夏休みも残すところ、あと三日となった。
「つかれたぁ〜」
大きな声をあげて、寝転がる桔梗ちゃん。
船上試験が終わってからは、こうして毎晩うちに来るようになった。
彼女は友達が多いので、多忙な夏休みを過ごしている。
今日はクラスメイトとプールに行っていたらしく、疲労が溜まっているようだ。以前ほど徹底しなくなったとはいえ、丸一日自分を作り続けるという行為にはかなりの負担が伴うのだろう。
基本的に日中は家でゆっくりしている、俺と有栖ちゃんとは全く違う生活である。
……念のため説明すると、別にダラダラしようと思っているわけではない。炎天下の外出は有栖ちゃんの身体に悪影響があるから、なるべく控えているというだけの話である。夕方以降、暑さがマシになってから散歩するのが俺たちの過ごし方だ。
「もう、そこまで頑張る必要はないんじゃないか。ありのままの桔梗ちゃんが、一番魅力的だ」
「うーん……そう言ってくれるのは嬉しいけど、きっとそんな風に思うのは少数派だよ」
外で仮面を取ることに、まだ抵抗がある様子。
「桔梗ちゃん自身がそれでいいのなら、強くは言えないけどな。毎日疲れて帰ってくるのを見ていて、少し心配になっただけ。お節介なら悪かった」
「気持ちは嬉しいよ。私だって本当は二人と一緒にいたいし、この部屋の中でずっとゆっくりしていられればいいなって思う。だけど、周りがそうさせてくれないから……」
と、いうことだ。
嫌々付き合う友達なんて、俺の中では絶対に不要なものだ。即捨ててしまうだろう。
しかし、彼女はまだ拘りを持ち続けている。人気者、誰とでも仲良くなれる人、クラスの癒し系キャラ……作り上げた自分のポジションを維持するために、頑張ることをやめない。
これは社会人としても通用する、素晴らしい姿勢だ。俺には一生できない。
「そういえば、気持ちの整理はつきましたか?」
寝転がったまま、俺たちのやり取りを見ていた有栖ちゃん。ようやく喋ったな。
この子は最近夏バテしてしまったのか、毎日ぐったり気味だ。
「いくら考えても、これが恋なのかはわからない。でも、晴翔くん以上に好きになれる男がどこにもいないってことはわかる。私の中で、異性に求める基準が上がってるから……仮に誰かと付き合ったとしても、『晴翔くんの方が良かった〜』とか言って別れるだけかも」
「ふふっ、なるほど。それは私もわかります」
こくこくと頷きながら、有栖ちゃんは姿勢を変えず話を聞く。
今日はどうしても動きたくないらしい。可愛いからいいけどさ。
当初、この話を俺の前でするのはタブーなのかと思っていた。
しかし、今のように話題に上がる光景を見て、実はそうではないと理解した。
二人の秘密かと思いきや、特に隠すつもりはないみたいだ。俺からすると恥ずかしいことこの上ないが、お互い何を考えているのかわからないまま付き合うよりはよっぽど気が楽である。
それにしても、どいつもこいつも俺のことを買い被りすぎだ。そんなすごい男じゃないって。
「まったく、なんてことしてくれたのよ。あんたのせいで、私は一生独身だ」
笑いながら、むにむにと両手でほっぺたを引っ張られる。痛い痛い。
「それぐらいにしてあげてください。あなたをそうさせてしまった責任は、私も一緒に取ります。幸せになりましょう?」
「有栖ちゃん……ありがと。けど、いいの?」
「いいのです。桔梗さんなら、という前提はありますが。あなたは特別ですから」
今の言葉が嬉しかったのか、桔梗ちゃんは有栖ちゃんが寝転がるベッドに入った。
むにむに攻撃の対象が移ったことに安堵する。俺に対するものよりだいぶ優しいが。
桔梗ちゃんにされるがままの有栖ちゃんを見ながら、俺は考える。
俺たち三人の関係は、どんな形で決着するのだろうか?
「そろそろ、お風呂入ろっか」
「わかりました」
二人の言葉を聞いて、俺はバスタオルを用意した。
すでに掃除とお湯張りを済ませているので、これ以上やることはない。
……楽になりすぎてびっくりだ。
最近、桔梗ちゃんは俺の手伝いをしてくれるようになった。
特に風呂なんかは、すでに一人で任せられるレベルまで上がっている。
やっぱり、本来こういうのは女の子同士の方が効率がいい。髪や身体を洗うという行為に対して、男子とは気合いの入れ方が違うからな。
ここ数日、俺は外でタオルを持って待っているだけだった。上がった有栖ちゃんの身体を拭いて、寝巻きを着せて、ドライヤーで乾かす。この作業はそう難しいものではないので、桔梗ちゃん一人でも可能だと思う。単純に、俺が何もしないとウズウズするから手伝っているだけだ。
この辺は、完全に奴隷根性が染み付いている。十年選手は伊達じゃない。
これは真澄さんに頼んだ時にも思ったが、身だしなみについても女子に軍配が上がる。特に、桔梗ちゃんのメイク技術はすごい。彼女の性格上、見た目に関して相当気を遣っているというのもあるだろうが……その分野は俺より圧倒的に上級者だ。早くて丁寧で、とても真似できそうにない。
ただし、外を連れ回すのは俺以外だと難しいかもしれない。
有栖ちゃんは思ってもみないところでつまづいたり、足を滑らせたりする。階段を登るのもちょっとしたテクニックが必要で、下手なやり方をすると転んでしまう。
コツとしては、足元から一メートル先までの範囲を常に視界の端に入れておくことと、有栖ちゃんの一挙手一投足を見逃さないこと。危険予測は起きる事象を予想するところから始まるのだ。
他にも体調の良し悪しなど、考えることはそれなりにある。あまり身体の状態が良くない日はそもそも外に出ないとか、そういう判断も重要である。
俺としては特に難しいことではないのだが、これは長年の経験がものを言う部分だ。一応メモにも書いているけど、真澄さんも桔梗ちゃんも揃って「意味がわからない」と言っていたから、きっと簡単に覚えられるものではないのだろう。
屋内のルーチンワークを手伝ってもらえるだけでも、相当ありがたいことだ。
一度楽を覚えると戻れないというか、とにかく桔梗ちゃんは優秀すぎる。彼女は俺たちに捨てられることを恐れているようだが、この短い間に必要不可欠な存在と化している。何年経とうとも、こちらから縁を切るようなことは百パーセントありえないと断言できる。
何より、桔梗ちゃんはこれらの作業に対して嫌な顔一つしないどころか、むしろ楽しそうにしている。有栖ちゃんと一緒にいるために、当たり前のこととして捉えてくれている。
微笑みながら有栖ちゃんの世話をする姿を見て、俺の人生が肯定されたように感じた。
……あまりにも嬉しくて、この前風呂でちょっと泣いてしまったのは内緒だ。
そんなことを考えている間に、有栖ちゃんが出てきた。
足を滑らせないよう気をつけながら、タオルで身体を拭いていく。
「この流れも、だんだん定着してきたな」
「そうですね……お二人とも、ありがとうございます」
上半身から下半身まで終わったら、髪の毛は力を入れず優しく水分を取っていく。
ここで雑にやると、綺麗に仕上がらない。有栖ちゃんの髪は芸術作品みたいなものだから、毎日のケアは最初から最後まで本気でやると決めている。
「これも、桔梗ちゃんの方が上手いかもしれないけど……」
「いや、そんなことないよ」
下着だけ着けた状態で、桔梗ちゃんがこちらに来た。いいのかそれは?
……こいつも俺のこと男だって思ってないだろ。
目のやり場に困るが、今は作業優先。会話をしつつも集中力は切らさない。
「私の髪はとても綺麗だと、いろんな方から言われます。ですが、これは私というより、晴翔くんの努力によるものです」
「もちろん、有栖ちゃんっていう素材が良すぎるのもあるんだけど……すごいよね、美容師でも目指せばいいんじゃない?」
めちゃくちゃ褒められているが、残念ながら有栖ちゃん以外にやるつもりはない。
あくまでも、この綺麗な銀髪を良い状態にしておきたいからやっているだけだ。誰にでもやりたいかと言われると違うし、お金を取れるようなものでもないと思っている。
それに、何年やっても美容室でカットしてもらった時の仕上がりには敵わない。餅は餅屋というが、その道のプロの技には絶対に勝てないのだ。
目指すといえば、俺は将来何をすればいいのだろうか。
いつも有栖ちゃんのことばかり考えて、自分がどうするか意識する機会がなかった。
二週目の人生は平凡に。かつてはそう思っていたが……普通に働けるのかな?
髪をドライヤーで乾かしている間、軽い不安を覚えた。
夜中になっても、一度頭に浮かんだものは消えなかった。
すやすやと眠る有栖ちゃんを見ながら、思考を巡らせる。
この学校にいるとつい忘れてしまうが、生きるためには金が必要である。
ずっと二人でくっついていては、仕事をすることができない。
一時的にでも有栖ちゃんを任せられる人がいなければ、生活が成立しないことに気づいた。
そういう意味でも、やはり桔梗ちゃんは俺たちにとって必要な存在だ。
こんないい子、他にはいない。離れないように捕まえておかないと……
あっ。
もしかして、有栖ちゃんはそこまで考えて動いているのか?
入学から今に至るまで、この子は何かしらの目的を持って行動している。
具体的にはわからないが、卒業後どうしたいかというビジョンがある可能性は高い。
桔梗ちゃんに対する動きも全部、それに基づくものだと考えれば納得がいく。
そのうち聞いてみようか、と思ったところで睡魔が来た。
……有栖ちゃんが考え抜いた結果なら、きっとそれが最適解だ。
勝手に不安に思って、勝手に解決した。
悩みって、案外そういうものなのかもしれないな。
次から二学期です。ここまで長かった……