体育祭も終わり、いつもの日常が戻ってきた。
今日は生徒会の交代式が行われるということで、俺たちは体育館に集められた。
しかし、全く興味がないイベントである。時間の無駄なので早く帰りたい。そう思っているのは俺だけではないらしく、退屈そうにしている生徒が多くいた。
堀北会長……いや、前会長の挨拶が終わり、南雲が前に立った。
話の内容は特に新鮮なものではなく、全て知っていることだった。本人と話してるからな。
実力のあるやつは上に、無いやつは下に……ただそれだけのこと。
「……真に実力があるのにも関わらず、今までのシステムのせいで埋もれてきた生徒もいるでしょう。そういった人材を発掘した上で、伸び伸びと活動できる環境を整備する。私はこれも、目標の一つとして掲げたいと思います」
南雲がそう熱弁した時、俺の方を向いていたような気がした。
演説が終わると、主に2年生から歓喜の声が上がった。俺たち1年生は、どこか白けたムードで話を聞いていたが……Aクラスの生徒たちは、ほぼ全員が南雲を鋭い視線で睨みつけていた。まるで、「お前はそこに立つのに相応しくない」と言わんばかりのものであった。
そして、堀北鈴音だ。彼女は前会長の挨拶を、どんな思いで聞いていたのだろうか。
放課後。
俺たちはひよりとの読書タイムのため、図書室を訪れた。俺の中では、この時間が日々の楽しみになりつつある。やはり落ち着いた趣味の時間というのは貴重だ。
有栖ちゃんも悪くないと思ってくれているのか、難しそうな本をじっくり読み耽っている。
「『雪国』、ですか。名作中の名作ですね」
「一昨日の短編集が面白かったから、今度は長いのに挑戦してみようかと思って」
「ふふっ、短編はさらっと読めていいですよね。純文学がお好きですか?」
「……男女関係のいざこざは、創作物としてなら面白いんだけどな」
「それを晴翔くんが言うと、何だか深い意味を感じますね……」
ひよりと軽く読書談義をしてから、本の世界に没頭する。
予想通り、俺たちが同伴するのは大きな抑止効果があったようだ。すでに三回目を数える読書会だが、陰口を言っているような者は今のところ現れていない。実際にちょっかいをかける生徒がいたらどうしようかと思っていたので、未然に防ぐことができて安心した。
ページから一度目を外して、ひよりの様子を見る。
リラックスした表情で、活字を追っている。嬉しそうな気持ちがこちらにも伝わってくる。
……良かったなあ。自画自賛するわけではないが、今回に関しては成功だったと思う。
「……珍しいわね。ここで会うのは初めてかしら」
「ん?」
声の方向を見上げると、そこにいたのは堀北だった。ひよりと有栖ちゃんも本から視線を移し、物珍しそうに見つめている。
いかにも一人で本を読んでいそうなタイプではあるから、彼女がここにいること自体に違和感はない。俺が驚いたのは、この一匹狼がわざわざこちらに来て話しかけてきたという事実だ。
「どのようなご用件でしょうか?」
ひよりが少し不機嫌そうに、堀北へ質問した。今いいところだったのかもしれない。
「いえ、特に用があったわけじゃないわ。あなたはよく見かけるけど……この二人が図書室で過ごしている姿を初めて見たから、何を読んでいるのか気になっただけ」
その瞬間、ひよりの雰囲気が百八十度変わった。読書を邪魔された不機嫌が、同類を発見した喜びで塗り変わっていく。この子も結構わかりやすいところがある。
「……私は椎名ひよりと申します」
「堀北鈴音よ」
「はい、堀北さんはどんなジャンルを読まれるのですか?」
堀北が本好きだと理解したのか、テンションが高くなってきた。
これはもしかして、もしかするかもしれない。
二人の会話は、図書室を後にしてからも続いた。
好きなジャンル・作家から始まり、最近読んだ本など……堀北の知識の深さに感心しながら、ひよりは次々と聞き出していく。その光景はまるで、仲の良い友達のようだった。
「そういえば、椎名さんは最近あまり図書室に来ていなかったわね。以前は頻繁に通っているのを知ってたから、急にどうしたのかと気になっていたのよ」
「いろいろとありまして……晴翔くんたちは、私のために付き合ってくれているのです」
そう切り出して、俺たちと読書するに至った経緯を説明した。
「……意外と優しいのね。そういうことをする人たちとは思っていなかった」
堀北は一瞬目を丸くして、俺たち二人の顔を見た。心なしか、前より態度がマイルドになった気がする。特に打ち解けたというわけではないが……ひより効果だろうか。
それにしても、今日は風が強い。堀北の長く綺麗な黒髪が靡いている。
結局、いきなり話しかけてきた意図はわからなかった。ただ一つ言えるのは……
「今度、お互いの本を貸し合いませんか?」
「いいわよ。椎名さんが持ってる本なら、面白そうだし」
やっと、このツンツン女に手を差し伸べる者が出てきたということだ。
もちろん、クラス内での立場が厳しいことは変わらない。体育祭で裏切った事実が消えるわけでもない。しかし、堀北にとって……初めて堀北鈴音という存在を認めてくれる生徒が現れた瞬間であった。プライベートに限った話とはいえ、これは彼女にとって大きな転換点だと思われる。
「今日はありがとう……坂柳さんと、高城くんも」
俺は、この学校に入って初めて堀北の笑顔を見た。
一人で完結していた世界を、明るく照らしたのは……椎名ひよりだった。彼女は読書という共通の趣味をきっかけに、恐ろしく気難しい堀北の心を開かせたのだ。
そして、この出来事は俺たちが読書タイムに付き合わなければ起きなかったはずだ。たった一つの行動でも、思わぬところに影響を及ぼす可能性があることを実感した。
「ふふっ、堀北さん」
「何かしら」
ずっと黙っていた有栖ちゃんが、最後の最後に話しかけた。
「……人の温かさというのも、悪くないでしょう?」
「……どういうこと?」
「どう解釈していただいても構いません。ただ、堀北さんは手遅れではありません。私とは違い、飛躍するチャンスをまだ残しています。それはとても、とても羨ましいものです」
やや影のある微笑みを浮かべながら、堀北を諭す。
その声色は優しく、今までの有栖ちゃんとは大きく異なるものであった。
「好意的に受け取っておくわ」
「そうしてください。私がずっと、あなたに伝えたかったメッセージです」
その時、ぶわっと強い風が吹いた。肌寒さを感じて、俺は一瞬身を縮こまらせる。
「それでは皆さん、風邪をひかないよう」
ひよりは平然とそう言って、去っていった。堀北も身を翻しそれに続く。
俺と有栖ちゃんは顔を見合わせて、笑った。
「あははっ、なんかおかしいね。堀北のぎこちなさときたら」
「そうですね。コミュニケーションに慣れていない様子が、ありありと見えました」
うーん、それにしても寒い。急に気温が下がったな。
人の温かさ、かぁ……
ふと思い立ち、俺は有栖ちゃんの身体を思い切り抱き寄せた。
三十六度の温もりを感じる……こういう意味じゃないのは、わかった上でのことだ。
「あったかいねえ」
「もう、急にどうされたんですか?」
口ではそう言いながらも、満更でもなさそうだ。
赤くなった頬に軽くキスをして、顔に手をやった。風を受けて耳が冷たくなってしまっている。
「よしっ、俺たちも帰るか。今日は先に風呂がいいな」
「そうしましょう」
離れないように手をしっかりと握り、ゆっくりと歩き出す。
幸せそうな有栖ちゃん。それを見ると、こちらの気持ちまで明るくなってくる。
堀北鈴音。寒くて暗かったその心には、ひよりの温かさが沁みたことだろう。
しかし、お前の道は前途多難だ。行き先を間違えていたことに気づいたところで、今さら修正するのは決して簡単なことではない。
……知らないはずだった、ずっと見て見ぬ振りをしてきた「人の温もり」を知ってしまったことで、より一層惨めな気持ちにはならないだろうか?
季節はすでに秋である。春先から育てた人間関係は、成熟し始める時分だ。そんな中に割って入ることは、彼女の性質からすると非常に難しいのではないかと思う。
与えられた「優しさ」は彼女にとって毒となるか、薬となるか。
体育祭の日にひよりが発した言葉を思い返したところで、部屋に到着した。