時は残暑の厳しさもなくなり始めた9月の下旬、俺は今練習場でリギルの練習を見させてもらっている。今日は用務員としての仕事もなく暇を持て余していたところだったのでトレーナーとしての経験を積むためにリギルのトレーナーに頼みこみ、許可をもらって勉強させてもらっている。プライドはないのかと言われるかもしれないがこちらはまだトレーナー歴一年目のぺーぺーだ。そんなものはない。それに俺が恥も外聞も捨てることでテンポイントが勝てるなら安いもんだ。まあ彼女に迷惑がかかるとなったらさすがに止めるが。
そして俺が練習を見させてもらっていると、リギルのトレーナーであるおハナさん、東条ハナから声を掛けられる。
「どうかしら?うちの練習は」
「そうですねぇ……もっとすごい秘密の特訓みたいなことやってると思ったけど別にそんなことはないんですね」
俺のその答えにおハナさんは溜息をついて
「うちをなんだと思ってるのよ……。後口調戻しなさい、似合わないわ」
と呆れたような口調で言ってきた。さすがに冗談で言ったのですぐに訂正をする。
「すいません冗談です。やっぱり最強チームを受け継いだトレーナー、さすがの手腕だな……と」
「あら?一体どこを見てそう思ったのかしら?」
少し興味が湧いているのか、おハナさんはこちらを試すような感じで聞いてきた。俺は思ったことをそのまま伝える。
「ウマ娘のトレーニングメニューはしっかりと適性を見極めた上でそれを伸ばすための練習内容となっているし、一見多いように見える練習も個人の限界値を見極めた上で最適な量となっている。それにウマ娘側からの信頼も厚い。じゃなきゃ所属しているウマ娘全員が練習に異を唱えることがないなんてありえない」
「随分高く評価してくれるのね。でもこれくらいは当然だと思うのだけれど」
「その当然を涼しい顔でやってのけるのが凄いんじゃないですか。少なくとも今の俺にはこんな大人数を管理するなんて無理な話です」
「あなたもいずれできるようになるわよ。しっかりと経験を積んだらね」
珍しく褒められた。だが、疑問があるのかおハナさんはこちらに質問してきた。
「それで?今日は一体どんな風の吹きまわしかしら?用務員の仕事はないって言ってたけどそれだったらあなたの担当の練習を見るべきだと思うけど」
どうやらなぜテンポイントの練習を見ないのかと疑問を思ったらしい。これに関してはちゃんと理由があるのでそれを教える。
「あ~……実はテンポイントなんですけど……。季節の変わり目のせいか風邪を引いちゃいまして。発熱しちゃったんですよ」
今日暇だった理由。それはテンポイントから風邪を引いたという報告を受けたからである。話は今日の朝にさかのぼる。
今朝方、珍しく朝の仕事はなかったためテンポイントの練習メニューを考えていたのだが不意に机の上に置いてあった自身の携帯が震えていることに気づいた。画面を見てみるとテンポイントからの電話である。一体何があったのだろうかと思い俺は携帯を手に取った。
『もしもし?朝に珍しいな。どうした?』
『……あぁ、トレーナー?』
随分弱弱しい声をしていた。一体何があったのだろうか?
『本当にどうした?全然声に覇気がないぞ?』
『……実はな、風邪引いてもうたんや……』
俺はテンポイントからの報告に焦った。風邪?彼女は大丈夫だろうか?
『か、風邪って……大丈夫なのか!?痛いところは?他に何か異変はないか!?』
俺の焦りが電話越しにも伝わったのかテンポイントはこちらを安心させるように自分の状況を教えてくれた。
『大丈夫や……今んとこ軽い発熱だけやし他んとこにも異常ないで……。多分季節の変わり目やからと思う……』
その言葉に俺は少し安堵する。ひとまず彼女のお見舞い用に色々なものを買い揃えておこうと思った俺は欲しいものを聞くことにした。
『そうか……なら今日はゆっくり休んでいてくれ。何か必要なものとかあるか?俺の方で買って寮長に渡しておこう』
『……牛乳。丁度切らしてるんや、牛乳欲しい……』
『牛乳だな?分かった。他にも色々買って寮長に渡しておこう』
必要なものを買い揃えるために出かける準備をする。しかし、テンポイントは不安そうな声色でこちらに尋ねてきた。
『トレーナー……?デイリー杯はどうするん……?』
デイリー杯。今月末に出走を予定していたレースだ。本人は軽い発熱と言っているし体調が回復すれば出走も可能だろう。しかしこれに関してはもう決まっている。今回は見送ることにした。
『残念だがデイリー杯の出走は見送ろう。体調が万全でない状態で走ってもしょうがないからな。悔しいだろうが分かってくれ、お前の今後のためだ』
『まあ……うん、分かっとったから大丈夫や……。はぁ、なんで発熱なんかしたんやろか……』
テンポイントは残念そうなのが声色で伝わってくる。弱弱しい口調がさらに弱弱しくなっていた。だがこれも彼女の今後のために我慢してもらうしかない。
『ひとまずは体調を治すことを最優先だ。後のことはまたこれから考えていこう。さっき言った牛乳や他にも差し入れておくから、今日はゆっくり休んでおけ』
『分かった……。大人しく寝とる……』
そう言って電話を切った。しかし風邪か、自分も何年も引いてないが油断したときこそ危ない。気をつけていこう。
『まずは色々買い出しに行くか』
そして買ったものをテンポイントの住んでいる寮の寮長に渡し、おハナさんに頼んでリギルの練習を見せてもらう約束をした。これが朝の出来事である。
今朝起こった出来事をおハナさんに話す。すると彼女は合点がいったのか納得するように頷いていた。
「なるほどね、あなたが今日の朝急に練習見せてくれって言ってきたのはそんな理由だったのね」
「はい。でも急なことだったのによく受けてくれましたね?正直断られるかと思ってましたけど」
テンポイントからの報告は今日受けたものであり、それを知ってリギルのトレーニングの見学を頼んだのも今日だ。いきなり練習見せてくれと言われても断られるのがオチだと思っていたのだが。
するとおハナさんは自信にあふれたような口ぶりで許可した理由を教えてくれた。
「確かにいきなりでびっくりしたけども、うちは別に隠すような練習や特別なことは何もしていないわ。だから見られたとこで問題はないもの」
確かに、リギルのトレーニングは特別なことは何もしていない。ただトレーナーから与えられたことをしっかりと遂行し、練習をひたすらとこなす。管理していると言えば聞こえは悪いが、反発の声がないということはウマ娘側も望んでやっているということだ。そこに信頼関係があるならば何も問題にならないだろう。
そのまま続けてリギルのトレーニングを観察しているとおハナさんから疑問が投げかけられた。
「でも、うちのトレーニングを見てもあなたの勉強になるかしら?あなたの指導方針とうちの指導方針じゃ合わないと思うのだけれど」
まあその疑問はもっともだが俺はその言葉に自分の考えで答える。
「確かに指導の仕方は違いますけど、だからと言って参考にならないかと言われるとそうじゃないと思うんですよ。大事なのは知識として蓄えることだと思っているので」
実際問題、俺はリギルのトレーニングを見て自分では考えつかなかったものを見れて本当に勉強になっている。それに将来チームを結成することになった時、複数のウマ娘を持つことになる。そうなった時に一つの指導方針しかない場合スカウトできるウマ娘の幅を狭めてしまう。なので他のトレーナーの指導の仕方を見るのは重要なのだと俺は考えている。
俺の考えを伝えると、おハナさんは納得したように頷いた。そして言葉を続ける。
「なるほどね。それにしてもあなたをそこまで熱心にさせるなんて、テンポイントに余程入れ込んでいるのね」
「おハナさんもそれを言うのか……。だから俺は理事長に頼まれただけだって何度も」
俺の言葉を最後まで聞くことなくおハナさんは俺の言葉を否定する。
「前までのあなたを知っている人だったらすぐに嘘だって分かるわよそれ。自分がどれだけレースに興味なかったかなんて分からないでしょう?」
「うぐっ」
確かにそうだけど。おハナさんは言葉を続ける。
「でも、今の生活楽しいんでしょ?毎日目をキラキラさせているもの、子供みたいにね」
「……まあそうだけど」
「ならいいんじゃないかしら。視野が広くなった。それはいいことよ」
確かにそうだ。だがそのせいで一つ弊害が出てしまった。それは
「なんでレースをもっと見てこなかった俺ぇ!ってさえならなければよかったんですけどねホント」
「知らないわよそんなの」
バッサリ切られた。
すでに日も落ち始めてきて夕方になった頃、リギルのトレーニングは終わった。今はリギルの部室でおハナさんに今回のことのお礼を言って帰ろうと思っていたところだ。しかし、いざ帰ろうとしたらおハナさんに呼び止められる。
「待ちなさい神藤」
「どうしたんですか、おハナさん?」
何かあったのだろうか?おハナさんは険しい顔をして俺を見ている。そしてその口を開く。
「あなたに一つ、忠告しておくわ」
「忠告?何かありましたっけ?」
俺の言葉におハナさんは言葉を続ける。
「トレセン学園には多くのトレーナーが在籍しているわ。そしてその中には勿論あなたを良く思わないトレーナーだっている。理由は分かっているわね?」
「まあ大体の見当はつきますよ。ただでさえ異色の経歴ですからね、俺」
中央のトレーナーってのは数ある職業の中でもエリート中のエリートだ。誇りを持って仕事をしている奴もいる。そんな中にレースに興味もない、ただ資格集めが趣味だからトレーナーになっただけっていう奴が自分と同じだと思うと馬鹿にされていると思う奴だっているだろう。それに加えて有力なウマ娘のスカウトにも成功していて他の人からの評価も高い。正直な話、今なにもされないで無事でいられるのは結構奇跡だ。でもこれから先何かされないという保証はない。おハナさんはそう言いたいのだろう。
しかし、俺はおハナさんの言葉に笑って返す。
「まあ大丈夫ですよ。悪口や陰口言われても俺は気にしないんで」
だが、おハナさんはなおも厳しい口調と態度を崩さない。
「だとしても、よ。十分に気をつけなさい」
「大丈夫です。その辺はちゃんと分かってますよ」
「本当に分かっているのかしら……」
おハナさんは少々呆れ気味だ。ただ言いたいことは言い終わったのか表情を元に戻して解散を伝える。そして部屋を出る時に俺はおハナさんに感謝の言葉を再度伝える。
「今日は本当にありがとうございました!また困ったことがあれば頼らせてもらいます!」
「困ったことにならないといいわね。まあこれからのトレーナー活動頑張りなさい。私個人は応援しているわ」
そう言って俺はリギルの部室を後にする。今日の経験を活かして今後のテンポイントのトレーニングを頑張っていこう。
次の日仕事をしていると本当に軽い発熱だけだったのかテンポイントが登校してきた。それに俺は安堵しながら朝の業務を続けた。
毎度最後の引きをどうしようか考えています。
※主人公の言動や心理描写その他細かいところを微修正 7/22