かららん、と軽やかに鳴るドアベル。
反射的に視線をドアの方へ向ければ、すっかり見慣れたオールバックが目に入る。
「いらっしゃいませ。今日は顔色が良さそうですね」
安室透の顔を崩さないまま、いつものように彼に笑いかけた。
***
軽やかなベルと同時に大きな音を立ててドアが開く。珍しくも息を切らせた様子で走り込んできた彼は、僕の姿を確認するなり慌てたように口を開いた。
「こ、ここに、俺、来ませんでした、か!」
言葉だけを聞けば何を言っているのかという内容だが、何を言いたいのかはすぐに理解した。なるほど、と内心だけで頷いてすぐにお冷やを用意する。
「いらっしゃいませ小袖さん。ええ、ご来店されましたよ」
貴方に変装した、怪盗キッドが。
穏やかにそう続けると、小袖は一瞬硬直してハッと気づいたように瞬きをした。
「……俺じゃないってわかったんです?」
「ええ。ちゃんとご説明しますから、どうぞお掛けください。今日はブレンドよりアイスコーヒーのほうがよさそうですね」
「は、……はい」
大きく息をついた小袖は、まだ冷静になりきれない様子のまま倒れ込むようにカウンター席に腰をおろした。忙しく揺れる視線に苦笑しながら目の前にお冷やとお手拭きを添える。
一気に水を飲み干した小袖は、眉間にぐっと皺を寄せて目を閉じた。
アイスコーヒーを注ぎ入れるグラスの中で氷が踊る。からころと涼やかな音に反応したのか、小袖はようやく目を開いた。飄々としながらも冷静さをきちんと残す、いつもの小袖の瞳だった。
「落ち着きましたか?」
「おかげさまで。……俺もいい加減突拍子もないことには慣れたつもりだったんですが、さすがに今回は驚きました」
小袖によると、今日は珍しく完全一日オフの日であったらしい。しかし何となく胸騒ぎがして鈴木邸に顔を出してみれば、同僚たちに「休みなのに
そんなことを言われたら誰だって慌てふためくというものだろう。オフの日は下ろしている前髪をかきあげ、小袖は深々とため息をついた。
「職場には機密書類もありますし、同僚の皆さんに変な指示出されてたらと思うと気が気じゃなくて。今までずっと偽の俺の足取りを追ってきたんです」
「それでポアロに?」
「ええ。珈琲でも飲みに行くと言って屋敷を出たというので、もしかしたらと」
「さすが小袖さん。そうですね、つい二十分ほど前にお帰りになりました」
いくら他に客がいないからといって店内で煙をあげて消えやがるのは本当にどうかと思うのだが、まあテーブルも椅子も汚れていなかったので今回は目を瞑ってやろう。
小袖の顔をして現れた「彼」の変装は確かに見事で、僕も一見しただけではまったくわからなかった。素知らぬ顔で現れたキッドと世間話まで交わしてしまったのだから迂闊だったと言うほかない。ベルモットという例もあるのだから、日常的に変装の可能性を考慮にいれるべきか。見知った顔すら疑わなければならない世界というのはなかなかに世知辛い。
僕がキッドに気づけたのは、ひとえに小袖と「降谷」の繋がり故だ。
「……先ほどまでその席に座っていた『彼』は、周囲を気にする様子がなかったので」
小袖はポアロに来ると必ず周囲を気にする素振りを見せる。それは自分の素をほかの誰の前でも出さないようにしているのと同時に、他者がいる前でうっかりでも「降谷零」を匂わせないようにするためだろう。
おそらくはキッドも周囲を窺っていなかったわけではない。ただ、キッドは周囲を窺っていることを僕に悟らせるようなやり方はしなかった、というのが正しいだろうか。
どちらにしろ、小袖が周囲の気配を窺うことなどキッドは予想していなかった。今回はそれが功を奏した。
カマを掛けると素直に引っかかって正体を明かした「彼」は、小袖の顔で
「少し前に小袖さんに変装してすぐにバレたことがあったでしょう。やっぱりキッドもそれが悔しかったそうで、今日はリベンジだったと。ちょっとした
「……キッド用にリストアップしていたビッグジュエルのリストにふせんがついていましたよ。次のリクエストだそうです」
まあ旦那様は挑戦を受け取ったと大喜びでしたけど、と遠い目をする小袖にはもはや笑うしかない。宝石の入手が無駄にならなくていいじゃないかと言うべきだろうか。
「ちなみに小袖さん、キッドにまで健康を心配されていましたよ。事前に身辺を少し調べたけど働き過ぎじゃないかって」
「心底
「ええ、そうお伝えしたら肩を揺らして笑ってまして」
「ねえ何で捕まえといてくんないんです? さすがに一発殴りたい」
「ははは、力及ばず申し訳ない」
マスターも梓さんもいない状況で追いかけるわけにもいかず、今回は「安室透」としての潜入任務を優先させてもらった。怪盗キッドの逮捕については、まあまた中森警部に頑張って頂くとしよう。
しかし、これで二度もキッドの変装は失敗に終わったことになる。もしかしたらまた貴方の顔でここに来るかもしれませんねと軽く笑うと、少し考えた素振りを見せた小袖はごそごそと鞄を漁り始めた。
そして取り出されたのは、小さなスプレーや可愛らしいマスコットといったよくわからないグッズたち。試作品ですけど、と手を開いた商売人はにっこりと笑顔をつくった。
「ほら、俺もキッドに眠らされた経験から考えたんですよ。やっぱりこの物騒な世の中、不意を突かれて襲われることは誰だって有り得ますし、隣にいる誰かがもしかしたら犯罪者かもしれないわけですよ。だから子どもや女性だけでなく、誰もが非常事態に備えておくべきじゃないかと。すでに世の中には数多くの防犯グッズが出回っていますが、より強力で、より持ち歩きやすく、より使いやすいものがあれば売れ……誰もが安心して暮らせるんじゃないかと思ったんです」
指一本ほどのサイズの催涙スプレーやスタンガンに、スマホなどと連動可能な小型カメラとGPSつきのマスコット、三秒間触れるだけで体温を感知し鳴り響くバッグチャーム型防犯ブザー、緊急連絡先に信号を飛ばしてくれるアクセサリーなどなど。
この辺は女性向けで、この辺は警察官や探偵など危険のあるご職業の方を想定して、とひとつひとつ説明していくその口には一切のよどみがない。カンペもないのに丁寧でわかりやすく流れるような口調は、まるで通販番組の商品紹介のようだ。
「確か安室さんも阿笠博士はご存知ですよね? 製品開発にお力添えを頂きまして、他社ではそう簡単に真似できない高性能な仕上がりになってるんですよ」
「それはそれは。確かにすごいですね、このネクタイピンなんてとても防犯グッズとは思えない」
「でしょう。ちなみにそれカフスボタンとセットで、GPSに音声録音機能、ブザーもついてます」
「……このサイズで?」
「ええ、すごい技術力でしょう。そのぶん開発費用が嵩んでしまったので製品化は悩ましいところなんですが……まあその辺は検討中です。とりあえずこれどうぞ。女性向けのものは榎本さんに是非」
「おや、いいんですか? こんなにたくさん」
「もちろん。使用後のご感想よろしくお願いしますね」
なるほど試作のモニター要員。しっかりしている。
つい苦笑をしてしまったが、ざっと見る限りどれも一見してそれとはわからない作りになっているところが素晴らしい。阿笠博士の技術力について調べはついていたが、こうして目の当たりにすると驚かされるものがある。
降谷零としても使えそうだ、と歪みそうになった口許をそっと手で隠した。ポアロに設置できるものと梓さんが身につけやすいものを差し引いた残りはこちらで有効活用させてもらおう。
安室透の笑顔を作り直した僕は、大きく頷いてそれらを受け取る。
「では、ありがたく頂戴します。モニターも喜んで」
「ありがとうございます! といっても使うことがないのが一番なんですけどね」
使うことがあったらでいいので、という言葉に苦笑して少し考える。らしくもなく悩んだと言ってもいい。ここで「いつもの通り」で終わらせるか、それとも。
少々のリスクを手元においたとしても、この「先」に手を伸ばすか。
「……安室さん?」
安室、と仮の名を呼ばれる。しかし、何故だか同時に「降谷」と呼ばれたような気がした。店員と客との関係の上にある感情でなく、かつて同じ学び舎にいた同期として、僕の
少し、眉尻が下がる。顔に出すな、と自分に言い聞かせる。俯きかけた顔を堪え、小袖に見えないように拳を強く握りしめた。
大丈夫、―――そう、大丈夫だ。これはリスクではない。
すべてにケリを付けて、それから。
「……小袖さん、実は僕、もうすぐポアロを辞めるんです」
え、と目を丸くした小袖に、ポケットに入っていたスマホをかざしてみせた。
「だから連絡先を交換しませんか。モニターの約束、ちゃんと守りたいので」
一瞬小袖が息を呑んだような気がしたが、気のせいだったかも知れない。
すぐに調子を取り戻した小袖は、何でもないように自身のスマホを取り出した。互いの間を行き交った、たった十一桁の数字。おそらく小袖は、その意味を理解している。
アイスコーヒーの代金を支払ってドアの前に立った彼は自分が悪いわけでもないのにキッドの件にしっかり頭を下げ、そしてもはやお決まりの。
「
またこいつは他に人がいないからって、と小さく息をつく。
少しだけ肩の力を抜いて、代わりにこう言った。
「
僕は安室ですけどね、と続けた言葉に、小袖は声を上げて笑った。
***
一回、二回と耳元でコール音が響く。
あのとき彼に渡した十一桁の数字はとっくに使えなくなっているが、彼からもらった十一桁の数字は生きていた。さて彼は応えてくれるだろうか。待っている時間さえ妙に楽しい。
ぷつ、と通話が繋がった音を鼓膜に感じた。
『はい、小袖です』
あのときから少し時間は経ってしまったが、電波の向こうから聞こえてきた声は少しも変わっていない。
『……もしもし?』
無言のままのこちらに、不審そうに問いかける声。つい肩が揺れた。
最初のひとことは何にしよう、何と言えばより愉快な反応が返ってくるだろうか。ずっとそう考えていたのだが、やっぱり挨拶は大事にしようと思う。
「
ほんの一瞬の沈黙のあと、ふはっと空気を吐くように笑う声。相変わらずよく笑うやつだ、と思いながら自分の肩も揺れて続けていることに気づく。
あーはいはい、と完全に素になった同期は柔らかい声で言った。
『初めまして。それからおかえりと、……お疲れさま?』
「ああ。約束を果たそうと思うんだが、近いうちに時間は取れるか? 来週に迫った怪盗キッドとの対決が片付いてからで構わない」
『はははお気遣いありがとうチクショウ。来週以降の予定を調整するよ、どこか個室を用意すればいい?』
「そうだな、その方がお互いに話しやすいか。酒でも飲みながら話そう」
『俺日本酒派なんだけど』
「任せるよ」
この軽いやりとりに辿り着くまでにどれだけの苦労があったか、この呑気な彼にいっそ語ってやりたいと思う。爆風にあおられ、銃弾の雨をくぐり抜け、屈辱に耐えながらも数多の手を借り、歯を食いしばって職務を果たしたことを、詳細に。
同時に、守秘義務以上に小っ恥ずかしくて言えるわけがない、とも思う。負けていられないと思ったのはこちらも同じだ、などと。
「小袖、」
だけど、これだけはちゃんと言っておこうと思う。そう、言わなければならない。
「……ありがとう」
とりあえず手始めにあの防犯グッズの山がどれだけ役に立ったか、きちんと詳細なレポートをまとめておかなくては。
久しぶりに顔を合わせる「友人」という存在に、らしくもなく胸が踊った。
お付き合いありがとうございました。