最後の種目……3学年合同リレーも恙無く終わり、体育祭の結果が発表された。
全体では赤組が勝利した。学年別得点は1位のAクラスにCクラスが続き、あとはB、Dの順となった。Bクラスも最初は飛ばしていたが、最終的には微妙な結果に終わった。
「まあ、思ったよりは楽しめたよ」
「それならよかったです。今度は私があなたを笑わせられるように、頑張りますね」
有栖ちゃんとそんなことを話しながら、俺は興奮さめやらぬ学校を後にした。
その翌日、帆波が部屋にやってきた。
「ご主人さま〜」
膝に顔を擦り付けている。日を追うごとに、甘え方が激しくなっている気がする。
「うわっ、きも……」
「ひ、ひどい!」
氷のような冷たい視線でそれを見ているのは、桔梗ちゃんだ。
同じ女性には、気持ち悪いと思われても仕方がないかもしれない。異性の俺からすると、これでもまだ可愛らしいと思えるが……
その直後、桔梗ちゃんが身体を震わせた。帆波から何かを感じ取ったのか?
「それぐらいにしておこう。ほら、撫でてやるから」
「わぁ……気持ちいい。優しくてあったかい」
「そ、そうか」
「晴翔くん、愛してるよ。たとえ振り向いてもらえなくても、私はずっと大好きだからね」
当惑してしまった。そこまで言い切られるのは想定外だ。あまり意識してこなかったが、絶世の美少女である。愛しているなどと囁かれて、男として動揺しないわけがない。
「体育祭のお話、昨日の続きをしよっか」
「……了解。一番興味がある部分だったし、いずれ聞こうと思ってたんだ」
固まった俺を見て、帆波の方から話を変えてくれた。正直助かったと思う。
あんな歯の浮くようなセリフを続けられていたら、俺はどうなっていた?
……帆波が持つ特殊能力。それを全力で俺に向けてきた場合、耐えられるのだろうか。自分だけは帆波に染まらない。そんな甘ったれた思考は、驕り以外の何物でもない。常に洗脳されるリスク、「帆波教」に引きずり込まれる可能性を考慮する必要がある。
ようやく気づいた。こいつは、本気で俺を落とそうとしている。もちろん嫌いなわけではないし、好かれて悪い気分になるはずもない。無下にするつもりはないが……自分の心を強く持つことが肝要である。あくまでも最優先は有栖ちゃんであることを、忘れずにいようと思った。
「じゃあ質問するけど、どうやって諸藤に参加表を記録させたんだ?」
諸藤は、参加表提出前に停学処分となった。それをどのように使って体育祭に活かしたのかということ。競技の合間にも考え続けたが、結局答えは出なかった。
「ふふっ、それはね……参加表自体は記録させてない。これでいいかな?」
「なんだと?」
「なら、答え合わせをしようか」
唇に人差し指を当てて、帆波はウインクした。
あざとい。でも、こいつがやると絵になるから美少女というのはずるいものだ。
「停学の効力が発生する直前の日、諸藤さんは放課後にひっそりと学校へ行ったの。置きっぱなしにしている教科書や参考書の類を、寮に持ち帰るためにね」
最初からはっとさせられた。確かに、諸藤にとっては必要な作業だ。停学だろうが何だろうが、テストで赤点なら退学だ。休みの一か月間、自習をしなければ生き残れないだろう。
また放課後であれば、ほとんどの生徒は体育祭の練習で教室には残っていない……今の諸藤の状況であれば、誰にも会わないで済む時間帯を慎重に選ぶはずだ。あいつは針の筵だからな。
「ああ、本人に記録させてないってことは……つまり、そのタイミングで諸藤に何かを仕掛けさせたってわけだ。だんだん理解できてきたぞ」
「せいかいっ。私が諸藤さんにお願いしたのはたった一つ。予め渡しておいた満充電のボイスレコーダーを起動させた状態で、自分の机の中……なるべく奥の方に入れて帰ってもらうこと。そして、次の日の放課後に回収させた。こっちはうちのクラスの子だけどね」
……こいつ、やるな。
画像でなかったのは驚きだが、音声だけでもかなりのものを得られたはずだ。ただでさえ、三人もの退学者が出て大幅に参加表を練り直さなければならないという異常な状況だ。その最中に自分の教室が盗聴されているなんて、誰も思わない。
雑談レベルで話される内容……クラスの戦略なども含めれば、単純に参加表の画像を貰うのとは違う利益もあるだろう。それが真であることは、他でもない体育祭の結果が証明している。
ただ、一つ疑問が残った。
「Dの攻略法はわかった。でも、Cクラスはどうやったの?」
「それは……堀北さんが教えてくれたんだ」
俺は驚き、桔梗ちゃんの方を向いた。
「……やっぱあいつ、裏切ってたよね」
「そうだね。何日か前に龍園くんと取引をしていたことは、諸藤さんが教えてくれた。それを聞いた私は、堀北さんのところへ行って『説得』したの。思ったよりも早く心変わりしてくれたよ」
「ああ、もしかして」
「さすが桔梗ちゃん、すごいね。多分想像通りだと思うけど、お兄さんの話を使わせてもらったんだ。『堀北会長は、龍園くんのような人を好むかな?』ってこと。実際どんな人かはよく知らないけど、堀北さんはお兄さんのことを相当美化して見ているからね」
帆波の言う通り、堀北は会長のことを正義のヒーローのように見ている節がある。
会長と龍園の気が合わないなんて、勝手な決めつけでしかない。むしろ、龍園のような勝利至上主義タイプとは合いそうな気さえする。清隆とも合うんだし、相性は悪くないはずだ。
しかし、今の堀北は視野が狭い。龍園の評判が物凄く悪いことも重なり、兄の認めないやり方だと糾弾された時に否定できない。もっとも、言い方が悪ければいつものようにツンケンして終わりだろうが、そこは神様・一之瀬帆波である。きっと、甘くて優しい言葉をかけたのだろう。
……あいつが帆波教に入信してしまう日も、いつか来るのかもしれない。
「おかげで全部わかったよ、ありがとう」
それにしても、面白い話だった。帆波がよくやったのは事実なので、礼を言っておく。
「ご主人様、すき……」
また、あのとろんとした目だ。見ていると変な気持ちになるような……
そんな帆波に対して、有栖ちゃんは終始怯えていた。
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帆波を帰らせた後、俺たち三人は部屋で晩ごはんを食べることにした。
体育祭も終わったので、今日からはほぼ毎日桔梗ちゃんが泊まっていってくれるらしい。
「ぐすっ……どこにも行かないでください」
半泣きで有栖ちゃんが抱きしめてきた。奪われるんじゃないかと心配になったのだろう。
「あいつ、超やばいね。もう晴翔くんのことしか見えてないんじゃない?」
「やっぱりそう思う?」
げんなりした顔で、桔梗ちゃんがそう言った。
帆波とやり取りするうちに、何か感じるものがあったのだろう。
「善意の塊みたいな女だし、それは変わってないんだろうけど……なんだろ、その対象があなたに限定されちゃったみたい。多分、私のことも友達と思ってないよ」
「えっ、マジで?」
「そうそう。以前は、有栖ちゃんにもあんな無関心じゃなかったよね?」
確かに、と思う。そもそも俺たちの関係は、有栖ちゃんが帆波で遊んだ……自分の代わりに俺を楽しませてくれる「出演者」にしようとしたのが始まりだ。必然的に、帆波は俺より有栖ちゃんとコミュニケーションを取ることが多く、ある意味俺は脇役的存在に徹していた。
しかし今はどうだろう。さっき、帆波は一度も有栖ちゃんに話しかけなかった。
「帆波さんの世界は、晴翔くんが中心になってしまいました。善悪の判断基準が、あなたに好かれるかどうかに書き換わったのです。それに影響を及ぼさない私は、彼女にとっては用済みなのでしょう。ふふっ、皮肉なものですね。私への関心を失った途端に、私と目的が一致するなんて」
帆波がいなくなって、有栖ちゃんに少し元気が戻ってきた。もう苦手意識を持つレベルになってしまったようだ。初期の頃とは完全に立場が逆転した形だ。
……用済み、か。そこまで酷いことを考える子じゃないと思うんだけどなあ。心の深い部分の話なので、無自覚にそう思っていると言われたら否定できないが。
「それにしても、美味しいな」
「ほんと~?よかった……最近練習してるといっても、少し心配だったから」
今日は桔梗ちゃんが手料理を振る舞ってくれた。この子は本当に最高の女の子だと思う。体育祭の時も感じたが、世話焼きスキルが高すぎる。桔梗ちゃんがいない生活なんて、想像できない。好きすぎて戻れないところまで来ている。これはもう、一生付き合ってもらうしかない。
有栖ちゃんの補助だって慣れたものだ。俺の知らないうちに洗濯まで終わってたりする。最初は「来てもいいよ」ぐらいの態度だった有栖ちゃんも、今では離れたいと言っても離さないんじゃないかと思うぐらい気にかけている。
そして今、俺たちは胃袋まで掴まれそうになっている。いつの間にか、この部屋におけるトップカーストは桔梗ちゃんになっていた。
「……有栖ちゃん、あんまり帆波を気にしすぎないように。俺にとって一番大事なものは、この三人の時間だ。大好きな家族と一緒に食卓を囲む。これ以上の幸せはない」
「はい、ごめんなさい。何事も気にしすぎるのは、私の悪い癖ですね」
食べ終わった俺は、皿をシンクへ持っていき洗い物に取り掛かる。
作ってもらった以上これぐらいのことは行わなければ、俺の気が済まないからだ。
スポンジを片手に持ち、食器類を洗いながら俺は思う。
俺にとって、桔梗ちゃんという女の子は別格の存在になりつつある。もし有栖ちゃんが恋人になっていなければ、確実に告白して男女の関係を求めていただろう。それぐらい好きだし、それぐらい好かれている自覚がある。いや、そこも通り越して……「家族」としての愛情を感じている。
『あなたは、いずれ私たちの家族になるでしょう』
船上試験の折に、有栖ちゃんが語りかけていた言葉がフラッシュバックした。
桔梗ちゃんはあの日提示された道のりを、ものすごい速さで駆けている。もうゴールは近いというか、俺と有栖ちゃんがメロメロになっている以上、勢い余ってその先へオーバーランしているような状況かもしれない。
では、帆波はどうだろう。俺はあいつに、どういう道を提示すればいいのだろうか?
言い方は悪いが、振った時に発生する面倒ごとを嫌ってどっちつかずな態度を取っているだけだ。「飼うかどうか悩んでいる、ペットショップの犬」ぐらいの存在でしかない。
……しかし、帆波は俺のことを「心に決めた相手」だと思っている。あの日助けたことを後悔しているわけではないが、ここまで困った展開になるのは想像できなかった。
(ああ、俺ってダメな奴だなあ)
今さら確認するまでもない事実であるが、改めてそう思った。