京都レース場の選手控室。日経新春杯を調子を落とさず迎えることができたボクは今その場所にいた。いつもならばボクとトレーナーが作戦の最終確認をするためにいるのだが今回はいつもと違っていた。
ボクとトレーナーだけではなく、ボクの応援に駆けつけてくれたボーイとクイン、そしてハイセイコー先輩もいる。直接応援の言葉を贈りたかったらしい。嬉しい限りだ。
みんなからの応援の言葉の前に、ボクとトレーナーは作戦の打ち合わせをしている。
「今回気をつけるべきはエリモジョージだけじゃない。ここまで3連勝で調子を上げてきているビクトリアシチーも要注意だ。相手の勢いに飲まれないようにしろよ?」
「了解や。今更油断なんてせんよ、壮行レース言うても負けるつもりはないやんな」
「それはそうなんだが……。まあとにかく、無事に帰ってこい。俺からはそれだけだ」
「了解了解」
トレーナーはボクを心配するように見ている。もしかしたら、ボクが調子が悪いことを隠しているのかもしれない、そう思っているのだろうか?ならばと、そんなトレーナーを心配させないように、ボクは問題ないとばかりに笑って返した。ボクの笑顔を見てか、トレーナーも少し安堵したような表情を浮かべる。ボクが調子が悪いことを隠していないことが分かったのだろう。何も言わなかった。
そのまま、今度はボーイたちがボクに応援の言葉を告げる。
「テンポイント、今日のレース場では雪が降っている。雪に脚を取られないよう、気をつけて走りたまえ」
「ありがとうございます、ハイセイコー先輩」
「いよいよですね、テンポイント様。頑張ってください」
「ん、応援ありがとな。クイン」
「……なぁ、テンさん。今からでも、出走を取り消すってできねぇかな?」
ただ、ボーイだけは少し様子がおかしかった。
「どうしたんやボーイ?いきなりそんなこと言うて?」
「いや……さ。なんて言えばいいのか分かんねぇんだけど……」
少し逡巡した後、ボーイは続けた。
「テンさんがどこか遠くへ行ってしまうような気がしてさ……。不安な気持ちが収まんねぇんだよ……」
……まあ、確かにこのレースが終わったら海外に飛び立つから遠くに行くことになるのだが、今更どうしたのだろうか?ボーイの様子にボクは困惑していた。
ただ、ボーイがこの調子だとボクの調子も狂いそうになる。なので、
「お~よちよち、ボーイちゃんは寂しがり屋さんでちゅね~。テンポイントお姉ちゃんと一緒に海外に行くか~?」
思いっきり煽り散らすことにした。するとこちらの目論見通り、ボーイは顔を真っ赤にして反論してくる。
「な……ッ!人が心配してんのに!後別に寂しくなんかねぇよ!」
「ホンマか~?」
「ホントだよ!いや、嘘ついた!テンさんが海外に行ったら寂しい!」
いつもの調子に戻ってきた。これでいい。しおらしい態度はこいつには似合わない。元気でいる方が合っている。
ただ、ボーイが心配していることも分かる。なので、ボクは安心させるようにボーイに告げる。
「まあ心配する気持ちは分からんでもないけどな。やから、約束しようや、ボーイ」
「え?何を?」
「また一緒に走る約束や。子供っぽいけど、多少は安心できるやろ?」
「……ま、そうだな!」
そう言ってボクとボーイはゆびきりで約束をした。また一緒に走る約束を。
そこまで見守っていたところで、トレーナーが告げる。
「さて、そろそろ俺達も会場の方へ行くぞ。あんまり長居するわけにはいかないからな」
その言葉に、みんなが了承の言葉を返した。選手控室を後にしていく。少し名残惜しさを感じた。
最後に、トレーナーが退室する。それを確認したところで、ボクも選手控室を後にした。
(さて、壮行レース言うても負けるわけにはいかんからな。気合入れて行こか!)
そう決意を新たにして。
パドックでの様子も確認して、テンポイントに特に問題がないことを確認した俺達は京都レース場へと足を運ぶ。今日はいつものゴール前ではなく、第4コーナーに近いところへと陣取った。いつもの場所は他の誰かがもういたので、仕方がない。ゴールする瞬間を間近で見たかったがそう割り切ることにした。
今は続々と出走するウマ娘たちの入場が始まっている。そしてテンポイントが入場してきた時、一際大きな歓声が上がった。その歓声を受けてハイセイコーが俺に話しかけてくる。
「すごい声援だね。テンポイントのファンしかいないんじゃないか?って錯覚しそうだよ」
「だろうな。日本で最後に走るレースってのもあって、それだけアイツの走りに期待しているファンが多いってことだろう」
「それだけに、テンポイント様のお母様は残念でしたね……。飛行機が飛ばなくてこれなくなってしまうとは……」
「それも仕方ないさ。その分、俺達がしっかりと応援しよう」
そんなことを話していると、ウマ娘たちが次々とゲートへと入っていった。もうすぐレースが始まろうとしている。ただ、俺の胸には少しだけ不安があった。何か起こりそうな予感がする。そんな感じがしていた。
《京都レース場には雪が降る中、日経新春杯が始まろうとしています。距離は2400m、芝の状態は良と発表されています。やはりこのレースで一番注目されているのは来月には海外遠征が決定しているテンポイントの走りでしょう!今レース断然の1番人気!》
《パドックでの調子も悪くありませんでした。果たして今日はどのようなレースを我々に見せてくれるのでしょうか?気になるところです。またテンポイントだけではありません。天皇賞ウマ娘エリモジョージに加えて3連勝と勢いに乗っているビクトリアシチーもおります。他のウマ娘がテンポイントに食らいつくか?》
《G2レース日経新春杯が今まさに始まろうとしています!》
観客は発走の瞬間を今か今かと待ちわびている。そんな空気を俺は感じ取っていた。一瞬訪れる静寂、そして、ゲートが開いた。
《日経新春杯が今……スタートです!》
日経新春杯が幕を開けた。全員が一斉にスタートを決める。……いや。
「……ん?」
「……なぁ、誠司さん。オレの気のせいじゃなければ今」
「あぁ、ほんのわずかにだがテンポイントがもたついた」
「え?テンポイント様が?」
シービークインは驚いている。それもそうだろう。テンポイントがスタートで出遅れるとこなど見たことがない。そのテンポイントがほんの少しだが、スタートでもたついていたのだ。だが一瞬のことなので最内枠を活かしてハナを取り先頭を走る。だが、走りもどこかぎこちないように感じた。俺の不安は一気に加速する。
(調子は悪くなさそうにしていたが……。走りもどこかぎこちない、アイツの身に、何が起こっている?)
スタンド前を走るテンポイントに拍手を送る会場の観客たちを尻目に、俺は不安を抱えていた。
(アカン!気合れ過ぎてもうた!)
ゲートが開いてスタートを決めた瞬間、ボクはそう思った。というのも、気合を入れすぎたせいもあってかスタートでほんの少しもたついてしまったのだ。出遅れにならなかっただけマシなのだが、それでもボクは焦る。
そもそも、なぜそんなに気合を入れていたのか。それは地下バ道を通っている時にあるウマ娘から宣戦布告を受けたからだ。彼女の言葉を思い出す。
『先輩の壮行レースであっても、負けません!私、先輩に勝ってみせます!』
聞くところによると、これが初の重賞レースらしい。どこか初々しい彼女の反応に思わず笑みが零れたが、ボクもすぐに表情を直してその宣戦布告に答える。
『ふふ、ボクもそう簡単には負けへんで?お互い頑張ろか!』
そう告げると、彼女はボクに一礼して足早にレース場へと向かっていった。そんな彼女の姿を見送りながら、ボクもレース場へと足を運んでいった。
後輩からの宣戦布告にボクはどことなく嬉しくなって、つい気合を入れすぎてしまった。それだけではない。トレーナーには言わなかったが、今のボクの調子は好調も好調の絶好調だった。そのことで少し気分が浮ついていた部分もある。その結果、ほんの少しだがスタートでもたついてしまったのである。
だが、第1コーナーを曲がって第2コーナーに入ろうかというところ。ボクはさすがに冷静さを取り戻していた。今はハナを取って走っている。ボクのすぐ外にほとんど差がなくボクに宣戦布告をしてきた子がいた。彼女もボクと同じ戦法なのか、それともボクをマークしているのか。まあどちらでもいい。
(ボクはボクのレースをするだけやからな)
そう思いながら第2コーナーを曲がって向こう正面に入る。
すると、意外なことに2番手だった子がボクの外から並んできたかと思うとそのままボクに変わってハナを取りに来た。少し驚きながらも、ボクは無理にハナを取り返そうとはせずに抑える判断をする。
(無理に走って、後ろのジョージに漁夫の利されんのだけは勘弁やからな……。冷静に見極めよか)
そのままボクは向こう正面を2番手で走っていった。
《……第2コーナーをカーブして向こう流しに入りました向こう流しに入りましてテンポイントの外にビクトリアシチーが並びました。そのままハナを取りテンポイントを抑える形。ここで先頭ビクトリアシチーに代わります2番手にテンポイント先頭はビクトリアシチー。あたかもテンポイントの門出を祝うかのように、粉雪が舞っている京都レース場です》
「頑張れー!テンポイントー!」
場内のそんな声を聞きながら、俺はテンポイントの走りを観察する。少し冷静さを取り戻したようだ。走りも元に戻っている。……いや、心なしかいつもより跳びが小さいように感じた。
(調子は悪くなさそうだった……。身体チェックも医者からの異常なしという判断を貰っている……。なんだ?何が原因なんだ……?)
細かい違いだが、いつもと微妙に違うテンポイントの走り。それを見て俺の不安は尽きることはなかった。
そう考えていると、後ろから声を掛けられる。
「不安ですか?テンポイントが勝てるか」
声の主は時田さんだった。エリモジョージが出走しているからだろう。それでもなぜ俺のとこに来たのか。
「……時田さんでしたか。わざわざ俺のとこまで来て、何の用です?」
「別に。深い理由はありませんよ。ただ、うちのエリモジョージが勝った時にあなたの悔しがる表情をいの一番に見ようと思いましてね」
「趣味悪いですね。……というか、それなんですか?」
俺は時田さんが抱えている2本の角材について言及する。すると時田さんは溜息を吐きながら答えた。
「……エリモジョージに押しつけられたものですよ。一体どこで買ってきたのやら……」
「どこで買ってきたのも気になりますけど、なんでそんなものを買ったのかも気になりますね」
「前に修理のために必要な材料が足りない……とか言っていたので、それに使うんじゃないですか?分かりませんけど」
時田さんは諦めたような表情を見せた。気持ちは分からんでもない。俺も担当から唐突に角材を渡されたら同じような気持ちになるだろう。
少しお喋りが過ぎたのでレースに集中する。レースは第3コーナーを曲がろうとしていたところだった。
勝負は第3コーナーの坂に入っている。その時ボクは内から仕掛けるのではなく外から仕掛けることにした。宣戦布告の子を外から躱す。しかし、後ろからジョージがボクが取ろうとしていたルートに侵入してきた。これでは外から躱せない。仕方がないので内から抜くことにした。内心舌打ちする。
(……アカンな。外にジョージがおるからこれ以上外は回れへん。まあちょい誤算やったけどこれなら問題ないわ)
勝てる。ボクはそう確信した。
脚は十分に残っているし、バ場の状態も気にならない。宣戦布告の子は少しバテたのか後退していった。先頭はボクとジョージの2人の2人が抜け出した。後はジョージを躱すだけだ。
並んだ時に、ジョージからも宣戦布告を受ける。
「テン坊 負けない」
「ふん、お互いさまやでジョージ。ボクが勝たせてもらうわ!」
そのまま内にいるボクと外にいるジョージはペースを上げていく。激しい競り合いになった。競り合いとなると、去年の有マ記念を思い出す。さすがにあそこまでキツくはないが。
しかし本当に調子がいい。このままどこまでも行けてしまいそうだ。
(もうすぐ第4コーナー入るとこやな……。よっしゃ、こんままハナ取って決めたるわ!)
残り600mの標識を確認し、そう考えたボクは左足を思いっきり踏み抜いてスパートをかける。その刹那
何かが折れる音とともに、ボクの意識は刈り取られていった。
《あ……あぁ……あ……ッ!こ、こんな……まさか、こんな……ッ!》
《そんな……、こんなことが起こるなんて……》
先程まで冬の寒さを感じさせないほどに熱狂していた京都レース場が静まり返っている。どよめきの声すら上がらない。それほどまでに信じがたい光景が目の前に広がっていた。実況と解説も言葉を失う。それでも、何とか声を絞り出して現在の状況を伝えようとする。
《なんとしても無事で……!と、なんとしても無事で、と願っていたお客さんの……気持ち、も、……通じません》
《目の前には信じがたい……、信じたくない光景が広がっています……しかし……》
実況の人が絞り出すように、声を出した。
《故障発生ッ!テンポイントに、故障発生ですッ!》
「テンポイントォォォォォォォォォッッッ!!」
京都レース場に、俺の叫びが響き渡った。
最終章、開幕