合宿が始まってから大分時間が経った。今は8月の上旬。もう少しでサマードリームトロフィーが始まろうかという時期だった。
ボクは自転車で峠道を走りながら1人考える。
(今んとこすこぶる順調やな。着々と前に進んどるのが実感できとる)
自転車の一番軽いギアはすでに走破し終わった。今は3つ目のギアに入っている。その3つ目のギアも今日にでも走破が可能な段階まで来ていた。ボクは上りの厳しい峠道を快調に飛ばしていく。
夏合宿の練習はすこぶる順調だった。
時には走り込みで限界ギリギリまで走り込み
『ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ!』
『後10周!頑張れテンポイント!』
時には自分の身体よりもはるかに大きい特注タイヤを引き
『フンギギギッ……!おっも……ッ!やけど、こんじょおおおぉ!』
『その意気だ!そのまま引っ張り続けろ!』
時には地道な筋トレを行い
『残り3セット!気合入れてけ!』
『フングググ……ッ!こ、こんじょおおおぉ……ッ!』
とにかく練習、練習、練習と。練習に明け暮れていた。
その甲斐もあってか走りはまだまだ元のようにとはいかないものの、タイムは徐々に伸びてきている上にフォームの修正も進んでいる。落ちた筋肉も、さすがに元通りとまではいかないものの徐々に戻ってきているのが実感できていた。このまま練習を重ねて行けば元の状態、いや、それ以上も可能かもしれない。入院していた時に感じていた不安は今は感じられない。思わず笑みが零れる。
ボクはいい調子のまま峠道を駆け抜けていき、ゴールまでたどり着いた。軽く息を整えていると、トレーナーがドリンクを渡してきた。
「ホラ、テンポイント。水分補給だ」
「ありがとさん、トレーナー」
ボクはそれを受け取って飲み始める。水分摂取しているボクにトレーナーが話しかけてきた。
「に、しても。前回とは段違いの速度で進んでいるな。すでに3つ目のギアが終わって4つ目。1週間後には最大ギアまで行ってそうで少し怖いぞ」
「あんま変わらんと思うけどな。やけどまぁ、ノウハウがあるのとないのとではやっぱ違うわ」
そう言って、ボクは少し残念そうに続ける。
「走りの方も活かされとったら良かったんやけどなぁ。それやったら今みたいに苦労はせんかったのに」
ボクの言葉にトレーナーは苦笑いをする。
「仕方ないさ。骨折の影響が残っているんだろう。けど、タイムは徐々に伸びてきているし筋肉だって戻ってきているのが分かるだろ?」
「やな。合宿の成果言うよりは退院してからの積み重ねもあると思うけど細さも少しはなくなったんちゃう?」
そう言ってボクはジャージの袖を捲って確認する。……あんまり変化のない細い腕が現れた。嘆息しながらも分かっていた事実に苦笑いしながら続ける。
「ま、現実はそんなに甘くない、ってなー」
「それでも、前に進んでいる実感はあるんだろ?今はそれで十分だ」
「ま、そうやな。焦らず一歩ずつ。目標は変わらず年内復帰、やな!」
「その意気だ!」
トレーナーは時計を確認して、ボクに告げる。
「ちょっと早いが、キリがいいし早めに旅館に戻って昼食を取ろう」
「ん。了解や。今日の午後はなにするん?」
「今日の午後は学園に戻って模擬レースだな。そろそろレース感を取り戻すための練習をしておかないとだからな」
「お!久しぶりのレースかぁ……!めっちゃ楽しみやな!」
ボクは気分が高揚するのを感じた。退院してから2か月余り、まだ3ハロンまでしか走っていないので模擬レースといえどもレースは本当に久しぶりだ。
しかし、トレーナーは難しい表情をしていた。その表情の理由が気になったので、ボクはトレーナーに尋ねる。
「なんか心配事でもあるんか?トレーナー」
「そう、だな。少し懸念していることがある。ただ、こればかりは走ってみないことには分からないことだ」
「ボクには言えんことか?」
「言えない、というよりは言ったら余計に意識しそうだから言えないってのが正しいな。別に隠し事をしたいわけじゃないからそこは安心してくれ」
トレーナーの弁明にボクは笑みを浮かべつつ答える。
「ま、そういうことやったら無理には聞かんで。それに、走ったら分かることなんやろ?」
「そうだ。とにかく今回の模擬レースを走ってみないことには分からない」
トレーナーの答えにボクは納得する。
その後は旅館に戻って昼食を取った後、トレセン学園へと戻った。
トレセン学園に戻ってきて、すぐに練習場へと向かう。練習場にはすでに今日一緒にレースをする予定の子達とそのトレーナー達がすでにレース場で準備をしていた。
遅れながらもボク達も合流する。
「すまない、遅れたな」
「いや、大丈夫だ神藤。時間通りだぜ」
「今日はよろしくな」
そう言葉を交わして、ボクもウォーミングアップを始める……前に、今日一緒に走る子達に挨拶をしに行くことにした。
「こんにちは。みんな、今日はよろしゅうな」
「は、ひゃい!よろしくお願いしますテンポイント先輩!」
「む、胸を借りるつもりでいかせてもらいますテンポイント先輩!」
「ほ、本物のテンポイント様だ……ッ!わ、私頑張ります!」
「みんな張り切りすぎて怪我だけはせんようにな。ボクも今日は胸を借りるつもりで走らせてもらうわ」
「「「はい!」」」
どこか緊張している後輩達を微笑ましく思いながらも、ボクはストレッチを開始する。
ストレッチをしながら今日のレースについて考える。
(芝2400mの左回り。12人立てのレース。今のボクがどこまでいけるんか、それの確認……やったな)
気合を入れて臨まなければ。そう決意する。
ウォーミングアップも終わったので、位置について発走の瞬間を待つ。ゲートも用意して本格的だ。ゲートに入るのも随分久しぶりのように感じられる。少しだけ、いや、結構緊張していた。
しばらく待っていると、ゲートが開く。ボクはそれとほぼ同時に勢いよく飛び出した。久しぶりといえども、スタートダッシュは鈍っていないようだった。
(ま、それなりに練習しとったからな!)
そう思いながらもボクはハナを取って快調に飛ばしていく。
それからレースは淀みなく進んで第3コーナーへと差し掛かる。ボクはスタート時に抱いていた緊張もすっかり解けて飛ばしていた。今も先頭を走っている。
(はじめはどうなるかと思うてたけど、案外行けるもんやな!)
まぁトレーナー曰く、今回の子達はまだメイクデビューを終えたばかりの子達だ。向こうの経験とボクの復帰の調整、双方の利害が一致したので今回の模擬レースが成立したらしい。
そのまま飛ばしていき、第4コーナーへと差し掛かる。2番手の子との差は2バ身程。ここらで後ろとの差を広げるためにもスパートをかけようと考える。
(……よし!この辺でスパートや!)
第4コーナーへと入って、スパートをかけようと思いっきり足を踏み抜く。その瞬間
何かが折れるような音が聞こえて、思わず脚がすくむ。脳裏には、あの日の、日経新春杯の光景がフラッシュバックした。
「……ッ!?……あ、……え、……え?」
思わず立ち止まりそうになったが、レース中だということを思い出して走りだそうとする。けど、上手く走ることができなかった。後輩達は、突然立ちすくんだボクを不思議に思いながらも次々にボクを抜かしていく。
結局、ボクは最下位でゴールした。ゴールした後、ボクは自分の脚を確認する。
(……痛みはない。大丈夫、大丈夫や。折れてへん)
そのことに安堵する。けれど、次に湧いたのは疑問。
(……おかしい。なんで、折れた音が聞こえたような気がしたのに無事なんや?もしかして)
そう思い、軽く脚を上げ下げして確認する。痛みは、ない。ボクの脚は無事そのものだった。
脚を確認しているボクに、トレーナーが近づいてくる。その表情は、何かを確信しているような、それでいてボクを心配している表情だった。
「……大丈夫か?テンポイント」
トレーナーの言葉に、ボクは何でもないように振舞う。
「トレーナー。次、お願いできるか?」
「……分かった。次は10分後だ」
それだけ告げて、トレーナーはゲートの準備を始める。ボクは気を取り直して次のレースに向けて備える。
(……まだ1回目や。次は、大丈夫かもしれん)
けれど、ボクの心はそう思っていなかった。すでに、トレーナー同様確信めいた自信がある。ただ、それを認めたくなくて、心配している後輩の子達相手に気丈に振舞いながらも次のレースの準備をする。
……結果として、ボクはこの日第4コーナーでスパートをかける度に、正確には第4コーナーを曲がろうとする度にあの日の光景がフラッシュバックしてうまく走ることができなかった。
肩で息をしているボクに、心配するように近づいてきたトレーナー。その表情は、今起こっていることを信じたくないかのように苦痛に歪んでいた。
ボクは信じられない気持ちを抱きながら、絶望するように呟く。
「第4コーナーが……曲がれない……?」
それは、レースで走るためにはあまりにも致命的過ぎるものだった。
模擬レースが終わって、トレーナー達が話をしている横で後輩達がボクを心配するように声を掛けてきた。
「あ、あの。大丈夫ですか?テンポイント先輩」
ボクは不安を抱えつつも笑みを浮かべて答える。多分だが、ぎこちない笑みになったと思いながらも。
「うん、大丈夫や。今日はおおきにな。ボクの練習に付き合ってくれて」
「い、いえ!とんでもないです!お礼を言うのは私達の方で……ッ!」
「で、でも。テンポイント様今日は調子が悪かったんですか?ずっと最下位でしたし」
「き、きっと調子が悪かったんですよね!?じゃないと、私達が勝てるわけありませんもん!」
「……いや、これが正真正銘今のボクの実力や。それが浮き彫りになっただけでも、今日はええ収穫になったわ」
後輩達はボクを哀れむような目で見ている。前とは違うボクの走りに、失望しているのかもしれない。彼女達に謝る。
「堪忍な。多分、失望させてもうたよな?こんな情けない走りを見せたんやから」
ボクの言葉に、彼女達は声を荒げて否定する。そして、ボクを励ますように口々に声を上げた。
「そんなことありません!」
「そうです!先輩に失望するなんて……ッ!それだけは絶対にありません!」
「それに!テンポイント様は復帰明けなだけです!きっと、また元のように走れる日が来ます!私達、その日が来るのをずっと待ってますから!」
他の子達もそうです!と声を上げている。慕われていて、嬉しい限りだ。ボクはお礼を言う。
「……うん、おおきにな。みんなもこれからのレース、頑張ってな!応援しとるで!」
ボクは笑顔で告げた。先程のようなぎこちない笑みではなく、今度は応援するように心からの笑顔で。
「「「グハァッ!?」」」
……だが、彼女達は突然そう口走ったかと思うと酔ったようにおぼつかない足取りをしていた。ボクは戸惑いつつも心配するように声を掛ける。
「だ、大丈夫か!?みんな!」
すると彼女達は息も絶え絶えにそれぞれ呟く。
「や、ヤバい……ッ!これが噂の……ッ!」
「破壊力半端ないって……ッ!しかも応援のメッセージ付き……ッ!」
「これだけで今日の一日の疲れが吹っ飛びそうだよ私は……ッ!」
「誰か!誰か録音している人はいないの!?」
「ダメ!手元に携帯も録音機もない!」
……思ったより大丈夫そうだった。ボクは複雑な気分になる。
その後は彼女達に別れを告げてから旅館へと戻り、晩御飯を食べ終わった後お風呂に入ってトレーナーのマッサージを受ける。その間は、今日のレースには触れずに他愛もない会話をしていた。お互いにぎこちなかったが。
ミーティングの時間になって、トレーナーが話を切り出す。表情は、やはり暗かった。
「……懸念していたことが現実のものとなったか」
「トレーナーが言うとった、走るまでは分からんっちゅうのはこのことやったんやな?」
「そうだ。距離は一緒でも条件が違うし、心のどこかで大丈夫だと思っている自分がいた。だが……」
トレーナーは沈痛な面もちをして続ける。
「甘かった……ッ!すまない、テンポイント……ッ!」
そう言ってトレーナーはボクに頭を下げた。ボクは気にしないようにトレーナーに話しかける。
「……いや、今こうして分かっただけでも収穫や。こっからまたどうするか、2人で考えようや」
「……そうだな。悔やむよりも次に進むために……克服するためにどうするか、だな。悪いな、ネガティブになっちまって」
「ええよ別に。不安になるのも分かるし。やけど」
「俺達なら大丈夫……ってな?」
「そういうことや」
お互いに笑いながらも対策を考えていく。
「トラウマを乗り越えるのが一番の対処法なんだが……そんな簡単に克服したら今日はこんな苦労してねぇからな」
「それはそうやな。そんな簡単に乗り越えられたら苦労はせんわ」
「なら、できる限りあの時の条件から遠ざける……ってのはどうだ?いつもなら内からスパートをかけるが、それを外からかけるようにしたりするとか」
「後は……スパートのタイミングを最後の直線に絞るとかやな。とりあえず色々やってみる必要がありそうやな」
2人であぁしようこうしようと考える。議論に熱中して、気づけば就寝の時間が近づいていた。
「……もうこんな時間か。残りは明日に回そう」
「そうやな。ひとまずは今挙げたことを1つずつ実践していこか」
「それでいこう。お休み、テンポイント」
「うん。お休み、トレーナー。それと……」
「どうした?テンポイント」
「あんま気にせんといてな。ボクはこの通り、ピンピンしとるからな!」
「……頼もしいな。分かった、俺もできる限りの対策を考えておくよ」
お互いに笑みを浮かべて、ボクは部屋を出る。自分の部屋に戻って就寝の準備を終えた後、布団の中で考える。
考えるのは、今日浮き彫りになったこと。第4コーナーを曲がれなくなるという、致命的過ぎる弱点。ただ、トレーナーに先程言った通り、ボクはあまり気にしていなかった。
確かに不安ではある。でも。
(トレーナーがついとるんや。トレーナーだけやない、みんなもついとる。やから、このトラウマも克服できる!)
そう考えながら、ボクは眠りについた。
復帰の道のりは遠く。けれど、トレーナーやみんながいるから大丈夫。