確かに、薄ぼんやりとした印象は残っている。
大学の同期とは言え学科や専攻が違えば会うことも稀だし、同じサークルに属していたというわけでもない。それでも何となく彼のことを覚えていたのは、さて、何がきっかけだったか。
しかし学生時代の彼はこんなにボロボロの姿で目元に隈など飼ってはいなかったと思うのだが、我ながらよく彼だと気づけたものだ。
「……あれ、降谷? ……くん?」
ポアロの入り口にクローズの札を掛けようとドアノブを握ろうとした、その瞬間に開いたドア。ドアノブを握っていたのは、かつて同じキャンパスで学んでいた大学の同期、
しかしこの状況は大変よろしくない。今店の中にいるのが自分ひとりとは言え、彼に俺のことを悟られてはいけない。
とっさに笑顔をつくり、何でもないように口を開いた。
「恐れ入りますが、人違いですね」
「え、じゃあこんなイケメンがこの世にふたりもいんの? ふざけんなよ世のフツメンに謝って、とりあえず代表して俺に」
「……ええっと……」
なるほど、これはどうやら相当疲弊している。反射で言い返したらしい小袖は、もはや自分が何を言っているのかも理解していないようだった。
今にも閉じそうな瞼を堪え、あーとかうーとか意味をなさない音が口から零れ落ちている。もう閉店時間になっているが、このまま帰したらどこかで倒れるか、最悪事故にでも遭いかねない。
キッチンの中に残っている食材を頭の中に浮かべながら、とりあえずどうぞ、と店内に促した。ついでに彼から見えないように、さっとドアの「OPEN」を「CLOSE」に切りかえる。
ぼんやりとしたまま瞬きを繰り返したボロボロの同期は、まったく頭の働いていない様子で頷いた。
「ああ、うん……まあいいや、ブレンドください降谷っぽいひと」
「ははは、安室透と申します」
*
崩れ落ちるようにカウンター席に腰を落とした彼は、差し出したお冷やをすぐさま飲み干して深々と息を吐いた。砂漠でも歩いてきたのかとでも言いたくなるような飲みっぷりだ。
「ずいぶんお疲れのようですね」
「ええまあ……仕事が詰まってて」
「それはそれは、お疲れさまです」
ブレンドの用意を進めながら、合間にすぐ空になってしまうグラスに水を注ぐのを忘れない。相当に喉が乾いているのか、それとも目の前にあるから反射的に飲んでしまうだけなのか。
とにかく、相当な疲労の蓄積に間違いはなさそうだ。今日余った野菜で簡単にスープでも作ろうか、と頭の中で段取りを立てながら珈琲をたてていく。
「お仕事は何をされているんですか?」
確か彼は経済関係の学部だったはず。だんだんと芋づる式に記憶が蘇ってきた。
そう、彼はいくつもアルバイトを掛け持ちして毎日馬車馬のように働いているにも関わらず、非常に優秀な成績を誇っていることで密かに注目されていた。その噂はあまり関心のなかった自分の耳にも入ってくるほどで、要領よく努力しているのだろうと感心した覚えがある。
その小袖がここまで憔悴する仕事とは。ああ、と死んだ眼が答えた。
「秘書というか、何というか……いや本当に俺って何?」
「哲学ですか?」
「数年前までは順風満帆だったんですよ……大学卒業していいトコ就職して、そこそこ無理はしたけどそのおかげでいい感じに出世して、まさかまさかその財閥のトップに目を掛けてもらって給料も待遇も申し分なかったのに」
財閥と聞いてよくこの店にも訪れる元気のいい女子高生の顔が浮かぶ。もしかして、と思いながらサイフォンでたてた珈琲をカップに注いだ。
「上手いこと立ち回りすぎたせいか、今度は経営から手を引いて相談役をやってた爺さんに引き抜かれて、毎日毎日無茶ぶりと我が儘に振り回され……最近じゃどこぞの怪盗になんぞご執心で宝石買いあさって『キッドを誘き出す方策を考えィ!』って……」
世界広しと言えど、その「爺さん」に当てはまるのは一人しかいない。
うわ、と言いそうになった唇をキュッと結び、小袖に珈琲を差し出した。ああどうも、とそのままカップを取ろうとした手を制して、ソーサーのそばにミルクを添えた。
え、と死んだ眼がわずかに見開かれる。
「その様子だと胃も弱っているでしょう。ブラックだと刺激が強いでしょうから、できればミルクを入れることをお勧めします」
「それはそう……ありがとうございます」
「いえ。……お仕事、本当に大変そうですね」
「やりがいがないわけじゃないんですけどね……」
小袖は黒に白を溶かし込みながら、くるくるとカップの中でスプーンを回す。渦をぼんやりと眺め、やりがいはあるんだ、とため息交じりに繰り返す。
「世界中を飛び回って道楽の限りを尽くすので、それに同行してたら自然と数カ国語は喋れるようになりましたし。突拍子もない我が儘に対応するために相手の一歩先を読むどころか十歩先を読んで手配をしてさらに念を入れておくくらいの手回しもできるようになったし……いや自分の家の管理まで何で俺に任せるんだよ、仕方ないから海外のバトラー養成所行って執事の仕事も勉強して……」
「それはすごい」
「キッド関係のせいで宝石の鑑定や鍵開けのスキルも身についたし、ルパンの世話のためにブリーダーの勉強して、ついでに爺さんのハーレーの整備も念のため覚えて、一応各種機体の運転技術も……できることがどんどん増えていくのは嬉しいし結構自業自得なんだけど、……え、俺の職業って何?」
「お気を確かに」
どうやらこの同期、完璧主義かつ何でも器用にこなしすぎたらしい。
鈴木次郎吉という人物については報道と噂程度の知識しかないが、非常に豪快で派手好きのイメージが強い。そんな人物の傍らで仕える苦労は想像に難くない。
しかしそれを「やりがい」と呼んだあたり、別に仕事が嫌なわけではなさそうだ。ほかの仕事では絶対に得られない経験も、彼にとっては喜ばしいものではあるのだろう。
ただ、疲労が限界にくるときもあるというだけで。
「今日もお仕事帰りだったんですか?」
「爺さん主催のイベント企画の打ち合わせを何件か片付けて……このところイベントの運営の手筈を整えるのに時差のある相手と何度もやりとりしてたので上手く睡眠を取れなかったんです。ようやくひと段落ついたと思ったらどっと疲れが出て……そしたらここの看板が見えて」
「そうでしたか」
スープを作るにも材料をしっかり煮込む暇はない。うすくスライスしたにんじんとキャベツ、それにベーコンを少しの、手軽なものに仕上げよう。
こぼれ落ちるような彼の言葉に相槌を打ちながら、手元で作業を進めていく。
「悪いひとじゃないんだよなぁ……無茶は言うけど全部俺ひとりでやれって言われてるわけじゃねえのはわかってるし……それでも何かひとりで全部完璧にしようとしちまうのは俺の意地の問題だし……一回ぶっ倒れたときは本気で心配されて医者も休みも全部手配してくれたし……何より……」
「何より?」
「めっっっっちゃくちゃ待遇がイイ……主に給料的な意味で」
なるほどさすが大金持ち。
ひょっとしてお金好きですかと尋ねれば、真顔で大好きだと告白された。借金があるわけでも病気の家族がいるわけでもなく、単純にお金が好き故の労働であるらしい。この分だと学生時代の無茶なアルバイトもそれだけが理由なのだろう。呆れを通り越してちょっと面白かった。
「金の使いどころをわかってる金持ちなんですよ……価値のあるものに相応の金を積むことは当然だと思ってる。そんなひとのとこで働けるのは、まあ、……ありがたいことだと思ってます」
それはつまり、自分自身にそれだけの価値があると認められているということだから。
はー……と大きく息を吐きだした小袖は少しだけすっきりした顔をしていた。一通りの愚痴を吐ききったらしい。わずかに目に光の戻った彼の前に、スープカップを差し出した。
「どうぞ。簡単なものですが、少しお腹に入れていってください」
「え、」
「今日の残りもので作ったのでお気になさらず。ただのまかないです」
「……これの代金もちゃんと請求してくれるなら頂きます」
「ふふ、ではそのようにしましょう」
そこだけは譲らないという顔をされたら頷かないわけにもいかない。
そっとスプーンに口を付けた小袖は、噛みしめるように呟いた。
「……美味しい」
「良かった」
どうせ仕事に熱中してろくに食事もとっていなかったのだろう。自己管理もきちんとしないと、なんてことは小袖もとっくにわかっているはずだから口にはしないが、無理はしないでほしいものだ。こんな簡単なスープだが、少しでも彼の助けになればいい。
カップの中のスープが少しずつ減っていく。それにつれて徐々に彼の顔色も人間のそれに近づいていった。
最後のひとくちを飲み干したとき、小袖はぱちりと瞬きをして外に目を向ける。
「……もう外暗いですね」
「そうですね」
「この店の営業時間って」
「さあ、何時だったかな」
「……言ってよ!!」
「あはは、今にも死にそうな顔をされていたので」
焦らなくていいですよと言っても小袖は構うことなくわたわたと帰り支度をし、鞄を手に取った。この俺がひとに余計な労働を強いるなんてって、本当に面白いなこの同期。
きちんとレシートにスープの代金が含まれていることを確認した小袖は、ドアの前で深々と頭を下げる。
「時間外に店に居座って本当に申し訳ありませんでした」
「構いませんよ。迎え入れたのは僕の方ですから」
「……今度はちゃんと営業時間内に伺います」
「はい、お待ちしておりますね」
にっこりと微笑んで見せると、小袖も少し気恥ずかしそうに笑った。
その顔は最初よりもずっと血色が戻っていて、意識もはっきりしているようだ。これなら疲労困憊とは言え帰路で倒れることはないだろう。
お仕事はほどほどに、とお節介ついでに付け加えると、疲れたらまたスープ頂きに来ますってそういうことじゃないんだぞと思う。こちらの内心を察したらしい小袖は、ちょっと悪戯っぽく笑って言った。
「大丈夫、次はもっと上手くやるので」
小袖の手がドアノブにかかる。
からん、とポアロのドアが軽やかに音を立てた。
「またね、降谷」
「安室です」
けらけらと笑いながらドアの向こうへ消えた同期、腹の底は読めなかった。