「大活躍だったそうじゃないですか」
「……それは何か違う気がしますが」
そう苦笑しながら、小袖はいくらか疲れた顔でカップを傾けた。
あらゆるメディアがキッドに染まってから数日後、このところ走り回っていたらしい小袖はお裾分けを片手にポアロに現れた。今日の紙袋の中身は最高級のチーズ詰め合わせらしい。しばらく乳製品を見たくないと真剣な顔で首を振っていたので今回もありがたく頂くことにした。公務員が一般市民からものを受け取るのは頂けないが、今は喫茶店のアルバイト兼私立探偵なので大目に見てもらうとしよう。
カウンターに腰掛けてブレンドをオーダーした小袖は、ようやくキッドの後処理を片付けたところらしい。毎度のごとくキッドは捕まらなかったようだが、何でも今回は鈴木次郎吉氏がキッドの変装を見抜いたということで鼻高々なのだそうだ。
「コナンくんが言っていましたよ、今回キッドは小袖さんに変装したけどすぐにバレてしまったと」
「ええ、俺はただ眠らされていただけなんですけどね」
もう少し粘ってくれても良かったのにと遠い目をしているのは「もうちょっと寝ていたかった」という本心からだろう。そろそろ目頭が熱くなるのを感じる。眠らされて一時間とたたずに発見され叩き起こされた小袖は、起きて早々にキッド追跡の手配と指示出しに明け暮れたらしい。
そもそも次郎吉氏がキッドの変装に気づいたのも、その仕事ぶりによるものだと聞いている。
「まったくキッドときたら、俺に変装するなら俺より早く仕事を回すくらいの気概を見せてもらわないと。旦那様に指示を出される時点で仕事が遅いと言わざるを得ません」
「さすが小袖さんです。仕事の手際に加えて、直近の決算数字を答えられなかったのが決定打だったとか?」
「いくら桁が大きいとは言え、それくらいは即答してほしいものですね」
これはどう考えてもキッドは変装する相手を間違えたなと。
鈴木次郎吉氏という奔放な主人に仕え続ける小袖の経験値、頭の中に蓄積したあらゆる情報と数値、その使い方。それは決して一朝一夕で身につくものではない。
表面上の姿や振る舞いまでは真似をできても、小袖の能力まで真似はできなかったのだろう。代えのきかない存在だからこそ、次郎吉氏は彼を高く買っているのだ。
「……キッドが本当に俺に成り代われるなら雇い入れたいくらいなんだけどな……」
「ははは。本当にお仕事大変そうですね、小袖さん」
今日こそはお休みですかと尋ねても、彼は困った顔で笑うだけ。スーツも着ておらずラフな格好をしていたからオフなのかと思いきや、そういうわけでもないようだ。
傍に置いていた大きなバッグに目をやり、これから特別任務ですと弱々しく微笑む。
「特別任務、と?」
「ええ、帝丹高校に」
どうやら今回は園子さんの要請を受けたらしい。
都内有数の進学校である帝丹高校では、学業のほかにもさまざまな特別授業の時間が設けられている。生徒の豊かな人間力を養うために、外部からさまざまな分野の専門家を招き特別授業を行うことがあるのだとか。
数々の特技をもっている彼は、顔全部で「何故俺が」と語っていた。
「テーブルマナーやティータイムのマナーの授業を、と……招かれた客側のマナーだけでなく、もてなすホストとしてのマナーも教えてほしいと言われまして」
「ああ、海外の
「本職じゃない俺より他に適任がいると申し上げたんですが……あまり本格的にすると生徒の皆さんが身構えてしまうから、俺くらいがちょうどいいと」
園子お嬢様が、といつのまにか小袖の目は死んでいた。
しかも、とため息交じりの言葉が続く。
「俺が行っていた養成学校では、通例としてフルオーダーの執事服を頂けるんです。どこでそれをお聞きになったのか、今日は必ずこれを身につけるようにと厳命が下っていまして……俺の執事姿なんて見てどうすんの本当に……」
「なるほど、その荷物は執事服でしたか。きっとよくお似合いでしょうね」
「お世辞は結構ですよ……それこそ安室さんが着た方が見映えするでしょうに。あ、着てみます? きっと園子お嬢様大喜びですよ、臨時ボーナス出そう」
「ははは、最後の本音は胸にしまっておいてください。着ません」
それは残念、と小袖はちょっと面白そうに歯を見せる。
くっとブレンドを飲み、大きく息を吐いた。これはだいぶ仮面が剥がれている。
「養成学校で毎日着ていた頃は何とも思わなかったんですが、今になって着ろと言われると気恥ずかしくて……まあ園子お嬢様曰く『執事服着ればフツメンもイケメンに見えるからしっかりキメてきなさい!』と」
「何というか……園子さんらしい」
「お嬢様なら執事も見慣れてるだろうに……コスプレ扱いは勘弁して欲しい……」
「ははは……」
小袖にとって執事服がコスプレではなくとも、周囲からそういう目で見られてしまうというのはなかなかにつらいものがあるのだろう。まあ気持ちはわからなくもない。
仕事だからやりますけどとぼやく小袖に、そっとビスケットを差し出した。チーズももらってしまったことだし、これくらいのサービスは許されたい。
「いいんですか?」
「ええ、でも他のお客様には内密に」
「……安室さんてそういうところがモテるんでしょうねえ」
「何ですか唐突に」
女性客だけでなく野郎にまでって、そんな呆れた顔で言わなくても。
いらないなら別に、と手を伸ばそうとしたところで小袖はかすめ取るようにビスケットを口に入れる。食べるなら最初から余計なことを言わなければいいものを。
まったく、と息をついてみせると、ほとんど素の顔をさらした同期は軽く肩を揺らす。つられて僕も目元が緩んだ。
どこか気安いものを含んだ、穏やかな空気。それは懐かしいような、新鮮なような。今の僕には相応しくないとわかっていても、ついそれを享受したくなる。
そんな自分に、内心だけで自嘲する。嘘で塗り固めた「安室透」が何を言っているのか。感傷的になる前に奥歯を噛みしめて堪える。潜入中に考えることではない。
「―――
しかし唐突に呼ばれた本名に、立て直したはずの「仮面」に動揺が走る。……いや、これは驚いただけだ。今の僕の名前は「安室透」、決して「降谷零」ではない。
僕は不思議そうな顔をつくって、少し首を傾げて見せた。小袖はそんな僕を見ながら穏やかに微笑む。その心の奥底は見えない。
「……っていう安室さんにそっくりなひとを知ってるんですけど」
「ええ、最初にいらしたときも仰ってましたね。そんなに似てますか?」
「とても。といっても、最後に見かけたのはもう何年も前のことなんですが」
優秀も優秀だと評判の、大学の同期だと。
話したこともほとんどなかったけど、と懐かしそうに小袖は語る。
「顔はいいし頭はいいし、何か運動神経も抜群で何をさせても完璧にこなすらしいとか何とか。学部の違った俺の耳にすら届くぐらい、すごいやつだったんです」
いや自分はそんなに目立っていたのだろうか。たらり、と背中に汗が伝う。
在学中はただひたすら勉学に勤しんでいたはずなのだが、それが裏目にでるとは思わなかった。いやイベントで前に出たり、もっと目立っていたやつがいたはずだろうと心の内で言い訳を並べても、他学部の小袖にすら顔と名前を知られていたのは事実だ。
内心の葛藤は決して表に出していないはずなのに、小袖はどこか呆れたように笑ったまま言葉を続ける。
「まー本人は目立ってた自覚なさそうですけどね、アレは。ほら、周囲気にせず我が道を行くやつって自分が思ってるより目立つじゃないですか、俺もそうだったみたいですけど」
「小袖さんも?」
「俺ほどバイトに明け暮れたくせに成績落とさなかった人間は珍しかったらしくて」
それはそうだ。だからこそ僕も小袖のことは知っていた。なるほど、となると僕はもう少し同じ大学の人間には気を払った方が良いのかもしれない。
そんなにバイトしてたんですかと無難な相槌を打ちながら、小袖がこの話題を振ってきた真意を探る。
「その
「ええ、俺は結構図書館とかでそいつのこと見かけてましたけど、向こうは俺のこと知らないんじゃないかな」
いや知ってる、とは言わずに笑顔のまま続きを待つ。
「俺も噂聞いたときはどんな完璧人間だと思ったんですけどね。でも、大学の図書館で閉館時間ぎりぎりまで資料の山に囲まれてるのを見かけて。結構何度も」
―――覚えている。とっぷりと暮れた夜、ひともまばらになってきた図書館。
それこそ毎日のように、いくつもの文献を漁って勉強に明け暮れていた日々。そろそろ閉館ですよと声を掛けられるまで、ページをめくってはノートに書き付けていた。
そういえば、―――そうして勉強していた近くの机で、同じく勉強していた「誰か」がいたような。
にこり、と小袖の笑顔があのときの「誰か」の顔と重なる。
「―――きっと今もどっかで頑張ってるんだと思うんです。途方もない努力を重ねて」
ゆらり、と小袖の手の中で珈琲が揺れる。
黒い鏡にうつるのは、柔らかく細められた眦。
「だから、―――俺も負けてられないなって」
ま、頑張る方向性もフィールドも全然違うんでしょうけど。
そう言って珈琲を飲み干した同期は、立ち上がって大きな鞄を手に取った。
「では、ひと仕事片付けてきます」
「……お疲れさまです」
内心の動揺になど気づかないふりをして、素知らぬ顔で代金を受け取る。
この状況に「安室」なら何と言うべきだろうか。それとも「降谷」なら、と考えてはならない思考が脳内を巡る。
今の言葉から生まれた感情を、「降谷」の口から伝えることは許されない。今の僕はあくまでも「安室透」、情に流されるつもりなどなかった。
しかし、……そう、こう言うだろう、ひとの心に聡い「安室」なら。
「小袖さん」
「はい?」
「きっと、同じことを考えておられると思いますよ。貴方の同期の方も」
あいつも頑張っているなら、自分も負けてはいられない、と。
そう笑ってみせれば、小袖は少し驚いたように目を見開いて、それからまたちょっと照れくさそうに笑った。大きなバッグを持ち直し、そのまま入り口のドアノブに手をかける。カラン、と軽やかなベルが店内に響いた。
店内に軽く目をやった小袖は、誰もいないことを確かめてにやりと笑う。
「またね、降谷」
「……安室です」
即座に訂正できなかったことは、決して情からではないと言いたい。