト! パリパリした皮とジューシーなお肉……これは安定の美味しさだよね!」

「デケェ芋虫みたいな食感だな」

「ハンバーガー! 香ばしいバンズにシャキシャキのレタス! ジューシーなトマトとパティに、トロトロしたチーズの食感が合う~!」

「生ごみ挟んだスポンジか?」

「ねェ、見て! タピオカもあるよ! この粒々感が堪んないんだよねェ~!」

「……カエルの卵飲んでるみたいだ……」

 

「ルナ……たぶん、食レポの仕事とか来てもやめといた方がいいかも」

「食わせてんのはてめェだろうが」

 

 こめかみに青筋を立てながら切り返すルナ。

 彼とノアが座る広場のテラス席には、大量の料理が山のように積まれている。これら全てを試食して述べられた彼の感想は、どれも食欲を湧かすには不適当なものばかり。

 横で聞かされげんなりとしていたノアであるが、そうして一口つけては残された料理は残さず、それも恐ろしい速さで平らげていく。

 

「マジで食いやがった……」

「ふぅ~、おいしかった! 変わらないおいしさの中にも地域の味が出てるのもあって……これぞ旅の醍醐味! って感じだね」

「よくもまぁ……」

「じゃあ、締めのデザートいっとく?」

「まだ食う気か、こいつ」

 

 呆れを通り越し、戦慄さえ覚えるルナの頬が引き攣った。

 この華奢な体のどこにあれだけの量の料理が収まっているのか、まったくもって不思議でならない。

 

「いったいどういう胃袋してんだ……」

「え、知らない? デザートは別腹なんだよ」

「そういう意味じゃねェ」

「何がいいかな~。クレープもいいし、パフェも捨てがたい……! いや、待ってよ。あんなところにアイスが!? なになに、五段にするとちょっと安くなるの!? 私あれに決めた! 何味にしようかなぁ~♪ これとこれと、後は……ねえ、ルナはどのフレーバーが食べたい?」

「……勝手に決めてろ」

「えー!? 冷たくて美味しいのにィー! 暑い日にぴったりだよ?」

「熱かろうが冷たかろうが関係ねェよ」

 

 目移りしているノアを横目に、ルナは立ち去ろうと席を立った。

 

「あっ、待って!」

「待たねェ。これ以上付き合ってられるか」

「そうじゃなくて! 今そっち行ったら……」

 

 何かを訴えようと制止の言葉を口にしようとするノア。

 しかし、それよりも前にルナの足に小さな衝撃が走った。何事かと目線を下に落とせば、尻餅をついて倒れる少女が呆けた表情を浮かべている。その手に握られているのは何も乗っていないアイスクリーム・コーン。

 しかし、主役のアイスクリームは見当たらない。代わりと言ってはなんだが、ルナのズボンはカラフルに染まっていた。

 

「……あ……アイス……」

「あ?」

「ど!! どど……どうもすみませんっ!! ウチの子が……!!」

 

 父親と思しき男性が大慌てで少女に駆け寄ってくる。

 状況から察するに、少女がぶつかった際に手に持っていたアイスをズボンにぶちまけたと言ったところだろう。

 涙目を浮かべる少女に対し、父親は平謝りしている。少女の不注意でぶつかったのなら彼の態度にも納得がいく───が、

 

「……チッ」

「すっ、すみません!! 本当にすみません!!」

 

 必要以上に怯えた様子を見せる父親に、思わずルナの口から舌打ちが鳴り響く。それが一層父親の平身低頭に拍車をかける訳だが、むしろルナの苛立ちは募るばかりだった。

 

 そんな時、両者の間に割って入る人影が。

 

「ちょっといい?! 大丈夫? 怪我はない?」

 

 尻餅をついた少女の下へ、買い物を終えたノアが駆け寄っていく。

 

「あっ……うん……」

「良かったぁ~! でもアイス落としちゃったよね、ごめんねっ! だから、はい! 代わりにコレあげる!」

 

 未だ放心していた少女へ彼女が差し出したのは、たった今買ってきたばかりの五段アイス。

ずっしりと手に掛かる重みに少女が目を輝かせるや、手渡したノアも満面の笑みを浮かべつつ少女の頭を優しく撫でる。

 

「このお兄ちゃんとぶつかってビックリしちゃったよね? でも、お兄ちゃんはズボン汚しちゃったことも許してくれるから大丈夫! だから、『ごめんなさい』できる?」

「うんっ! ……ズボン汚しちゃってごめんなさい」

「えらい! よく謝れたねっ! じゃあ、次はルナの番!」

 

「あ?」

 

 思わぬタイミングで話を振られ、ルナの目が点になる。

 

「ルナもよく見ず歩いてぶつかっちゃったでしょ? だから、お互い様ってことで! ね!?」

「………………そうかよ。なら……悪かった」

「ほぅら、許してくれた! よかったね!」

 

 当事者間で謝罪の言葉を引き出したノアは、既に笑顔を満開にさせている少女をここぞとばかりに撫でまわす。そこに先ほどまでの緊張感はなく、朗らかな日常風景を切り取った温もりに満ち溢れていた。

 すっかり毒気を抜かれたルナは、謝り倒していた父親に『もういい』とだけ告げ、静かにその場から離れていく。

 

 人通りの多い広場から、人気の少ない路地裏へ。

 表の雑踏と喧噪は遠のき、静かで穏やかな時間がここには流れていた。

 

(……これで、ようやく)

 

「ヘイヘイヘイ、そこのお兄さん! どこ行くの!?」

「うるせェのが来やがった」

 

 最早、遠慮はしない。

 

 シュバッ! とどこからともなく追いついてきたノアに歯に衣着せぬ物言いを放ったルナに、言われた当人は納得がいかない顔で膨れてみせる。

 

「うるさいなんて失礼しちゃう!」

「オレは静かな方が落ち着くんだよ……! 喧しいのは嫌いだ」

「えっ……嘘……」

「……なんだよ、その意外そうな顔は」

「だって、ルナが初めて好き嫌いを話したから……」

「あぁ!?」

 

 言われてみれば、ここまでの反応は否定的な物言いか毒を吐くくらいだった。

 

「話してくれたってことは、ちょっとは心開いてくれたってことだよね?」

「知るか」

「いやぁ~、これは革命的な一歩だよ。世界にとっては小さな一歩かもしれないけれど、私とルナの仲にとっては大きな一歩! 今日という今日を楽しんでいくには必要不可欠なエッセンスだぜ、ベイベー☆」

「その喋り方やめろ、癇に障る」

「ごめん」

 

 と、茶化すようなノアの喋り方を止めさせたルナは、今日何度目かも分からない溜め息を吐いて問いかける。

 

「で? まだ付き合わせる気か?」

「そりゃあ行きたい場所はまだまだあるよ! でもその前に……」

 

 徐に歩み寄るノアは、ルナのズボンの生地を指で摘み上げる。

 べったりとついたアイスからは美味しそうな香りこそ漂ってくれど、これが肌にへばりついていると思えば、不快であることは想像に難くはない。

 

「ルナのズボン、汚したまんまじゃ気持ち悪いでしょ? だから先に服屋に行こうかなって! いつまでもアイスの匂いつけたままにするのもあれだし……」

「別に気にしちゃいねェよ」

「そう? それなら私がコーディネートするって体で! 着替えの一着や二着持ってた方が何かと便利だし……あっ、これ、たくさん旅行してきた私からのアドバイス♪」

「自分で選んだのならまだしも、他人が選んだのを買う義理はねェ」

「じゃあ、私が買ってあげる! 言ったでしょ? 今日は色々奢ってあげるって!」

 

 ああ言えばこう言うノアに折れ、またまた連れていかれるルナ。その顔は最早虚無であり、全てを諦めているようにも見て取れる。

 そうこうしているうちに服屋に到着した二人は、早速店内に所狭しと並んでいる商品の物色を始めた。

 

「う~ん、これも良いなぁ……あっ、こっちの色も素敵! ねぇ、ルナはどっちの色が好き?」

「色なんざわからねえからどっちでもいい」

「ほうほう。となると、ここは完全に私のセンスで決めちゃっていい訳ね。これは責任重大……!」

 

 勝手にプレッシャーを覚えているノア。彼女は今日一番の神妙な面持ちを浮かべ、ルナへとプレゼントする服選びに集中する。

 その間、待たされているルナはカウンターに肘を掛けながら(早く決めろ……)と首を長くしていた。

 

 すれば、ニコニコと微笑んでいた店主の老婆が話しかけてくる

 

「お客さん、あの子は貴方の恋人?」

「あ? オレは付き合わされてるだけだ」

「あらあら、そう恥ずかしがらなくてもいいのよぉ」

「ババア、てめェ……」

「とても笑顔が素敵な子じゃない。見てるとこっちまで明るく楽しい気分になっちゃう。太陽みたいな子だねぇ」

 

 こうして話している間にも、ノアの顔にはずっと笑みが浮かんでいた。

 服の一つ一つに目を輝かせ、どれが青年に似合うのかと真剣に悩んでいる。

 

「……別に。単なるお節介な女だろ」

「あら、そうかい?」

「オレと()()は昨日たまたま知り合ったばっかだ。買い物に付き合うほどつるんだ覚えはねェ。だっつうのに、『奢るから』って強引に付き合わせやがって……オレはともかく、向こうに得なんかありゃしねェだろ」

「ウフフ、それは違うわよ」

 

 見てごらん、と老婆はノアを見るよう目で促す。

 

「あんなに楽しそうにしてるじゃない。理由が必要なら、それじゃ不満かしら?」

「……まったくもって理解できねェ」

「損得だけで付き合えるものじゃないわ、人間関係は」

 

 そう締めくくった老婆に釈然としないながらも、待ちぼうけを食らっていたルナの下へ、ようやく品定めが終わったノアがやって来た。

 

「おばあちゃん、これください!」

「はいはい。全部で一万ベリーだよ」

「一万ベリーね! っ……あっぶな~い! 結構お金ギリギリだったー、良かったー!」

 

 ホッと胸を撫で下ろすノア。どうやら財布の中身がギリギリだったらしい。

 『そりゃあんだけ買って食ってりゃな』とぼやくルナ。その瞬間瞬間を生きていく姿に呆れていれば、支払いを終えた彼女が購入した商品を胸に押し付けてくるではないか。

 

「はい、ルナ! これ着てみて!」

「あ? ……ここでか?」

「うん! おばあちゃん、そこの試着室借りてもいい?」

 

「はい、どうぞ」

 

「やった! ってことだから♪」

「『ってことだから』じゃねェよ」

 

 店主である老婆の許しも得たノアの押しは一層強さを増す。

 あれよあれよという間に試着室へ押し込まれるルナは、渡されたズボンを穿き替えなければ延々に押し込まれたままだと直感し、不承不承ながらも着替え始める。

 渡された黒いズボンに穿き替えれば、さっさとカーテンを開けて出て行った。

 

「ったく、これで満足か?」

 

「───……」

 

「……オイ、聞いてんのか?」

「えっ……あぁ、ごめん! 着替え終わってたんだ!」

 

 出た直後、何かに目を奪われていたノアがルナに気づき、パッと笑顔を浮かべてみては駆け寄ってくる。

 

「うん、読み通り! やっぱり元の素材がいいからかな~。カッコよく決まってるよ!」

「その言い分じゃ服選びに時間かける必要なかったろ」

「え゛っ。そ、それじゃあ素材を引き立たせる為のチョイスが難しかったなー! ……なんて」

 

 てへっ☆ と舌を出してはにかむ彼女に、最早反応を返すのも面倒なルナが白けた眼差しを向けた。

 

「で?」

「で? って……何が?」

「何見てやがった? 他人に着替えさせといた癖に」

「ごめんって! そのー、ちょっとあれをですね……」

「あ? ……帽子?」

 

 ノアが指差した先。

 そこには様々な種類の帽子が掛けられたハットツリーがポツンと存在していた。中から彼女が手に取ったのは、藁を編み込んだ麦わら帽子。白いリボンがあしらわれた可愛らしいデザインの帽子のタグには、『五千ベリー』と値札が付けられている。

 

「これ可愛いなー、欲しいなーって……」

「買えばいいじゃねえか」

「さっきので財布がすっからかんに……」

「……」

「やめて! そんな冷たい目で私を見ないで!」

「食い過ぎなんだよ」

「事実を突きつけるのもやめてーッ!」

 

 『でもおいしかった!』と後悔はしていないノアだが、ルナにズボンを買い与えた時点で素寒貧になったのは紛れもない事実。運命的な出会いを果たした麦わら帽子を買う持ち合わせのないノアは、さめざめと涙を流し商品を元の場所に戻す。

 するとそこで店主の老婆が反応する。

 

「それが欲しいかい?」

「! おばあちゃん、もしかして気前よくプレゼントしてくれたり……!?」

「流石にタダではあげられないけど」

「ですよねー!」

「でも、旅行で来た夫婦や恋人の人には割引してあげているわぁ」

「はいはいはーい! 私達カップルでーす! ラブラブでーす!」

 

 割引の話を聞くや、ノアが凄まじい速度でルナと腕を組む。

 

「オイ」

「(ちょっとだけだから! ね!? 今だけ我慢して、お願い!)」

「……」

 

 必死に懇願するノアに対し、ルナは無心と不動を貫くことに決めた。

 

「おばあちゃん! それで割引のお値段は!?」

「そうねぇ、二割引きってところかしら」

「二割引き! うーん、足りないっ!」

「あらぁ……」

「おばあちゃん……もう一声……っ!」

「安くしてあげたいけれど、私も商売でやってるからねぇ……」

「そこをなんとかっ……!」

 

 涙目で老婆に拝み倒す姿は、一種の宗教画に見えなくもない。

 だが、老婆の言う通り商売している身の上、旅行客に対しても割引できる額にも限度はあるというものだ。

 困り顔の老婆は暫し思案した跡、その円らな瞳をもう一人の方へと向けた。

 

「そうねぇ……それじゃあ、そっちの彼氏さんに払ってもらうのはどうかしら?」

「ルナ!」

「ふざけんな」

 

 振り返るノア。

 無情にも一瞬で切り返すルナ。

 

 しかしながら、彼女の泣きつきがそれで終わる筈もない。

 

「(一生のお願いだから、そこをなんとか……!)」

「(昨日会ったばかりの人間に一生のお願いとか図々しいにも程があんだろ)」

「(ちゃんとお金は返すから! ね!? お願い!)」

 

「っ~~~……、はぁ」

 

「あ゛り゛か゛と゛う゛~~~ッッッ!!!」

 

 心から。

 心の底から。

 本当~~~~~に心の底から不本意ではあったが、いつまでに泣きつかれたままで居るよりはマシと判断し、自分の財布を取り出すルナ。

 そうして、カウンターへ叩きつけるように料金を支払った。

 

「おら」

「はい、ちょうどだね。ウフフ……あんた優しいねぇ」

「誰が……」

「違うかい? 昨日知り合ったばっかりの子に買ってあげるなんて、十分優しいじゃないか」

「どの口で言ってやがる」

 

 夫婦か恋人であれば割引。そう言った張本人の言い草に、ルナの語気も強まる。

 

───まんまと乗せられた。

 

 かくして、老婆の企み───否、お節介は為された。

 

「ねえ、ルナ! 見て!」

 

 文句の一つでも言ってやろうと考えてれば、自分を呼ぶ澄んだ声が店の表から聞こえてくる。

 弾かれるように振り向く。

 店内に居て日陰に慣れていた目が眩む反射光が、ちらちらと青年に飛んできた。

 

 買ったばかりの麦わら帽子を被り、着ていたワンピースの裾をふんわりと躍らせるノア。眩い日差しは彼女の滑らかな曲線を描く肢体のシルエットを浮かび上がらせ、危うくも爽やかな色気を醸し出させる。

 

「似合ってる……かな?」

 

 麦わら帽子のつばを掴み、頬を赤らませるノアが問いかけてきた。

 嬉しさを隠し切れず、それでいて、ほんの少し不安がるような初々しい笑顔を咲かせ───。

 

「……ああ」

「えへへ……」

「親の顔をぶん殴りたくなる面してんな」

「見る段階を飛び越えて?」

 

 琴線に触れなかったことをひしひしと感じられる感想である。

 

「ちぇ~。カワイイの一言でも言ってくれればいいのに……」

「だから、そういうのはわからねェんだよ」

「ふーん。ま、いっか」

「で? オレはいつまでお前に付き合わされるんだ?」

「待って、あと一か所だけ見てみたいところがあるから!」

 

 とうとう案内という建前すら崩れ去ったノアは、ある方角を指差した。

 

「ローグタウンと言えばあそこしかないでしょ! 彼の海賊王が人生の終わりと大海賊時代の幕開けを告げた……そう、処刑台!」

「処刑台なんざ見ても楽しくないだろ」

「私は観てみたいの! だって、あの海賊王が死んだ場所だよ!?」

「あの海賊王って誰だよ」

「え……それ本気で言ってる?」

 

 信じられないものを見るような瞳に映り込むのは目の前の青年。つまりはそういうことだ。

 

「今どきゴールド・ロジャーを知らない人なんて居たんだ……」

「知らねェおっさんだな」

「海賊王を知らないおっさん呼ばわり……!?」

 

 『新鮮!』とノアは口に手を当てながらも、可笑しそうに頬を緩ませる。

 

「んまぁ、そういう訳だから……ちょっとだけ付き合って! ね?」

「……あぁ。わかった」

「お! 今日ここに来て初めての好反応……! ルナもその気になってくれた?」

「金貸したまま逃げられる訳にはいかねェからな」

「なるほど。そういうことね」

 

 前向きな理由とは言い難いが、それでも付いて来てくれる事実にノアの足取りは軽やかになる。

 

 処刑台はローグタウンの名所だ。大通りを進んでいけば、迷わず辿り着けるような広場にある。

 

「ほら、ここ!」

 

 町を象徴する巨大な建物、その目の前。

 ぽつりと一つ佇む簡素な木製の台こそ、この世の全てを手に入れた男が生涯の幕を下ろした処刑台に他ならない。

 

 

 

───『おれの財宝か?』

 

 

 

───『欲しけりゃくれてやるぜ……』

 

 

 

───『探してみろ』

 

 

 

───『この世の全てをそこに置いてきた……!』

 

 

 

 そして、大海賊時代の幕開けも。

 

 

 

「“海賊王”ゴール・D・ロジャーが、ここで……」

「……あぁ?」

 

ふとノアの方を見遣ってみる。

 これまでの反応を見ていれば浮足立ってもおかしくはないだろうに、彼女の反応は至って地に足をついていた。

 物思いに耽るのも束の間、憑き物が落ちたように清々しい表情を浮かべた彼女は言い放つ。

 

「……うん、満足!」

「……なんだよ、薄い反応しやがって。やっぱり大して見たくもなかったんじゃねェのか?」

「そんなことないよ! 何事にも雰囲気があるじゃん。こういう歴史ある場所は静かに眺めるものでしょ? 美術館然り、博物館然り!」

「そういうモンかよ」

「あっ……どこ行くの、ルナ!?」

 

 持論を語るノアを横目に、ルナは処刑台のある広場から背を向けた。

 

「ここ見たんなら用は残ってねェだろ。帰る」

「いや、でも……!」

「それに貸した金ならてめェの働いてる店に寄りゃあいいしな」

 

 『さっき気付いときゃよかった』とぼやくルナの帰路に就く足は速い。慌てて追いかけるノアの小走りでは追いつけない程だ。

 

「待ってよーッ!」

「待たねェ。今日は十分付き合ってやったろ」

「折角なら一緒に帰ろうよ!」

「なんでオレが一緒に帰らなきゃいけねェんだ。保護者か、てめェは」

「そういう訳じゃないけど……!」

 

 

「お、おい……! なんだアレ!?」

 

 

「ん?」

「あ?」

 

 突如、広場に響く切羽詰まった声。

 ノアやルナも含め、広場の人間のほとんどが空を見上げる。そこには雲一つないような青空───にも関わらず、雷鳴を轟かせて落ちてくる電光が瞬いていた。

 

 青天の霹靂と呼ぶには、遅すぎる。

 

「普通の雷じゃねェな。なんかが放電してんのか?」

「見て、ルナ! 空から女の子が!」

「頭イカれたか?」

「冗談じゃないから!!? ほら、あそこ!!」

「あ?」

 

 余りにも彼女が迫真の形相を浮かべるものだから、ルナも薄っすら目を細め、眩い電光が瞬く中を観察する。

 よく目を凝らさないと見えないが、鳥らしき影のすぐそばに人型のシルエットが浮かび上がっていた。流石に男か女かまでは判別つかないが、体格からして子供であることは間違いない。

 

「……居るな」

「でしょ!!? 早く助けてあげないと!!」

「……」

「……おーい、ルナさーん?」

「なんだよ」

「『なんだよ』、じゃないよ!? どうしてそんなに落ち着けるの!? 現在進行形で人が落下中だよ!? 助けに行ってあげないと!!」

「どうしてオレが助けなきゃならねェ」

「そこから!? そう言われたらその通りなんだけれども! けれどもっ!」

 

 人命が懸かっている状況の中、恐ろしいほど冷静───否、平然としているルナに驚きながらも、焦燥に駆られたノアは一目散に駆け出した。

 

「わかった! 私が助けるから!」

「勝手にしろ」

「ルナも手伝って!」

「てめェは他人を巻き込まなきゃ気が済まねェ性質か?」

 

 勝手に救助隊に加えられたルナが苦言を呈すも、その間にノアは落下し続ける少女の下へと走っていく───が、

 

「見ろ! 鳥が子供を咥えたぞ!」

「助けたのか!?」

「こっちに向かって下りてくる!」

 

 広場に居た人間が一部始終を口にする。

 彼らが口述通り、重力に任せて落下していた子供は電光を放つ鳥に咥えられ、真っすぐ広場の方へと向かって下りてきていた。

 

「っ!」

「クワァァァア!!?」

「違う……これは、別の!?」

 

 まるで何かから逃げるかのように焦った様子を怪訝に思っていたノアが、不意に何かを察知した。

 次の瞬間、情けない悲鳴のような鳴き声を上げる黄色い鳥の背後に、黒く巨大な影が現れた。黒光りした甲殻に、天を衝くような立派な角を携えて。

 

「───シャアアアアアア!!!!!」

 

「あ、あれはひょっとして……カブトムシなのか!?」

「デデデ、デケぇ!? いったい何メートルあるんだよ!」

「まさか、アレから逃げてきたってのか!?」

「おい! 鳥を追いかけてこっちに来るぞ!」

「に、逃げろォー!」

 

 常識を超えた体躯を誇るカブトムシの登場に、広場からは蜘蛛の子を散らすように人々が逃げていく。

 普通なら逃げて然るべき状況。大の大人程もある鳥を襲うカブトムシなど、一般人の手に負える存在ではないのだから当然だ。

 

 それでも尚、ノアは冷や汗を流しながら広場に留まっていた。

 ごくりと生唾を呑み込み、万が一の状況に備えるかのように、じっと視線を逸らさない。

 

 すれば、()()()()は不意に訪れた。

 

「ク、クワアアア!!?」

「っ! 危ない!」

 

 カブトムシに襲われながらも、電撃で抵抗していた鳥。

 しかしながら、余りにも苛烈な攻撃にとうとう一撃を貰った瞬間、口に咥えていた子供を放してしまった。

 再び重力に引かれる子供。先ほどより地上から離れていない分、間違いなく即死という訳ではなくとも、打ち所が悪ければ十分に死もあり得る高さに放り出された。

 

 そんな子供の救出に向かうノア。

 息を切らしながら必死に走った甲斐もあってか、伸ばした腕は子供へと届き、

 

「わっ、たっ、たァ!?」

 

 受け止めた際、衝撃までは考慮していなかった為か、バランスを崩して足が縺れてしまったノアが顔から地面に倒れ込む。

 直前で抱えた子供を空高々と掲げ、地面に叩きつける事態こそ免れたものの、面を上げた彼女は真っ赤な鼻血を垂れ流していた。

 

「たははっ、ギリギリ……セーフ……?」

 

「クワアアア!!?」

「シャアアア!!!」

 

「じゃないっ!?」

 

 今尚続く雷鳥とカブトムシの激闘。

 しかしながら、終始逃げ腰だった雷鳥がとうとう角の一振りに叩き落された。墜落する先には一人の青年───もとい、見物を決め込んでいたルナが立っている。

 だが、そんなことも露知らない雷鳥は防衛手段としての電撃を放つ。

一方、カブトムシ側も雄々しい角を掲げ、雷鳥を串刺しにせんと突っ込んでくる。

 

 仮に雷鳥が貫かれれば、そのまま背後に立つルナも串刺しにされかねない立ち位置だ。例え貫かれなくとも、あれほどの巨体と激突すれば大怪我は必至。

 

「避けて!」

「……チッ」

「嘘!? なんで……!」

 

 ルナは───避けない。

 寧ろ一歩前へと踏み出しては、電撃を放つ雷鳥の首根っこを掴み上げるではないか。

 

「クワッ!?」

「退け。邪魔だ」

「クワアアア!!?」

 

 あろうことか電撃を喰らっても痺れる気配を見せないルナ。

 かくして、突進を仕掛けてくるカブトムシと対面する形になった訳だが、体格差は一目瞭然。跳ね飛ばされるのが関の山だ。

 脳裏に過る青年が轢かれる無惨な光景。

 誰が目から見ても明らかな絶体絶命の状況に、周囲から一斉に息を飲む音が響き渡る。

 

───ドンッ!!!

 

 そう、鈍い音が響いたのは直後の出来事。

 大きな羽音は依然として大気を震わせ、辺りに激しい風を巻き起こす。

 

 そんな中、巨大な黒光りした体がビクリと跳ね上がった。

 

「……オイ」

 

 カブトムシは激しく羽搏くも、一切身動きが取れない。

 理由は単純。眼前の青年に、丸太程もある一本角を片手で掴まれていたからだ。

 

 抗う。抗う。必死に抗う。

 辺りに散乱していたゴミや軒先のガーデンチェア、果てには店に掲げられていた大きな看板すらも吹き飛ばされる強風を巻き起こす勢いで。

 

 にも関わらず、青年の体は一ミリたりとも動かない。

 ともすれば、掴んだ角をへし折らんとする勢いで握る手に力を込めていく。

 

「どいつもこいつも、他人の事を巻き込みやがって」

「ッ!!?」

「───邪魔だ」

 

 掴んだ方とは逆。

 硬く握られた拳が、大気の壁を突き破る勢いで振り抜かれる。

 

 瞬間、轟音と衝撃が広場より放射状に突き抜けていく。

 

「きゃあああ!?」

 

 舞い上がる砂煙と吹き抜ける強風は嵐に等しかった。

 猛烈な風に煽られるノアは、悲鳴を上げながらも助けた子供に余波が来ないよう抱きかかえた。その間、砕け散った道路の破片がぺちぺちと頬に打ち付けられ、否が応でも引き起こされた破壊の規模を思い知らされる。

 それがおおよそ10秒。実際には短くとも、体感的にはそれ以上の激震に身を縮こまらせていたノアは、終息した気配を覚えてゆっくりと瞼を開く。

 

「……嘘……」

 

 視界に飛び込んでくる───それは、クレーターと呼ぶべき窪みだった。

 

 たったの一撃。

 それは凶暴なカブトムシの甲殻のみならず、広場の地面をも破壊せしめてみせた。

 

 出鱈目な腕力だ。

 圧倒的な暴力だ。

 “力”とは何たるかを知らしめた青年は、平然とした顔で穴を一頻り覗き込んだ後、何をするでもなく背後に振り返り、

 

「てめェもか?」

「クワッ!? クワーッ! クワーッ!」

「その子はダメだよ! 怖がってるから!」

 

 尻餅をついていた雷鳥を前に指の骨を鳴らす。

 標的が自分に移ったと見るや、雷鳥は鼻水を垂れ流して泣き喚く。野生の本能とでも言おうか。青年から溢れ出る力に恐れをなしているのだろう。

 このまま行けば気絶しているカブトムシの仲間入りだ。

 

 しかしながら、間もなく駆けつけたノアが間に割って入る。殴り飛ばされる事態を免れそうとなり、雷鳥もホッと息を吐く。

 そんな雷鳥に向け、ノアは優しい笑顔を浮かべる。

 

「怖かったね……。大丈夫? 怪我はない?」

「クワァ!」

「そっかそっか。それじゃあ、この子のことはわかる?」

「クワァ~……」

「そうなんだ……それは大変だったね」

 

 まるで動物の言葉を理解していると言わんばかりに、ノアは謎の雷鳥とコミュニケーションを取っている。動物に語り掛ける人間などごまんと居る以上、大して珍しくもない光景だ。

 ただし、打ち解け合う速度は恐ろしく早かった。先ほどまで見知らぬ土地に怯え震えていた雷鳥が、今やノアにべったりとついて離れない。

 

「クワァ~!」

「あははっ! 羽がふわふわで気持ちいい~!」

 

「……ん……ぅうん……?」

 

「あ! 起きた?」

「あれ……わたし……?」

 

 雷鳥との触れ合いを楽しんでいれば、抱きかかえていた子供が目を覚ました。

 起きるや否や辺りをキョロキョロと見回す円らな瞳。すれば、すぐ傍のノアと目が合うは必然だった。

 

 一拍の間をおいて、少女が小首を傾げる。

 

「お姉ちゃん、誰?」

「私? 私の名前はノア! 貴方の名前も教えてくれる?」

「シャオ!」

「そう、シャオって言うのね! ねえ、シャオ? 空から落ちてきたみたいだけれど、貴方はどこから来たの?」

 

 シャオと名乗った少女は、聞かれた質問に答える前に、今一度周囲を見渡す。

 

「あの……ここ、どこ?」

「ここ? 東の海にある島の一つで、その中のローグタウンって町だよ」

「東の海って……あの、“計略の海”の?」

「“計略の海”? 聞いたことない呼び方……シャオが居た場所ではそう呼んでるの?」

「うん。シキって海賊が……」

 

「クワッ!」

 

「!!!!? デ、デッカい鳥……がくっ」

「え? 気絶しちゃった!?」

 

 途中まで喋りかけていたシャオであったが、不意に視界に飛び込む雷鳥に驚いたのか、白目を剥いて気を失った。

 『嘘!?』と狼狽えるノアと驚かせた張本人の雷鳥。

 

「ガキ一人気ィ失ったくらいで大袈裟な……あ?」

 

 騒ぎ過ぎたと呆れた溜め息を吐くルナは、チラリと覗いた少女の腕に違和感を覚える。

 

「……翼?」

「え? ……ホントだ! この子、両腕に翼生えてる!なんで!?」

 

 普通の人間には生えていない白い両翼。

 シャオ自身がまだ小さい為、サイズも程々ではあるが、そもそも生えている事実そのものが驚愕に値する。

 

「……ミンクじゃあねェな」

「ミンク? 何それ?」

「……」

「あっ、今すっごい説明面倒臭そうな顔してる! ひどい!」

「自分で調べろ。それに長居はしたくねェ」

 

 足早に立ち去るルナの言葉に、唇を尖らせるノアは広場をぐるりと見渡した。

 カブトムシが暴れまわってほとんどの人間が避難していた時とは裏腹に、ひと段落した今になって人の目が集まってきている。

 恐る恐るといった様子ではあるが、何が起きたのか一目見ようと好奇の視線が集まっていることは確かだ。

 

 このままではシャオの翼が見られてしまう。

 そうとなれば、彼女の意思とは関係なしに騒ぎになってしまう事態は想像に難くなかった。

 

「……うん、そうだね。ここから離れよう。ひとまず酒場に行かない?」

「あ……? なんでオレも行く流れになってんだ」

「だって、あのおっきなカブトムシやっつけてくれたのはルナだし! 助けてくれた本人が居ないと、この子もお礼言えないでしょ?」

「礼なんていらねェよ」

「ヒュウ、カッコイ~! 『礼なんていらねェよ』……だって!」

「てめェ……!」

 

 ルナの言葉を口にしつつ、ノアはキザっぽく髪を掻き上げてみせた。本人はしていない仕草に犬歯と共に苛立ちを剥き出しにするものの、空気を和ませようとしたノアは怯えた様子などおくびにも出さない。

 

「ごめんごめん! でも、この子だってお礼くらい言いたいと思うよ……だからお願い」

「……」

「それでもダメなら借りたお金返すから、そのついでってことで! ね?」

「……金返してもらうだけだ」

「ありがとう!」

 

 そうと決まれば話は早い。

 シャオと雷鳥、二人(?)を加えた四人はノアの働いている酒場を目指す。

 

 

 

 空は、まだ快晴のままだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

「メルヴィユ?」

 

 聞き返すように口に出すノア。その表情はあからさまに困惑し切ったものであった。

 

「店長、メルヴィユなんて島聞いたことあります?」

「う~ん、ないなァ。初耳だよ」

「私もです……。ルナは知ってる?」

 

「金は?」

 

 カウンター席に座るシャオを囲むように唸るノア達。

 そんな彼らから少し離れた場所に座りながらも話を振られたルナは、着実に面倒事に巻き込まれる流れを覚え、返済を催促してみる。

 

「う~ん、ルナも知らないとなると手詰まりだぁ」

「オイ」

「ねえ、シャオ。メルヴィユは東の海のどこにあるの?」

「東の海にはないよ。メルヴィユは空に浮かんでるの」

「えっ……、空!? 空に浮かぶ島なんてあるの!?」

 

 『そりゃ知らない訳だ……!』と驚きと興奮に満ち溢れた顔のノア。当然、ルナの催促は流される。それ故に流された当人も口を結び、静かに黙り込んだ。

 

「ホントだよ。わたしが生まれてくる前はそうじゃなかったみたいだけど、シキが来てからそういう風になったんだって。お祖母ちゃんとお母さんが言ってた」

「そうなんだ……世界には不思議な場所があるんだねぇ」

「信じてくれるの?」

「もちろん! 私はシャオのお話信じるよ」

 

 一般人の常識から逸脱した島の存在に疑う素振りを見せず、寧ろ満面の笑みで肯定してくれるノアに、シャオはパァッと顔を明るくさせる。

 

「もしかすると……偉大なる航路にある島かもしれないな」

 

 不意に店長が口に漏らす。

 

「にわかには信じがたい現象……だが、偉大なる航路では我々の想像を絶する超常的な生物や天候が溢れていると言う。そのメルヴィユという島も、そんな島の一つなのかもしれない」

「なるほど。つまり、不思議島ってことですね!」

「うん。まあ……ざっくり言えばそうだけども」

 

 ざっくりと話をまとめるノア。

 しかし、結局話は解決してはいない。

 

「島の名前がわかったところでなぁ……送ってあげたいのは山々だけれど、方角がわからないんじゃ我々にはどうしようもない」

「そ、そんなァ……」

「そもそも偉大なる航路に点在する島は不思議な磁気を帯びているようでね……。普通のコンパスじゃ方角がわからなくなるし、記録指針(ログポース)と呼ばれる不思議なコンパスを使っても、行きたい場所に辿り着けるとは限らないと聞く。残念だけれど、君の居た島に帰るのは……」

 

「───永久指針(エターナルポース)はねェのか」

 

「「「え?」」」

「クワッ?」

 

 振り返る三人と一匹。

 そこには外を眺めながら水を口に含むルナが。

 彼は喉を潤した後、ぶっきらぼうに語を継いだ。

 

「永久指針だよ。そいつがあれば、特定の島の方角だけを指す」

「それホント!? なんで知ってるの!?」

「別に。どうでもいいだろ」

「そ、そっか……じゃあ! メルヴィユの永久指針を手に入れたらシャオの故郷に帰られるってことだよね!?」

 

 一筋の光明にノアの表情が明るくなる。

 だがしかし、現実はそう甘くない。

 

「手に入れられたらの話だがな」

「あ゛。……ねえ、ルナ。ローグタウンで永久指針が売ってる場所とか知らない?」

「てめェが知らねェのにオレが知るか」

「ですよねー……」

 

 喜び損だとノアが項垂れる。

 

「うー……、どうしよう」

「ノアちゃん。こうなると私達にはどうしようもない……一か八か、海軍に引き渡すっていうのはどうだろう? 彼らなら我々より偉大なる航路に詳しいだろうし……」

「海軍はダメ!」

「おっ!?」

「あ……急に大声出してすみません……」

「い、いや……別にいいんだけれど。なに? 海軍苦手?」

 

 突如、鬼気迫った表情で声を荒げたノアに、店長が恐る恐る伺ってみる。

 

「いやぁ……だって、海軍ってあくまで海賊をやっつける人達ですし。迷子になった子供を届けてくれるほど親切かな? って」

「まあ、それはそうだね……」

「それに……」

「?」

「……いえ、何でもないです」

 

 少しばかり口籠っていたノアだが、『でも!』と真摯に訴える。

 

「やっぱりこの子はほっとけない! 故郷じゃない場所に一人迷い込んで、寂しくないはずなんてない……だから、なんとしてもこの子は帰らせます! 時間はたくさん掛かっちゃうかもしれないけれど……帰られる故郷があるなら、帰れるに越したことはないはずです!」

「お姉ちゃん……!」

「ノ、ノアちゃん……! ───なんていい子なんだぁ~~~~~ッ!!!」

 

───オオン、オンオンッ!

 

 シャオを送り届ける決意を表明するノアに感極まった店長が、嗚咽を上げて泣き始める。目尻より迸る涙の滝は、まるでアーチのような弧を描いて床へと流れ落ちていた。

 

「……うるせェ」

 

 それを冷淡に眺めていたルナは、コップに残っていた温い水を煽る。

 片手間に新聞を眺める彼は、スッと目を細めて綴られた文字を追う。

 

「クワァ~」

「ん? どうしたの、ビリー?」

「ビリー? その鳥の名前かい?」

「はい! ビリビリ電撃出してたんで!」

 

 徐に店内の物色を始める雷鳥、もといビリーに、ノアをはじめとする店内に居る人間の目が彼の動向に集まる。

 するとカウンター裏に辿り着いたビリーが、何かをごそごそと漁り始めた。

 

「コ……コラ! 何をしているんだ!?」

「あれ? そんなところに食材なんてありましたっけ?」

「いや……実は昨日暴れた海賊が落としてった荷物を集めといてね。癪だから、このまま質にでも出してやろうかと考えてたんだが……」

 

 『まさか食べ物でも入ってたか?』と荷物を漁るビリーを眺める店長。それにつられてノアやシャオも観察に加わる。

 

「クワァ~!」

 

 次の瞬間、袋の中身をひっくり返すビリーは、転がり落ちた物の中から一つの見慣れない物品を咥え上げた。

 

「あ」

「あ」

「あ」

 

 ノア、シャオ、店長と掲げられたコンパスに目を丸くする。

 普通のコンパスと形状は違い、中央の収まった球形のガラスの中には、斜め上を延々と指し示す針が吊るされていた。

 そのコンパスには、こう刻まれたタグが張り付けられている。

 

───『MERVILLE(メルヴィユ)』、と

 

「「「あ~~~ッ!!!!?」」」

「クワ?」

「なんだ、あるじゃねェか」

 

 驚く三人とは対照的に、傍観者を決め込んでいたルナとメルヴィユの永久指針を見つけ出したビリーは穏やかだ。

 しかし、すぐさま浮足立ったノアがビリーへと抱き着き、フワフワな羽毛を湛えた頬にキスしつつ、全身をこれでもかと撫でまわし始める。

 

「すごいよ、ビリー! あれかな? 野生の勘ってやつ? それとも臭いとかでわかったのかな?」

「クワァ~!」

「よ~しよしよし! シャオ、これでメルヴィユに帰れるよ! 良かったね!」

「うん!」

 

 三人と一匹は絶望的とも思われていた代物の発見を大いに喜んでいる。まさか昨日成敗された海賊が落としていたとは誰も思うまい。

 

「……」

 

 狂喜乱舞する外野を余所に、眉間に皺を寄せるルナが眺める記事には不可解な事件が一面を飾っていた。なんでも東の海でいくつもの町が壊滅しており、海軍も原因を突き止められないという内容だ。

 掲載された写真も無残に倒壊した家屋に立ち尽くす住民と、悲壮感と恐怖を煽るものだ。

 

 目を通していたルナは、静かに新聞を置いた。もう一度水を飲もうとコップに手を掛けたが、空であることを思い出して止める。

 

「はぁ……」

 

「それじゃあ準備に行くぞー!」

「おー!」

「クワーッ!」

 

「待って待って! 待つんだノアちゃん! あ……行っちゃった……」

 

 溜め息を吐いていれば、拳を突き上げたノア達が店の外へと飛び出していく。

 カウンター越しに制止しようとした店長だったが、嵐の如く去っていく彼女達を止められはせず、人口密度が減った店内でがっくりと肩を落とす。

 

「偉大なる航路は危ないって言ってるのに……行動力の化身かい、あの子は」

「オイ。水」

「はーい、ただいまー! ……うん?」

「あ?」

 

 目と目が合う店内に残された二人。

 その内の一人、水差しを手に取った店長はルナを見るや、カッと目を見開いて猛スピードで彼の下まで駆けつける。

そして、無駄に洗練された無駄のない無駄に高い場所から水を注ぐ御業を披露してから、青年の顔を覗き込みように眼前へ顔を近寄せた。

 

「昨日のお強いお客さん! 折り入ってお願いが……!」

「近ェ」

「ビンタが割と容赦ない!」

 

 バシンッ! と肉迫する店長に、ルナは反射的に平手打ちを叩き込んだ。

 空中で三回ほど錐揉み回転した店長はそのまま地面へと叩きつけられるも、真っ赤に紅葉が浮かぶ頬を押さえつつなんとか立ち上がってみせた。

 

「は……話はどこまでお耳に入れて……?」

「永久指針見つけてからは聞いてねェ」

「さいですか……それでは、ノアちゃん達が『偉大なる航路に行く!』と意気込んでいた話は聞いてないですね」

「関係ねェからな」

「そこでなのです!」

「近ェ」

「今度は逆の頬にビンタ!」

 

 先ほどとは逆方向に錐揉み回転。今度もきっちり三回転だ。

 両頬に紅葉が浮かぶ店長は、プルプルと震え、息も絶え絶えになりながらもルナが席に着くテーブルに這いずり上がった。

 

「あ、貴方の腕を見込んで、お願いが……」

「断る」

「まだ話してもないのに!?」

 

 『聞いてください~!』と店長はルナに泣きつく。

 恥も外聞もなく泣き顔を晒す店長は、鼻水を垂れ流しただみ声のまま懇願し始める。

 

「お願いです! 偉大なる航路に向かうノアちゃん達の用心棒をしてあげてください! どうか! どうか~!」

「なんでオレが……勝手に行かせりゃいい話だろうが」

「そう言わずに!」

 

 店長は涙ながらに語る。

 

「偉大なる航路は先も話していた通り、我々の常識が通用しない世界! 強靭な生物! 滅茶苦茶な空! そして何より凶悪な海賊が跋扈する弱肉強食の海なのです! そんなところをか弱い女の子が旅をすると想像するだけで……私は! 夜も眠れないッ!」

「夜寝なくても人間死なねェよ」

「そういうことじゃなくてですね!?」

「じゃあ死ね」

「なんか対応が雑!!」

 

 少なくともノアとの間で違いがある店長は、別の意味で涙を流した。

 しかし、これで折れるほど彼の情熱は小さいものではない。

 

「後生です! 何卒……!」

「……なんでそんなにあの女に入れ込んでんだ? ただの従業員だろ」

「そんな! ノアちゃんとは出会って数か月……そんな私が親心を語るのもなんですが、あの子は本当にいい子なんです!」

 

 余りの熱量に口角泡を飛ばす店長から、ルナも体をのけぞらせて距離を置く。

 それでもワンワン響く声量は店内を突き抜け、外の通りを行く住民にも聞こえる。

 

「笑顔が可愛らしくて、老若男女問わず優しく、困っている人が居たらほっとけない……それでいながら悪いことには悪いときっぱり言える芯の通った素敵なレディー! あんなにいい子がこの世に居るのかと、当時の私の世界はひっくり返ったほどです!」

「あー、わかった。わかったからそれ以上近寄んな!」

「あの子は私の……いえ、この酒場の! いえいえ、ひょっとするとこの世界の宝と言っても過言ではない存在だ! ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)なんてクソくらえ! あの子こそが真のひとつなぎの───」

「近ェ」

「今度はグー!!」

 

 3ノックダウン───TKO(テクニカルノックアウト)

 

 顔面の中央に拳を叩き込まれた店長は、とうとう立ち上がることもままならなくなり、床に這いつくばりながら言葉を続ける。

 

「と……ともあれ、あの子は色んな人に愛されてます……。もしもひどい目に遭えば悲しむ人間も大勢……。ですので、せめて腕の立つ人間と一緒に偉大なる航路へと……」

「それでオレが? ……冗談は休み休み言えよ。だからってオレがあの女を守る理由にはならねェだろ」

「じょ、冗談なんかでは……それに、タダでとは言いません! 私に払える限りであればお金も差し上げます!」

 

 徐に店内の裏側へと這いずり回っていった店長は、ガチャガチャと金庫を弄る音を響かせた後、札束を三つほど握ってルナの目の前に戻ってくる。

 

「三百万ベリー! 店に置いてある分はこれだけですが……これでなんとか」

「……これっぽっちか?」

「!」

 

───足りなかったか。

 

 店長の脳裏に過る考えだが、それはすぐさま胸倉を掴み上げる青年の手によって中断させられる。

 

「それで……オレとあの女達の命を買おうってか?」

「は……? い、いやッ、買おうなんて、そんなッ!」

「いいや、そういう意味だ。てめェは言ったな、オレに用心棒になれって。そいつァつまり、オレの命に代えてもあの女を守れって意味だ」

 

 これは、金額の問題ではない。

 暗に察する店長の頬にはツーっと冷たい汗が流れる。

 

 依然として胸倉を掴んだままのルナは、血の気が失せていく店長を睨みつける。その双眸は店内に灯る蠟燭の光を浴び、緑色から血のように真っ赤な赤色へと変色していた。

 

「……てめェがどんな世界で生きてきたか知らねェが、オレの世界じゃ人の命は安く買い叩かれてたぜ。知ってるか? 奴隷って案外簡単に買えるもんだぜ? ───まァ、オレは飼われてた側かもしんねェがな」

「あ、貴方はいったい……?」

 

 店長の問いには答えず、僅かばかり赤く照らされる瞳は逸らされる。

 

「……ともかく、オレは金で命懸けるなんざ死んでも御免だ。大枚叩く気概があるなら別の奴に頼め」

 

 そう吐き捨てたルナは店の外を目指す。

 だが、

 

「ま、待ってください!」

「……まだなんか───」

「貴方の言う通りだ! 失った命は、お金じゃ買い戻せません!」

 

 必死に訴える店長。

 

「確かに世界には人の命に値段を付ける人が居るかもしれない! それを許容する人も居れば、それで苦しめられている人も居る! ですが……お金で命を救えるのも、また事実です!」

 

 そんな彼は床に頭を擦り付ける体勢を取っていた。

 

「私にはあの子を守り抜く為の力もコネもない……あるのは、ここにあるささやかな金額だけ。ですが、これは命の価値じゃない!」

「じゃあ……なんだ?」

「誠意です……!」

 

 ドンッ!!! と、今一度札束を叩きつけるように差し出す店長は絞り出すような声を紡ぐ。

 

「……先ほどは誠意を見せず申し訳ない。()()()()()()では足りないと言われるのも道理です。ですから、私なりの最大の誠意を貴方にお見せ致します」

「……どうやって?」

「この店……酒場を! お譲りいたします!」

 

 

 

───『すみませ~ん! ここで働きたいんですけど……』

───『……お客さんですか? すみません、この酒場はもうすぐ畳む準備をしていて……今はもう営業していないんですよ』

───『えっ、どうして!? こんなに立派なお店なのに!』

 

───『……この店は妻と娘夫婦と営んでいたんですがね。娘夫婦の乗っていた船が海賊に襲われて……それで妻は心労が祟って病気に』

───『……』

───『どちらも帰らぬ人となりました。だから、もういいんです。この店は私の人生そのものだった。でも、これ以上はどうにも……』

 

───『……それなら尚の事諦めちゃダメです!』

───『え……?』

───『奥さんも、娘さんも、その旦那さんも……そんな形でお店が畳まれるのは望んでないと思います』

 

───『このお店が店長さんの人生だって言うなら、きっとご家族の方々は末永く繁盛してほしいって願ってるはず。このお店だって、ずっと皆の笑顔を見ていたいって……そう言ってるような気がするんです』

───『それは……っ』

───『一人じゃダメなら私も手伝います! これからもう一度、人生をやり直しちゃいましょうよ!』

 

 

 

「あの子は……私の命の恩人なんです! 私の人生を払うくらい……安いものだッ!」

 

 紛れもなく、この酒場はたくさんの人生が詰まっている。

 大勢の人が訪れ、出会い、繋がり、果てには新たな命を授かったという吉報も届いた。それだけの思い出が詰まった場所を明け渡すなど、余程の覚悟の上での決断であろう。

 

「貴方にお譲りした後は、質に入れるなりなんなりしてくれて構いません! それでも納得していただけるかはわかりませんが……これでどうにか!」

「いらねェ」

「えぇー!!!?」

 

 無情である。

 言葉通り、人生を投げ打つ提案を口にしたものの、ルナの心にはこれっぽっちも響かなかったらしい。

 多少なりとも葛藤があったならばまだしも、そのような素振りを毛ほども見せずに断る様は、人の心があるのかと問い質したくなるものだった。

 

「酒場の一つ売り払ったくらいで大した金になるかよ」

「そ、それは……そうかもしれませんが……!」

「大体、誠意だなんだ言っといて結局金じゃねェか」

 

 『最初と何が違うんだ?』と突き放す不愛想な声の後に、席を立つ音が響く。

 

「これ以上他人に指図されるのは真っ平御免だ。オレは、もう……自由なんだ」

 

 そう言うや、ルナは日光が差し込む出口へ向かう。

 顔を俯かせ、それでもまだ眩しいと目を閉じながら、どこへともなく立ち去ろうとした───その時だった。

 

 

 

「「「「「───話は聞かせてもらったあああっ!!!!!」」」」」

 

 

 

 扉の陰に隠れていた人の山が雪崩れ込み、立ち去るルナの足に縋りつく。

 彼らの顔には店長も見覚えがあった。というのも、全員酒場の常連客であり、熱狂的な看板娘(ノア)のファンだったからだ。

 

「あんちゃん、俺から頼むよォー!」

「ノアちゃんはこの酒場の宝物なんだ!」

「悔しいが……あんたの強さだったらノアちゃんを任せられる!」

「オデには何にもないけどよっ……金ならちょっとだけならある! これも足しにしたら、なんとかなんねえか!?」

「後生だよォー!」

 

 

「邪、魔、だァ!」

 

 

「おおおおお!? この人数が引っ張られる!?」

 

 『離れろ!』と足に縋りつく男共に構わずズンズンと歩を進めるルナ。連なるように重なっていた男共はズリズリと固い地べたを引きずられるが、その程度で痛みで挫ける愛ではなかった。

 何人ものいい大人が一致団結し懇願する姿は、一周回って人間の愛の美しさを覚える光景だ。一周回らなければ? ───醜態を絵に描いた光景だ。

 

「放せ! ぶっ殺されてェのか!」

 

「うっ……こ、殺されるのはちょっと……」

「けど、あんたの心をちょびっとばかしでも動かせるなら!」

「それでノアちゃんを助けられるなら本望ってもんだ!」

「オデ達ァ、あの子に人生救ってもらったんだァ~!」

「い、一度は捨てた命だ! ノアちゃんの為なら惜しくはねェ……!」

 

「てめェら……いい加減にッ!」

 

 刹那、ルナの右手からバチリッ! と爆ぜる音が鳴り響いた。

 同時に謎の閃光が辺りを緑色に照らしたが、余りにも一瞬の出来事であった為、その正体がわからず終いだ。

 得体の知れない現象に恐怖を覚える客の男達。

 それでも尚、ルナへと縋りつき、とうとう彼の怒りが頂点を迎えようとした。

 

「あれ? みんな何してるの?」

 

 そんな時だった。

 

「「「「「ノ、ノアちゃん!!!!?」」」」」

「どうしてここに!?」

 

 声を揃えて驚く客と店長に、シャオと手を繋ぎ、ビリーを後ろに連れているノアははにかんで答える。

 

「そう言えばお財布の中がすっからかんなこと忘れちゃってて……何にも買えそうになかったんで帰ってきたんです」

「そ、そうかい……それは良かっ……いや、残念だったね」

「それで店長、折り入ってお願いがあるんですけど……」

「うん?」

 

 何事かと目を見開く店長へ、ノアは深く頭を下げる。

 

「お給料、少し前借りできませんか?」

「え……えぇー!?」

「勝手なことを言ってるのはわかってます。でも、私は一刻でも早くシャオを故郷へ帰してあげたい! 家族の人も心配してると思うんです」

「ノアちゃん……」

「お願いします! お借りした分は、必ず働いてお返しします! だから……」

「それはっ……ダメだ。心苦しいけれど……貸してはあげられない」

 

 店長の言葉に、面を上げたノアは悲しそうな表情を浮かべる。

 しかし、それは自分の誠意が伝わらなかったと嘆く自分本位な感情ではない。

 

「……店長は、私に偉大なる航路に行ってほしくないですか?」

「っ、当然だとも! あの海は危険だ! 普通の女の子が行って無事で済むような場所じゃあない!」

「どうしても……ですか?」

「……さっきね、そこの彼に君の護衛を頼もうとしたんだけれど断られてしまってね」

「え?」

「腕の立つ用心棒と一緒ならまだしも、君達だけじゃとても行かせていいと思えない! その子には……気の毒だけれど……」

 

 『許してくれ』と声を絞り出す店長。その口元には込み上がる嗚咽を押さえるように掌が当てられている。

 彼の親心は周りに居る者達にもひしひしと伝わっていた。

 

 どれほどの葛藤の果てに、今の言葉を絞り出したか。

 その思いの大きさを暗に察したノアは、嬉しそうに頬を緩めた。

 

「店長……ありがとうございます。でも、私は行くって決めました」

「ノアちゃん!」

「店長や皆の気持ち、すごく嬉しいです。私も皆には危ない目に遭ってもらいたくないし、もちろん死んでほしくもない……けれど、ここでこの子を見捨てたら、私は私じゃなくなる。『ノア』っていう人間は死んでいなくなるんです」

 

 今一度深々と頭を下げる。

 万感の思いを込めた言葉は、潮風のように全員の鼓膜を優しく撫でる。

 

「今までお世話になりました。皆との思い出は私の宝物です。一生大事にしていきます」

「ノ、ノアちゃん……!」

「そして、無事に帰ってこられた、またその時は……この酒場で一緒に過ごさせてください!」

 

 満面の笑みで言い放つノア。

 それは今にも泣き出しそうに歪んでいた。

しかし、別れの悲しみは涙と共に呑み込み、彼女は颯爽と踵を返した。

 

「それじゃ……!」

 

「ま、待ってくれ! それでも行くというなら、せめてお金だけでも持ってってくれ!」

「俺も! 足しになるかはわからねえけど……」

「オデのも!」

「ワイのも使ってくれ!」

 

 彼女の言葉が本気だと受け止めた者達はベリー紙幣を片手にノアへ殺到するが、

 

「皆……ありがとう! でも、それは受け取れない」

「そ、そんな……!」

「皆の気持ちをつけ込むようなこと、私にはできないから」

「つけ込むだなんて、そんな! これは私達の意思で……!」

「それでも受け取れません。そのお金はちゃんと手元に取っておいて、本当に必要になった時に使ってあげてください」

 

 頑なに金を受け取らないノアは、最後の最後まで一ベリーたりとも受け取らずに酒場を後にした。

 残された店長と客はと言えば、人目も憚らずにさめざめと涙を流し、酒場の顔であった看板娘との別れを惜しむばかりであった。

 

「うっ……うっ……!」

「ノアちゃぁん……」

「なんて強情……けれど、私達はそれに救われた……だというのに!」

 

───なにもしてやれないのか。

 

 誰かが自身の無力を呪うように独り言ちた瞬間、あることに気が付いた。

 

「あれ?」

「どうした?」

「あんちゃんはどこ行った?」

 

 ノアに気を取られている間、一人分の影が消えていた。

 

 

 

 それは、一人の命を託そうとした男のものであると気付くのは、もう少し後。

 

 

 

 ***

 

 

 

「お姉ちゃん……」

「なーにー?」

「ホントに良かったの?」

 

 ローグタウンの浜辺にやって来たノアとシャオの二人。

 それに加えてビリーと、とても偉大なる航路の荒波に抗えるとは思えない面子が集まる中、シャオは今にも泣き出しそうな表情だった。

 

「わたしのせいで、お姉ちゃんが……!」

「何がシャオのせいなの? 全然気にすることないよっ! これは私が決めたこと。だからシャオは一つも悪くないよー、っと」

「ホントに……?」

 

 不安に駆られるシャオ。

 その頭に手を置くや、わしゃわしゃと撫でまわすノアは屈託のない笑みを浮かべてみせた。

 

「ホントったら! ……私を信じて」

「……うん」

「それにね、案外人生ってのはどーにでもなるのっ! これ、シャオよりも長生きしてる私からのアドバイス! 人生の先輩って奴? だから、大船に乗ったつもりでドーンと頼っちゃって!」

「……ふふっ、あは! あはははは!」

「ふふふっ!」

 

 ノアの明るい雰囲気につられ、シャオの顔にもようやく笑顔が浮かび始める。

 しばし、朗らかな笑い声が浜辺中に響く。

 

「あー、笑った! やっぱり人生笑って生きてなんぼ! そうじゃない?」

「うん!」

「よーし、シャオの元気も出たところで、そろそろ出発しますかァー!」

「うん!」

「二人共、メルヴィユに行きたいかァー!」

「おぉー!」

「クワァー!」

 

 元気一杯で拳を掲げる三人(?)。

 かくして愉快な彼女達の航海が始まろうとする、

 

「オイ」

「わっ!? ルナ、いつの間に!?」

 

 その直前だった。

 海の方を向いていた彼女達の背後に立つ、一人の青年。ルナは不機嫌を隠そうともしない表情でこれから船出と意気込んでいたノアを呼び止める。

 

「どこ行く気だ」

「どこって……偉大なる航路! 正確にはこの子の故郷のメルヴィユだけど……」

「オレが用心棒断ったって話聞いたのにか」

 

 散々人を強引に連れ回していた彼女のことだ。

 今回の航海にも何か理由を付けて巻き込むものだと、ルナは心のどこかで思っていた。

 

 しかし、実際の反応はむしろ逆だ。

 

「……うん。ルナは連れていけないよ」

「他人のこと、あんなに連れ回したくせにか」

「あ……、あれは別に危なくもなんともないから! それに楽しんでほしいって気持ちで……でも、今回の旅は違う。私の我儘でルナを巻き込ませたくないし、それで死なせちゃうようなことになったら、私……“くい”が残ると思うんだ」

 

 真っすぐな瞳が、ルナに訴える。

 

「誰も死なせたくない。誰も殺したくない。私のせいで誰かが命を落とすくらいなら、私は一人でやり遂げる。今までだってそうだったし、これからだってそうしていく」

「……」

「だから、ルナには付いてきて欲しくない……かなぁ」

「そう、か……」

「うん……」

 

 互いに視線を地面へ落とす。

 数秒の沈黙。気まずい空気が流れる中、先に動いたのはルナであった。

 

 徐にノアの肩に手を置いては、ハッと面を上げた彼女の双眸をじっと見つめた───次の瞬間だった。

 

「フンッ!」

「あ痛ぁーいッ!!!?」

 

 体を弓なりに反らしたルナの頭突きが、ノアの鼻っ面に炸裂する。

 予想外の攻撃に反応できなかったノアは転倒。砂浜に後頭部からは突き刺されば、ブリッジを全身で表現しつつ、鼻から噴き上がる血を手で押さえる。

 

「な……なんで頭突きするのぉ……?」

「金返せ、てめェ」

「今!? もしかしてそれ言う為に来たの!?」

「当たり前ェだろうが」

 

 『まだ返してもらってねェだろうが』と掌を差し出して催促するルナに、やっとこさ起き上がったノアは涙を流しながら財布を取り出す。

 

「うぅ、わかったよぅ……今返すから……」

「本当にあんのか? さっき店辞めただろ」

「……あ」

「挙句誰からも金受け取らねェで。……てめェ言ったよな。金返すから店に寄れって、なあ?」

「ごめ゛ーん!!!!」

 

 美しいジャンピング土下座。着地も完璧だ。点数を付けるとしたら満点だろう。

 突き抜ける謝罪の言葉も、海の彼方へと届く勢いで砂浜中に響き渡る。

 

 それでも尚誠意の姿勢を崩さないノアは、地面に頭をつけ───否、砂浜に額を埋めていくようにグリグリと擦り付け、地面よりも下と頭を下げる。

 

「申し訳ございませんルナ様……! ただいま持ち合わせがなくてですね……万が一にもお慈悲を頂けるのであれば、また次の機会にご返済の期限を伸ばして頂くようできないかと……!」

「人生行き当たりばったりか、てめェは」

「なにとぞぉ~~~……ッ!」

 

 土下座を超え、ノアの姿勢は五体投地へと移り変わる。

 その必死さにシャオもビリーもあたふたとし、最終的には彼女に倣ってルナへと頭を垂れて地面に這いつくばった。

 

「お願いします!」

「クワッ、クワァー!」

「神様仏様ルナ様! どうかお慈悲を……あっ、そんなゴミを見るような目で見ないで! 痛い痛い! 心が痛いよぅ!」

 

「自分をゴミなんて言うな。ゴミになんて目ェくれるか。見るとすりゃあそれ以上かそれ以下だ」

 

「ホッ……あっ、いや、もしかして私ゴミ以下!? 今のってそういう意味!?」

 

 まさかのゴミより低い階位にランクダウンした事実に、悲鳴のような声が砂浜を突き抜ける。

 

「ほ、本当に申し訳ございません……借りたお金は、いつかきっとお返ししますので……」

「これから死にに行くような旅に出るくせにか」

「うっ!」

「駄目だ、信用ならねェ」

「そこをなんとか……!」

 

 酒場で別れを告げて去った決意に満ちた女の姿は、既にない。

 痛いところを突かれて何も言えなくなった彼女を前にしたルナは、最早期待した答えが返ってくることはないと悟り、苛立たしそうに鼻を鳴らす。

 

「それならこっちにも考えがある」

「はい!?」

「金返すまでてめェらに付いてくぞ」

「私にできることならなんでも───え?」

「文句あるか?」

 

 思いもよらぬ言葉に面食らうノアであったが、数秒遅れて言葉の意味を理解するや、首を何度も横に振る。

 

「そんなことないよ! 私的には心強いっていうか……うん、すごく頼もしい!」

「勘違いするな。オレは付いてくだけだ。面倒事はてめェらでどうにかしろ」

「うん!」

 

 よろしくね! とルナの手を握るノアは、喜びの余りそのままブンブンとブンブン振り回す。『本当にわかってんのか……』と訝しむ視線を向けられようがお構いなしだ。

 

 気の済むまで握手を交わさせたところで、ルナは話に戻る。

 

「で? どうやって偉大なる航路に行くつもりだ」

「ん?」

「船もなしに行くつもりじゃねェだろうな」

 

 海を渡るには当然船が居る。

 港で釣り用の漁船が貸し出されていたりする場合もあるが、流石に小舟で渡れるほど偉大なる航路は甘くはない。そして何より金が要る。

 

「まさか、その鳥に乗って行く気か?」

「ふっふーんっ! 流石の私もそこまで考えなしじゃないよ!」

「なんか用意でもしたのか?」

 

 辺りを見渡したところで船らしき影はない。

 いったいどのような手段を用意したのか疑問に思うルナの目の前で、ノアは唐突に指笛を鳴らした。

 

 遠くまで澄み渡る、綺麗な音色だ。

 吹き慣れているのだろうと容易に想像がついたところで、今度はどこからともなく地響きが聞こえてくる。

 

───いや、違う。これは海の方からだ。

 

 海鳴りにも似た重低音はしばらく続き、しかも、こちらの方へと近づいてくる。

 

「……っ!」

「───来た!」

 

 何かの気配を察するルナと、山のように盛り上がる海面を見つけるノア。

 霞んで見えるほど遠い場所から、津波に見間違うような上昇した海面が近づいてくるのを見守ること数分。

 ある瞬間を境に忽然と海面は低くなるが、海鳴りは時が経つにつれて迫力を増すばかりだ。

 

 そして、ピタリと止まった───まさに、その直後だった。

 

 

 

「───ォォォオオオオオオン!!!!!」

 

 

 

 爆発。

 そう幻視するような光景だった。

 

 海底にある火山が噴火したかの如き勢いで盛り上がる海面から、空を覆い隠す巨影が姿を現す。捲り上げられた海面は津波と化し、砂浜を洗い流す勢いと化して放射状に広がっていくが、寸前のところでビリーに飛び乗った三人は事なきを得る。

 そうして空へと舞い上がったものの、飛び出した巨影の全貌を望むことは叶わない。

 文字通り、山のような巨体だった。町を一望できる高さまで高度を上げたところで、未だ出現した生物と目線の高さが合うことはない。

 

「こいつは……」

「私の友達! 海獣のシーちゃんだよ!」

 

「オオオオオン……!!!!!」

 

 巨大な、それも『規格外な』がつく規模感の胴体が細長い魚とでも言おうか。

 人智を誇る生物はごまんと居るが、眼前に聳え立つ生物はその中でも規格外。水中という地上よりも体が巨大化できる傾向にある環境だからこそ、これほどまでに育ちあがった生物が、この海には棲みついている。

 

「オイ。この図体、海獣じゃなくて海お……」

「小さかったころから友達なの! 私、実はこの子に乗って旅してるんだ!」

 

 『久しぶりー!』と手を振るノアに、シーちゃんと名付けられた巨大魚は鳴き声を上げて応える。

 

「どう? この子だったら偉大なる航路でも旅できるでしょ?」

「……てめェはいったい……」

「あははっ! シャオもびっくりした?」

 

「きゅう……」

 

「って、きゃー!!? 気絶してるぅー!!?」

 

 ノアに抱きかかえられていたシャオであったが、気づけば泡を吹いて気絶していた。シーちゃんの余りの大きさに卒倒したのだろう。

 先が思いやられる出立だ。やれやれと首を振るルナは、薄く細めた瞳でノアの顔を背中越しに見つめる。

 

───ただの明るい女かと思えば、山に並ぶ巨体を誇る生物をも従えさせる。

 

 なんともちぐはぐな印象を与える彼女だが、その笑顔の裏側には“何か”が隠されていると、ルナは受け止めていた。

 

(別にどうとする訳でもねェが……)

 

 自分が気にすることではない。

 今はそう自分に言い聞かせ、彼の旅は始まりを迎えた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 昏い影の奥に、男が座している。

 

「シキの親分。よろしいですか?」

「───なんだ?」

東の海(イーストブルー)へデータ収集に出ていた部隊からの連絡が途絶えました」

 

 読み上げられる報告に、男は『ほう』と息を漏らす。

 

「構わん、既に計画は最終段階だ。宣戦布告の意味合いも兼ねてのテストだったが、データは十分集まったろう?」

「ええ、それはもう」

「ならいい」

 

 懐から取り出した葉巻に火をつけ、男はそれを咥えた。

 

「───20年だ」

 

 しみじみとした口調で彼は回顧する。

 

「長ェこと時間を掛けたが……潮時だ」

 

 そしてそのままある方角を見遣った。

 

「さあ、出発だ。計略の海……惨劇の東の海(イーストブルー)へ!!!!」

 

 

 

 薫る紫煙は、東へと向いていた。

 

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