青葉賞とNHKマイルカップが終わった翌日。俺はトレーナー室でテンポイントのトレーニングメニューを組んでいた。
「皐月賞では負けちまったからな。日本ダービーは是非とも獲らせたい」
今度こそ悔いを残さないような結果にするためにも、俺はテンポイントがギリギリ耐えられるであろう練習メニューを組む。スピードは現状問題ないと判断したのでそれ以外の要素、彼女に不足しているパワーを鍛えることを重点的にしたものだ。地味な筋トレばかりになってしまったがそれは仕方ないだろう。
その時俺はふとNHKマイルカップのことを思い出す。あのレースには沖野さんとこのグリーングラスがダービーへ望みをかけて出走していたのだが、聞くところによると大敗したらしい。このことに関して沖野さんは無理強いしてしまったと悔いていた。
そんなことを思い出していると、携帯が震えるのと同時にトレーナー室の呼び鈴が鳴った。もう授業が始まろうという時間なのでこの時間の来訪者は珍しいな?そう思いながら携帯は後回しにして来客の対応をしようと俺は返事をする。
「扉は開いてるぞー。入ってきてくれ」
そう言うと扉は開かれる。そして入ってきたのは俺にとって予想外の人物だった。
「忙しいところすまない、今時間は大丈夫だろうか?」
入ってきた人物、それは生徒会副会長のテスコガビーだった。
「ま、まあとりあえずお茶でも飲んでくれ」
「ありがとうございます」
予想だにしなかった来訪者に俺は内心驚きながらもお茶を差し出す。テスコガビーはそれを受け取る。しかし一体どうして彼女はここに来たんだ?俺の覚えている限り彼女が自発的にここに来ることなんてなかったはずだ。つまり何かしらの理由があるはずなのだが全然見当がつかない。最近は前より大人しくしているので何かやらかした覚えもない。
いつまでも事情を聴かないまま黙っているわけにもいかないだろう。俺は彼女に質問をする。
「それで?一体どうして俺のところに来たんだ?何かやらかした覚えはないんだが?」
「……私が来た時点で何かやらかしたと思うのはどうかと思うが、用件はそうではない」
俺の言葉に彼女は渋面を作ったが、どうやら何かやってしまったということではないらしい。ひとまずホッとした。
そのまま彼女は言葉を続ける。
「トレセン学園の職業体験を知っているだろう?」
「あぁ、アレか。いつもこのくらいの時期にやっているやつ」
トレセン学園にも普通の学校みたいに職業体験なるものが存在している。ここの場合は希望者のみに実施するような形で行われている。そして生徒が希望した職業の場所に学園側が連絡を取り、職業体験の許可を取って1週間その仕事を実際に体験する。一応俺たちトレセン学園の用務員の仕事も体験できたりするのだがこれまで一度も来たことがない。
しかしそれでなぜ俺のところに来たのだろうか?と疑問をぶつける。
「職業体験ってのは分かったがそれでなんで俺のところに来たんだ?もしかして用務員の仕事を体験したいって奴でも連れてきたのか?」
「そうだな、半分正解だ」
どうやら半分だけ当たっていたらしい。しかしそうなると残り半分はなんだろうか?
「半分?どういうことだ?」
「残り半分はその体験したい奴が私だということだ」
その言葉を聞いた時に俺はお茶を吹き出しそうになった。ありえない言葉がありえない奴の口から聞こえたからだ。
(用務員の職業体験?こいつが?)
ハッキリ言って珍しいというか考えもしなかった。ハイセイコーに代わるリギルのエース、桜花賞とオークスを圧倒的な強さで勝利した女傑。怪我でトリプルティアラこそならなかったがもし出走出来たら確実に獲れていただろうともいわれるほどの評価を貰っている彼女がまさか職業体験に来るなんて思いもしなかった。てっきりドリームトロフィーリーグに進むものとばかり思っていたからだ。
俺は自分が感じた疑問をそのまま彼女にぶつける。
「お前が?用務員の職業体験?なんというか珍しいな」
「なぜだ?今後のことを考えてやってみるのもいいと考えるのは自然なことだと思うが?」
「いや、ドリームトロフィーリーグに移籍はしないのか?今は無理かもしれんがお前の実力ならいずれ入れるだろう?」
「……私にも色々あるということだ」
俺の言葉に彼女は目を逸らして答える。おそらく答えたくない事情があるのだろう。ならこれ以上深く詮索するのは野暮ってものだ。
彼女の用務員の仕事を体験したいという要望を俺は承諾することにした。それを彼女に伝える。
「まあいいや。用務員の仕事を体験したいって言うならこっちとしても大歓迎だ。今日から1週間よろしく頼むぜ」
そう言って俺は彼女の手を差し出して握手を求める。その手を彼女は取り握手を交わす。
「はい、よろしくお願いします。神藤さん」
「ハードな仕事もあるが、頑張ってついてこいよ?」
「大丈夫です。体力には自信がありますので」
こうして、少しの疑問を残しながらもテスコガビーの職業体験がスタートすることになった。一応体験する身であるためか、彼女も敬語になっている。
だがその前にもう一つ疑問に思ったことを彼女に質問する。
「てか俺のとこに連絡来てなかったんだけどなんでだ?」
テスコガビーは不思議そうに答える。
「最初は用務員の方々のところに行ったのですけど、職業体験の旨を伝えたら神藤さんが教えてくださると言われたのでこのトレーナー室へと来ました。連絡は来てませんでしたか?」
その言葉に俺は携帯を確認する。そしたらテスコガビーが来た同じくらいの時間に職業体験の子がお前のところに行くとだけ書かれたメッセージが届いていた。おそらく先程携帯が震えていたのはこれだろう。というか
(体よく押しつけやがったなあいつら)
面倒だからか分からないが押しつけられたことに俺は怒りを感じた。テスコガビーがいる手前口には出さないが。
「さて、仕事を教えていく前にお前が抱いているトレセン学園の用務員の仕事のイメージについて教えてくれ」
トレーナー室を出て動きやすい服装に着替えた後、正門前で仕事を教える前にテスコガビーが俺たちにどういったイメージを抱いているのか聞く。何も知らないままで与えられた仕事をただやるというのはやる気も出ないしつまらないだろうからだ。せっかく体験に来てくれたのだからいいイメージを持ってもらいたい。
俺の質問に少し考えた後テスコガビーは答える。
「……私がよく目にするのは学園を清掃している姿、でしょうか?なので主な仕事は学園の美化に勤めることだと思っています」
まあ大体合っている。俺はそのことを彼女に伝える。
「そうだな、他にも色々な仕事はあるが俺たちが忙しくなるのはイベントがある時。ただ最近ファン感謝祭も終わったから大きいイベントはもうない。だから今日は清掃からやっていこう」
掃除のための道具はすでに持ってきている。俺は箒を彼女に手渡す。
「今回俺たちに割り当てられたのはこの正門前だ。頑張って奇麗にしていくぞ!」
「分かりました」
そうして掃除を始めたわけだが、ここで想定外の事態が起きた。それは清掃を始めてから少し経った時のこと。
突然何かが折れる音が聞こえた。音の聞こえた方を振り向くとテスコガビーが柄の折れた箒を持って呆然と立ち尽くしている姿が確認できた。
「……一応聞いておく。何をやったお前?」
奇麗に真っ二つに折れた箒を持っている彼女にそう質問する。すると訳が分からないといった感じに答えた。
「箒が勝手に折れました」
「箒が勝手に折れるわけねぇだろ!あぁもう、こっち貸してやるから!」
彼女の頓珍漢な返答に呆れながらも俺は自分の持っていた箒を渡し、彼女が持っていた箒を補修するために一度持ち場を離れる。壊れた箒の補修が終わり、新しい箒を持って持ち場に戻ってきたところ……
また折れた箒を持ってテスコガビーが佇んでいた。
「お前またかよ!?」
すると彼女は自分のせいだとは露にも思っていない感じに答えた。
「先程もそうでしたが老朽していたのかすぐに折れました。できれば新品の箒をお願いできますか?」
その言葉に俺は憤慨しながら答える。
「お前に渡した2本とも新品だよ!それを折るってお前どんだけ力込めて掃除してんだ!?」
「おかしいですね……、そこまで力を込めたつもりはないのですが……」
心底分からないといった風に彼女は答える。分からないと言いたいのはこっちの方だ。そこから何本もの箒が犠牲になったものの、なんとか清掃を終えて次の仕事へと向かうことになる。正直、この先が不安になる始まりだった……。
そしてその不安は見事に的中することになる。
「すいません、木材が粉々になってしまったのですが」
本棚修理のための作業をしていたら強く叩きすぎて木材を粉砕してしまったり
「ダートコースが抉れてしまいました……」
授業で使ったダートコースをならしてたら勢い余って地面を抉ってしまったり
「電球が割れました。古かったのでしょうか?……痛ッ!」
「早く手を開け!俺が片付けとくから!」
電球を変える作業をしようとしたら強く握りすぎて電球を割って怪我をしたりと、本当に色々なことがあった。
そして今はすでに授業も終わる頃であろう時間。保健室でテスコガビーの傷の手当てをしていた。彼女は申し訳なさそうに謝ってきた。
「申し訳ございません……、まさか自分がここまで不器用だったとは……」
「生徒会の仕事で掃除とかはやってこなかったのか?」
俺の質問に彼女は首を振る。
「生徒会やリギルでは書類仕事しか与えられなかったので……。細かい作業などは全て別の役員がやっていたんです……。その理由が今分かりました……」
確かにこれだと他の役員たちも細かい作業を割り振らないだろう。まさか彼女がここまで不器用だとは俺も思わなかった。
彼女はここまでと言っていたが、もしかして自覚はあったのだろうか?聞いてみることにした。
「ここまでって言ってたな?ということは自分が不器用っていう自覚はあったのか?」
すると彼女は心当たりがあるように答える。
「会長は私が作業を手伝うと申す度に引き攣った顔で断っていたので……、もしかしたらとは思っていました……」
あのハイセイコーが引き攣った顔するって相当だな。
彼女はそのまま俯きがちに話を続ける。
「笑えますよね……、他の子から尊敬されている生徒会の副会長が実は走ること以外何にもできないだなんて……」
「別にそんなことはないと思うが」
しかし彼女は俺の回答に首を振って自嘲気味に話を続ける。
「走り以外でやれることを見つけなければ……そう思い今回の職業体験に踏み切ったのですが……、呆れましたよね?ご迷惑をおかけしました、もう……」
「そう結論を急ぐな、テスコガビー」
おそらく今回の職業体験はなかったことにしてくれ、と言いたいのだろう。しかし俺はその言葉を遮る。彼女は顔を上げて俺の方に視線を向ける。
「お前に何があったかのかは知らないし聞く気もない。言いづらいことだろうしな。だからと言って俺は今回の職業体験をなかったことにする気はないぞ」
「……どうしてですか?ここまで迷惑を掛けているんです、あなたも嫌になったでしょう?」
彼女の言葉に俺は首を振る。そもそもの話だ。
「お前はまだこの仕事をやったことがない、いわゆる新人だ。新人なんて失敗して、怒られて当たり前なんだよ。大事なのはそこから学んで次に活かすことだ。だから今日一日やっただけでなかったことにしてくれなんてそんなの俺が認めねぇぞ」
「……でも、また迷惑を掛けるかもしれません。同じ失敗も繰り返すかもしれません。それでもいいのですか?」
心配そうな顔をしている彼女に俺は答える。
「上等だ、どんどん迷惑を掛けろ!失敗なんていくらでもしろ!そのために俺はいるんだからな!」
俺の言葉に驚いたような表情を浮かべた後、彼女は笑顔を浮かべた。
「なるほど……、あなたが生徒から慕われる理由を今再認識しました」
「だろ?いい男だろ俺」
俺は得意げに答える。そしてテスコガビーはその姿に呆れたような笑顔を浮かべながら
「それさえなければ、もっと尊敬できたのだがな」
元の口調に戻しつつ、そう答えた。
彼女がどうして用務員の職業体験を受けに来たのかはまだ分からない。だが受けに来てくれたからにはしっかりと教えて彼女のこれからの人生に役に立つように努めよう。そう思いながら。
次の日、昨日のように清掃から始めるために箒を手渡して少し経った後──
「すいません、また箒が壊れました。新しいのをお願いします」
「お前迷惑かけてもいいとは言ったがいい加減にしろよ!?」
……どうやら彼女の不器用が直るのはかなり前途多難な道のようだ。
彼女の不器用が直るのはまだ先のお話
※細かい箇所を微修正 7/22