学校の屋上。佇む人影を見て、俺は一心不乱に柵の方へ走った。
「やめろっ、帆波!」
彼女は俺の大声に反応して、こちらに顔を向けた。
立っている場所は、柵を乗り越えた向こう側だ。危ない。
「晴翔くん……」
彼女のもとへ到達し、俺は全力でその身体を引き寄せた。
反射的な行動。もはや頭は回らず、危険だという本能のみで身体を動かしていた。
「何考えてるんだ、お前!」
「あはは、ごめんね……死ぬつもりはないよ」
その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
ここまで長い距離を走った上に、今の全力疾走だ。呼吸が苦しくて、なかなか言葉を継ぐことができない。抱き合ったままゼエゼエと息を吐き、なんとか調子を整えていく。
彼女は頬を染めて、そんな俺の様子を見つめていた。
少し時間を置くことで、だいぶ息苦しさが解消された。
「お前の死によって発生する悲しみの総量は、お前が今抱えているものより何倍も大きい。まずはそれを理解してくれ。お前のことを慕ってる人間が、どれだけいると思ってるんだ」
「……うん」
「まったくもう……なんで、こんなことするんだよ」
話しているうちに、俺の方が泣けてきてしまった。
対等な友人を欲する気持ちもわかるし、有栖ちゃんの対応がかなりキツかったのは事実。今のクラスに違和感を覚えるのだって、よく理解できる。
それでも、こんな真似をするのはやめてほしい。これを続けていくと、最終的な結論が「死」になってしまうかもしれない。想像するだけで悲しくなってくる。
「死ねば楽になるのかなって、思ってしまうこともある。だけど、私はそれを実行する勇気すらないんだ。ここに立つと、そんな弱い自分と向き合うことができるから……」
そう言いながら、柵を跨いでこちらへと戻ってきた。その姿に安堵したところで、彼女は俺の身体にぎゅっと抱きついてきた。こういった状況であっても不思議と落ち着いてしまうのは、彼女が持つ底抜けの優しさによるものだろうか。
「帆波さん、その」
「『さん』なんて言わないで。あなただけには、呼び捨てしてほしい。さっきみたいに」
「……帆波」
「ふふ、ありがとう。晴翔くんが私を見つけてくれて、最高に嬉しかったよ」
ようやく笑顔が見られた。やっぱり、この人には明るい表情がよく似合う。
「そりゃ、あんな顔して出ていったら心配にもなるさ」
「……実は来てくれることを期待してたって言ったら、軽蔑する?」
「するわけないだろ。辛い時、他人の気を引こうとするのは不自然でもなんでもない」
おそらく、万引きのエピソードを明かした理由は、共感したり慰めてほしかったからではない。そのぐらいの出来事で引きこもってしまうほど、弱い人間だと伝えたかったのだ。
「晴翔くんって、本当に優しいんだね!」
俺は優しいのかどうか。以前より、それは疑問に思っていた。
自己評価というのは難しいもので、言われてみて「そうなのか」となる場合がほとんどだ。有栖ちゃんと桔梗ちゃんも含めて、みんながそう言ってくれるということは、合っているのだろうか?
……俺にとってはその程度の認識でしかなく、なんだか自分のことのように思えない。
ずっと立ち話を続けるのも疲れるからと、彼女は階段に座った。そして、隣をポンポンっと叩き、俺にも座るよう促してきた。すでに足が棒になってしまっているので、素直に従った。
屋上への扉が開いているため、涼しい風が通り抜ける。気温も下がってきており、暑いどころか肌寒さを感じるほど。また、ここまで密着すると自分が汗臭くないか少し心配になってくる。
何を思ったのか、彼女は俺の手と自らの手を重ね合わせてきた。
「ふふっ、晴翔くん?」
「どうした?」
「うーん、なんでもない。呼んでみただけ」
今のすっごく女の子っぽい。
「……帆波が無事でよかった。今日は、それだけだ」
「ありがと。私にそんなことを言ってくれるのは、きっと晴翔くんだけだよ」
Aクラスの生徒たちは、真の友達とは思えないのだろうか。今の一言が、隠されていた本音だとすると……俺にとっては、かなり衝撃的な事実だった。
ふと後ろを向くと、空には星が煌めいていた。
しばらく何も話さないまま、俺たちは二人きりで夜空を見上げていた。
次に口を開いたのは、帆波の方だった。
「ねえ、晴翔くん。うちのクラスのこと、どう思う?」
軽い感じで聞いてきたが、これはなかなか難しい質問だ。
宗教のようになっているとは言いづらいが、他にどう表現していいかわからない。
悩む俺を見るなり、彼女は笑った。
「あははっ、ごめんごめん。こんなの答えにくいよね。気持ち悪いって思うのも当然だけど、優しいあなたはそんなこと言えないだろうし」
どうやら答えようとしていた内容を察したらしい。しかし、それだけではない。
俺はAクラスに対して前々から疑問に思っていたことを、逆にぶつけてみることにした。
「帆波は、なんでクラスの奴らに合わせてるんだ?」
「……えっ?」
全く意味がわからないといった様子で、首を傾げた。俺の予想通りの反応が返ってきたことを確認して、話を続ける。
「そんなに遠慮してる理由が、よくわからないんだよ。思うがままに動けばいいのに」
「でも、クラスのみんなが決めたこともあるし」
「みんなが決めたこと?お前がルールだろ、なぜ従う必要がある?」
煮え切らない帆波に対して、俺は強い言葉をぶつけた。
一之瀬帆波という少女は、Aクラスの絶対神とでも言うべき存在である。彼らにとって彼女の意思は最優先事項であり、縛りつけるものなんて存在しないはずだ。
万が一抵抗するような者がいたら、異端者として吊るし上げ、潰してしまえばいい。白波なんか喜んで協力するだろう。それが統率力を高めることにもつながってくる。
龍園のやり方を完全に肯定するわけじゃないが、彼女は気を遣いすぎていると思う。
……だからこうやって追い込まれるんだ。自分で自分の首を絞めているようにしか見えない。
「私はもっと、好きにしてもいいってこと?」
「それは間違いない。例えば、そうだな……お前がクラスのみんなから集めたポイントで豪遊したとしても、批判する奴は一人も出てこないだろうな。これは百パーセント自信があるぞ」
かなり極端な例だが、それぐらいしなきゃダメだ。
帆波は今に至っても自分が「神」であるという認識が薄い。神は傲慢に振舞うぐらいがちょうどいいし、彼女一人にかかる負担を考えればそれは相応の対価であるとさえ言える。
「そんな、そんなことできないよぉ……」
あーもう、ほんとにこいつは!
可愛いといえば可愛いのだが、善人すぎて逆にイライラしてきた。
「じゃあこうしてやる」
「ひゃっ!」
頭を無理やり掴んで、強制的に俺と向き合わさせる。
至近距離で見つめ合い、俺はその綺麗な顔に向けて囁く。
「命令だ。明日から体育祭までに、五十万以上のポイントを使え。ただし、他人への譲渡及びクラス間の契約に用いることは許さない。あくまで帆波が自分自身のために、好きなように使うこと」
「は、はい。聞かなかったら、どうなるの?」
「そうだな……お前が中学時代にやったことを、学校中にバラしてやる」
嘘だ。そんなこと一切思っていない。でも、これは彼女にとって必要な嘘なのだ。
本人もそれを理解したのか、顔を近づけたまま笑い始めた。
「ふふっ……それをやられたら、私の学校生活が終わっちゃうね」
「そこまで行くかはわからないが、とんでもないことになるだろう」
「あーあ。私、弱みを握られたんだ」
わざとらしく、帆波は頭を下げてきた。
「……こうでも言わないと、お前は動かないだろ?」
「ほんっと、私のことよくわかってる……」
脅されて仕方なくやった。この逃げ道が、こういう流されやすい子には必要である。
これは、部屋の中で有栖ちゃんが突き付けた「俺のためにクラスを捨てられるか?」という質問に対する反応を見て感じたことでもある。
結局のところ、彼女はあまりにも優しすぎるのだ。もう少し自分勝手になった方が楽だろう。
どうやってその方向に持っていけばいいか、話しながら考えた結果がこのやり方だった。
うまくいったと頭の中で自画自賛していたのが、隙になってしまった。
ふにゃっと唇に柔らかい感触があった。
「やっちゃった……」
自分でやっておいて、申し訳なさそうな顔をするのはやめてくれ。
「おいおい。今のは無かったことにしてやるから、有栖ちゃんには黙っといてくれよ?」
「ご、ごめん」
俺は浮気するために来たわけじゃない。さすがにそれは……ダメだよな。
しゅんとした顔を見ると、とてつもない罪悪感に襲われる。もしかして、今のが初めて?
「何でやろうと思ったんだ?」
「そこにお顔があったから……」
そこに山があるからみたいな言い方をするな。
「あー、今のはちょっとしか触れてないしノーカンだ。偶然当たっちゃっただけ!」
「……あははっ、何それ。面白い」
「最初は、本当に好きな人にやれよ?」
苦しい言い訳のようになってしまったが、そういうことにしておこう。
これで解決かと思ったのだが、帆波はとても悲しそうな表情をしていた。
「本当に好きだもん。晴翔くんのこと」
「……えっ」
「だから、好きになっちゃったの。でも、それは絶対にかなわないよね?」
身体を震わせながら、問いかけてきた。
ここで首を縦に振ると、彼女が泣いてしまうことはわかった。だけど、この質問に対して嘘の回答をするのは「優しさ」ではない。それぐらいのことは、俺のような凡人であっても理解できる。
「……うん」
「ああ、一瞬で初恋が終わっちゃった。始まる前から負けてるなんて、酷い話だよね」
「ごめん、でも……」
俺の答えを聞き終わる前に、泣き始めた。縋りついて涙を流す彼女を見て、心が痛む。
こんなことになるなんて、完全に想定外だった。リーダーとしての負担を軽減することばかり意識して、彼女の俺に対する気持ちを考慮できていなかった。わかったような気になっていた自分が恥ずかしいし、これからどうすればいいのかわからない。
もし隣に有栖ちゃんがいたら、間違いなく助けを求めている場面である。だが今日の俺は一人だ。こうして独断で行動した以上、その尻ぬぐいは俺の責任で行わなければならない。
「どうしよう、諦めたくない。私の弱さを理解して、支えてくれようとする人を、手放さなければならないの?どうして?そんなに私って、ダメかなぁ?」
全然ダメじゃない。帆波は見た目も性格もパーフェクトに近い女性だ。今後の長い人生の間に、俺なんかより何倍もいい男がいくらでも来ると断言できる。
しかし、彼女の視野にそんな未来は入ってこない。学校という狭い範囲でしか人を見ることができないため、俺という理解者が全てのように感じてしまっているのだろう。
だから簡単に切ることができない。スパッと諦めて次に進むことができない。
敷地の外に出られず、外部の人間とほとんど交流できないこの学校を憎く思った。
どう答えるのが正解なのか全くわからないまま、静かに時間は過ぎていく。
帆波の顔を見ると、部屋を出ていったときと同じぐらい絶望的な表情を浮かべていた。
ダメだ、このまま放っておいたら……首を吊りかねない。諦めさせることを、諦めよう。
「……別に、今すぐ離れたいとか言ってるわけじゃない。そもそも、お前とこんな形で縁を切ったら、何か命令することもできないだろ?」
「あっ……」
「俺がお前を必要とする限り、距離を置くつもりはない」
最終手段として、俺はあえて悪役を引き受けることにした。万引きの過去という弱みを利用して、仮初の主従関係を継続する。卒業までの時限的な措置としては、悪くないはずだ。
決して最善手ではないだろうが、今の俺にはこれしか思いつかなかった。
「そ、それなら。あなたの言うことを聞いている間は、一緒にいてもいいの?」
「どう解釈してもらってもいい。ただ、恋人は有栖ちゃんだけどな」
言ってから気づいたが、もし俺が帆波を振ったなどという話が知れ渡ったら、学校にいられなくなるのはこちらの方だ。本人は気づいてないだろうが、俺の弱みも握られてしまった形になっている。確実に隠し事はできないタイプだし、事故のような形で噂が広まってしまう可能性もある。
……退学上等とはいえ、そんな理由で消えるのはダサすぎる。それを防ぐ意味でも、関係を続けていくのは有効だ。この学校にいる間は、振られたと思わせない方が良いだろう。
「ありがとう、私頑張るからっ!」
「あんまり深く考えすぎるなよ。使う側の人間がこんなことを言うのもおかしいが、俺は帆波の精神が無事に保たれればそれでいい。なんなら、今まで通りに振舞ってもいいぞ?」
これでフォローになっているのか、自分でもよくわからない。
助けるなんて豪語した割には、曖昧すぎる決着……情けない男がここにいた。
「ううん、今まで通りなんかじゃ全然ダメ。もっと、あなたのために……」
こんな体たらくでは、どこかで見ている清隆も呆れてしまっているだろう。
有栖ちゃんには「微妙だった」とだけ書いたメールを送って、終わったことを伝えた。
「まあ、好きにしてくれ」
俺は立ち上がって、ズボンに付いた砂を払う。もう遅いし、そろそろ帰ろう。
はあ……失敗したなあ。やはり俺は雑魚というか、有栖ちゃんのようにはできないらしい。
「さっきのキスは一生忘れないよ。これからもずっと……よろしくね、私のご主人様?」
別れる直前、帆波は上目遣いで甘えてきた。あまりの破壊力に一瞬クラッと来てしまう。
……その美しい笑顔が、今までのものとは大きく変わってしまったように感じた。
思っていた以上に、俺は大きな間違いを犯してしまったのかもしれない。
こいつの中では大失敗。第三者から見ると?
この展開はかなり序盤から考えていたものだったので、すでに細かいメモがありました。
早く投稿できたのはそういう理由です。次こそ、水曜日ごろになりそうです。