こんなに見てくれる人がいるなんて、思ってもみませんでした。
「お久しぶりです。綾小路くん」
「オレはお前のことを知らないのだが」
有栖ちゃんは、唐突に現れた綾小路にも動じることなく、普段の調子で話し始めた。
「ホワイトルーム」
瞬間、強烈な殺気。
綾小路のかつての居場所。有栖ちゃんがその単語を口にした瞬間、空気が変わった。
初手でぶっこんでくるのか……
(これが、綾小路清隆か)
俺のような凡人は身震いして、その場から動くことができない。さながら金縛りのよう。
鳥肌が立って収まらない。全身の筋肉が言うことを聞かず、痛みすら感じる。
綾小路の放つ圧倒的なプレッシャーに委縮させられているのだ。
知ってはいたが、実際に相対すると理不尽極まりない。
こいつ、イカれてやがる。こんな男と誰が敵対するものか。
「あぁ、私から特にあなたへ何かをするつもりはありません。ただ、あなたを知っているということを伝えたかったのです」
だが、うちの有栖ちゃんも大概である。
一切臆することなく、薄笑いを浮かべたまま話を続ける。
「……聞こう。要求は何だ」
今のところ敵意がないとわかったのか、綾小路からの殺気が霧散した。
ようやく身体が動く。一度深呼吸をして、肩の力を抜いた。
殺気こそなくなったものの、まだ警戒を解くつもりがないようで、両目で鋭く俺を睨みつけたまま話の続きを促してきた。これだけでも結構しんどい。
有栖ちゃんは意外にもここで黙り込み、俺の方を向いて回答を促してきた。
あまりの圧力につい忘れていたが、引き合わせたのは俺だった。
少し考えてから、俺は口を開いた。
「そうだな、俺らと友達になってくれ」
「なんだって?」
俺の答えはさすがの綾小路も想定外だったのか、聞き返してきた。有栖ちゃんも驚いている。
綾小路は恐ろしいが、別に悪い奴じゃない。友好を示せば大丈夫なはずだ。
特に言葉を選ばず、意図を説明することにした。
「ここにいる有栖ちゃん、既に学校生活がダルくなり始めてるんだよ。ちなみに俺も同じだ」
「入学初日にダルくなるって、お前……」
「そんな中で、トップクラスの実力者たる綾小路清隆がこの学校にいると知った。お前と友達関係になれば、有栖ちゃんも退屈しないと思った。理由は以上だ」
「……あぁ、知ってるんだったな。ただ、いいのか?オレはあまり目立つつもりはない。退屈しのぎになるかは分からないぞ?」
「大丈夫だ。とにかく、お前の敵になるつもりはないってことはわかってほしい。それに、目立たなくたっていい。何なら、有栖ちゃんのチェスの相手にでもなってくれれば十分だ。俺じゃ相手にならんからな」
ちなみに、俺も多少はチェスをすることができる。
俺が有栖ちゃんと指すときは、まず有栖ちゃんがプロの棋譜の投了図を最初に並べる。もちろんチェックメイト直前まで指し込んだものではなく、プロが絶対に逆転不可能と判断して、早い段階で投げたものをいい感じで探してくるのだ。
その勝った側を俺が持ち、負けた側を有栖ちゃんが持つ。そこから続きを指すというルールだ。当然、圧倒的有利な状況からのスタートとなる。
しかし、俺はそれでも九割負ける程度の実力しかない。きっとつまらなかっただろうと思う。
有栖ちゃんは俺の回答に満足したようで、何度か頷いていた。
「昔から、あなたに一局お願いしたいと思っていました。今からよろしいでしょうか?」
「ここでか?まぁ、まだ入学式までは時間もあるし、一局だけな」
「ええ。私と綾小路くんなら、頭の中にチェス盤があるでしょう?先手は譲ります」
そう言って、有栖ちゃんと綾小路は脳内チェスを始めた。
すらすらと駒の名前と移動先を言い合う。彼らの頭の中では現在進行形でバトルしているのだ。俺のような雑魚には盤面がどうなってるかさっぱり見えないが、二人には楽しいんだろう。
完全に蚊帳の外。
しかし、有栖ちゃんがこんなに楽しそうなのは久しぶりに見た。頭が熱くなっているのを見るに、思考をフル稼働させて考えている。全力を出し切らないと勝負にならない相手。
俺では、こういうワクワクを与えられないからな。
やっぱり、有栖ちゃんを任せられるのは綾小路しかいないと感じた。
決着までは二十分程度かかった。
「リザインです。私の負けですね」
軍配は、先手の綾小路に上がったようだ。
「……すごいな、お前は。途中からは完全に本気になっていた。それでも一手違いだ。先後が逆ならわからなかった」
「引き分けにもなりませんでしたね。どうやら、あなたと私には実力差があるようです。認めざるをえません」
チェスは先手有利なゲームだ。有栖ちゃんが先手を譲ったのは余裕の表れと思ったし、綾小路も逆ならわからなかったと言っているが、本人はそう思っていないようだ。
実力が高いからこそ、わかることもあるのだろう。
「そうか」
「ですが、いい勝負でした」
……意外だ。
想像よりも立ち直りが早い。有栖ちゃんは負けというものを知らないから、もっと落ち込むものだと思っていた。これはまるで、過去にも打ち負かされた経験があるような反応だ。俺の知っている限り、そんなことはなかったはずなのだが。
単純に、精神的に強いということなのだろう。失礼なことを考えたと思い、俺は心の中で反省した。
「綾小路さえよかったら、また有栖ちゃんと勝負してくれないか」
「勿論。友達だからな」
そう言って、綾小路は握手を求めた。有栖ちゃんが応じて、固く手が結ばれた。
そろそろ、いい感じに入学式の時間が近づいてきた。
綾小路もそれを察したのか、手を振って去ろうとしたため、最後に先ほどもらったばかりの端末で連絡先を交換した。
「はい。これで、正式に友達だ。今後ともよろしくな」
「こちらこそ、よろしく頼む」
綾小路の感情の変化は見えにくいが、どこか嬉しそうにも見える。
「次は負けません」
「そうか。また、そのうちな……心配しなくても、お前は強い。オレの知ってる誰よりも」
背中を向けたまま、最後に綾小路はそう呟いた。
最強の怪物との邂逅を終えて、俺は深く息を吐いた。
何はともあれ、うまくいって良かった。
この段階で綾小路と良好な関係を築くことは、メリットが大きいはずだ。将来的に綾小路に攻撃されるという、あまりにも巨大なリスクを予め潰すことができるからな。もっとも、その可能性はまだ完全に無くなったわけじゃないが、敵対姿勢を見せなければ大丈夫だろう。
「どうだった?有栖ちゃん」
有栖ちゃんをもう一度ベンチに座らせて、俺も隣に座った。
「……彼は、作られた天才。それはご存じですよね?」
「勿論。そして、有栖ちゃんのそれが先天的なものだってことも」
よくわかっている。
綾小路は、言わば努力の天才。ホワイトルームという異常な環境で徹底的な教育を施されて、遺伝的性質に頼らず実力を手に入れた。
生まれながらの天才である有栖ちゃんは、それに負けたくはなかったのだ。
「その通りです。悔しいというよりも、どうしていいかわからないのです。こんなに呆気なく、こんなに圧倒的に、私の理論を否定されることになるなんて」
「自分の優生を証明できなかったということだろう?まぁ、いいじゃないか。これからいくらでも勝負する機会はある」
「……また彼と勝負すれば、見えてくるものもあるかもしれません」
「そうだな」
俺の率直な気持ちを話した。わかってくれたのだろうか。
まぁ、真剣勝負で負けたんだ。しかも、何年も宿敵だと考えてきた相手だ。突然出会って、いきなり勝負して負けるなんて展開は絶対に予想していなかったと思う。
それにしても、すんなりと敗北を受け入れている。元々ここまで割り切れるタイプではなかったと思うんだけどなぁ……やめよう、俺の勝手な憶測にすぎない。
「ちょっとだけ、いいですか」
「おう」
少し疲れたのか、有栖ちゃんは俺の方にもたれかかってきた。
「……負けてしまった私でも、あなたは付いてきてくれるのですね」
「当然。勝とうが負けようが、有栖ちゃんは有栖ちゃんだろ?ゲームの結果ごときで揺らぐほどの絆ではないと思ってたんだが、違うのか?」
「ふふ、それもそうです。これからもずっと、変わりませんよ」
小さな身体を抱き寄せて、しばらくベンチで休んでいた。
その後の入学式は特に面白いこともなく、普通に終わった。
(ついに始まる。ここでの生活が)
今後のことを、馬鹿な頭で少し考察してみる。
最高の遊び相手を見つけてしまった有栖ちゃんは、クラス間闘争とその結果にはさほど興味を持たないだろう。元からそんな気はしてたが、ほとんど確実になった。
かなりのインドア派(身体のことを考えたら当然だが)である有栖ちゃん。同格のプレイヤーとマインドスポーツをする以上に楽しいものがあるとは思えない。綾小路なら何をやらせてもどんなコンピュータより強いだろうし、仮にチェスに飽きたとしても違う勝負ができる。
その点、この学校の特別試験は運動能力が求められるようなものも多く、そういうのは元からNGだ。知力だって綾小路相手のゲーム以上に使うものなんか、どこを探しても無い。
Aクラスはどうなるのか?
一瞬そう思ったが、俺にとっては最早どうでもいいことだと気づいた。あのクラスは好きになれないし、何の思い入れもない。無事にAクラスを守るか、落ちていくのか。全く関心がないことに自分でも驚く。
俺は有栖ちゃんが楽しそうな表情を見せてくれれば、それでいい。
重ねて言うが、興味のないことに対してはドライなのさ。
綾小路(まさか、初日で友達ができるとは)