体育祭まで、あと一週間となった。
参加表の提出可能期間に入ったこともあり、学校全体で緊張感が高まった。
しかし、俺たち二人は特に意識することもなく、普通の日常を過ごしていた。
相変わらずクラスはまとまっていないようだが、全く興味が湧かない。
思っていた以上にやる気が起きない。もはや競技に参加することすらダルくなってしまい、全種目の不戦敗を真剣に検討している段階だ。
結局のところ、俺の学校生活は有栖ちゃんのおかげで成り立っているのだと理解した。
有栖ちゃんが参加できないような試験は……無価値だ。だから、俺は何もしない。
というわけで、今日も今日とて暇である。
最近あまり帆波さんと話していないと感じたため、Aクラスの教室に来てみた。
「……えーっと、すごいな」
「うわぁ、これは本当にすごいですね。驚きました」
頭の痛くなるような光景に、有栖ちゃんでさえも若干引き気味だ。
いつの間にか、帆波さんのポスターが教室内の壁に張られていたのだ。しかも一枚ではなく、五枚。一学期の時点でこのようなものは無かったので、クラスの誰かが夏休み中に製作したと考えていい。その是非はともかく、それぞれ構図の違う写真を使っており、出来栄え自体は非常に良いものである。ポイントで何でも買えるとは聞いていたが……
「神崎、これをどう思う?」
「……ノーコメントだ」
俺の質問には答えず、苦笑いを浮かべたまま黙り込んだ。
神崎だけは、Aクラスでただ一人帆波さんに「染まって」いない。クラスが異常な状態になっていることも、きちんと認識できている。
こういう、味方でありながら一歩引いた目線で見ることのできる存在は貴重だ。このクラスで最も大事な存在は帆波さんだが、二番目は間違いなくこの男だ。
「俺は『穏健派』だからな。なあ白波?」
「……人聞きの悪い。そんな、人を過激派みたいに言わないで」
神崎の揶揄うような言葉を受けて、白波はぷくっと頬をふくらませた。
いや、お前が過激派じゃなかったら一体何なんだよ。ポスターの犯人も絶対お前だろ。
Aクラスの二番手というべき存在は、二人いる。そのもう一人が白波千尋である。
この集団の権力構造はわかりやすい。帆波さんを頂点として、その下に神崎と白波が位置する。そして、彼らの指示で残りの生徒たちが動くという、三層のピラミッドだ。
……より宗教化が進んできているような気もするが、今回は置いておく。
神崎が男子、白波が女子をそれぞれ取りまとめている。
二人の方針の違いもあって、帆波さん信仰は女子の方が深くて重い傾向にある。男子は信者というより、どちらかというと推しのアイドルをプッシュしているような感じである。
「はぁ、一之瀬さん。24時間365日、ずっと一之瀬さんに溺れたい。私の全てを捧げたい。全てを奪われたい。はしたない私を蹂躙してほしい……」
何の前触れもなく、いきなり早口になって変な妄想を始めた。これは白波の癖なのだが、本当に怖いからやめてほしい。帆波さんが絡まなければ、すごく良い子なんだけどなぁ……
こんな感じの女子がそこらじゅうにいると言えば、その恐ろしさも理解できるだろう。白波の危険度は群を抜いているが、Aクラス女子は基本的に狂信者の集団である。
「坂柳さん、高城くん。いつもありがとね」
「……おう、礼を言われるほどのことをした記憶はないが。特に俺はな」
「ううん。一之瀬さんの笑顔を影で支えてくれてるんだから、感謝しなきゃ」
この二人が他の生徒と違うのは、有栖ちゃんの影の活躍をある程度知っているという点だ。もちろん完全にではないが、このクラスに多大な貢献をした事実は凡そ理解されている。
そうなったきっかけは、船上試験だった。夏休み明けに白波と会った時、俺たちが何かしていないかと聞かれてしまったのだ。あの試験の勝ちっぷりはさすがに異常すぎたし、俺たちと帆波さんがコソコソ会っていたことは知られていたので、当然といえば当然である。
一度違和感が生じた以上、隠し続けるのは難しい。そこで有栖ちゃんは方針を変えて、帆波さん立ち会いのもとで二人だけにはタネを明かした。
その反応は対照的だった。やっぱりなという感じの神崎と、本気で驚いた様子の白波。
ただ、それによって帆波さんに対する忠誠心が変わるわけではなかった。他の生徒たちならわからないが、神崎と白波は方向性こそ違うものの、帆波さんのことをとても大事に思っている人間だ。勝利のためだけについてくるような、ビジネス的な部下とは違うのだ。
それ以降、白波は有栖ちゃんと俺に対して恩義を感じたらしく、会うたびにお礼を言ってくるようになった。どうやら、帆波さん単独でクラスポイント争いを制するのは難しいとわかっているらしい。これだけ心酔しながらも、そこの認識を間違えないところはなかなか優秀である。
……ちょっとばかり、俺たちの動機を勘違いしているようだが。俺も有栖ちゃんも帆波教の信者ではないんだけど、最高の同志みたいな目で見てくる。
「ごめんごめん!ちょっと参加表のことで話してたんだ」
そんなことを話しているうちに、ボスのお出ましだ。
帆波さんは頭を掻きながら、申し訳なさそうな顔をしてこちらへやってきた。
「いや、白波たちと話してたから全然問題ないぞ。そもそも暇つぶしに来ただけだし」
「嬉しいな。用事もないのに来てくれたんだ」
本当に嬉しいのか、帆波さんの表情が急に明るくなる。
隣に立つ白波が、それをじっと見て頬を赤らめる。
そして、ドロドロした感情が混ざり合ったような、なんとも言えない表情を浮かべた。これも白波の特徴だ。鋭い目つきも合わさって、周りから見ると恐怖でしかない。
「千尋ちゃん、またお顔が怖くなってるよ?」
「……はっ、ごめんなさい。私ったら」
「あはは……ところで有栖ちゃん。ちょっと話したいことがあるんだけど、今日の放課後お部屋に行ってもいいかな?」
「構いませんよ」
話したいことってなんだろう?
普通に考えれば体育祭のことだが、帆波さんの顔には疲れが見える。
これは何かあるなと思いつつ、俺たちは教室を後にした。
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部屋に入るなり、帆波さんは静かに涙を流し始めた。
急な変化に戸惑いながらも、俺はなんとなく彼女の胸の内を察した。
「有栖ちゃん、ごめん……ちょっとだけ、こうしててもいい?」
「……わかりました」
有栖ちゃんの胸に顔を埋めて、すすり泣く。
こんな弱いところ、クラスのみんなには見せられない。本人は本気でそう思っているだろう。
「私は、みんなが思うほど強い人間じゃないし、完璧でもない……もっと会いたいよ。私の話を聞いてほしい。本当の私を、誰もわかってくれないんだ」
「……本当の帆波さん、ですか?」
「そう。私は……有栖ちゃんが思っている以上に、ダメな子だよ?」
そして、帆波さんは……自分の過去のことを話し始めた。
愛する妹にプレゼントを贈るため、デパートで万引きを行ったこと。母親とともに謝罪したこと。それ以降は長期にわたって学校を欠席し、部屋に引きこもっていたこと……
外では絶対にしないような暗い顔で、ゆっくりと語り続ける。聞き手の有栖ちゃんはときどき頷きながらも、少し困惑気味だ。
「それで、この学校ならやり直せる。もう一度立ち上がれるかもしれないと思ったんだ」
前世の知識としてある程度把握していたが、実際に聞くことになるとは思わなかった。
なぜ今ここで自分の過去を明かしたのか、俺にはわからなかった。多分、有栖ちゃんも同じことを思っているだろう。何の脈絡もなく弱みを晒してくるなんて、正直理解不能な行動だ。
「……そうですか、わかりました。晴翔くんはいかがでしょうか?」
俺に振ってきた。コメントに困ったのだと思われる。うーん……
「そんなエピソード、なんてことない。有罪判決を受けたとか言われたら、さすがにちょっとビビるけど。今の帆波さんが優しい良い子なのは紛れもない事実だから、過去がどうとか気にする必要はないと思う。この学校に来て頑張ってる、それで十分だよ」
真剣であることは伝わってきたので、努めて誠実に答えた。
「こうやって祭り上げられるほどの価値が、私なんかにあるのかな?」
「あるから、今こんな状況になってるんだろ。可愛くて優しくて、他に誰がいるんだ?」
そう答えると、帆波さんは嬉しそうに笑った。それを見た有栖ちゃんは……表情こそ変えないが、「めんどくさっ」とでも言いたそうな雰囲気だ。なかなか冷たいな。
「帆波さん。もしかしてあなたは、桔梗さんのようになりたいのですか?」
言いたかったことを言ってくれた。今日は、よく有栖ちゃんと考えがシンクロする。
「……もっと二人と仲良くしたいなって、思うことはあるよ」
この一言で、話の真意がある程度掴めた。
俺たちと桔梗ちゃんの関係が、帆波さんにとっては理想的な形に見えているのだ。
しかし、この人は表面的な部分だけしか見ないで話をしている。あの子がどういう覚悟を持っているのか、なぜここまで深い関係になったのか、それらの過程を理解できていない。有栖ちゃんが少々イラついているのは、そういったところだろう。
「帆波さん、一つ例え話をしましょう」
「何かな?」
有栖ちゃんの顔から表情が消えた。
「もし晴翔くんがAクラス……自分のクラスを潰せと言った場合、実行できますか?」
質問の意味が一瞬わからなかったようで、帆波さんは固まる。
やがてその恐ろしい内容を理解して、焦り始めた。
「そ、そんなこと……」
「できませんよね。わかっています、それが帆波さんですから。ですが、桔梗さんに同じことを言った場合、彼女は確実に命令通りの動きをします」
「……」
「彼以外の何もかもを捨てられる覚悟が無い方と、友達を超えた関係を築くことは難しいのです。私にとって彼は絶対的な存在なので、その意思を全てにおいて優先していただく必要があります」
何も、敵に回ると言っているわけではない。しかし、明確な線引きをした。
有栖ちゃんの帆波さんに対する考え方の一端が見えた。普段の接し方は似ていても、この子の中で桔梗ちゃんとは圧倒的な差があることもわかった。
「クラスのみんなを、捨てなければいけないの?」
「あくまでも仮定の話ですが、価値観としてはその通りです」
そう断言されてしまい、帆波さんは目を伏せた。
さすがに追い込みすぎじゃないかと、少し心配になった。
それ以降は、暗い雰囲気のまま時間ばかりが経過した。
夜六時。帆波さんは立ち上がり、ふらふらとした足取りで玄関の方へ向かっていく。
元気な笑顔はどこへやら、虚ろな目で靴を履いた。
なんだか、今一人にするのは危ない気がする。ここまで状態が悪いのは想定外だ。せいぜい、リーダーの重圧に苦しんでいる程度だと認識していた。
これはまずいことをしたかもしれないと、ようやく気づいた。帆波さんは今に至るまで、精神が壊れかけていることを隠していたようだ。船上試験の折に弱音を吐いていたことも、いつもの彼女ならあり得ない、「かまってちゃん」な言動をしたことも、全て……危険信号だったのだ。
彼女には、ストレスを吐き出すことのできる場所が無い。桔梗ちゃんとの大きな違いだ。
クラスの生徒が護衛につくようになってから、気軽に三人で話すことさえも難しくなっていた。有栖ちゃんのように、対等な目線で話をしてくれる生徒は他にいないだろう。その救いを奪われたことが、想像以上のダメージとなったのだと思われる。
そして今日、ようやく得た機会で突き放されてしまった……ああ、これはやばいぞ。
帆波さんは扉を重そうに開けて、部屋を出て行った。
「有栖ちゃん」
「ふふっ、さすがの晴翔くんでも焦るのですね。大丈夫です、想定内なので」
余裕の笑みを崩さない有栖ちゃんは、紅茶を一口飲んだ。
一つため息をついてから、俺の手を取って立ち上がる。
「……追っかける?」
「ええ、そうしましょう。ここで何もしないのも、また一興ですが……万が一飛び降りられたら困ります。何より、それはあなたが許さないでしょう?」
「無論だ。桔梗ちゃんと違うからといって、見捨てていいわけではない。友達だからな」
そう、友達だ。桔梗ちゃんは例外中の例外だが、帆波さんだって大事な友達であることに変わりはない。有栖ちゃんほど、他人に対して冷たくはなれなかった。
有栖ちゃんがどれだけ怖い人間であるかということを、忘れかけていた。
俺や桔梗ちゃん、清隆などは身内である。俺が享受し続けている優しさは、万人に向けたものではない。近すぎる関係だからこそ見えないものもあると、改めてそう思った。
俺たちは部屋を飛び出した。