あれは、入学を控えた三月のことです。
私は、父と二人で車に乗っていました。
彼が風邪で寝込んでしまった日、お見舞いの帰りでした。
彼の元を離れたくはありませんでしたが、私に風邪がうつってしまった場合、他ならぬ彼に迷惑をかけることになります。そのため、ぐっと堪えて帰ることにしたのです。
「お父様、ありがとうございました。私と彼を、同じクラスにしてくれて」
「礼には及ばないさ」
私は、父に感謝していました。
彼の入学に際して、様々な手を尽くしてくれたことを知っているからです。
「すまなかった」
「……え?」
突然の謝罪に、私は面食らってしまいます。
「僕は、有栖のことをちゃんと見ていなかったのかもしれない」
「お父様が?」
「そうだ。僕は教育者としての視点で、君の才能ばかりに目をやって、肝心なことが何一つ見えていなかった。親として、これ以上の不覚はない」
私は、父が何に対して謝っているのかを察しました。私の身体のことです。
父が気に病む理由は何一つないはずなのですが、それでも心苦しいのでしょう。
「彼がすごかった。私は、もうそれでいいと思います」
「それについては同感だ。天才としての有栖ではなく、常に一人の女の子として扱い続けた彼のことを、僕は誰よりも尊敬している」
「彼のことを、気に入っているのですか?」
「もちろん。こうなったからには、必ず捕まえなさい」
「……はい」
あの日以降、父は彼を私のパートナーとして認めました。かつては毎日のように一緒にいることを窘められたぐらいなのですが、今ではこんな調子です。
私が幸せになる道は、この一本しかない。それを理解してくれているのです。私は、この方が自分の父親で本当に良かったと思います。
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海の光が窓ガラスで反射して、私の目に入ります。
まどろみながら隣を見ると、そこには彼……ではなく、神室さんがいました。
私の身体に右腕と右足を絡ませています。どうやら、抱き枕にされているようです。
こんなところまで、彼の真似をする必要はありません。
「有栖ちゃんメモ」には寝相まで記載されているのでしょうか?
身体を揺らしてどかそうとした時、昨晩は深夜まで起きていたことを思い出しました。
神室さんは、日中に寝過ぎてなかなか眠りにつけなかった私の話し相手になってくれたのです。
(それでいて無理に起こすのは、あまりにも酷いですね)
私は再び横になり、目を瞑りました。
夜中に神室さんと話した内容が、頭に残っています。
「そういえば、坂柳はAクラスでの卒業にこだわりはないの?」
「全くありません」
「そっか。そうやって割り切るのも、それはそれでいいかもね」
Aクラス……トップであることに対するこだわり。
かつての私を思うと、それを捨て去ったということは自分でも信じられません。
自らの天才性を証明しようとしていた、あの頃。
あのままの状態であれば、今ごろはAクラスのリーダーとして戦っていたのでしょう。
人間の能力というものは、生まれた時には全て決まっている。
いかなる努力を重ねたとしても、その結果が出るのはあくまでも優秀なDNAを持っているからであり、DNAに刻まれている能力以上のことはできない。
この考え方自体は、今でもさほど変わっていません。
しかし、私はすでに、自分という人間に対して失望してしまいました。
遺伝子で設定されている能力にさえ、到達できなかった存在。それが私だからです。
例えば、DNAに100という能力が刻まれている子供がいるとしましょう。
私の見解では、その子供が120や150になることは絶対にあり得ません。
……ですが、50や20になることはあり得るのです。
身体能力という面において、そうなってしまったのが私だと思います。
遺伝子的にも弱者として生まれ、それに加えて追いつこうとする努力も怠った結果、私は弱者以下の存在になってしまった。この事実を突き付けられて、私の心は折れてしまいました。
だからこそ、夢を持ったのです。
私はそれを実現するためにも、彼をずっと捕まえておかなければなりません。
一つ、いまだ不可解に思っていることがあります。
晴翔くんはなぜ、普通の男の子なのでしょう?
人格面はともかく、能力的に突出したものはありません。
地頭が良いということは、今回の無人島試験での策略などからもわかるのですが、天才かと言われると違います。また、これは長年見てきた私の評価ですから、大きな間違いはないと思います。
しかし、彼のDNAは……
彼の父は、紛うことなき天才なのです。
私も、何度かお会いしたことがあります。お忙しい方なので、なかなか家にいらっしゃる機会は少ないのですが……あの方は、私でさえも到底及ばない、天才の中の天才と言える人です。
日本で最高の大学に入学し、非常に高い成績で卒業した後、キャリア官僚として入庁。その後も出世街道を突き進み、今では将来の事務次官と言われる逸材です。国を動かす人物という評価に対して、異論を挟む余地はないでしょう。
『あまり晴翔をいじめてやるなよ』という言葉が頭に残っています。
頭の中を見られているような、異様な圧力がありました。
幼少期、私の方から彼を捨てるような真似は、しないのではなく出来なかったのです。
中学卒業というキリのいいタイミングまで彼をどうにかする行動を起こさなかった理由は、ほとんどがあの方に対する恐怖によるものでした。
あの方の逆鱗に触れた時、私は無事で済むとは思えませんでした。
そんな父親の遺伝子を引き継いだ彼が、凡人の枠を出られなかったことについて、私はずっと疑問に思っていました。本当に、どうしてなのでしょう?
「うにゃ」
そう考え込んでいたのですが、神室さんの寝言で思考が打ち切られました。
それにしても、気持ちよさそうに大口を開けて寝ています。
私は端末を取り出して、カメラを起動しました。
パシャ。というシャッター音で、彼女は目覚めます。
「おはようございます」
「……撮ったでしょ」
「ふふ、可愛らしいお顔でしたよ?」
「信じらんない。何がしたいのよあんた……」
これは何ポイントぐらいで売れるでしょうか、と思いつつ私は立ち上がります。
「お腹がすきました。ついてきていただいても、よろしいですか?」
「はいはい」
神室さんに手を引かれながら、私は遅い朝食へ向かいました。
レストランには、Aクラスの人間が多数押し寄せていました。
周りを意識せず大声ではしゃぐ姿は、とても体調不良と言ってリタイアした者には見えません。
「あいつが、下痢したやつ」
神室さんが指差した女子。大きな声で、唾を飛ばしながら会話しています。
下痢はもう回復したのか、次から次へとスイーツを口に放り込んでいます。
自分のリタイアのおかげで皆が楽しめている、といった主旨の発言をされています。
周囲もそれを止めることなく、談笑しています。
……私が言うのもなんですが、完全にAクラスは腐ったようです。
Bクラスへの転落が濃厚で、クラスの雰囲気も悪い。
もう、どうでもよくなってしまったのでしょう。
これでは、今後どんな試験があっても勝利は望めませんね。
まぁ、私には関係のないことですが。
「もう少し、静かにしてほしいものですね」
「ほんとに。これなら、Dクラスの連中の方がよっぽどマシなんじゃない?」
長居する気にはならなかったので、私は黙って食事を済ませました。
食事を終えてから、私と神室さんは停泊している船のデッキに立ちました。
弱い風を浴びながら、私は島の方を眺め彼の帰りを待ちます。
「多分、こんな早い時間には帰ってこないでしょ」
「わかりません。ですが、あそこに彼がいると思うと……」
早く顔が見たい。抱きしめてほしい。
……このような俗っぽい欲求が、私にもあったのですね。
あともう少しの我慢です。
ようやく会えます。
いろいろカットしたり順番を変えたりした結果、早くできましたが短くなってしまいました。
奴の視点より、こちらの方が圧倒的に書きやすかったです。
おとーさまの話も作ってあるんですけど誰得だと思うので、たぶん設定資料で終わります。
有栖ちゃんの出ない話に、大した価値はないのです。